第3話 自分が今死ぬ可能性

 官吏は唐突に落とされた。背中を打った衝撃で数秒悶える。そしてしばらくして、自分が落とされた場所に気がついた。

 そこは円の中心。静止した群衆の視線が集まる一点だった。

 円の外で立ち尽くす青年の腕を、女上司が引いた。

「逃げるぞ!」

 青年は群衆の隙間に見える官吏の姿を見つめながら、引かれるがままに足を動かす。

 官吏は即座に立ち上がった。体が恐怖ですくんでいる。まるで立たされたかのようだった。彼の表情に、さっきまでの威圧感は微塵も残っていなかった。歪みきった顔が、涙と汗と赤い雨に、濡れていた。

「やめろ、やめろッ……!」

 官吏は首から上だけを動かして、キョロキョロと周囲を忙しなく見回した。まるで何かの姿が目に入ることを望んでいるかのように。

 正面を見た瞬間、彼はありえないほどに目を大きく見開いた。

「やめろおおおおオオオオオオオオオオオオ」

 ぶつり。途絶えた。

 官吏の体は消えていない。消えたのは頭部だった。

 頭部が消えた場合、人の体はどうなるだろうか。血が噴き出る。

 青年は目を逸らさなかった。その光景の視覚情報を拒むほど、彼の思考は正常に働いていなかった。

 官吏の体がドサリと倒れ、赤い雨よりもはるかに赤く地面を染める。群衆はそこに、さっきと全く変わらない様子で視線を注いでいた。

 青年は彼らの顔を見た。その瞬間、群衆の方も青年を見た。ギュン。と、一斉に首を捻って青年を凝視した。青年の頭が恐怖によって活性化していく。

 悲鳴をあげそうになったその瞬間、青年の体が動かなくなった。

 女上司は青年の腕が己の手から離れたことに気づき、咄嗟に振り返る。そして彼女は絶望した。今度は青年の体が浮いていた。

 指一本すら動かすことができない。全身を等しい力で握り締められているような感覚だった。青年の体は直上へ、徐々に徐々に上昇していった。

 青年は唯一言うことを聞く眼球をとにかく動かした。群衆が全員同じ表情で青年を見上げているだけで、他には何もいなかった。それなのに、青年の体は不自然なほど明確に感じ取っていた。終わりの感覚を。それはつまり、死である。

 数秒先の未来が自分にはないのだという事実を彼は感じ取っていた。しかしながら実感はしなかった。

 青年はまだ己の人生に満足など到底できていなかった。明確な目標やゴールは定まっていないけれど、今の自分のままで死ぬつもりなども微塵もなかった。戦闘、病、魔術。数多くの人間がそれらによって死んでいくことを青年は知っていたが、それでも彼は、今まで漠然と、こう考えていた。長い人生の中でいつか自分は変わり、やがて約束を果たして、満足に人生を終えられるのだと。唐突な理不尽によって自分自身の人生が強制終了する可能性など、少しも実感していなかった。

 よって、きっと彼は最後の瞬間まで気が付かない。人の終わりに気がつかない。

「『我がすべては王のため』」

 気が付くと、視界の端に何かが動いていた。

 それは奇怪な群衆の隅にいた。

 少女だった。

「『故に及ばぬその令に』」

 少女は青年ではなく、手に持った本を眺めていた。比較的薄い、大きな黄色い表紙の本だった。

 少女はそれを眺めながら言葉を紡いでいた。貴重な本が雨に濡れるのを心配する素振りは見せない。

「『牢の隙間の手を取れば』」

 ライラの右手の中で、ページが一人でにめくられていく。そして次第に速度を増していいった。

 ライラは言葉を紡ぐ。

「『ああ確かに我が王よ。この景色、変え難き喜びとなりました』」

 ページの動きがピタリと止まった。ライラは目を閉じる。

「〈空執事からしつじ〉」

 本が閉じた。その瞬間、ページ一枚一枚が形作った何かが、きっと本の間から飛び出たのだろう。

 直後、

『ギャアァァァァァァ!!』

 群衆が一斉に悲鳴をあげた。全員白目を剥いて天を仰ぐ。

 青年の体が解放されて落下した。青年は辛うじて受け身をとると、立ち上がって自分の体をあちこち触った。

 地響きがした。何かが落下するような音とともに、一つ。また一つ。

 雨が暴力的な勢いになり、やがて局所的な風が吹き荒れ始めた。要するにそれは風圧のようだった。

 店が何個か吹き飛んだ。蹴飛ばされたみたいに粉々になっている。

 そして数秒後に、一際大きな地響きが起きて、その場は静かになった。

 雨が止み、群衆は皆膝をついて倒れた。その場で立っているのは、青年と女上司と、ライラだけになった。

 青年はライラを見た。

 下を向いていたライラは「ありがと」と呟いて、黄色の本をマントの裏にしまった。そして惨状を見渡そうかと思ったが、視線を感じた。

 目が合った。ライラの目を見た瞬間、青年の中の全ての意識がその目に注がれた。

 ライラは「え」と言った。青年はライラのことをじっと見つめていた。どちらも驚いていたが、ライラは青年の何倍も驚いていた。

 たまらず、ライラは逃げ出した。

「ちょ、待っ……」

 青年は不意を突かれて困惑した。

「……おい大丈夫か」

 そんな青年の背中に女上司が声を掛ける。青年は振り返り、彼女の疲れ切った顔を見た。

「すみませんすぐ戻ります」

 言い終わる前に青年はライラを追って駆け出した。止める上司の声は耳に入っていたが、それでも止まるわけにはいかなかった。

 女上司はどこかに走り去っていく青年を見て、後頭部をかいた。

 走りながら、青年の頭には古い記憶が流れていた。小さな少女と、かがり火を挟んで話した記憶。

 十年ほど前の記憶だった。ありえないと分かっているのに、青年の足は動いていた。

 しかし。

「ああくそ」

 見失った。

 かなり走ったので、魔獣の影響外にいた人たちがちらほら歩いていた。それでも青年には、その場がひどく静かに思えた。

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