Answer2

隅の角

Answer≒


「昔は普通に通っていたけど、今思えば良くやったよな」

 まだ衰えてはいないと思いたいが、昼と夕の二回しか着てくれないバス停から40分程歩いただけで根を上げる両足を軽く叩きながら、自分の苗字と同じ、『室谷』と彫られた古臭い表札を眺めていると。呪文のような独り言を放ちつつ隣に立ち、俺と同じく足を叩き始めた、全身を緑色のローブで隠した女性の声を耳に入れる。

「ふー疲れたー。ココが『昌人』の実家?」

 目線も同じにすれば聞くまでも無いと思うけど、言葉の変わりとして、肩の付け根まであるカスタードクリームのような長い髪を乱し。その地面に置かれていた旅行バックを両手に持つ。

「うー。ただ聞いただけなのにー」

 今にも地べたへ座りそうな疲労よりも乱れた髪形の方が気になるようで、女性の手といわれる俺よりも一回り小さい両手で必死に髪を整える彼女から離れ、玄関の横にある薄暗い空間へと足を進める。

「ねー。玄関ならさっきの場所でしょ?」

「アレは来客用な。俺らはコッチ」

 別に表玄関を使って怒る人なんてコノ家には住んでいないが、鍵の在り処すらも知らない扉を開ける事なんて出来る筈が無く。公園のハトのように警戒心が微塵も感じられない、納屋から突き出した柱に留まり、こちらを見下ろしてくるツバメを見上げつつ、突き当りまで進み。キーホルダーから外され、寂しくズボンのポケットに仕舞われていた、スス汚れた鍵で突き当たりの引き戸を開錠する。

 前回戻ってきた時に比べて靴の数が減っている気がするが、履かない靴が消失した所で何も困る事などなく。土間の先にある木製の引き戸を広げ、締め切られたカーテンからこぼれる光が寂しさを感じさせる室内へ足を踏み入れた。

「広いねー。これが豪邸って言うのかな?」

 ここが豪邸ならコノ一体にある家全てが当てはまる事になるが、昨日まで寝起きをしていたマンションの一室に比べての感想だと自分に思いこませ。カーテン開けを手伝ってくれるのかと思いきや、リビングから出られるウッドデッキへ飛び出し、家から見える景色を眺め始めた彼女を横目に入れつつ、残された窓から外の空気を取り入れる。

「良い眺めだね。昌人も一緒に観ない?」

「昔はずっと観ていた景色だし、俺はいいや」

「えー。ポストカードにしても良いくらい綺麗なのに、一緒に観ようよー」

 高校入学と同時に山から離れていた事で、彼女と同じ感情が芽生えるかもしれないけど、今観てしまうと一度経験した嫌気が訪れるのも早くなる気がし、フローリングから畳の間へ移行した先にある仏壇の前へ座り、両手を合わせた。

無意識の内に黙らせる魔法でも掛けたのか、それともリン(鈴)の音色がそうさせたのかは当人にしか分からないが、俺が居ないにも関わらず一人で喋っていた彼女が静まり返ったのを良い事に、何時もより長く近状を報告した後に振り返ると、襖(ふすま)の隅でこちらの様子を窺う人物が確認できるも、構う前にやることがもう一つあり。今は亡き祖父の栄光と共に掛けられている遺影へ再度手を合わせた。

「・・さて。もう喋っても良いぞ」

 山を眺めるよりも目に良さそうな、申し訳程度に顔を覗かせる姿をもう少し静観してもバチは当たらないと思うが。引越し早々、機嫌を損ねられても困り、今居る座敷から縁側へ向う襖を引きつつ沈黙を守り続ける彼女へ発言する権限を与えた。

「時々『抜けている』所があるけど、ちゃんと帰ってきたら報告するんだね」

「やっておかないと、また写真が落ちてくるからな」

 『抜けている』という言葉が少々気にはなるも、言葉の綾という事で受け流し。遺影に手を合わせに行く彼女と入れ替わりで座敷を抜け、青々と茂った雑草を眺めつつ縁側のガラス戸を静かに開けていると、声よりも先に訪れた、背中を突かれる感覚に後を振り向く。

「うー。またわざと無視しているでしょ」

「え・・あぁ、ごめん。それで、何?」

「うー。だから、たくさん感謝状が飾ってあるけど誰のなの?」

 今日、そして向こう一週間の予定を立てるのに夢中で、本当に聞こえなかったのだが、彼女からすれば、何時もの意地悪だと感じ取られてしまったらしく、頬を膨らませる前段階としての通告をしてきた彼女の質問に答える。

「右から二番目の人が俺の爺さんに当たるんだけど、その爺さんが貰った物だね」

「へー。じゃあこの警察からのも?」

「うん、その川で溺れかけていた子を助けた奴の隣にあるのが、火事に取り残された人を助けた奴だね」

「おー。昌人のお爺ちゃんって凄い人なんだね」

 賞状という結果だけを見るとそう思われても仕方の無い事だけど、全てに共通する『酔った勢い』を知っている家族からしてみれば手放しで賞賛できる代物ではなく。何かの拍子に口から真実がこぼれる前に、微笑みよりも照れ笑いに近い、祖父の写真から目を反らし。座敷から物置を挟んで隣、リビングから真正面に位置する、昔ながらのガラス障子を畳みに行く。

 ・・やっぱりするよな。

 主を失って久しいにも関わらず、まるで昨日使ったかの様な昔懐かしい匂いがこびり付いた部屋に飾られたヌイグルミの内の一つを手に持ち、過去の記憶を辿るも、リビングに置かれたコタツテーブルへ衝突し、右脛を擦りながら俺を探している彼女に現実へ引き戻された。

「せめてテーブルくらいは避けて歩こうや」

「だって、勝手に何処か行っちゃうし、もう少し一緒にいてくれて・・」

 独り言か問い掛けか分からない話を聞き続けていると、前回体験した、何も出来ず日が暮れる事を恐れての行動も彼女を寂しがらせるだけの結果になってしまい、今回ばかりは彼女からの不満を真面目に聞き入れようと決めるも。独特な雰囲気をかもし出すコノ部屋に飲み込まれたようで。口を閉じ辺りを見回す彼女へ持っていた犬のヌイグルミを手渡す。

「ねー昌人。この匂いって化粧品だよね?」

「うん、俺が中学を卒業する前だったから、もう六年経つのに、婆さんが使っていた化粧品の匂いだけ何故か消えないんだよね。嫌いか?」

 ココより少し甘味を増した匂いを放つ彼女が拒絶する事は無いと踏みココへ呼び寄せたが、自分自身の匂いが嫌いという場合も想定し、脳内に作られていた始めの文章を言葉にしてみるも、口より先に表した首を横に振り、俺ではなく、大事に抱えられたヌイグルミへ向って語り出した。

「嫌いじゃないよ。何だか心が落ち着く気がするし、何かなって。残りのヌイグルミちゃんも昌人のお婆ちゃんが集めた物?」

「今、『綾美』が持っている奴は俺が買った物だけど、殆どはそうかな」

 女心を忘れないという事か、可愛らしい動物のヌイグルミが中心だけど、コレが和人形中心であれば、確実にトラウマ物になっていただろうと、壁一面に置かれたタンスの上へ飾られた、何時までも触っていられそうなヌイグルミ達を暫し彼女と一緒に見上げた。

「さて、眺めていても仕方ないし、そろそろ作業に戻るよ」

 窓明け程度の作業でまた一人で騒動されるのも考え物で一応彼女へ確認を取り、今居る場所を過ぎた場所にある廊下の窓を開放し、俺の所より手が付けられていない部屋の扉を開ける。

「へー。昌人って女の子の部屋が好きなんだ・・・あっ⁉だからこれを・・」

 姉と妹が居る事は事前に教えてあるが、記憶というタンスの奥底に仕舞いこんだまま、好(よ)からぬ詮索を始めた人物を無視し。祖母の物より幼い子を対象とした置物が日焼けしないよう、カーテンをそのままに外の空気だけを中へ取り入れた。

「大丈夫だよ。私も嫌いじゃないし、誰にも話さないから安心して」

 ・・見せなきゃよかったな。

 仮にこの部屋が俺の趣味であれば、前の家でも燐片がありそうなものだが、そこまで深く考えず、眼前に広がる光景だけで物事を悟る勘違い娘の横を無言のまま通り過ぎ。縁側から来たら突き当りになる、もう一つの部屋へ足を進める。

「・・ごめん昌人。だから機嫌を直してよ」

 機嫌を損ねたかどうかの想像が出来るのであれば、俺の部屋くらい簡単に想像出来そうなものだけど、説明するより見せた方が確実と考え、今では使い物にならないブラウン管のテレビとベッドが始めに飛び込んでくる、殺風景な部屋へ招き、彼女の反応を待つ。

「あー。やっぱりそうだよね、前の場所もこんな感じだったし」

「そんなとこ。スマンが荷物を取ってくるから、窓明けをしてくれるか?」

 始めの落胆とも思える始めの発言が気になるが、一々気にしていたら埒が明かないと悟り。彼女へ簡単な作業を頼み、ダイニングに残された荷物を手に、ベッドへ腰掛けて、部屋からの景色を眺める彼女へ声をかけた。

「観すぎると飽きも早くなるぞ」

「こんなに綺麗な景色だったらずっと観ていられるし大丈夫だよ」

 その観ていられる新緑が煩わしくなった経験からの助言も、問題ないと一蹴された以上、何も言う事はなく。山の何処かでウグイスが奏でる大合唱を清聴しようとする彼女のために部屋を去り。納屋の中に放置されているはずのある機材を探し始めた。

「んー。何所へカクレンボしてんだ?」

 部品はあれど、大人一人と同じ長さがある本体の所在が掴めず、無理やり折り畳めば収納できそうな棚までを探ってみると。放置されてまだ新しい、色あせていない紙切れを見つけ、土で汚れた手で裏返す。

「『回収品目。エンジン式草刈機。依頼者、室谷恭香(やすか)』・・何だコレ」

 年は記入されていなくても、盆前に使用したはずの物が消失している事から、この紙切れに書かれた11月が去年である事くらい容易に想像できるが、使用者である俺へ何の報告もせず、回収させたのか理解に苦しみ。姉が押した認印を見つめつつ、暇をしている左手で首裏を擦りながら家前の遊ばせている田のあぜヘ立ち、胸ポケットに入れていたタバコへ火をつけた。

「フー・・さーって、これからどうすっかなー」

 何時再開するかも分からない田の周りで除草剤を撒くわけにも行かず、答えは決まっているようなものでも、今はその答えを確定にしたくはなく。ココから見える、既に田植えを済ませた緑と黒が均等に配置された他所の田園を見下ろしながら煙を吐き出していると。後のフードを被ってしまえば擬態できそうな清聴に飽きた人物が近づいてくるのが見え、火種が作られたばかりのタバコを灰皿へ仕舞う。

「どうした?散歩でもするのか?」

「うーん。それも良いけど、最近吸い過ぎだから、飴ちゃんにしない?」

 朝と今回の二回。それも、両方彼女に中断させられ。さらには、まだケース内に2本残っているのだが、そんな事はお構い無しに、手へ乗せられた色鮮やかな飴玉との交換を提案してきた彼女へ喫煙セットを渡す。

「言ってくれたらちゃんと返してあげるから、前みたいに無断で買っちゃ駄目だよ」

 その言葉を信じ、寝る前に一度だけ頼んでも返してくれなかったのは何所の誰だったのか忘れているみたいだけど、彼女が寝静まった後、買いに行った俺に反論する権限などあるはすが無く。タバコの代わりに持たされた甘菓子の内、赤い玉を口へ放り、彼女と共に室内へ戻った。

「ねー昌人。他にする事は無いの?」

「んー。軽く掃除でもすればそれだけど、今の所は思いつかないな」

 時々戻ってきてくれている姉のお陰で大掃除をしなくて済みそうだけど、ホウキで掃く程度はしておきたく、ようやくやる気を出してくれた彼女へその作業を任せ。手入れの対価としては痛すぎる機械の詳細を調べに祖母の部屋からアル物を持ち出す。

「これだけ経っていたら無理も無いけど、なんだかなー」

 俺が貧乏性なだけかもしれないが、足掛け十年しても尚手入れさえ怠らなければ現役だった草刈機との袂を絶たされた事に寂しさを抱きつつ、長細いダイニングテーブルの椅子へ腰掛け。メモ用紙の下部に書かれた、オプション無しの携帯電話と同じ数字にため息がこぼれ出た。

「ねー。塵取りって何所に・・あれ?昌人って日記を付ける習慣あったっけ?」

「俺は無いけど、婆さんが付けていた日記に用事があってな」

「ふーん。ちょっとだけ覗いても良い?」

 正しくは祖母の日記に挟まれた機具の購入情報だけど一々説明するのも面倒で、欲しがっていた物の在り処より気になるらしい、十年日記とミシン目で描かれた表紙を捲る。

「へー。ちゃんと毎日つけていたんだね。私なら途中で飽きちゃうかも」

 過去に俺が大怪我を負った記載もあったが、どうも、日記の内容より、何年も継続している事に関心があるようで、遂には裏面から捲り出した彼女へ日記を預け。中途半端に放棄された掃除を代わりに行なう。

「『10月8日。勧められた旅行へ出発する』ココから書いてないけど、もしかしてこの日が・・」

「うん、前に話した事故の日」

「そっか・・ごめんね。いやな事を思い出させちゃって」

 アノ日付がある事を忘れ安易に彼女へ託した俺が悪いが、できる事なら心の中に留めて欲しかった、場の空気が重たくなるだけの質問に答え。再び彼女の口が開くまでの間に、歩き回るであろう30帖近くある木目のフロアだけでも掃き終い、ヤカンに入れられた少量の水を沸す。

「昌人―。丁度一年分残っているみたいだし、昌人も日記を付けてみない?」

 まだ、俺も憶えていない、地の底まで気落ちする話題を秘めていそうな日記から話を逸らしたい所だけど、断った結果、家捜しされても困り。俺が座っていた椅子の前へ本を寄せてきた彼女へ茶の入った湯飲みを持って行き、ペン立てへ入れられたボールペンを掴み取る。

「ほいよ。それで、何所から書けば良いんだ?」

「覚えている場所からで大丈夫だけど、難しかったら今の関係になった日とかどうかな」

・・その日は違う日だけどな。

色々とありすぎて混ざってしまったのか。関係を築き上げた日であればもう少し先の曜日になる筈だけど、ココから書けと指差してきた、痛みを伴う出会いより数時間前の記憶から呼び起こし、白地の紙へインクを滲ませていった。


「まさか、こんな事になるとはな」

負の遺産を清算できないからと、正月明け早々に通達された閉店通告から早一ヶ月。今年の大寒を耐え切れなかった職場での最後のシフトを終え。長年主要道路を見守り続けた店の看板を眺めつつ。初めて自給が発生する仕事を行なった、五年前の出来事を思い起こす。

「やっぱあの時、断らなければ良かったな」

 三年前の高校卒業間際に突如来訪してきた自衛隊の広報官からの勧誘に縦返事をしておけば、強制解雇だけは無かったと今更後悔するも、行動に制限が掛かっていても楽しく過せた10代に戻られるはずもなく。他人の力も借り、去年ようやく手が届いた自家用車へ乗り込み、左端のクラッチペダルを踏み込んだままエンジンを始動させた。

「──たまにはのんびりするかな。」

 何時もなら朝から入ってくれる奥様方と他愛の無い話を交えながら開店準備をするのだが、最後に限って授業参観があるらしく、一人の方が早く済みそうな店長に気を使いながら仕事をしたせいで、アクビしか出てこない体を少しでも起こそうと近くのコンビニへ立ち寄り。温かいコーヒーを片手に近くの灰皿へ移動し、金属製のオイルライターの蓋を鳴らす。

「フー・・しっかし、疲れたなー。」

 とんでもなく遅い気もするが、店長の、人柄という誰にでも存在するようで存在しない木にようやく実が生り、休憩どころかコップ一杯の水すら飲む暇を与えてくれない盛況ぶりからようやく開放され。夜に降るらしい雪のお陰で飲み物だけになった缶の蓋を開けていると、聞き慣れた声と共に栗色の髪をした誰かの額が視界の下半分を埋めた。

「ムロチャンも分からない人だよね、何か入れてから飲みなさいってアレだけ言っているのに」

 一体誰が飯抜きにさせているのか分かっていないようで。切ってもいずれは元の一塊になるスライムのような関係の神野島へ、まだ吸えた筈のタバコを灰皿の底へ落としながら、嫌味を全面に押し出した挨拶を返す。

「次回からはそうさせて貰いますよ、美咲お嬢様」

「まったく、私が居ないとすぐコレなんだから。ほら、パンあげるから今からやりなさい」

 こちらから言わせてもらえば、俺が居なかったら雪が降る度どうするのか気になるも、公衆の面前で討論を開始する事だけは避けたく。渡してきた菓子パンを口へ運んでいる内に浮かび上がってきた疑問をぶつける。

「ところで、お前は何でココに居んだ?まだ床屋の勤務時間だろ」

「床屋じゃなくて美容院だって何回言ったら分かるのよ、それに今日明日は休みだし」

 髪さえ切ってもらえたら名前なんかどうでも良い俺が異端なのか。間違えた罰として奪われたコーヒー缶へ口を付け、望んでいたものとは違う答えを言い放つ神野島から離れ、持っていても仕方の無い食べ終えた袋をゴミ箱へ捨てに行く。

「それで?今日は何時から来るんだ?」

「だから、向う途中だって言ったでしょ、早いのなら今から補聴器でも買いに行く?」

 ・・言ってねえよ。

 コイツだけ飲みながら言葉を発せられるほど器用な作りになっているのなら知らんが、俺が見る限り、缶を空にする事に夢中で何も喋っておらず、先程の会話でそこまで察しろというのは無理がありすぎるけど、余計な一言を除いて聞きたかった事は教えてもらい。奴から乗せろと言われる前に助手席の扉を開いて待ち、この町に越してきてから行かない週は無い食品店へ車を走らせた。

「入る前に一応言っておくけど、蟹は駄目だぞ」

 先月、存在その物を忘れていた宝くじに当選し財布が緩くなっていたこともあり、コイツと家に居る人物の三人で外食したまでは良かったが。値段を確認せずとも名前だけで敬遠する、蟹づくしコースとやらを注文され、当選金では二人分も払えない請求額を泣きながら支払った苦い経験から、強請られるよりも先に手を打つ。

「えー良いじゃん。安い賃金で働かされていたムロチャンの開放記念でパーッとさ」

「どんな祝いか知らんが、駄目といったら駄目」

「じゃあ握り寿司で!」

「駄目‼大人しく鍋で我慢しろ」

 食い物だけで済むのなら寿司でも肉でも構わないが、後にアレが無いと面白くないと言われるのは目に見えており、車のグローブボックスに入れられた大きめの買い物袋を神野島へ渡し、店内の一角へ足を進める。

「お⁉今日はちゃんと覚えていたのね」

「また真冬の夜道を歩かされるのだけは勘弁だからな。前と同じ酒で・・」

「今日はコッチ!」

 『おでんには焼酎!』と騒がれフロントガラスが凍結して前が見えない車ではなく、徒歩で閉店間近のココまで買いに行かされた芋焼酎を指差すも、既に持たれていたウイスキーボトルをカゴに入れ、何処かへ旅立った奴に文句を言われる前に頭の中で思い描いた料理材料をカゴへ放り。寒くなるからか、俺達と同じく鍋物にするらしい各家庭の母親が順番を待つレジ前に並ぶ。

「ちょっと!私を無視して、なに一人で帰ろうとしているのよ」

「お前が迷子になっただけだろ」

「私だって迷子になって泣き喚くムロチャンを探していたのに、酷い言い様ね」

 これほど他人との距離が近ければ後戻りの『あ』の字も存在せず、盗み聞きを通り越して、笑いを堪える人達に言葉を失い。神野島が自分の子のように抱きかかえる、ハイボールの材料らしき数本の飲料水と共に騒がせた謝罪を交え会計を済ませ、サッカー台へと向う。

「何時ものムロチャンならココで言い返してくるのに、具合でも悪い?」

「悪い場所といえば、お前の頭じゃないか?」

「ふーん。久々に昔のムロチャンが出てきたじゃない。良いよその調子でどんどん出そうか」

 一体俺の何を引き出そうとしているのか知らんが。空になったカゴすらも片付けず棒立ちしていた神野島へ苛立ち任せの皮肉をぶつけるも、奴が満足した時に現れる腕組みを久々に見る結果になってしまい、遊んでいる左手で首裏を擦りつつ外の空気を吸い込む。

・・ん?何だコレ。

神野島の言うとおり風邪でもこじらせたのか、店内の温度より冷たい空気だけが体に取り込まれると思いきや、仄かに漂う酸味を花の蜜で和らげている何処か懐かしい香りが鼻を刺激し。自動ドア横の自販機へ背中を添える、白みがかった黄色く長い髪と、足首まである緑のロングコートの組み合わせが存在を強調している匂いの元らしき女性と目が合った途端、右手を振りながらこちらへ近づいてきた。

「あ!海ちゃん来たよー」

「いや、俺は・・」

「髪色を変えるって言っていたけど、男の子って髪を変えるだけで顔まで変えちゃうんだね」

『室谷』の何処かに海がついていたら反応のしようがあるけど、残念な事に付いている人は知っていてもココには居らず、早々に人違いを伝えて車へ戻ろうとするも、話が積もり過ぎているらしく。俺の返事を遮ってまで喋り、仕舞いには体を触り始めた女性を止めてくれるよう後方の人物へ顔を向けるが、腕組みをしたままホクソ笑むだけで助けようとしない。

「でも、ダイエットはしなくて良かったんじゃない?ちょっと痩せすぎだよ」

「あの、スミマセンが・・」

「丁寧に言っても駄目だよ。自宅待機が多いからってご飯を抜いていたら、使う時に力が出なくなっちゃうし、ちゃんと食べないと。海ちゃんはお肉とお魚だとどっちが好きだっけ?」

 せめて話し位は最後まで聞いて欲しい所だが。説教でもなく、神野島のように嫌味でもない、柔らかい物腰で諭してくる女性へ強く当たる事もできず、何かの拍子に人間違えと分かってくれるのを祈りつつ外食の予定を立て始めた女性の話を聞いていると。タイミング良く駐車場の入り口に見えた、俺が知る中で唯一海が付く同居人へ手を振る。

「ほう。もう綾美と仲良くなったのか。ムロチャンも中々やるな」

「あれ?初対面なのに、何で私の名前を知っているんですか?」

 本人曰く、下赤上金(げっせきじょうきん)と呼ぶらしい、食品を扱う場所であれば確実に染め直させられる奇抜な髪色をした同居人が近づきながら話してくるも、名前は当たっていても知らない人物のようで。俺から同居人へ話す対象を変えるオマケとして開放された、痩せすぎと言われた両手を神野島と共に確認する。

「やっぱり、痩せすぎかね?」

「どうせ太らない体質なんだし、別に良いんじゃない?それより・・」

 適当に答えられた気もするが、どんな時でも自分が思った意見を述べる神野島の返事に安心するも。俺の体より重要らしい、お隣さんの姿を見るよう顎で指示され、体を半回転させた。

「海野と間違えられていただけだろ?それがどうした?」

 ようやく女性が求めていた同居人の海野との会話へ聞き耳を立てても、それ以上の感想が生まれてこない俺がおかしいのか、別の言葉を待っていたらしい神野島から漏れ出すため息を耳へ入れた。

「折角の付き合うチャンスを逃した事にまだ気付かないの?」

「チャンスって・・人を騙してまで関係を持つほど落ちぶれてはいないぞ」

「騙せなんて言っていないわよ。ただ、もう少し気持ちを表に出しても良かったんじゃない?」

 中学こそ海野と出会う代わりに遠くへ進学したが、上下二人の姉妹や産みの親より一緒に居る時間が長く、俺の性格を知ったうえでの助言ではあるものの、言われて治せる程柔軟な性格でない事も分かっているはずで。言われて気付かされた虚しさと、自分への苛立ちから逃げるように二人の前を通り過ぎ、関係者通路まで追いやられた喫煙スペースでタバコに火をつける。

・・気持ちか。

 奴の余計な根回しで徒労に終わった事もあるけど、その数件を差し引いても十分すぎる機会を与えてくれた神野島からの一言を頭の中で駆け巡らせながら、雲と同化する煙を見つめていると、こちらへ近づいてくる緑色の女性が確認でき。火種だけを落とした方がお財布にも優しく思える煙草を、最後に溜め込んだ煙と一緒に灰皿へ落とす。

「あの、さっきは馴れ馴れしくしてごめんなさい」

「・・あぁ、すみません。気にしなくて大丈夫ですよ。それより、探していた人が見つかって良かったですね」

 斜め掛けのキャラメル色のバッグが頭から抜け落ちそうな角度になるまで頭を下げる女性に釣られ、こちらも頭を下げ返し、やってきたスーツ姿の男性と入れ替わりで灰皿から離れた。

「うん。でも、やっぱり二人とも痩せすぎだと思うな。ちゃんと3食取ってる?」

「一応食べていますけど海野はどうでしょうね。作りはしていますけど昼間は殆ど居ないので」

 神野島から貰った菓子パンが昼飯と呼べる物であれば3食になる予定で、先程の謝罪は忘れたらしい体を気遣ってくれる女性と共に残された二人の前を通り過ぎ、ハザードが開錠を教えてくれる車に乗り込む。

「へー。買ったとは聞いていたけど、この車だったんだ。高かったでしょ?」

「SUVでも新古車だし人気の無いマニュアルで安くしてもらえたから、そうでもなかったよ」

 書類へサインする寸前に悪知恵が発動した二人に店を追い出され、決算時期のこの頃に再び交渉するという、俺には罪悪感しか生まれない強引な値切り方のお陰で、一番高い札が50枚少なく済んだ車へ火を付け、あの時ばかりは悪魔に見えた二人が乗り込むのを待つ。

「ムロチャンだから心配ないと思うが、綾美にかっこよく見せようとして荒く運転するなよ?」

「分かってるよ。でも、わざと気を散らそうとだけはするなよ?」

 いくら安くなったと言っても、最近流行の軽自動車より金食い虫に、タイヤという恐ろしく高い餌まで与えるつもりなんてなく。普段よりも低い回転数でシフトチェンジしつつスーパーから数キロ先にあるマンションの駐車場へ車を走らせた。

「──おー、駐車上手なんだね。私なら振り向いても失敗するのに」

 自分宅以外の左右五箇所に車があり、想定していた距離よりも短い場所から恐る恐る後退したけど、それでも助手席の人からすれば上手かったらしく、拍手を交えて褒め称えられるのがムズ痒くなり、誰よりも先に車内を飛び出し。首裏を擦りながらマンション内のエレベーターから4階の我が家へ向い、施錠されていないドアを開く。

「燃えるゴミは今日だったのに、何で出していないのよ」

 時間に余裕を持たなかった俺も悪いけど。通勤中に思い出し、車を止めてまで出せと伝えたにも関わらず放置されているゴミ袋が印象を悪くする土間で靴を脱ぐ。

「出し忘れたんだから仕方ないだろ。何なら焼却所まで持って行ってくれるか?」

「何で私なのよ。ゴミを作ったのはムロチャンでしょ」

「じゃあ、次の収集日まで我慢しな。そして、肉は冷凍でよろしく」

 初めて足を踏み入れる女性を海野がエスコートしてくれたお陰で、傍から見れば若い夫婦に思われそうな会話を交わしつつ神野島に買った物を仕舞わせ。沸す時間が勿体なく水を入れたままになっているヤカンを濯ぎ、全員が飲めるだけ水を入れなおしたヤカンを火に掛けた。

「しっかし、何時見ても殺風景な冷蔵庫よね。日持ちする物くらい入れておきなさいよ」

「気が向いたら買っておく、これでいいだろ?嫌ならお前が買ってきな」

「だから、住んでいない私じゃなくて海野に頼みなさいよ」

 タンスの半分がコイツの衣服で埋められているのに住んでいないは通らないと思うが、月に一度、一泊二日の遠征とやらで車と共に居なくなる程度の海野に出せとも言えず。飲んだばかりの神野島には悪いと思いつつ、飲みそびれたコーヒーが淹れられたカップが4つ乗せられたお盆を持ち。二人が待っているであろう、リビングダイニング兼寝室になっている、一応俺の部屋へ続く扉を開いてもらう。

「あ。何だか向こうで盛り上がっていたから、勝手に洗濯物を畳ませてもらっているよ」

 家事代行の仕事をやっている癖で自然と手が伸びたとでも考えたら分からない事もないが、それよりも、客人を一人にして自分の部屋に閉じ篭る海野が何をしているのか気になり。直ぐに無くなるからと端に追いやっていた煙草の箱か二列に積み重ねられたテーブルへお盆を置き、真後ろの、横長のタンス隣にあるドアノブへ手を掛ける。

「大事な用事があるらしいから、今は開けない方がいいかも。あと、畳み終わったけど何所に仕舞えば良い?」

 ココの光熱費や車のガソリン代でさえ出し渋らない、謎の資金を持つ海野の仕事が余計気になる一言ではあるが。好奇心任せに押し入ると、海野どころか女性陣との関係までも崩壊する可能性があり、後は押すだけだったドアから離れ、二人の服がごちゃ混ぜになっている畳まれた衣類を仕分け、タンスとその上に置かれたカラーボックスへ仕舞う。

「2、3歩だし言ってくれたら入れたのに」

「お客さんにそこまでさせる訳にいきませんから。あんまり良い物ではありませんが、冷めない内にどうぞ」

 携帯の画面を触る暇があるのなら勧めて欲しかったコーヒーを女性の前へ寄せ。今の所は誰も通らないであろうタンスの前に腰を下ろした。

「うーん・・ねー神野ちゃん。神野ちゃんの砂糖も貰っていい?」

「良いけど、何なら全部使っても大丈夫だよ。どうせ皆使わないし」

 姓ないし名で呼ばれる所しか見たことが無い神野島が中途半端に省略された『神野ちゃん』と呼ばれるも、何の疑問も持たず返事を返す姿に、鼻で笑いたがる自分を、苦味の力を借りて押し殺し。家まで付いて来たのであれば、聞いておかないと後々話しに行き詰る、質問を口にだす。

「神野島や海野の事は知っているらしいですが、何てお呼びしたら宜しいですかね?」

「あー。そういえばまだ自己紹介していなかったね」

 ようやく自分好みの味を見つけ飲み始めたばかりのコップをテーブルへ置く姿に、もう少し待てばよかったと今更後悔するも口から出したものは元に戻せず、こちらも残り僅かとなったカップをテーブルへ置く。

「えーっと。私の名前は『柏田(かしわだ) 綾(あや)美(み)』、彼方は『室谷(むろや) 昌人(まさと)』君で当たっているよね?」

「当たっていますけど、何で下の名前まで知っているのですか?」

「海ちゃんと電話したら何時も神野ちゃんと昌ちゃんの事を聞かされていたからね」

 海野が何を吹き込んだのかは知らんが、聞いた話より田舎の奥様方に呼ばれた以来となる、呼ばれる度に首裏へ手が回る名前が気になり、水色の瞳をした女性へもう一度言葉を放つ。

「すみません柏田さん。その呼び方ではなく、普通に呼び捨てでお願いできますか?」

「昌ちゃん、お菓子は買わなかったの?」

 発言が理解できない者の意見なんて無視すれば良いのに、わざわざ自分のカバンから取り出した箱を開き、中から綺麗な金色の紙に包まれた物を渡しながら喋る女性の声を聞く。

「じゃあ私も綾美って呼んで欲しいかな。あと、一つ上だからって硬くならず、皆と喋る感じでいいよ」

「昌ちゃん爪きり何所?」

 貰った一口チョコに夢中だとしても少し視線を右へ逸らせば分かるはずの、ベッドに作られた収納場所から取り出した小物入れごと神野島の頭に乗せた。

「後は自分で探せよ中学娘殿。それで綾美さん、海野とはどのような関係で?」

 厚手のラグが敷いてあるし痛みは無いと思うが、立ち上がった序でと、数年前から増えない男物に変わり、小さ目の女物が浸食し始めているクローゼットに仕舞われた座布団を人数分引き抜き、軽いものが舞わないよう静かに二人へ寄せる。

「ありがと。でも、もうちょっとだけ友達っぽくできないかな?」

「じゃあ、あや・・」

「話が長引いてスマンな。アレは俺のコーヒーだろうから貰うぞ」

 そう厚い壁でもないしあちらの部屋にも聞こえているはずで、もう少し登場を遅くして欲しかった海野がカップを持つ動作に合わせ、こちらも残った濁り水を胃へ流し。ベランダ側の引き戸を開けて吸っていても色が付いてしまった、煙草で黄ばんだ天井へ息を吹きかけた。

「あーそうだ。前にムロチャンが探していた物、俺の部屋にあったぞ」

 久しく海野の前で探し物をした記憶は無いが、ズボンのポケットから取り出された物を見て記憶が蘇り。紐のつなぎ目へ指を掛け、間違えて捨てたとばかり思っていた、先端に付いている装身具を全員に見せる。

「あ!『印(いん)石(せき)』だ‼何で持って・・」

「あーと。結構高価な物だし今度は絶対に失くすなよ」

 名前だけで盗みを企てる者が現れる程高価な物とは思えないが、『インセキ』と呼ぶらしい、クモの巣状の中のひび割れが特徴の、透き通った茶色の石が付いたペンダントを早々に失くさないよう首へぶら下げ、神野島の隣へ海野が座るのを見届ける。

「うーんっと。その綺麗なペンダントは何所で買ったの?」

「16歳の誕生日祝いとかで母から送られた物だから、場所も値段も分からないのよね」

 後も先も海外から送られてきた石ころ一回ぽっきりの祝い品よりも、俺が質問した海野との関係を教えて欲しいのだけど。引っ張るという事は知られたくない情報が漏れるのを恐れていると考え、正面のベッド側へ座る女性から貰った包み紙を解く。

「そっかー。じゃあ、思い出の品だし、盗られないよう服の中に隠しておかないとね」

 首にさえ掛けていれば失う事は無いと思うが提案を断る口答えも思い浮かばず、胸元へ染み渡る冷たさがソコにある事を主張する石が体温と同化するまでの間、黄土色のクリームを茶色いチョコレートで挟んだ菓子を口内で溶かし、少しずつ喉へ流していった。

 ──もし、一言だけ過去の自分に言えるのであれば、悩みに悩んだコレまで勤めた飲食店とビデオのレンタルショップの内、潰れてなく、映画という話題も繰り出せる後者を選べと助言したいが、世界中の何所を探しても実現できる人間なんて居るはずがなく。一つの携帯を弄くる右側の仲良しの喜怒哀楽を正面の女性と聞き続けるのも飽き、薄暗くなった部屋のカーテンを締め切り、わざと明かりを付けず台所へ逃げ、誰もやる気が無い夕仕舞いを始める。

「さて、四人だと足りそうに無いし、ちょっと増やすか」

 俺の分を減らせば問題ないのかもしれないけど、わざわざ自腹を叩いてまでひもじい思いはしたくなく。神野島に入れてもらった半額シールが貼られた鶏肉を引き出し、野菜から口に入るサイズに切り分けていると、誰かが近づいてくる気配を感じ。俺はともかく客人を放置するという行動にでた、変わった匂いを放つ後方の人物へ声を掛ける。

「手伝いもせず、何を遊んでんだよ」

「ごめん、話したかっただけなのだけど、そうだよね。何を手伝えば良い?」

 ・・あー・・やらかした。

 苛立っていても感じられた匂いで口より早く頭が動いてくれたらコノ状況だけは避けられた、客人へ憤りをぶつけるという、奴ら以上の悪態の先に現れた罪悪が漂う一室の空気を変えるため、即座に持っていた包丁を置き、後の女性へ近づく。

「ごめん綾美さん。言い訳にもならないけど、てっきり他の二人かと思って・・すみません」

「大丈夫だよ。ずっと黙っちゃったりして私こそごめんね」

 己の未熟さの余り、先程も妄想した過去へ戻れる仕組みを考え始めた頭を拳で殴りつけ、俺の代わりに台所へ立つ女性に対し、もう一度声を出す。

「あの、自分がやりますから大丈夫ですよ」

「良いの良いの、昔から言うでしょ。えっと・・青菜は男に見せるなって」

 何か違う気もするけど、台所に男は立つなと捉えたら言いたい事が分からない訳でもなく、何故か白ネギをみじん切りにし始めた、怪我をするよりかは良いかも知れない、指一本分離れた場所で手を添える女性の包丁捌きを隣で見つめる。

「あと、仕事の癖で難しいかもしれないけど、こうやって一緒の部屋で料理をする仲になったのだし、せめて『さん』だけでも外せるように頑張ってみない?」

 年上の認識が働き、丁寧語になっていた俺を指摘してくれるのはありがたいが。それより、分からないのであれば聞いて欲しかった、みじん切りにした白ネギを炒めた鍋へ、カレーでも作るのかと思うほどの水と一緒に肉以外の食材を煮込む、謎の鍋料理から目を離し。個別に入れる必要があったのか聞いてみたい、シンクに置かれた大量のザルから洗い始める。

「うー。私がやるって言ったのに」

「コレくらいは俺に任せて、鍋の面倒をイッ・・」

 アク抜きを通り越しボイルになっている吹き零れ寸前の別ナベに気を取られ、手探りで次の洗い物を探している時に生じた痛みにすぐさま右手を引き上げるも既に遅く、指先の泡と共に流れ落ちる自分の血液を見つめる。

「どうしたの・・って、血が出てるじゃない!」

「うん、でもこのくらいなら放っておけば・・」

「駄目‼そこから黴菌が入ったらどうするの、早く救急箱の場所教えて⁉」

 久しく人から怒られる行為をしていなかったからか、言い訳よりも服従を選んだ自分の手を女性に引かせ。在り処を言う前に到着した、未だに携帯を弄り続ける二人が居る部屋の中から枕元の棚に置かれた木箱を指差し、一時の自由を許された体を自分の座布団へ落ち着かせる。

「もう飯が出来たのか?」

「いや、ちょっとな」

 話して怒られる事はないと思うけど、指が丸々隠れるサイズの絆創膏を指に合わせる人物の前で気楽に喋るほど図太い神経はもっておらず。遂には真っ二つにしようとハサミを持ち出した箱から俺が探り出した、切り傷用の一番小さい絆創膏を手渡し、トイレでも行くらしい海野が部屋を出るのを見送る。

「これでよしっと。もう動いても大丈夫だよ」

 洗剤の上から消毒液を垂らして効果があるのか不明だが、近いうちに指先が痺れてきそうな程の圧を掛けて巻かれた中指を確認しつつ簡単な感謝の気持ちを述べ、海野も飲み終わり底に薄く残るだけとなった、四つのカップをお盆へ乗せる。

「それも私がやるから、昌人は皆と一緒に居て良いよ」

「いやいや、俺こそ向こうに行くから、綾美はこいつらと・・」

「怪我してるんだから料理しちゃ駄目でしょ?神野ちゃんも言ってあげてよ」

「・・それじゃあ、間を取って私がやる。コレで万事解決でしょ?」

 普段なら何があろうと俺が行くよう命令するはずなのに、海野とやった携帯のゲームで今は機嫌が良いらしい神野島が、押し問答の対象となっているお盆を奪う。

「それとね。仲良さそうだし、いっその事付き合っちゃえば?」

「いいねそれ!カップルになっちゃえば昌人も気楽に話せそうだし」

 まだ酒は飲んでいないはずだし、俺が疲れているせいで幻聴が聞こえただけなのか。考えることなく快諾する場の流れに付いていけず、頭の中に発生した大量の疑問符を片っ端から口に出していく。

「あのさ神野島よ、高校ならまだしも一応は社会人だぞ、少しくらい考えて話せよ。それに、お見合いじゃないんだし、たった数時間で・・」

「私は付き合いたいと思っているけど、昌人は嫌なの?」

「嫌じゃないけどさ、友達・・」

「だってさ海野。男同士だし、初めて付き合うムロチャンの手解きは任せたわよ」

 近代化された許婚とまではいかないが、恋愛とは当事者ではなく他者が決める事らしく。瞬時に場の状況を察知した海野までも加わり、神野島に代わって発声を始めた。

「ふむ・・今までみたく受け手になるくらいなら、攻め立てろ。とだけ言っておくよ」

 今しがた、攻めた結果が後悔となって帰ってきたばかりなのだが、多少の失敗で怯むなと言う意味が込められているものと脳内で補完し。色々と段階を飛ばして、口元へチョコレートを近づけてくる女性から菓子だけを手で受け取り、不満気に頬を膨らませる女性から彼女へ意識を変えないといけないらしい人物の表情を眺めながら甘味を舌に馴染ませていると、メールマガジンにしては遅すぎる気がする携帯の振動に手をポケットへ突っ込む。

「ん?何時もの商品紹介か?」

 メール時の緑色ではなく青色に点滅す着電(ちゃくでん)で、俺には画面を開くよりも早く判別できたものの、最近の指で直接画面を触れる携帯に慣れた人からすれば機能その物を忘れているらしく、毎週お馴染み我が家との相性が悪い洗剤の安売りメールだと勘違いしている海野と、木の実を貯えたリス娘へ折り畳み携帯の画面を見せ、手すりに雪が積もり始めたベランダへ足を運び。俺とは違い大学野球を極めている最中の、高校そしてバイトの後輩でもある人物からの電話に応じる。

「・・ほいほい、どうした嶋賀。今仕事中じゃないのか?」

「お疲れの所すみませんキャップ。今大丈夫ですか?」

『こんにちは』の代わりではあるが、今日ほど『お疲れ』が嬉しく思える日も珍しく。何年経っても高校野球部の主将として扱ってくる嶋賀へ、苗字で呼ぶよう注意するよりも先に顔がほころび、ろくに吸えていなかったタバコに火を灯した。

「まあ、今日はいいや。それで?外野が喧しいが何かやらかしたのか?」

「いやー、それがですね・・あー・・ちょっとすみません」

 平日という明日を愁い、早々と酒に溺れる客人が皿でも割った様で、断りの後、放置された嶋賀の携帯から風を切る音が届けられるまで、季節違いの蛍の真似事を始める。

「フー・・戻ったか。どうせ今日で店仕舞いだし、強くは言わないけ・・」

「おっその声は!久しぶりだな室谷。美咲とは上手くやっているか?」

 ・・まーた面倒なのが出てきたな。

 最後の記念といった所なのか、希望する人数だけ詰め込んだ夜のシフトを全てチェックする気になれず適当に流し読みしていたけど。本業が忙しく深夜だけ入っている、次期野球部主将の座を阿弥陀くじで決めるという暴挙に出た『白川』さんまで居たらしく。未だ、神野島と別の意味(カップル)で引っ付いていると思い込んでいる発言に、落としそうになった煙草のフィルターを前歯で噛み締め、煙と一緒に入ってきた吸気を肺へ押し込む。

「その音から察するに、また煙草吸っているな。体力が落ちるからよく・・おっと、戻ってきたから代わるぞ」

 野球に明け暮れる日常へ戻るつもりもないし問題ないと思うけど、ベランダの引き戸を開け外の景色を眺めに来た彼女へ気を配り。前回より時間を与えてくれても半分以上残っている煙草を携帯灰皿へ落とし、手短に用件を聞き出す。

「上手く回せていない様だが、用件は何だ?」

「すみません。ちょっと人が多すぎて統率が取れないので、指示しに来てもらえませんか?」

「この雪だし一時間は掛かるが良いか?・・あぁ、分かった・・ほいよ」

ココで長々と話をするより直接現地へ向った方が状況判断がし易く、この行為自体が回せていない一因となっている通話を終わらせ、何かを喋ろうとする彼女の頭を撫でる。

「っま、そういう事だから、ちょっと出掛けてくるぞ」

「うー。寒いから気をつけて・・」

 言葉に出すより髪を整えたい衝動が勝ったようで、まだ俺の左手が乗ったままの頭を両手で梳かしはじめた彼女と一緒に部屋の中へ戻った。

「ふむ。早速夜のデートか?」

「だったら良いがな。嶋賀からヘルプが飛んできたから、悪いが3人で楽しんでくれ」

 ただ働きするくらいなら何にも見えない雪の中でもデートがいい気もするが、先に了承した後輩の頼みを反故にする訳にもいかず。薄手の黒いコートと一緒に壁へ掛けられたマフラーを手に取る。

「じゃあコッチも悪いが、あいつから変な注文されたら困るし車は置いておけよ」

「元から乗るつもりは無いよ。んじゃ、また夜中にでも」

 予め、家から湯を持っていけば見えなくはないだろうけど、そこまでして徒歩と大差のない雪道渋滞を運転する気にはなれず。紺色のマフラーを首に巻きつけつつ玄関へ向い、俺や彼女の代わりとなって台所へ立つ神野島との会話へ移る。

「ちょっと!折角出来上がったのに、車に忘れ物なら後にしなさいよ」

「あぁ、俺の分も食っていいから、詳しい事は奥の二人に聞いてくれ」

 流石に税別ワンコインで買えるパン一つでは腹が減り食いたい気持ちもあるが、食欲の為に時間を浪費したくはなく、出掛ける旨だけを伝え神野島からの返答を待たずに家を飛び出し、人どころか車すら通っていない路地を進み始めた。

・・タオルも巻いてくればよかったな。

 コレが天の気まぐれという奴なのか、出た当初は左右に揺れながら落ちる氷の結晶も、今となっては水浸しの状態で到着しそうなミゾレの中を白い息を吐きつつ歩き。満ち時には淡水と海水が混じり汽水へ変化する滑りやすい橋の上を、足元を見ながら進んでいると、何かと衝突した途端に訪れた雪解け水とは違う額から出る水分に全身の動きが止まった。

「海野・・果て・・」

「・・ハ・・オマエ・・ナニ・・」

 当たった時はなかった痛覚も内容物を捻じられる感覚に呼び起こされ、言葉と共に失われる力を足に集中させて暗所へ逃げる人物を追いかけるが、排水用の鉄格子に足を滑らせ、欄干へ腕を強打した。

「・・ナンデ・・ウミノ・・」

 聞き取れた海野という言葉の意味を血の気が引いていく頭で考える事などできず、内側からも冷やされている気がする手で携帯を取り出すも指の力配分を誤り、唯一の頼みの綱であった小さな機械を滑らせ、橋下の暗闇へ落下させてしまう。

「・・クッソ・・」

 ココで果てるにしても、このような状況に陥った訳だけでも知りたいという願いも叶わず、冷たい雪上で消える位なら座っていたい思いで背中を欄干へ添わせ。生臭く感じられる水付きの煙草を口に挟む。

「・・あ!・・昌・・布忘れ・・どうしたの⁉」

 神経が麻痺し、無痛になる代償として幻覚が訪れるようになったらしく、徐々に大きくなる彼女の声がする方向を霞み目で確認する。

「大丈夫だからココをしっかり押えて、直ぐ救急車呼んであげるから気を失っちゃ駄目だよ‼」

 自分では指すら曲げられない両手を加え腹部を押えているように見えるが、この処置が遅すぎるくらい俺自身が一番分かっており。呼吸が苦しくなる頭を傾け、一時間にも満たなくても、最初で最後でも、自分の思いに反していたとしても、楽しく過させてくれた彼女への言葉を口ずさみ、新しい世界に向う渡し舟へ乗り込んだ。

「アリ・・ガト」


「『仕事帰りに綾美から海野と間違われ、応援へ向う際、再び海野と間違われ腹部を刺される』・・ココだけ読むと海野が悪い奴に思えるけど・・って居ない・・」

 居なかったら居なくても問題は無いけど、独り言を喋っていたと考えたら虚しく思える頭の後頭部を擦っていると、床を強く踏みつける音と共に声を荒げる彼女が近づいてきた。

「大変だよ昌人‼近くに猛獣が居るよ!」

 綺麗とも汚いとも言えない、中途半端な田舎の中途半端な空気の吸いすぎによる幻でも観たようで。地域総出で山に鉄柵を張り巡らせた甲斐もあり、熊どころか猪すら降りられない地帯で人間以上に獰猛な生き物なんて居るはずがなく、腕を引いてでも何処かへ近づけようとする彼女をそのままに、残った左手で湯飲みを持ち人肌まで温度が下がった茶を飲む。

「お茶なんかより、早くしないと家に入ってきちゃうよ⁉」

「ふー・・何もしなかったら勝手に帰るし、いざとなったらお得意の魔法でも・・」

「その前に目を付けられたらどうするの⁉だから早く戸締りしないと!」

 緊急を要する事態なのであれば俺を急かす時間を戸締りへ変えたほうがいい気もするけど、焦らせて、また何処かへ衝突されても困り、口内へ残っている茶を喉に通したら立ち上がろうとするが。寝起きにやられると煩わしい泣き声が部屋中に響き渡った。

「ほら、ケーッケーって鳴いているじゃない!絶対猛獣だって‼」

 どんな場所に住んでいようが知っているものとして考えていたけど、その思考が田舎者の証だったらしく。せめて猛禽(もうきん)と言って欲しかった彼女の頭を撫で回しつつウッドデッキへ進み、甲高い声がした畑の隣に位置する竹やぶを指差す。

「うー。だから!竹なんかじゃなくて、今きこ・・」

 緊張を和らげるために喋りたい気持ちも分からない事もないが、今は静かにしておかないと怖がって逃げる場合も考えられ、泣き声に負けじと声を張り上げる彼女の口を人差し指一本で塞ぎ、藪の中から姿を現した鮮やかな鳥をもう片方の人差し指で追いかける。

「・・モウスコシ・・シズカニ・・」

 俺の祈りが通じたのか、それとも単に機嫌が良いのか分からないけど。家を見守るように造られた墓所へ向う坂道で止まり、周りを警戒しながら耳を貫く泣き声と共に羽ばたきをする姿を見届け、彼女の口から指を離した。

「『キジも鳴かねば撃たれはすまい』って事で、正解はキジだな」

「アレがキジ・・てっきりクジャクかと思ったよ」

 キジ科というとこで考えたら似た者だが、せめて姿だけは知っていると思っていた彼女からの予想外すぎる返答に笑いが堪えきれず。怒られるより前に再び彼女の髪を撫で乱し、分骨の関係で大量に墓石がある墓所へ姿を隠すオスのキジを見届けた後、部屋の中へ戻っていく。

「うー。ちょっとした間違いで笑うし、頭ボサボサにするし。何でいっつも昌人は人の嫌がる事をするの⁉」

「コレは異なことを。本当に嫌なのであれば、手の届く範囲に近づかないのでは?」

「うー。それは・・そうだけど、でもー」

 神野島とやり合うよりか柔らかくはあるけど、奴より不毛と思える彼女との言い争いを黙る事で中止させてダイニングの窓から顔を出し、田んぼの先に生い茂る自然林で一際目立つ枯れ木に留まり高みの見物と洒落込む青サギの観察を始める。

「ねー昌人。流石にコレは海ちゃんが可哀想だよ」

「そうか?事実しか書いていないぞ?」

「でもさ、もうちょっと違う書き方はあったんじゃないかな?ほら、『海ちゃんと神野ちゃんの紹介で私と出会い、人間違いで腹部を刺された』とかどうだろ?」

「まあ、あれだな。書き直すのは面倒だし、次から気をつけるよ」

 神野島だけに限定し、『紹介』ではなく『薦め』なら彼女が考えた文でも大丈夫だけど。俺からしてみれば後半部分をもう少し詳しく書きたく。読む前に一言くらい欲しかった彼女からの助言を断り、こちらへ傾けてきた椅子へ腰掛ける。

「それで?何も無かった日も書くのか?」

「うーん。見ていた夢を書くのは無理だろうし、その後からで良いと思うよ」

 その気になったら書けない事もないけど、何時見たのかも分からない夢を書けとまでは言わない彼女の優しさに甘え。小学生の絵日記以来となった久々の記録から、多すぎる余白を作り、次なる記憶を書き留めていった。


雲に隠れ綺麗な夕暮れとはいかない薄日の下、懐かしいようで見覚えのないあぜ道に立ち。稲刈り直後の、走り回るには丁度良い整形田の群れを意味もなく眺め続ける。

・・そろそろ行かないと。

何故ここに居るのかを考えるより、自分には行なわないといけない用事がある気がし。無限に続いているかのように見えるあぜ道ではなく、笹の葉が壁となっている杉林の中へ入った。

一枚の写真を無数にコピーしたような茶色しかない林もまた、見たようで見た事が無い場所ではあるが、進むべき道を知っているらしい足に全てを任せていると、枯れた枝を踏み込む音の他に、高速で重低音の羽ばたきをする何かが自分の周りを飛び回り始める。

・・邪魔臭い。

 姿が確認できるのなら策を練る事も可能だが、音のする方を向けど、見えるのは落ちた葉と落葉樹だけで。一歩進むたび苛立ちが増していく己を内に潜め、色が違うだけありがたい入口と同じ笹の壁を掻き分けた。

 ・・やっと消えたか。

 不思議と実家の墓所に抜けるも、ココに存在しない林の詮索より自分の周囲で発せられていた音が消えた安堵が勝り、枯葉の一つ落ちていない木の根が作り出した歪な階段を降りていく。

 作ったとしても誰も食し手が居なく、マルチシートの丘陵地帯になっているはずが新緑に染まっている畑を観察し終わり。近くでする農機械の音を聞きながらウッドデッキが設けられる前にあった勝手口を引くと。土間に佇む、隣の炊事場と身長が変らない少年と目が合う。

 ・・これって。

 顔や髪型では分からなくてもファッションという言葉自体が存在しない年寄り臭い上下を着た少年へ声を出そうとするも、長く喋っていなかった喉のように痰が絡み、吐息だけを大気中に放出した。

 知っている人とはいえ何度も行なうと相手の気に触ると分かっていても、まともに声を出せない状態の方がマズく。軽く広げた手を謝罪変りとして相手に示しながら、喉の震わし方を忘れた首元を擦っていると、俺の首元へ向けられた少年の指と共に、再び俺の周りを飛び始めた不愉快な音を発生させるモノに身を縮める。

「・・オマエノ・・セイデ・・」

 ・・俺のせい。

 知っている気もするが名前も思い出せない子供に突如責任を押し付けられ、頭が混乱している最中、首裏の僅かな隙間から侵入し首元へ回り込む何かを叩き。握り潰しながら襟を裏返した先に待っていた黒と黄色の模様柄に恐慌し、力の限り右手へ収まっている昆虫を磨り潰す。

「頼むから・・お願いだから・・」

 今更過ぎる詰り物が取れた声で祈っていると感じた、服に浸み込んだ謎の液体に手を止め、手の力を緩めた隙を突き、尋常じゃない痛みを与えてきた昆虫を繰り返し押し潰した。

「──ユメ・・ハチ⁉」

 胸元に置かれた何かを握ったまま飛び起き、夢よりも大きい気がする物に危害を加えられないよう慎重に服の中から取り出す。

「ふー。なんだ、石・・うっ・・」

 悪夢を観た原因が判明し、安心したのも束の間。体内から逆流してくる物質が堪えきれず、近くにあった透明な包み紙が大量に入れられたゴミ箱へ顔を埋め、酸味が強い臭いで連鎖する液体を搾り出した。

 記憶がなくなるほど酔い潰れたとでも言うのか、出すものがなくても嗚咽する顔を上げ、少しでも落ち着けそうな部屋の空気を思いっきり吸い込んだ。

「・・アー・・クッソ。何だってんだよ」

 この季節に作られると余計寒く感じる洗濯物の影がなく、全身から汗が噴出しているとなれば寝坊では済まされないレベルの睡眠だったようだけど、大事な用事があった記憶も今の所は見当たらず。汗を拭うより前にやらないと色々な面で大変な事になりそうな吐しゃ物を処理し、空気を入れ替えながら汗だくの上下を着替えた後、海野の部屋のドアを小突いた。

「居ないとなれば、今日は海野が犠牲者か」

 神野島の事だし、俺が使い物にならないと分かれば海野を無料の送迎係として使ったようで、音も返事も聞こえないドアから離れ。何かが抜けている気がする記憶を蘇らせるべく、タンスの上にある煙草のピラミッドを崩し、ベッドへ腰掛ける。

「あれ?ライターさんはドチラヘ・・」

 箱を空にして寝て起きた際に失くさない様、下が透けて見えるテーブルに置くようにしていた銀色のオイルライターが見当たらず、ベッドの収納棚に貯められた纏め買い時にもらえる、硬すぎて使う気になれない使い捨てのライターで煙草に火をつけた。

 煙より飲み物の方が口内の味を取れたかもしれないと思い始めた矢先、丁度、目に留まった練乳の文字だけで購入を敬遠していたコーヒー缶のプルタブを引っ張っていると、呼び鈴も鳴らさず玄関を開ける音が聞こえ。神野島とは違う女性と海野の声がする台所のドアを見つめる。

「ふー。ただい・・昌人‼」

 甘いクリーム色の髪に緑色のコートという独特な組み合わせに見覚えがあるような気もする、買い物袋どころか新聞紙で巻かれただけの花も置き捨てて駆け寄り、口から奪い取られた煙草を灰皿ではなく、一口も飲んでいないコーヒー缶へ放り込む彼女に言葉を失う。

「大丈夫⁉他に痛い所とか。自分の名前言える⁉」

「え。室谷だけど」

「フルネームで‼」

「室谷、昌・・」

「うーん。ちょっと痛かったらごめんね」

 自分から姓名を名乗るよう命令してきた癖に、こちらを黙らせてまで上着の裾をたくし上げ、腹部を押し始めた彼女に身を任せ、登場のタイミングが悪く肺に残っている気がする煙をベランダ側へ吐き出す。

「ちゃんと傷も塞がっているみたいだし。どこか痛い場所はあった?」

「無かったけど、くすぐったいからそろそろ下してもらえるかな?」

 爪が肌に刺さる痛みはあったが、それより、年頃の娘に触診される恥じらいの心が勝り、できるだけ彼女を傷つけないよう言葉を選んで応答した。

「よかったー。『干渉』の影響で、ずっと眠ったままだったから。本当に何所も悪くないの?」

 何を言っているのか分からないが、とりあえず、今にも抱きついてきそうな彼女を阻止するべく、彼女の頭を撫で回し、背中まで回されていた手を持ち主の頭皮へ移動させる。

「うー。抱きついた後にナデナデしてくれても良いじゃない、昌人の意地悪」

 今の俺では精神の均衡を保てないからこその行動であったのだが、コレはコレで好い気もしてきた、小さな手で必死に髪を梳かしながら文句を垂れる彼女を眺めつつ新しい煙草を取り出そうとする俺から、すかさず箱を取り上げた彼女を見つめる。

「病み上がりなんだから煙草なんて吸っちゃ駄目‼」

 奪うだけならまだしも、去年投票権も得た人物の所有物を、二日酔いという再び寝る頃には元通りになっている病を理由に二つ折りにされ、怒りを通り越し哀情がこみ上げてきた手へ、励ましとばかりに色とりどりの玉が入った包み紙を置かれた。

「代わりになるか分からないけど、口が寂しくなったら飴ちゃんを舐めて、それでも我慢できなくなったら返してあげるから。それまで、ね?」

 彼女が見ていない内に後の積み重ねられた一角を隠し持とうかとも思ったが、企みが露呈し、頂が無いピラミッドの全てを破棄処分されては困り。信号機の影響か主張が激しい、赤玉の包み紙を解いて口へ放り込み。男の部屋には合わない色をした花を生けて戻るまでの間、幼少期はご褒美として貰っていた表面にグラニュー糖が散りばめられた懐かしい飴玉の味に浸った。

「うーん。何か違う気がするのだけど、昌人は分かる?」

「そうだねー。ちょっと貸してみ?」

 妙な意味を込められていそうな桃色主体の花から違うと思うのだが、そんな事を言える訳もなく。渡してもらった瓶から、斜めには切っているらしいが口へ詰め込みすぎ、窮屈そうにしている花を数本抜き取り、指が入る程度の隙間を作ってやる。

「こんな物かな。抜いた花はコップにでも入れて台所に飾っておけば良いよ」

「わー、凄い凄い。こんな感じでもっと可愛く見せられるなんて、考えられなかったよ」

 拍手を交えて褒め称えられる事はしていないけど、切り口が乾く前に仲間外れにされた花を持って台所へ消えていく彼女を見届け。自分が作り上げた赤いチューリップがワンポイントになってしまっている、鮮やかな花を観賞しつつ首裏を擦り上げた。

「うん!やっぱり、お花があるだけで全然違うね」

 俺も入り直してみたら分かるかもしれない風情を伝えてきた彼女が持ち入った、三つもあるコーヒーシュガーが置かれた受け皿ごとカップを受け取り。空いている座布団があるにもかかわらず、隣へ座ってきた彼女が一息ついた後、気になっていた始めの言葉の意味を問い始める。

「ところで、初めに言っていた『干渉』って何?」

「あ・・私そんな事言っちゃった?」

 彼女の問い直しに聞いてはいけなかったような考えが脳裏を過るも、今更聞き間違いと言える勇気もなく。俺のとは違う臭いがするカップから彼女の口が離れるまで、入れないのは失礼な気がした砂糖を溶かし込んだコーヒーを、飴の甘さが残っている口内へ流した。

「何所から話せば良いか分からないし、初めから話すけど、笑わないで聞いてね」

 干渉の言葉で笑いが取れるのであれば、一刻も早く話芸を生業とする人達の下へ赴いた方が良いと考える自分から、声が漏れ出す前に口を硬く閉じ。やはり、自分には合わない甘ったるいコーヒー入りのカップを受け皿へ置いた。

「えっと。昌人が出掛けて少し経った位かな?お財布を忘れているのに気付いて海ちゃん達に道を教えてもらって後を追ったのだけど、途中で昌人のとは違うピリピリを感じて急いだら、昌人が橋の真ん中で血だらけになって座っていて。後は記憶に残っている通り、私が助けを呼んでいる最中に気を失っちゃって、その・・『魔法』を使ったんだけど。今度はそれと、昌人の『インセキ』が『干渉』して意識が戻らなくなっちゃったの」

 初っ端の出掛けた所から話が伝わらないのだが、次々と飛び出してくる新しい用語を交え、話してくる彼女へ、相槌代わりの同じ質問を投げかける。

「その、魔法やら流れ星もそうだけど。結局、干渉って何?」

「あー。それは今から説明するけど、その前にちょっと待ってね」

 緑茶とは違う、芳ばしさより甘さが際立つ飲み物で喉を潤すのかと思いきや、突如、自分の胸元へ両手を入れ始めた彼女から顔を逸らし、首裏を揉み解していると。温度は似ていても人の肌ではない、手に収まるサイズの硬い何かを置かれた左手に顔の向きを彼女側へ戻した。

「阝(こざとへん)が付く『隕石』も関係はするけど、そっちじゃなくて、印鑑の印を使った『印石』って言う、魔法を簡単に使うための道具で。今、昌人が身につけているペンダントが普通の印石で、渡した物が改良された治癒印石って言うの」

 何所まで真面目に聞いたら良いのか分からなくなってきたが、俺から話を聞いた手前、まだ話す気でいる彼女を黙らせる訳にもいかず。持っていても仕方の無い、四エリアに分けするかのように十字の先端と中央に色んな石が埋め込まれた、印石と呼ぶらしいメダルを彼女へ返す。

「治癒って名前の通り外傷を治せる便利な印石で、コレを使って昌人の傷も治したのだけど。便利な分、絶対に守らないといけない、部外者への使用・・・は、黙っていたら良いとして。受け手の印石を外す事と、お互いの、空から降ってくる方の隕石を外す約束があるの」

 自分の息継ぎか、こちらの情報整理のためか分からないが。どちらにせよ、寝起きの長話で聞き疲れた耳を休ませる時間を与えてくれた彼女に心の中で感謝し。煙草がなく無意識に手が動いていたらしい、残り一つとなっている黄色い飴玉を舌の上で転がす。

「えっと、どこまで・・あーそっか。それで、空から降ってくる隕石を外し忘れたのなら、まだ良かったのだけど、魔法を使える方の印石だったから、魔波干渉っていう、何が起こるか分からない現象を起こしちゃったのだけど、それで・・」

「それで、その、なんたら干渉とかの影響で夕方まで寝ていたって事だよね。喋りすぎると喉も疲れるだろうし、一旦休憩にしないか?」

 先程のトイレにも行けない小休憩の間に解れた、緊張の糸を張る事に失敗し。彼女の声帯を守る口実のもと、ベッドから腰を上げ。飴では膨れない腹を満たす食材が待っている台所へ向うが、自動で開閉するよう魔法を掛けたらしいドアの端へ額をぶつけ、その場で崩れ落ちた。

「ん?・・おー、すまんムロチャン、起きて・・」

「大丈夫⁉隠さないでオデコ診せて‼」

 ぶつけた犯人へ言いたい事はあるが、まずは、面倒事になりそうな、無理やりでも額を押える左手を退かそうとする彼女の頭へ手を乗せ。痛打された部位を擦り上げながら立ち上がり、次なる悲劇が起こらないよう、ドアを全開に広げた。

「あのさ海野。そんな雪原に沈む夕ひ・・」

 今までにも飛ぶ事はあっても、誰かの話しで補完するしかなかった記憶が、中途半端に白くされた髪型一つにフィードバックされ、何時までも彼女の手の温もりを感じていた右手を自分の腹部へ当てた。

 ・・なるほどな。と、なれば、後はアノ名前か。

 何やら隣で俺への不満をたれる、昨日からカップルになったらしい相方を放置し、去り際に放たれた名前の意味を知っているはずの、まだ前の色が良かった同居人を台所へ戻すも。今度はコイツの頭を雪と勘違いして、謎の長細い箱を手土産に上がりこんできた小娘と出くわす。

「ほう、今頃目が覚めるって事は、愛しの綾美に覚醒の口付けでもされたのかしらね?」

「そんな訳無いだろ、お前こそ目を覚ました方が良いんじゃないか?今日は晴れだぞ」

「仕事を早退してまで毎日看病しに着ている心優しい女の子に、よくそんな口が聞けるものね」

「ご多用な所、このような出来損ないの介抱をしていただき、心より感謝申し上げます。ところで、今日って何曜日だ?」

 今頃アサリと仲良く暮らしていそうな自分の携帯電話さえあれば、二人目の異性から文句を言われる事も無かっただろうけど、海野に頼みなおして、話をこじらせたくはなく。持つのに疲れたらしい箱とセットで渡してきた携帯画面を確認する。

「・・ね?風邪だったらほったらかしにするけど。あと少しで丸四日も寝ていて病院にも連れて行けなかったら、看病しないわけにいかないでしょ」

 二月四日、水曜日。短針が反対を示すより先に、四日間寝ていた事になる日付を疑いたくなるも、一年中触っていても飽きないであろう神野島が壊れた携帯を使っているとも考えられず。動揺を覚られないために、携帯を山なりになるよう優しく下手投げし。持ち主からの文句を聞き流しながら、アルミホイルに包まれていた冷め切ったオニギリを頬張る。

「かっらいなー。俺が起きるのを見越しての嫌がらせか?」

「何で私を見るのよ。とうか、私が作ったんじゃないし」

「嘘付くなよ、お前以外に誰がこんな物を作る・・」

「ごめん昌人。残りは私が食べるから」

 ・・またやらかした。

 近くに居た海野の存在も忘れ、神野島との会話に集中していたお陰で、背後に立つ海水味のオニギリを作った料理人に気付かず喋ってしまい。奪取された握り飯を口へ詰め込み、背を向けて歩き出した彼女の行く末を見届け、オボロ温いヤカンの中身を二つのコップへ移す。

「悠長にお茶を淹れる暇があるのなら、直ぐに追いかけなさいよ」

 言われなくても向うつもりでおり、そのための行動を理解できず、隣で鳴り響く小娘の声を背景音とし、脇に挟んだ箱へ集中する余り両手の液体を撒き散らさないよう気をつけながら、彼女が座るベッド前へ足を進め、空になったテーカップの席へ持ってきた湯飲みを置いた。

「ごめんな綾美。言い訳に聞こえるかも知れないけど。その・・ごめん」

 予防線を張って悪癖を伝えたとしても、逆の立場で聞いていたら余計、気分を害する気がし。両手を小さな振袖状の袖口へ引っ込める彼女より低くなるよう床へ座り、深く頭を下げ、暫くすると、頭上に乗せられた何かを握り締め、水色の瞳をした人物の顔が見えるまで頭を上げる。

「うー。もうちょっと可愛い姿のままで居てくれても良かったのに」

 飴の花を頭に乗せた男のどこが可愛いのか理解に苦しむも、自らの意思で、再び飾り付ける事だけは避けたく、今回の断りも込めた謝罪を返し。生花を見習ってか、一つだけ焦げ茶色の物が雑じる甘菓子群が体温で溶けだす前にテーブルへ移動させた。

「あとね。素直な感想を聞けて嬉しかったし、謝る事じゃないよ。紅茶を飲みに行ったばっかりに気を使わせちゃって、私こそごめんね」

「いやいや。本を正せば俺が原因だし、綾美に責任なんてないよ」

「しょっぱいオニギリを作ったのは私だから、昌人じゃないってば!」

 何だか、神野島以上に不毛な話しのような気もしなくはないけど。それでも、ココで折れてしまうと俺と彼女の立場が変わってしまうと思い、彼女と意地の張り合いをしている最中に姿を現した海野へ意識が向う。

「もうさ、二人とも悪くなかったって事・・」

「よくないよ‼」

「よくねーよ‼」

 話が長いからと、中途半端に仲裁者役を請け負うのなら黙っていて欲しい意見は同じだったらしく、黙らせるタイミングまでも同じ彼女と共に奴を攻め立てると、今度は何所からともなく引っ張り出してきた菓子椀が載ったお盆を運びながら口を開く神野島へ聴力を集中させる。

「こうも早く仲直りするとは、流石は私が認めたカップルね。そして、海野はこんな事で落ち込まないの!」

 女性陣が勝手に決めただけで俺から交際宣言した記憶はないが、ようやく一つの責務を終えたかのようにお節介の対象を変更し、何時までも開けたままになっている口へ煎餅を咥えさせられる海野を哀れみつつ、俺が彼女用と一緒に持ってきた自分の湯飲みへ口を付けた。

──頭が冴えるを通り越して疲弊している感じもあるけど、寝起きよりかは動いてくれる内に中断したままになっている救出法を知りたいが。触りだけで普通の処置ではないと分かる話を全員が集まった前で再開させるのは酷だと考え。事件前と同じタンスの前へ座りなおし、恥じらいもなく、一口サイズに割られた煎餅を食べさせ合う、当方よりカップルっぽく見えてきた二人を、俺と一緒に取り残された正面の彼女の二人で茶を啜りながら観察する。

「そうそうムロチャン。今日の晩ご飯だけど、ムロチャンの目覚めを祝っていい物を注文しておいたから」

 コイツ以外の誰かが口にするのであれば嬉しさも湧いてくるだろうが、無職祝いの次は快気祝いを口実に良い飯を食らおうとする魂胆など分かりきっており、神野島やその隣の白頭ではなく、特別な手段で川渡りの船から引き摺り下ろしてくれた彼女の為にと、承知の合図として手を後の台へやるも車の鍵の他に異物が当たらず、上半身をねじりタンスの上を目で確認した。

「あー、お財布の『中身』を捜しているのなら、ちょっと待ってね」

 少々気になる個所はあるが、あの橋に置き忘れていないのであればそれで良く、ラクダ色の斜め掛けバッグから、大量の菓子と共に厚表紙に身を包んだ辞書らしき青い本までもテーブルへ撒き散らし。確かに『中身』になっている、磁気カードと硬貨だけが入れられた透明な袋を受け取る。

「血の臭いがするお財布は処分しちゃったけど、思い出の品だったらごめんね」

「それは大丈夫だけど。札は何所に?」

 再三言われても使い続けた結果、二箇所だった札入れの糸が解け、三箇所に増えた財布を捨てられ、ようやく買い換える踏ん切りがつきそうだけど。それより先に支払わないといけない食事のために、0が三つ四つ付いた紙も返してもらわなければならず、袋の中に入っていない事を指で訴えながら在り処を聞き出そうとするが。先程とは違い左側の二人とアイコンタクトを交わした後、台所へ向い、今度は中身が見えない小さなコンビニ袋を渡してきた。

「ソコに入れるまでずっと変な臭いがしていたし一応注意してね」

 あの状況下で付着するものといえば自分の血液か雪解け水しかないが、何にせよ嫌な臭いを嗅ぎながらの晩飯にはしたくなく、一人薄暗いベランダへ移動し、硬くされた結び目を解いた。

・・なるほど、そうきたか。

どうせ縮んで使えないのだから、その辺に吊るしておけば良かったと思われる、浸み込んだ血生臭さを花の芳香剤で誤魔化そうと試み、混ぜ合わせただけになってしまった臭いに自然と鼻呼吸から口呼吸へ切り替えた体を動かし。単身なら半月は余裕で食っていける額の紙幣群を洗濯ばさみに挟み、洋間へ戻る。

「おつかれさーん序でに、早く行かないと綾美が支払うわよ」

 開けっ放しにされたドア奥から聞こえる会話で気付いてはいたが、干したばかりの、鼻が捻じ曲がる臭いとシワまみれの銀行券など受け取って貰える筈がなく。あの時みたく区切り時を誤り、長々と喋り続けてくれる事を切に願いつつ余計な一言を発した神野島の頭を撫でた後、押し入れに敷かれた防虫シートの裏面へ手を入れ、今度こそ、自分が思っていた場所に存在してくれた封筒を手に台所へ向うも。刺した犯人以上に会いたくなかった知り合いの顔に絶望し、自分の首裏を殴りつけながら、二人に呼ばれる玄関へと進んだ。

「来なかったから心配したんだが。可愛い子を連れ込んでご機嫌そうだな、室谷殿」

「それ・・ですね。連絡も無しにすみませんでした。あと、ちょっと話す時間、ありますか?」

 彼女の手に領収書が渡っているという事は、支払いが済んだ後に登場したようだけど、コノ人が居るとなれば他に清算しないといけない事柄が存在し。隣の人物に盗み聞きされないよう、彼女の髪を強く撫で乱してから、『白川屋』の刺繍が施されたウインドブレーカーを着た人と共に、玄関前の外廊下から住宅街の明かりを眺めつつ、発する事を拒む喉を緩めていると、俺が彼女へする撫で方をこちらにしながら語りかけてくる白川さんの声を耳に入れる。

「冗談で言ったつもりだったけど、怒っているように聞こえてごめんよ。事情は海野とお嬢から聞いているし、俺から他の仲間にも伝えてあるから安心しな」

「・・てことは、道中の事も知っているんですか?」

 俺でもココまで長く撫でないけど、喋りやすくしてくれるためと自分に言い聞かし、ようやく空気を振動させる事に成功した音を伝えてもなお、撫で続ける人へ顔を向けた。

「さっきの子が車に引かれそうになっている所を助けたのはいいが。サイドミラーに体をぶつけて、そのまま意識を失ったって聞いたぞ。まぁ、良くやると言うか、本当に人間か?お前」

「俺の知る限りでは人間だと思いますよ」

あいつ等の説明をそのまま解釈すれば、外傷は無くただ寝ただけになるが、あながち間違いではなく、真実を話したところで信じてもらえるどころか、話がややこしくなるだけと考え、人間離れした存在という事で片付け。数年前までは同じことをやっていた、マンション前で騒動する、隣の人物も含め、彼女以外の人が通った高校の制服を着た男女が入り混じった集団を上から懐古の眼差しで傍観つつ、口を開く。

「海野ならアレですけど、神野島からも話を聞いたとなれば、さっきの女性との事も知っていますよね?」

「ん?お前とさっきの子が付き合い始めたって言うアレか?」

「えぇ、まあそれですね」

 開かずの扉を閉めてしまい、下に居る彼らの(高校)時代に置き忘れたままになっている淡い青春とやらをもう少し観ていたかったが。ココの住人らしい数人を残し、路地裏へ姿を隠した仲間を見送った後、体を半回転させ。手すりに背中を添わせながら、今一度、伝えたい事を整理するため、薄っすらと黄色が雑じる天井の蛍光灯へ息を吹きかけた。

「白川さんなら分かっていると思いますけど。神野島なら幾らでも絡めますが、その・・彼女の関係になる人と、どう付き合っていけば良いのか分からなくて」

「そうだな・・海野には聞いたか?」

「俺と言うか、あいつが先に手を打って。付き合う件もアイツが言い出したんですけど、俺より先にアッチが承諾しちゃって。まだ気持ちの整理がついていないんですよね」

 交際宣言から四日経ちはするものの、その9割近くを悪夢の中で過していた事もあるが、このまま行けば、俺が想像していた親交を深める項目をすっ飛ばし、夜を共にする可能性が高くなっている気しか感じられず。恥を忍んで問いかけると、今度は首が動くほどに強く頭を撫でてきた白川さんへ全身を向ける。

「好きに接したら良いんだよ。お前が神野島との絡み方が好きなのであればそうすれば良いし、落ち着いた感じが良いのであればそうすれば良い。お嬢が選んだ人に間違いは無いはずだから、後はお前次第だな」

「俺次第ですか。でも、あいつが勧めてきた人は皆駄目でしたよ?」

「多分だが、あの時代にお前と合う人が居ないから、とりあえず、経験を積ませようとしたんじゃないか?俺から観ても高望みしすぎな人もいたし。まあ、アレだな。神野島が付き合わせた結果、結婚した組みも居るから、あいつを信じな」

 交際し始めたばかりのカップルを別れさせ、それぞれ別の人とくっ付けたとか、昔、嶋賀から聞いたような気もするけど、上級生であろうと横槍を入れていた話から生まれた、都市伝説と思っていたが。その元カップルだった片割れから聞けるとなれば信憑性は高まり。どうも、この階に住んでいたらしい、先程の高校生の内の一人が廊下を通り過ぎるのを待ち、何時までも右手に持たれていた封筒を差し出した。

「俺が直接やれば良いのですが、番号すら教えてくれない人が結構居たので。スミマセンが、コレであの時居た人達に、ココへ持ってきた物と同じ物を頼めますか?」

「それは問題ないが。あいつ等も事情は知っているし、こんなことしなくても大丈夫だぞ?」

「そうだとしても、俺の気持ちが収まらないので。もし、名前だけで嫌う人が居るのでしたら、たまたま、白川さんが買った宝くじが当たったとかで食事会にしてもいいですし」

 研修期間を過ぎても同じミスを繰り返し、苛立ちの余り失望雑じりの説教をした経験があり、それ以降、顔すら合わせてくれない人へ俺からと言っても突き返されるのがオチで。ならば、誰とでも良好な関係を築けていると感じた白川さんへ託す方が無難と考え、一部からは卑怯な態度と取られる事を覚悟の上で、反対側を握ってくれた封筒から手を離し。この場で良いと言われた見送りをしている最中、何かを言い忘れたらしく、こちらを振り返ってきた。

「それとな、一つだけ忠告。もう、お前一人の体じゃないんだから、無茶しすぎて綾美ちゃんを悲しませるなよ」

 ・・無茶か。

 引かれたにせよ刺されたにせよ、無茶ではなく不慮の事故の気がするけど、利き手の二本指に固定具をはめたまま、他の野球部員と同じ練習メニューをこなしていた俺を知っているからこその忠告だと思い。わざわざ近づいてまで別れの愛撫を行なった後に、奥の階段へ姿を消す白川さんを見届け、首裏を擦りながら、既に食事会を通り越し宴会になっている一室へ戻り、誰も手をつけていない寿司桶の前に腰を下ろした。

「あ、病み上がりだからお酒は駄目だけど、リンゴとオレンジ。昌人はどっちが好き?」

「何でもいいよ。好きな方を注いでくれ」

 言っている事は分からなくはないけど、何故、温かい番茶という選択肢がないのか不思議で仕方がないが、彼女の気分で注いでもらったリンゴジュースで口を湿らし、全員に見守られながら、赤面した頬のような握り寿司を口へ入れる。

「ほら!やっぱりムロチャンの初めは、醤油をつけないハマチだったでしょ。保育園の頃からの付き合いだから分かるのよ」

「うー。何で玉子から食べてくれないの、昌人の意地悪」

 俺が何を始めに食べようが勝手でもあり、そもそも、彼女が居る前では玉子から食べないといけない決まりも、約束もしておらず。缶ビールを片手に俺の黒歴史を神野島から聞き出そうとする海野を、病み上がりの疲労からくる幻覚と捉え。自分の桶から玉子を取り出し、何時までも不貞腐れたままになっている彼女の口へ吸い込ませた。

「あら、ムロチャンがそんなことするなんて兄さんからの入れ知恵かしらね。私にもやってよ」

「は?その辺のガリでも海野から貰っとけ」

「何よそれ、誰のお陰で、4人前頼んでも五桁いかなかったと思っているのよ」

 晩飯の材料があるにも関わらず、独断で注文したのは何所の誰だったのか忘れているらしいが、このまま適当にあしらったせいで、一番話して欲しくない小学生時代を暴露されては困り、桶の中で最も色が濃い寿司を適当に神野島のあけられた口へ放り込んだ。

「うん。やっぱ人から食べさせてもらうと、ちょっと変わった感じになるけど、ムロチャンも考えたわね。私が強請るのを先読みして、嫌いなアナゴを食べさせるなんてね」

「お前がアナゴを食べたそうな目をしていただけだ・・」

 昔に食べた、たった一口で空腹が満たされるどころか気分が悪くなるという、とてつもない甘さのアナゴのチラシ寿司の味が呼び起こされるだけで、嫌いとは別と、前にも説明したが。ガラスのテーブルへ内容物が飛び出す程に缶を叩きつけた彼女には、この、神野島との絡みが分かるはずがなく。場が静まり返るよりも先に強い口調で喋り始めた彼女の言葉を耳へ入れる。

「駄目でしょ昌人‼お魚ちゃんだって生きたかったはずだけど、私達の為に犠牲になったのだから、ちゃんと食べてあげなさい!」

 説教だけでも食が細くなるものだけど、内容を頭の中でこだまさせると余計に食べる気力が失せてきたが、反論する材料などなく、彼女の気迫に気落ちし声までも細くなった謝罪を発し。後に回すとまた怒られそうな寿司を掴もうとした時、神野島にやったはずの寿司ネタを彼女から差し出された。

「神野ちゃんも言っていた通り、食べさせて貰ったら嫌いな物も食べられるから、アーンして」

 自分が初めに行なった行為が戻ってきただけではあるが、いざ我が身に振りかかると、とてつもない羞恥心がこみ上げてくるも、ココで逃げたところで、この場所にも、この関係にも戻れる保障など何所にもなく、半ば自暴自棄に陥った頭を前へ押し出し。身から出た錆とでも言いたそうなお隣のお二方が静観する中、今にも滴り落ちそうなタレがテーブルと友達になる前に口へ入れてもらった。

「んじゃ、ムロチャンも食べさせてもらった所で、神野島が貰ったアレでも開けますかね」

 ココまで来れば、イジリ倒してもらいたかったが、アチラさんの飽きが早く来すぎたせいで生殺しの浮かばれない気持ちのまま、神野島が来訪した時に渡され、この部屋まで持ってきた無地の紙箱を海野が開封し。そのまま飾り物としても良さそうな、両方の側面に螺旋状の模様が施された陶器製のボトルをテーブルへ置くと同時に、彼女から歓声が沸き起こった。

「わー。前に私が言ったのと同じものだ!探すの大変だったでしょ?」

「昨日、丁度来たお客さんに相談してみたら、今日お店に持って着てくれただけだし、私は何もしていないわよ」

「でも凄いよ、私も自分とか海ちゃんのパソコンとかで探してみたけど、取り寄せしか見つからなかったのに、神野ちゃんって凄い人脈があるんだね」

 この会話の中で分類だけでも分かる言葉が込められていたら、こちらも反応できただろうけど、そのようなものは聞き取れず、幾ら味に慣れても、寿司との相性だけは劣悪な事に変わりはない、粒入りのリンゴジュースを飲みながら、羊皮紙のラベルに書かれたミミズ字の英文を眺めていると。女性陣の会話に痺れを切らした海野が、本蓋だと思っていた、お猪口サイズの上蓋を外した先に見える、恥ずかしそうに傘を広げて頭を隠すコルクを勢い良く開栓した音に彼女が反応し。俺が寝ている間に家宅捜索でもしたらしい、何所へ仕舞ったかすら忘れていた電気ポットを持ち込み、続けて一つ足りない気がするマグカップを運んできた。

「お湯かー。綾美の事だから、私はてっきり牛乳とか持ってくると思ったけど、王道なのね」

「うん、牛乳とかでも美味しいけど、やっぱりお湯割りが一番美味しいと思うから。でも、口に合わなかったら言ってね、ホットミルクを作るから」

 何だか余計な口を挟み、無理やり存在を主張する位なら、空気という今の立場を維持した方が俺としても周りとしても好い気がし、隣の二人が彼女の淹れる液体を注視している中、刻一刻と味が落ちつつある、彼女の奢りとなってしまった寿司を平らげ。自分しか飲む人が居ないジュースを透明なガラスコップへ注ぎ足す。

「よし!じゃあ昌人も注いだ事だし、改めて乾杯しよっか!」

 教えても何も変わらないのは確かだけど、その、何も変わらないことでも話してくれていた彼女が、遂に訳を省略して乾杯の音頭を取り始め、侘しい心もちを抱いたまま全員のカップとグラスを触れさせ。『甘い』だの『初めは酸っぱい』だのと感想を述べる最なか、グラスの中で踊る果肉が増えただけのリンゴジュースを一気に飲み干し。散らばった空の桶を床へ下ろして、水垢がついたテーブルを布巾で拭き上げる。

「あ、大丈夫だよ昌人。私がやるから」

「いいのいいの。ムロチャンって変なところで凝り性だから。それに、途中で取り上げると機嫌が悪くなるから放っておいてあげて」

 俺も酔っているつもりで、ほろ酔い三人衆と絡む必要があるのか真剣に考え抜いた結果。今、頭に思い浮かぶ事を口にしても、最後には自分へ厄が降り注ぐだけと諦め。神野島の言葉に甘え、無言のまま吹き掃除を済ませ。いい加減邪魔になってきた中央の花瓶をタンスの上へ移動させた。

「それはそうと綾美。今日は勉強ってやらないの?」

「うーん。昌人も起きちゃったし、海ちゃんどうする?」

 俺が起きた事が喜ばしいと思っていたのは自分だけというのは、捻くれ者の考えなのかもしれないが、近く訪れる可能性が非常に高い、神野島からのお使い命令に備え。入れ物がなく、そのままタンスの上へ置いていたカードと小銭が入っている袋を手に取り、所々塗装がはげた磁気カードがある事を確認する。

「ん?魔法で治したのなら別に気にすることはないだろ、と言うより、起きたからには後戻りできないしな」

「あー、そっか。なら神野ちゃんにはおさらいになっちゃうけど、初めの、魔法を使えるようになるまでと、その使い方からだね。昌人も準備はいい?」

 正直な所、今は何時神野島から何を注文されるのか気が気でなく、何処かのゲームの真似事なんて聞いている余裕は無いのだが、周りからの目力による圧力に負け、今をおいて注ぐ余裕はなさそうな飲み物をグラスへ移し。余計、調子が悪くなりそうな、蜂蜜がどうたら言っていた酒で喉を潤す彼女が言葉を発するのを待つ。

「えっとね。時々テレビで呪術とか黒魔術とかの言葉を使って嘘っぽく取り上げているけど、それも、この世に存在しないと思い込んでいるから嘘に聞こえるだけで、ちゃんと皆の身近な場所に存在するものなの。例えるなら、占い師とか正夢かな」

 正夢はともかく、周りは当たると評価しても俺には何一つ当たらなかった占い師なら親族に居るけど、想像する人物が魔法使いとでも言いたそうな彼女から目を逸らし、この中でアノ人に会った事がある人へ視線を向けるも、聞いてすらいなかったようで、ツマミになりそうな菓子を彼女の鞄から探し出す神野島を諦め、猫背になっていた背中全体をタンスへ押し付けた。

「占い師の殆どが気付かないままやっているけど、アレも、自分の正夢を観る力を他人へ使えるようにした立派な魔術って呼べる行為で、格好よく言えば予知師って言葉になるね。そして、誰でも一度は経験したことがある正夢が観れるって事は、得て不得手はあっても全員が使えるものが魔法で、ちゃんとした知識を憶えて、資質を引き出す事をすれば、何かしらの魔法を使えるようになるの」

 隣を見る限り、まともに聞こうとする方が間違いなのか、針へ糸を通す為に顕微鏡を使うような話し方をしてくる彼女に長期戦になる事を確信し。早くも酔いが回りすぎて、割る事を忘れた酒を口にする姿に、少しでも集中を延命できるよう、こちらもリンゴに飽きた口へ神野島が出したチョコスティックを挿す。

「ふー。さてと。でもね、自分も魔法を使ってみたいと思っても、ちゃんとした規則があって。元から使える人は例外だけど、初めは、学校みたいな所に入って魔法に対する姿勢とか、安全に扱う方法を教えてもらった後に資質を引き出して、さらに、自分が使える魔法を訓練した後に魔法使いと呼ばれるようになるんだけど、この間がすっごく長くて。資質前のテストに一発で合格して、その後の得意な魔法を使ったテストも一発だったとしても、4年。遅い人でその倍は掛かっちゃうから、小学生とか遅くても中学卒業するまでには入学しておかないといけないって、暗黙のルールみたいなのがあるの。それでも入りたいって人も中には居るけど、年齢が増えるにつれて、資質はどんどん心の奥に逃げちゃうから、初めのテストは合格してもその後の魔法の訓練でつまずく人が殆どで、逃げ出しちゃう人とかもいるの。そし・・」

 ・・長い・・長いぞ。

 魔法使いとは人の形をした機械なのではと疑うまでに、喋り続ける彼女の口を閉じるために残っていた三本の棒菓子を纏めて咥えさせ。既に内容の殆どを忘れてしまった話の内容を適当に繋ぎ合わせて、質問が無いかを尋ねてくる前に主要な個所だけを話すように促す。

「それで?俺はその、謎の学校送りにでもされ・・」

「もう使えるから、心配しなくていいぞムロチャン。綾美は、使える訳だけ話してやりな」

 彼女へ問うたつもりが退屈のしすぎで携帯をいじる、話を聞いていないと思っていた海野から簡潔に答えが返り、安堵したのも束の間。余計な指令で再び噛み砕く以外の行動に奔る彼女を止める術を思いつかず、再び疲弊した耳を酷使する。

「あー、そうだね。えっとね。魔法を使う方法って大きく分けて三つあって。一つ目は元から使える人。ここに居る人なら神野ちゃん。二つ目はさっき説明した学校で習う。私と海ちゃんだね。三つ目は、誰かから直接魔法を受ける。昌人の場合は三つ目に該当するんだけど、他の二つと違って一時の衝撃だけだから、資質が奥に眠っていた場合は上手く廻ってくれないかもしれないの。分かりやすく言えば、空気が残った手動の灯油ポンプかな。海ちゃん、次はどうしよっか?」

「ん?終わったならそれでじゅ・・」

「ムロチャンへの説明が終わったのなら、忘れる前に仕事中に考えてきた事を実践させてよ」

 五分もあれば無言の時間ができる話を長らく聞かされ、心身共に疲れきった己をシャワーで再生させたかったが、そうは問屋がおろさず。眼差しの次は実力行使してきそうな彼女に負け、居るだけで体に堪える居間から逃げ出そうとする体を今一度座布団へ落ち着かせ、首裏の筋を揉み解す。

「良いけど、後片付けが大変だから水は出しちゃ駄目だよ」

「同じ惨事は繰り返さないから、綾美の印石を貸してくれる?」

 やはり、俺の体も、使用物も、全てはここに居る小娘に帰属する物らしく。飲みかけだった、鳥の子色の液体が入ったグラスを奪い。彼女から渡されたメダルで蓋をした。

「分かっていると思うけど一応、おさらいね。魔法を使うときに一番大事なのは、自分が出したいものをできるだけ精確に思い描いて、それを出したい場所へ移動させるだけだからね」

 俺に話しているとは思えないが。右手を蓋代わりのスス汚れた印石へ、茶碗を持つ左手で、グラスを隠して深呼吸を行なう神野島と、その姿を間近で見守る海野に話しているとも思えず。視線だけは神野島へ向けられている彼女を気にしつつ、彼女の長い髪が頬を撫でる程度の風が向う、薄っすらと白い靄が掛かっている様にも見える、俺の飲み物を没収した犯人の手元を見つめた。

 初めは俺がベランダの引き戸を閉めくさしたせいで流れてくるものと考えていた微風も、分を刻むまでもない短期間の内に、風が来るはずがない自分の肌でも感じられるようになり。それと一緒に、神野島の手で漂う靄が霧へと変わった途端。大きな出費があった今は聞きたくなかった、ガラスが割れる音に一瞬引きつった顔を両手で強く擦る。

「・・コレでよし。抑え目に使ったつもりだけど、コンな感じでどうかな?」

「おー。凄い凄い。凄いよ神野ちゃん。二回目なのに私でも難しい再冷をやるなんて、凄いよ!」

 凄いと拍手の叩き売りをしすぎな気もするけど、お陰で顔を上げるチャンスを貰えた彼女への感謝を心の中で唱えて。当たり前と言いつつも嬉しさが面を歪める神野島の手持元にあった、哀れな姿へなってしまった霜つきのヒビ割れグラスを左手に持ち。暇を持て余す右手で、髭の無い顎先を擦りながら口を開く海野へ反論する女性陣の会話を清聴する。

「ふむ、悪くはないけど。コップを割らなければ完璧だったな」

「えー。でも海ちゃん、昨日の水浸しを制御できたと考えたら満点じゃないの?」

「いや、神野島の才能なら、器から自然とこぼれ出すくらいの事は出来るはずだからな」

「いいわよ!次に使う時は、もっと凄いのを使ってあげるから楽しみにしておきなさいよ」

 奴の闘争心を引きずり出したら何が起こるか分からない事もなかろうに、俺か海野のどちらかへ降りかかることが確定した最厄の想像を膨らませながら神野島が作ったらしい、氷の塊となったジュース入りのグラスが置かれるのを見届け。俺の胸元にもぶら下がっている、印石と呼ぶらしい何かを首に掛けたまま右手へ載せた。

「そうだ!ムロチャンも使えるようになって、自分の印石も持っているのだし、やってみてよ」

「嫌って言うより、そもそも使い方を知らないし、寝ぼけた頭で、できるわけないだろ」

 オカルトとは無縁だったはずの神野島が信じ込み、俺が居る前でありもしない物を作ったとなれば、眠っていた数日の間に奇術でも会得していない限り、彼女が放った『魔法』の言葉も、後の『使える』までも信じなくてはならないけど。多分、使い方だと思われる想像だけで発生させられるほど生易しいもので無いと考え。願わくば、詳しい使用法を求める意味を込めた、適当な口実を挟んだ拒否を口に出すも。無理やりにでもメダルを握らせようと執拗に攻め立ててくる神野島から逃げるように使い終わった食器を台所へ持ち運び、蛇口の水栓を開けた。

 酔っているお陰で、判断力が鈍っている彼女が代わると言い出す前に食器を洗い終い、外面だけは綺麗にしているが、ぬめりが出始めた排水溝を皮切りに。去年、中途半端に行なったままになっていた、油とヤニがこびり付いた換気扇を拭き掃除する事で向こうの話題が変わっている事を祈りつつ、上から滴が垂れて余計に汚れが目立つコンロを綺麗にした後。仕事上がりのコーヒーを片手に持ち、退屈はしなくて済みそうな、語尾を伸ばして帰還を歓迎する彼女だけがテーブルへもたれ掛る部屋の、何時もの場所へ腰を落ち着かせた。

「ちょっと飲みすぎじゃないか?」

「ふー。べーつに、このくらいじゃー、大丈夫だよーだ」

 明らかに飲みすぎではあるが、テーブルへ頬ずりしても尚、可愛いヌイグルミのように白色のマグカップを握り締める彼女から取り上げる事もできず。これ以上の悪化を阻止するべく、開けたくはなかったオレンジ色の液体が入った瓶のキャップを捻じ切り、まだ二口は飲めそうな酒が入ったカップへ注ぎいれ。山積みされた煙草の一つを彼女へチラつかせた。

「なんか、海ちゃんも神野ちゃんも、どっか私と距離を置いているというか、真面目に聞いてくれないというか。昌人くらいだよ。こうやって私の話しも、気をつかってくれるのも」

 別に駄目なら駄目と言ってくれたら判断のしようもあるけど、まさかの見てみぬフリをされた箱を元の位置へ戻しつつ適当に相槌を打ち、熱いコーヒーを喉へ通していると。突如、外装を爪で削る作業を放棄したカップの中身を一気飲みし。こちらの髪が揺れるのが分かるほどに強く、溜まっていた息を吐き出す彼女に耳を傾ける。

「大事な事だからちゃんと聞いてね。その、なんていうか。さっき魔法の話をしたと思うけど、その中の、資質を引き出す方法で昌人は出せないかもって言ったけど、本当は違って。昌人の場合は。えっと、強い治癒魔法を受けたから勝手に空気抜きが行なわれて。でも。昌人の印石との干渉が起きたせいで。その。勢いが強すぎて。その・・」

 こうなる事も予想するべきだったが起きてしまった事は仕方がなく。ゆっくり言葉を選んでくれたというより、言葉に詰まっている彼女を見ていられず。飲みかけのコーヒーを置き、中々次の言葉を探し出せない俯いた彼女の隣へ座りなおし。今回は乱すのではなく頂から首裏へかけて優しく髪を撫でてやるも。やり方がお気に召さなかったようで、俺から距離を取りベッドに座る彼女からの苦言を再び聞く。

「今は優しくしないで、ちゃんと聞いて欲しいって。さっきも・・だからね。その。干渉で。ホントウは。いけない事・・」

 両膝に置かれている両手で服を強く握り締め、彼女なりに必死で涙を堪えようとしているけど、俺からしてみれば、その行動を見てまで話を聞きたくはなく。明日、離れ離れになったとしても仕方の無い事だと踏ん切りを付け。弱弱しい手で突き放そうとする彼女の頭を胸元へ軽く付けたまま抱きしめ。今回は乱すのではなく、頭の頂から首裏へかけて優しく髪を撫でつつ、耳元で語りかける。

「大丈夫だよ。魔法であろうと干渉あろうと、綾美が治してくれなかったら、ココで綾美と話す事も出来なかったし、俺はこれだけで十分だよ」

「でも。その。マホウのせいで。シンジャウかもしれなかった・・」

「それも、こうやって綾美の頭を撫でているのが、生きている証拠だろ?それに、深く考えて自分を苦しめるくらいなら。泣ける時に思いっきり泣いて、涙と一緒に辛い事も流してくれると嬉しいかな」

 後で聞くと、それこそ、恥で憤死しそうな台詞だけど、こうでもしないと、逆に彼女が責任に押し潰されると思っての発言を聞き入れてくれ。幾度となく謝罪を口にしながら、情けない自分への怒りを、俺の背中に回した両手の爪を突きたてる事で解消する彼女に身体を委ねて、こちらも頭と背中を擦り。涙が枯れ、呼吸が落ち着いた彼女から離れるまで優しく語り掛け続けた。

──背中の痛みも時間を追うにつれ薄れていき、痛みどころか刺さっている事が当たり前のように感じられる頃。ようやく呼吸が落ち着いたかと思えば、今度は、泣きつかれたらしく、これまでの小刻みではなくなだらかな肩の上下運動と共に、呼吸のオマケとして息を吹きかける彼女が気付くのを待ってみるも、時々何かを呟く他に言葉と呼べるものは発せられず。また、俺が妨げにならないよう慎重に眠る彼女をベッドへ横たわらせ、俺が起きたままになっていた、だらしのない掛け布団で首から下を覆い隠した。

 爪で遮られていた十箇所全てが痛みで異常を知らせてくるも、だからといってすぐに治せるものでもなく、両肩の付け根を回しつつ、飲みかけのコーヒー以外の容器を、歩くたびに濡れた胸元が冷える服のまま、シンクへ持ち運ぶ。

・・印石、魔法。干渉に死か。

どれをお題にしても一時間は余裕で説明できそうな話を頭のタンスから引き出しつつ、本日最後の洗い物をするも、腕を動かす度に揺れて邪魔にしかならない印石を泡のついた手のまま服の中へ隠し。空気の休息場を作ったお陰で、乾くまで肌へ付けたくない胸元を気にしながら最後の飛び散った泡を流していると聞こえた、背後のドアが開く音を鳴らした人物の声を待つ。

「お疲れさん。随分と長い間泣き付かれたようだな」

「一時間ちょいなら許容範囲だけど、神野島はどうした?」

「ん?酔い潰れて、大騒動していたから俺の部屋で寝かせといたが、用事でもあったのか?」

「いや、それなら別に良いんだけどね。海野もお疲れさん」

 時々、誰かへ甘える声が聞こえる他に騒動なんてしていなかったと記憶しているが、掃除に夢中すぎて聞こえなかっただけと思う事にし、海野から投げられたタオルで両手を包み込んだ。

「先に言っておくけど、風呂なら何にもしていないぞ」

「ちょっと酔い覚ましに歩こうかと思っていたから準備しなくていいぞ」

 俺を家政夫と間違えている発言にも聞こえるが、ようやく外野が寝静まり。さらには、酔い潰れて邪魔もされない外へ出て行く絶好の機会を逃すまいと、簡単にお供する事を伝え。了承を得る前に、カード袋から一枚だけのカードと、少量の小銭をポケットへ押し込み。睡眠の妨げになるであろう明かりを消してから、先にエレベーターの扉を開けて待っていた海野の下へ駆け寄った。

 あの時のように雪は降っていないが、夜中の立春に春用の羽織物一枚すら着込まずは、流石に寒すぎるも、自ら付き添いを申し出た手前、後帰りする訳にいかず。極力素肌が風邪に当たらないよう腕組みをしたまま海野の横を歩き、主要道路に面するコンビニへ立ち寄る。

「お前もコーヒーで良いか?」

「俺は何でもいいが。ムロチャン金あるのか?」

「なかったら寄りもしないし、奢ろうともしないって」

 無一文で立ち読みを目的として来店する人も居るだろうけど、俺にそのような度胸はなく。家に放置された物の代わりとなる飲み物と一緒にカウンターの奥に陳列された箱を、カードへ記録されたオマケの数字で購入し、再び寒夜の店外に設置された腰丈の灰皿の隣へ向う。

・・あ、火が無い。

 銘柄が目に止まったと同時に口が番号を読み上げてしまったが、着火させる物がなければ咥えている意味もなく、もう一度店へ戻ろうと体を九十度曲げた先に見えた、俺の髪を焼こうと目論んでいたのかと勘繰りたくなる近さで、見覚えのあるオイルライターの明かりを灯す海野から火を分けてもらい。隣用の飲み物と一緒に残りの煙草を渡し、天高く白い煙を吐き出した。

「──それで。珍しくムロチャンが俺に付いてくるって事は、何か話したいことがあると踏んだが。綾美か?それとも魔法か?」

 6年も一緒の家で過せば、相方が何を企んでいるかお見通しって所だが、残念ながら、その二つより知りたい話は見抜けなかったようで、発生を円滑に行なうためのコーヒーで喉を焼く。

「それもだけど、今知りたいのは、それより前の刺された時だな」

「ん?あの犯人なら、まだ。というより、ムロチャンが証言しないと顔も分からないぞ?」

「警察に言っても、魔法で治しましたじゃあ誰も信じてくれないし、犯人はどうでも良いんだけど。刺した時に、『海野』って言ってたのよ」

 他にも何か言っていたような気もするけど、今思い出せないとなれば、どうでも良い事だと考え。俺達より若いバイトがゴミ捨てを終えるのを見届け、一息ついてから言葉を発する海野へ首を傾ける。

「その話しをする前に、ちょっと説明しないといけない事があるが聞けるか?」

 恨まれる事をし、偶々出くわした俺を海野と間違えただけかと思っていたが、簡単に済む話ではないらしく、彼女ほど長くならない事を祈りつつ。このまま禁煙しろと告げられているとしか思えない煙草を灰皿の底へ落として承諾代わりとし、渇いた喉へ黒水を流した。

「ムロチャンが下げている印石についてなんだけど。詳しい話はまた今度、綾美に話してもらうが。その印石自体が魔法を発生させる力を持っていて、わざわざ、初期動作を行なわなくて済むように作られた、増幅器みたいな物。ココまでは理解できたか?」

 永遠に続くのではと思えた彼女とは違い、途中で話を区切り、こちらがついていけているか確認してくれる、ありがたい海野の為に、持っていた飲みかけの缶を地面へ置き。顔だけでなく体ごと海野へ向けた。

「まあ、本当の増幅器は別の物だけど。神野島が実演したとおり、印石さえあれば、対応した物が簡単に出せるって物で。ムロチャンのだと多分、岩とか砂とかかな。だけど、良い事もあれば悪い事もあって。身につけているだけで勝手に気配の範囲が広がるのよ」

「気配ねー。時々背中に感じるアレか?」

「中には、それで感知する人も居るけど、ムロチャンの思っている気配とはちょっと違って、魔術師だけに感じられる、変わった気配なんだがね。綾美が話したと思うが、途中で挫折した人の中には、受かった術師を妬んで狙ってくる奴が居るのよ。当然、術をかじった事もあって、あいつ等も俺や綾美の気配を感じ取れる訳だが。何かしらの手段を使って、居場所を掴み張り込みでもしていた所に印石を身につけたムロチャンが通りかかり、俺と間違えて刺した。こんなところかな。犠牲になったり、長々と話されたりして、本当にスマンな」

 確かに長くはあったけど、同じ内容を酔い潰れたアノ人に語らせたら日が顔を覗かせそうな話を、できるだけ短くしてくれた海野へ感謝の気持ちを表しつつ、新しい話題を考えるための道具をライターごと受け取った。

「あー、それと。そのライターは刺された場所から拾ってきた物だから、返さなくていいぞ」

 なら、煙草の山にでも乗せてくれたら寝起きに探す事もなかったが、決して安くは無い物が手元に戻ってきた事だけでも有難く思い。再び咥えた新しい煙草へ火をつけると共に、飲みやすい温度へ下がってくれたコーヒーを拾い直した。

「フー・・ところで海野と綾美・・って居ないし」

 二回目の、煙草の先端に溜まった灰を少量の水が入れられた受け皿へ落とした際に、ようやく思いついた彼女との関係を聞こうとした時。突如、感じ取れた、酸っぱいとも違うカビの生えた部屋のような臭いのする左隣を見るも、既にその場には居らず。急ぎ煙草と飲み終わった空き缶を捨て、来た道とは別の方向へ歩く海野へ駆け寄る。

「おいおい、俺を置いて何所に・・あ!」

 まるで彼氏を追いかける彼女のような言動を取ってしまったが、後悔よりも先に訪れた直感を信じ、正面に立つ深々と薄汚れた茶色いフードを被った人物へ近づこうとするも海野の右腕一つに制止された。

「ほぉ。アレで生きているとは流石だな海野勝一。今度は灰にしてやるから安心しな」

「は?それが刺した人間の・・」

 人間違いだけならまだしも、頭のネジどころか基盤まで狂っているとしか思えない、刺した犯人の挑発に乗っかり、腹部へ伸ばされた邪魔臭い遮断棒を退かしてでも接近を試みる俺の右手を連れて後方へ走る海野にまたしても阻止され、怒りを海野へぶつける。

「お前の喧嘩じゃないんだから引っ込んで・・」

「死にたくなかったら走れ‼」

 何故、コイツが怒鳴りつけてくるのか理解に苦しむが、海野から言われた死の言葉にゴマ粒程の理性を取り戻し。海野に手を引かれるがまま、街灯の少ない住宅街へ走り去った。


「『四日ぶりに意識を取り戻し魔法について綾美から教わった後、刺した犯人と遭遇する』・・どうせ日を跨ぐし、翌日でも・・」

「うん、良いと思うけど、そんなに難しく考えなくても良いんだよ。自分が思った通りに書くのが日記だから」

 居ないと思っての大きな独り言の予定だったけど今回は隣で監視していた、数年は経っていると錯覚するほどに、多種多様な出来事が起こった事を忘れているとも捉えられる、彼女からの助言を聞き流し、暫く同じ体勢のまま動いていなかったお陰で固まった両腕の筋を伸ばした。

「そういえば昌人。今日の晩ご飯って出前にするの?」

「え?海野たちが買って来るはずだけど、心配なら聞いてみたらどうだ?」

 電話にしても買い物にしても便利な場所に慣れたせいか、ちょっとコンビニどころか自販機まで向って戻るだけで一時間掛かる、過疎化が進む一方の地帯に二言返事で届けてくれる店なんてあるはずがなく。歩きの関係で極力荷物を抑えたいがために後続へマル投げした、食が気になる彼女を携帯の画面へ集中させ、ウッドデッキから一望できる数キロ先の木々のフェンスまで続く夕焼けの田園を眺める。

「やっぱ、遅くてもやるかねー」

 手遅れまではいかないけど、やるとすれば相当な手間と手際が要求されるが、ココへ戻ってきた以上、誰かしらの目に留まっているはずで、数日の内には知らない人が居ないほどに伝わる田舎の連絡網を邪険に扱う事はできず。眼下に広がる、田園とは違う草が群れを作る、我が土地を見つめた。

「・・八幡(はちまん)と角田(かどた)は水の関係があるし、やるなら沼田だけど。食いきれないよな」

 周りに断りを入れ、全員から承諾を得たとしても、水引の祭り事に参加していないウチが使うのは気が引け、眼前の八幡や玄関前の角田は使用できず。必然と、何もしなくても流れ。他に一軒しか使用していないお陰で水が有り余っている、ダイニングやキッチンから眺められる家の裏手の沼田となるが。ココもココで、四人とはいえ米離れが加速する昨今。最悪25表近く出来てしまう二反半の田を栄えさせて食べ切れるのか分からず。報われない労力と世間体という、田舎ならではの悩みを天秤に掛けたまま、アヒルの子のように付いて来る彼女を連れて内玄関の土間に置かれた靴を履き、納屋と屋根続きの閑散とした駐車場から裏へ回る。

「あ!ねね。この鳥ちゃんって何?」

「何って、クジャクのメス・・痛って」

 なる事を予測しての発言ではあったが、紅葉の形に腫れ上がっていそうなくらい強く背中を叩いた音に驚き、山の中へ飛び去ったキジすらも俺の責任らしく。母親のように叱る彼女を後ろ手に山からの水量を調べた後、あぜ伝いに田の損傷具合を確認しつつ、モグラが掘った個所が目立つあぜに足を取られる彼女へ質問を投げかけた。

「なー綾美。家で作った米って食べたいか?」

「食べたいけど、作り方は知ってるの?」

「まあ一通りはね。でも、最悪、綾美の手も・・」

「大丈夫だよ!皆で一緒に作ったお米だったら絶対美味しくなるし、作ろうよ!」

 ある程度覚悟はしていたけど、ここまで潔く即答されると逆に悩みも晴れた気がする彼女に自分の中で感謝し、誰の祈りも通じない天の気まぐれに頭を抱える日々が決定した田へ必要な、買った方が安くつきそうな費用と工程を記憶の奥底から引き上げ。先が思いやられる、狭い、あぜ脇の斜面を転げ落ちた草まみれの彼女を救出してから、家の中へ戻った。

「うー。何でわざと大きい石を埋めてるの。昌人の意地悪」

「その石のお陰で草刈が楽に行なえるんだから、文句言わずシャワーでも浴びたらどうだ?」

 圃場(ほじょう)整備(せいび)時の労働者の労力の節約(サボり)だと思われる邪魔な岩も、草刈機の紐だし時だけは重宝する為、わざわざ掘り返してまで撤去する必要もなく。体中から削ぎ落ちる草々(くさぐさ)で掃除したてのダイニングを汚さないよう、彼女の持ち物が入ったカバンを脱衣所へ持っていった。

「じゃあ、一緒にはい・・」

「入らない!」

「うー。少しくらい考えても良いのに・・じゃあ、日記だけは付けておいてね」

 自分に出来ないからって俺にやらせるのも違う気がするけど、混浴と筆記の選択なら迷う必要もなく、一席だけずれている椅子へ座り、風の嫌がらせで数ページ巻き戻っていた日付を元に戻し、生涯忘れる事は無いであろう、疑念が確信へと変わった深夜の出来事から書き連ねていった。


 手枷を外され、撹乱作戦のつもりらしい海野と住宅街で別れて以降、本来の目的を忘れて昔は自主トレに使っていた山道を走るも、中腹のKの字にすらたどり着けず。動悸が激しい胸元を擦りながらこの場で寝そべりたい体を少しずつ動かし。右斜め上に存在した、用土、肥料の物流倉庫だった場所を示す、寂れた看板までたどり着く。

「・・くっそ。やっぱ煙草じゃなくて打撃にしておくべきだったかな」

 鬱憤晴らしなら、近くのバッティングセンターにしておけば良かったと今更後悔しても遅く、動悸を通り越し、吐き気を催してきた休めるため。アスファルトの黒より落ち葉の茶色が目立つ地面へ膝を付き、軽いものなら吸い寄せられるのではと思うほどに、強い深呼吸を繰り返していると、コンビニでの異臭が微量の鼻呼吸から感じ取れ。たった数分の休息で硬直した足を叩き解しつつ、歩くにつれワサビのような鼻を痛めつける臭いが混じり始めた坂道を移動し続けるが、臭いの正体より先に襲来してきた昔話にでてくる人魂そっくりの浮遊物を意識より先に捕球しようとする右手の中で消散した。

「チッ・・クッソ。今度は何だってんだよ」

 火に炙られたのではなく、高速回転する物の摩擦で解かされたような手の平の痛みを抑えようと左手で手首の血管を締め付けたまま、怒り任せに足を動かすし、ようやくKの字分岐を知らせるこの道唯一の街灯へたどり着くも、災難とは一遍にくるようで。人間が作り上げた明かりに照られた薄汚いフードの人と、この世にコイツしか居ないであろう、下金上白(げっきんじょうはく)の頭を持つ人物のためだけにダンス場を作ったかのように周りのアスファルトが消失している分かれ道へ辿りついた。

「──おい海野!俺を差し置いてナニヲ・・」

 何をしているのかは知らんが、外野へ被害が及ぶ物であれば囲いくらいして欲しいもので。再び飛んできた、先程より何回りも大きい人魂を、海野は上半身だけを捻って避けるも、疲労困憊の俺からすれば焼き溶けた右手を出すだけで精一杯で。腕だけでは吸収しきれない衝撃を、胴体を使って吸収するも、途中で衝撃の中心点がずれた物体まで対応できず。右手から左腿へ逸れ、当たった衝撃と皮膚まで溶かす痛みに体勢を崩し、前のめりに崩れ落ちた。

「ほぉ。ようやく本命の登場・・」

「逃げろ‼ムロチャンの手には・・」

 刺した犯人からの怒号と一緒に俺へ退避勧告をしてきた人物が、木々の生い茂る崖下へ飛ばされるも、俺には海野の名前を叫ぶ事しか出来ず。放置するより刺す痛みの方がマシな左足へ左手の爪を刺したまま。どこか嬉しそうな、目元が隠れ、眼光だけが鋭く突き刺さる犯人が近づいてくる様を見届ける。

「さぁ海野。余興(下馴らし)は終わった事だし、楽しませて貰おうか」

 余興とは何の事か変わらなくても、このままでは惨殺死体として世に出回る事だけは明確になっており。人間の所業とは思えない、犯人の左手の平で回り続ける、縁だけが緑色の細長い等脚台形の形をした立体物に、本日、周りの人から叩き込まれた記憶が呼び起こされ。左腿に感じる手の平へ収まる物を対応物として引っ張り出し、思い描いた物(タテ)を左手へ集中させ。相手の左手を隠すように、自分の目線の正面へ左手を突き出した。


 ・・コレが・・。


 今までのような痛みがあったわけでも、感触がある限り夢でもなく。外気へ触れた、冷たい岩の色と肌触りがする、縁が反り返ったお椀状の盾が左手へ吸着するように出現し。今までは俺の体へ吸収されていた火の塊が、使用者へ反射され、フードでは収まらなかった熱が焼いた顔面の痛みを堪えている間に、右足を軸として立ち上がった。

「ほぉ・・久々に、歯ごたえがありそうで嬉しいぞ、海野!」

「あのさ。勘違いしてるようだが、お前が落とした方が海・・」

「御託なんていらねぇ!さっさと身構えろよ海野‼」

 生かすにせよ殺すにせよ、せめて名前くらいは間違えてないで欲しいものだけど、こちらの話を聞く耳を持ち合わせていないようで。顔を覆う左手の代わりに、右手で炎を出現させるに合わせて同じ要領で岩盾を出して吸収しようとするも、タイミング悪く地面が揺さぶられ。傾斜がつけられた盾へ沿うように火の塊が逃げていき、ブロック塀上の木を道路へ薙ぎ倒した。

「さぁ。道具(対応物)を分け与えてやったし、もっと楽しませてみろよ!」

 今でこそ、足で踏み消せるほどのボヤも、放置しておけば一帯の木々を焼き尽くす大火事になるが、左頬の火傷を忘れ、交互に繰り出される火の玉を受け流す事だけで手一杯で。後十分も経たないうちに焼死体として取り上げられる、飛び火した炎が逃げ道を狭めていく中。一度の衝撃につき半歩ずつ後退していく、片方の踏ん張りが効かない足を助けるように折れた木に足を引っ掛ける。

「守るだけでお終いか海野⁉なら嬲り殺しにしてやるよ」

 眼前に展開する盾のお陰で視界は狭められていても、コレまでの行動とは一線を画す、左手の中で渦巻く紅色の物体に、こちらも狐手にして持っていたオイルライターを強く握り締め。コレまで以上に速く飛来してくる玉の角度と大きさに合わせて、左手を突き出すが。玉の衝撃の後に訪れた、骨の髄まで振るわせる鉄球のような衝撃に体ごと持っていかれ。助勢の次は仇となった倒木で作られた境より奥のアスファルトへ後頭部を強打した。

「もっと歯ごたえがある奴だと思っていたが。コレなら魔法を使う事もな・・」

 左足の打撲、右手の火傷に続いて、左腕の麻痺に焦点が合わない頭と、健康な個所から数えた方が早い自分に抗う術はなく。一週間の内に二度、それも、同じ人で経験する事になるとは思ってもいなかった絶命前の追憶だけへ意識を集中させているが、左肘にビー玉サイズの何かが当たった感覚以外に何も訪れず、痛みや恐怖がやってくるより先に討ち止めてくれたのだと考え始めた途端。焼けた草木の臭いが立ち込める中でも分かる、鼻を劈(つんざ)く感覚と同時に、氷の張ったバケツの水を浴びせられたような冷たさにボケ頭を覚まされ、主語が聞き取れなかった話を口にしつつ、何処かへ引き摺る海野の顔を拝めた。

「ムロチャンの具合も気になるが、先に向こうを片付けないとマズイから、絶対に動くなよ⁉」

 俺からすれば何故ずぶ濡れなのかが気になるが、こちらが反応するより先に赤く明るい場所へ駆け寄る海野を見送りつつ。まだ余力を残していた右肘を支えにして上半身だけを起こし、路肩のブロック塀へ背中を沿わせた。

 ・・アレも魔法、なのかね?

 彼女の話しに神野島の実演。刺殺を目論んだ人物の炎と俺が出した盾。そして今、目の前で行なっている消火器など持ち合わせていなかった人物が、何かを撒き散らしながら元の明るさに戻す光景を目の当たりにしても尚、現実から目を逸らす事はできず。消火活動を終え、斜面に沿って流れてきた、伸ばした右足に塞き止められた落ち葉と共に歩みを止めた海野へ自分では動かせない左腕を委ねる。

「貫通してないから指で引き出すが、絶叫してでも意識だけは失うなよ⁉」

 一体、何の話をしているのか知らんが、相手の口へ物を詰めるという、発言の自由すら与えない、最も有効な手法を取られ。海野が羽織っていた薄いコートの味を確かめながら、海野の左手を染める鉄臭い水と同じ色をした物体を見せ付けてくれるまで。痛みはなくても、内部をかき回す手付が痛々しく見える左肘から目を逸らし。処置を手助けするかのように、急ぎ足で逃げた雲の先に見える半分だけカクレンボをしている月を眺め続けた。

「・・よし!取れた‼とりあえず、圧迫止血だけして移動するが歩けるか?」

 ほじくった個所を咥えさせられていたコートで縛り上げるまでは良かったのだが、初めから背負うつもりなら問わなければ良いと思うのは間違いなのか、こちらの反応を待つ時間が惜しい海野へ担がれたまま移動を開始し。自らの足で歩く方がお互いに楽だと感じられる、オンブではなく、プロレスの技にありそうな、横向きに背負われたまま、まだ誰も姿を見せない路地を選んで移動を始めた。

「鈍感なムロチャンの事だから大丈夫とは思うが、何でも良いから質問し続けてくれないか?」

 ならば、初めに放った言葉の真意を問い質したいが一に思い浮かんだけど、症状が悪化していないかを確認すための語り掛けが分からない回転速度まで落ちている頭でもなく。次に思いついた問いを、気を緩めたら寝息になってしまいそうな口から吐き出す。

「俺はこの有様だが、海野はアソコから落ちて何ともなかったのか?」

「木とか水に打ちつけた場所は痛いが、幸い防火水槽の中に落ちたからムロチャンほどではないかな。この勢いで次どうぞ」

「えっと。あの分かれ道で、何でお前が先に居たんだ?」

「それは、ちょっと難しい話しになるから後で。他に聞きたい事は?」

「じゃあ。あの、俺を海野と間違えていたアイツは誰だ?」

「それも、話せば長くなるから落ち着いてから」

「・・病院は反対側だぞ」

「医者や警察の下っ端に魔法の件を話して、納得させられるのなら連れて行ってやるぞ」

 その後も、数時間後の朝飯を誰が作るかなど、今回とは関係のない話を交えて、質問攻めにしてみたが、高々と張られた五割の壁を撤去してくれない海野へ話すのにも飽き。確実に誰かしらの目に留まる、コーヒーを買ったコンビニが見える交差点に差し掛かった所で、無理やり海野の背中から離れ。正面の路地奥に見える、中層建築物の四階中央まで他人の肩を借りつつ、自宅の玄関を開いた。

「ちょっと待ってろよ、直ぐに綾美を起こすから」

 出掛ける前を知っている者からすれば、耳元で叫ぼうが揺すろうが目を覚まさないと思っており、無意味な行為に取り掛かる海野が居なくなった台所で縛り上げられたコートごと上半身服を脱ぎ捨て、今の所は出血が抑えられている、過去の怪我より口が小さい赤い溝を水道水に触れさせた後。前は幼い事もあって人に行なってもらった治療をする為に、自分の部屋へ片足で跳ねながら移動し、枕元に置かれた木箱の持ち手を指に掛けた。

 水だけならまだしも枯葉や泥を付着させたまま彼女の左肩を揺する海野のお陰で、手遅れではあるが、これ以上、汚れを拡散させないためにも入ってきたドア横のフローリング部分へ腰を下ろし。反応はするものの、ダンゴムシになりたがる彼女の唸り声を聞きながら、救急箱の底に沈んだ、一度も開封していなかった容器のシールを千切る。

「もういいよ。看病疲れと泥酔だから寝かせてやりな」

 あの橋で使った治癒魔法とやらを見てみたい気もするけど、ほろ酔い状態だった海野が飛ばされた事を考えたら、名前からして小難しそうな魔法を酔い潰れた人にやらせて、無事に終わるとは思えず、柔らかく諦めるよう求めるも、相手からすれば放置できる代物ではないらしく。今までより強く彼女の体を揺さぶり、挙句の果てには、寝ている人を座らせてまで起こそうとする海野を視界に入れながら、キャップを外した容器一杯に詰められた半固形状の物体を、右薬指で掬い上げ、左肘の赤い溝へ擦り込んだ。

「うー。そんなに・・起きてるから、もう少し寝かせて」

「魔法を使った後ならいくらでも寝かせてやるから。だからはら・・」

「うー。魔法なんて何時でも出せるし昌人だってパジャマに着替える途中だから・・オヤスミ」

 神野島もけして目覚めが良いとは言えないが、今見たら感動できる自信がわいてきた。応答と共に乱れた髪を梳かし、辺りを見渡すも、再び床に就いた彼女を見届け。何故か俺に向ってため息を吐き出す海野が見守る中、ガーゼの上に敷いた油紙がずれていないか確認しつつ包帯を巻きつけていく。

「そんなので本当に大丈夫なのか?やっぱり綾美を引きずり回してでも・・」

「心配するなって、右足の痕に比べたら可愛いものだからさ」

 魔法でも縫合でも、その、どちらでもない今回の処置にしても行きつく先は己の再生能力を信じるしかない事を忘れているらしい、ウイルス性の病気に掛かった以来となる、必要以上に気を使ってくれる海野を落ち着かせ。着替えと一緒に、水浸しとなった箱と同じ物が詰まれたピラビッドを崩し、今一度、台所へ赴く。

 衣類は再利用(リユース)品になるらしいが、とても、破れた上下を好んで着たがる人が居るとは思えず、ようやく動く気になってくれた左腕に破れた衣類を引っ掛け。燃えるゴミとして出せる範囲のサイズになるよう切り分けながらヤカンが鳴くのを待ち、飲みくさしの冷え切ったコーヒーを熱湯で薄め、コンロの火を借りて火種を作った煙草の煙を換気扇に吹きかける。

・・何でこうなっちゃうのかねー。

 日頃の行いが悪いにしても、少々やりすぎな、殺しにかかっているとしか思えない天からの試練を思い起こしつつ、煙で渇いた喉を、煮え湯を入れすぎた黒湯で焼いていると、ようやく諦めてくれた、今まで着ていた衣類を手土産にしてやってきた海野用に新しいコーヒーと一本の煙草を用意し。消し忘れた火をそのままに、コンロの端、壁際へ体をずらす。

「助けてくれてありがとな。海野が居なかったら今頃、アソコで灰になっていただろうから」

「感謝される事はしていない、と言うより、俺もムロヤンのお陰で助かったところもあるし、お互い様だな」

 今、考えると、あの時話しかけなければ、海野が飛ばされる事も、俺が傷だらけになる事もなかったが、ココで口論を始めても関係に亀裂を走らせる他に出来上がるものはなく。心の中では自分の責任として捉えたまま話を済ませ。海野と共に、掃除したてのステンレスへヤニを付着させていく。

「・・それで。結局、アイツは誰だったんだ?」

お互いに体へ鞭を打って束の間の休息をしている訳だし、後日に回してもよかったのだけど、今度は何時、二人だけになれる時間がやってくるかもわからない未来へ希望を託すより、災難序に聞いておいて方が、それだけ考える時間が稼げると言葉を放ち。真後ろの食器棚に保管されていたガラス製の灰皿をコンロに置いた。

「コンビニで学校から逃げ出した人が妬みで喧嘩を吹っ掛けてくると説明したが、それ以上に話すとなれば。そうだな・・分かりやすく例えるなら自警団とならず者。小難しくするなら、他校間の派閥争い。とだけ言っておくよ」

「なんだそれ。結局、あの時話した事と変わらないじゃないか」

「っと言われても、お呼びが掛かった後じゃないと詳細は話せない規則があるから、スマンが、コレで納得してもらうしかないのよね」

 今回で、複数個刺さっている小骨の内一つでも流し落とせるかと思いきや、素通りの方がまだ良かった、深く刺し込む結果になってしまい。何も話さず寝てしまえば良かった後悔と格闘しつつ、肺に溜まった煙を吐き出している最中に聞こえた後方のドアノブを動かす音に。保管して次回の物と巻き直せば一本節約できそうな煙草を灰皿の底へ押し付けた。

「まだ夜も明けていないのに、何を騒動しているのよ」

「お前が夢の中で騒動していただけだろ」

「なによそれ。ムロチャンならともかく、私の寝相が悪い訳ないでしょ」

 職を失った事を発端に続く急激な変化の中でも、変わらない周期で訪れる、何時にもまして心が落ち着く気がする口論を楽しみつつ。俺が用意する事を分かっているらしく、必要な甘味料を持って待ち焦がれる神野島へ、メガネをしようものなら、一瞬で視界が遮られるであろう、湯気で水面が薄れるマグカップを手渡した。

 俺からしてみれば、もう少し神野島と絡んでいたかったのだけど、望む時に限って奴の気分が乗らないようで。煙草を吸い終えた海野も参加し、炊事場を背もたれとして、十分な睡眠を取る最中の彼女が横たわる部屋を全員で見つめていると、脳の活性化か、それとも単に、沈黙に耐え切れなくなっただけか分からないが、多少なり暇つぶしになるはずの、神野島が口にする言葉を脳内に留める。

「ムロチャンが包帯を巻くくらいだから怪我の具合は想像がつくけど、流石に後頭部はそのままにしたら不味いんじゃない?」

「そうか?別に痛くも無いしこれ・・」

「触らない!それで傷が入ったらどうするのよ」

 無防備のままアスファルトへ頭を叩きつけて、無傷で無い事は分かっていたが、着替える際にタオルで軽く拭いても少量の染色しかされず、気にもしていなかったけど、自分では映し鏡をしないと確認できない後頭部の状態を案じ、言葉で動作を阻止しようとする神野島の声に。リハビリがてら、上げていた左腕の力を抜き、左側へぶら下がっているだけの付き物に戻した。

「ほんと、自分で確認しないと気がすまないんだから。それで?今度は何で病院直行クラスの怪我を負ったのよ?こけた?引かれた?それとも・・」

「魔法で刺した奴と大喧嘩した」

 どのタイミングで話しても罵倒される事は目に見えており、補足が必要ない簡潔で最も分かりやすいと思われる喧嘩を使って事情を説明するが。計算で言うところの+と-を間違える位の大きな違いがある、カップ内のティースプーンを永遠とまわし続けていた左手を止め、瞬きを忘れた目でこちらを見続ける神野島から目を逸らし、僅かとなったコーヒーを流し込んだ。

「っま、そんな訳で、ちょっと疲れたから俺は寝るが。詳しい話なら海野から聞いてくれ」

「え・・ちょっと待ってよ。そんな大事な事を何で海野から」

「後は頼んだぞ海野。それと、洗い物もよろしく。んじゃ、お休み」

 ようやく訪れた、昼過ぎから続く頭の酷使を終わらせる絶好の機会を逃せば、もう一度夜が深くならなければ寝かせてくれそうになく、二人の会話に相槌を打つこともせず、ただただ、カップを片手に白塗りの壁と睨めっこしていた海野へ丸投げし。こちらは本当に寝相が悪いらしい。髪色も合わさり、皮付きのトウモロコシに見える、掛け布団を蹴り飛ばしている彼女へ布団を掛けなおしてから、何時もの座布団に腰を下ろした。

 出来る事なら柔らかいベッドの上で横になりたいものだが、寝心地の良い場所を求め小刻みに動く彼女と添い寝をする気にも、隣のベッドを使わせてもらう代償として、神野島への説明を要求されそうな海野に頼みたくもなく。手の届く範囲に敷かれていた別の座布団を折り畳んで枕代わりとし、違和感を残したまま寝られるとは思えない、首に引っ掛けられた紐を外す。

 ・・コレが、増幅器ねー。

 自分が思い描いていた物とは反りが逆でも、出せたお陰で、今ココで物思いに耽る事が出来るけど。面白みに欠けるがファッションの一部として出回っていてもおかしくない石が増幅器と教えられても信じ難く、地膚で押し付けていたら隠し針でも出ないかと二本指で摘んでいた体温と同化するだけの印石をテーブルに投げ置き、空いた右手で首裏を擦るが、気持が和らぐどころか、後頭部の傷に触れた小指に枕を使えない事を痛みで知らされ、戻ってきた二人まで憂鬱な感情を抱きそうなタメ息を天井へ向けて思いっきり吐き出し。起きた時には首も異常を訴えてくる、座ったままの状態で瞼を閉じた途端に着てくれた夢行きのバスへ意識を乗り込ませた。


 ・・アツイ・・熱い。


 ──車(想い)が詰まっていたとは思えないけど、結局夢を見る前に途中下車してしまい。灼熱の中、時刻表が無いバス停で辛抱強く待ち続けるも、苦痛に耐え切れなくなった体に意識が負け。寝た時は縦だったはずの体を起こしてもなお頭に纏わりついてくる布を光が差し込む方向とは逆方向へ剥ぎ取った。

「お⁉ムロチャンおはようさん」

「・・あぁ。おはよう」

 あの何十時間と寝続けたお陰で体内時計が狂ってしまったのか、まだ霜が解けきらない時間かと思いきや、気温が一気に上がる時間まで寝ていたようで。昨日の薄着で十分な気がする、快晴の外を眺めつつ、掛けられていた彼女の抜け殻を、右手と同じように扱える左手を使いながら簡単に折り畳む際に落ちてきた大量の飴玉をテーブルへ並べていく。

「ところで。残りのふた・・」

「海ちゃん!コレで・・あ⁉昌人!」

 三度目ともなれば駆け寄った後の行動を容易に想像できたが。地味という殻から抜け出した蝶のような色鮮やかな衣類に身を包んだ、今まで以上に女性成分を引き立てる彼女の触診を適当に聞き流しながら右手を後へ回す。

「駄目でしょ昌人!いくら痒くても折角治療したんだから掻いちゃ駄目!」

 膝のカサブタならまだしも、寝る前に触れて痛い思いをした頭部の傷を弄る気なんて毛頭なく、気恥ずかしさを紛らわすために首裏を擦るだけだったのだが、制止を振り切って行なえば。本人はもちろんの事、周りから何を言われるか想像もしたくない一心で。今の衣服だと浮いて見える、両手首にはめられた数珠と間違えそうな、黒ずみが目立つ鉄色のブレスレットのうち、差し伸べられた左手の平へ、こちらの右手を乗せた。

「うーん、火傷は痕が残っちゃったか。ちょっとこのまま、グー、パーしてくれる?」

 穴が開いた左腕なら分からない事もないけど、火傷しか負っていない右手の握力を確認して何の意味があるのか理解に苦しむも、一応、問題ない事を示す為、相手の親指を締め上げない程度に圧をかけた後、ゆっくりと彼女の左手を解放した。

「右手は大丈夫みたいだから、あとは左手と左足か・・ちょっと脱いでもらえるかな」

 脱がなくても袖まくりすれば見えそうな気もするが、もしかしたら自分が見落としていた傷を発見した可能性も捨てきれず、鍛える必要がなくなって久しい、隆起しているとも、痩せすぎとも捉えられる上半身の肌を外気に触れさせ、自分が巻いたはずの包帯が消失している左肘を彼女に預ける。

「コッチは脱がなくても良かったんだけど、肘は問題ないみたいだね。じゃあ、もう一つも脱いでくれるかな?」

「え?でも、足の指は痛めて・・」

「そっちじゃなくてズボンのほうだよ」

 同性や夫婦ともなれば気兼ねなんてしなくて済むだろうけど、仮に密室であろうとみせる事は無いであろう、下半身を覆う布を脱ぎ捨てる事を要求してくる彼女から目を逸らすが。脱ぐ気が見受けられないと察したのか、簡単な断りを添えつつ下腹部へ両手を伸ばす彼女の頭を急ぎ撫で回し。唸りながら呈する彼女の苦言を聞き流しつつ、一人分の食事が乗ったお盆を持ち部屋へ入ってくる。コイツの場合は見飽きた感情しか生まれない、身長も合わさり、一回りも二周りも幼く見える人物の口から放たれる言葉に耳を傾けた。

「寝起き早々にじゃれ合えるのなら、怪我は問題ないようね」

「頭は変な感じがするけど、なんとかな。それより、今から朝飯か?」

「私が起きているのに、そんな訳無いでしょ。ムロチャンがお腹減ったって愚図らないように持ってきただけよ」

 ご丁寧に大昔の悪態を引っ張り出してまでイジらないでもいい気がするが、不幸中の幸いとでもいったところか、昔話を知らない人物は自分の髪型で手一杯らしく。胸を撫で下ろす序に、余計な一言を放った神野島からお盆を受け取り、何時までも続く彼女の小言を背景音として、出費は嵩んでもバランス良く栄養が取れる。教本に記載されている通りの食事へ手を合わせた。

「ムロチャン、食事中に悪いが。今、話せるか?」

 断った時点で後の言葉は不要だと思われるが、飴ならまだしも、咀嚼中の物を口に残したまま内容を聞く訳にはいかず。お茶が面倒なら、せめてコーヒーにして欲しかった牛乳が入れられたガラスコップを嫌い、水分より野菜が目立つ味噌汁で口の中を洗浄する。

「また、蘇らせる事になるから先に断っておくぞ。あの時、どうやってアイツの魔法を防いだ?」

「どうと言われても、ただ盾を出したという・・」

「え⁉昌人、魔法使ったの⁉」

 使わなければと言うより、二人から事情を聴いていなかった事に驚異するも、今の話を中断してまで彼女に合わせる必要はなく、余計な言葉を出す前に白濁液を口の中へ流し、次の質問をするよう、海野へ目で訴えた。

「盾といっても色々とあるが、中世期に出てくる盾みたみたいなものか?」

「うーん、その、逆に反り返った岩の小盾なんだけど。例えるなら昨日の寿司桶みたいな感じだったかな」

「そうか、コッチも報告用に聴いておかないといけなかったら、スマンな。もう質問は無いから食べて問題ないぞ」

 綾美や神野島が聞き流しているとなれば、事情聴取の意味を知らないのは俺だけらしいが、余計な詮索を行なう前に飯だけは平らげておこうと。頼んでもいない右手の平のマッサージをしてくれている彼女に利き手を預けたまま、上手く力を分散できない左手に持たれた箸で残りの食事を頬張るも。昨日も言っていた事だし、何処かのタイミングでやっていると踏んでいた、神野島からの要望を耳に入れながら、筋肉を解すから外すに変りつつある彼女の口へ、ウサギを模したカットが施されたリンゴを放り込み、文句を言われるより先に、自分の口にも片耳が折れたリンゴを刺し込む。

「じゃあさムロチャン。勉強のためにも、その時に出した盾を出してみてよ」

「お前が自分で出して自分で受け止めとけよ。めんどくさい」

「そんな事やったら変な人に思われるじゃない、ダカラさ、お願いー」

「生まれつき変わり者なんだから今更だろ」

「なによ。ムロチャンだって見透かした感じを出しておきながら、焦って失敗しているくせに」

 鬱憤が溜まっているとは思えないが、珍しく、自分の喋りたい気持ちが神野島と同調した今なら、誰かが仲裁に入るまで続く不毛な言い争いを行なえると、片頬を吊り上げる奴の表情を開始の合図と捉えて、慣らし終えた喉を再び振るわせるも、自然と視線がソコへ向くよう目先に垂れ提げた自分の持ち物に口を封じられた。

「おっきすぎる物は駄目だけど、小盾なら出しても良いんじゃないかな?私も昌人の魔法を見てみたいし、神野ちゃんのと一緒に送れば海ちゃんも楽できるしね」

 異性の裸を見る覚悟で、怪我の修復具合を確かめるつもりでいた彼女だけは見方をしてくれるものと思っていたが、自分の考えが甘かったようで。この、話の流れを作り上げた機となる人物よりも先に神野島へ賛同した彼女から寝る前まで身につけていた印石を受け取り、空の食器が置かれたお盆をテーブルの端へ追いやる。

「っで?あの盾を出せばいいのか?」

「その方が助かるけど、綾美が言った通り、大きかったり、出すのが難しいのであれば、別の物でも良いぞ」

「でも海ちゃん、それだと審査が難しくなるって聞いたけど大丈夫なの?」

「神野島だって二度目の生成物を送るし、そこは大丈夫だが。それより、原型を留めていられる物か、そうでない物かって所だな」

 審査やら二度目やら知りたくもない話を議論題材としているようだが、実演する者からすれば、折角呼び起こした記憶を消し飛ばすことにしか使えず。意味は違えど、黙って見届けてほしい思いは通じている神野島のために、あの場所へ忘れたオイルライターの代わりとして印石を左手へ巻付け、思い描いている意識をベッドへ向けられた左手の先に移動させ、瞳を閉じた。


・・タテ・・たて・・盾。


 瞬きのオマケで呼吸も止めた甲斐があってか、数時間前に使用した時は血が煮えたぎっていたお陰で気がつかなかった、祈りと共に湧いてきた全身を震わせる痺れまでも左腕へ吸い込まれていき、指先の感覚がなくなると同時に突き出された指先に触れる何かを確認する為。丁度、新鮮な空気を欲しがる体へ、ほのかに香る甘さを味わいつつ、閉じられたシャッターを広げる。

「出しはしたが、これからどうすれば良いんだ?」

「おー、上手だね昌人。私なら途中で割っちゃいそうなのに凄い・・」

「そこからだと、あとは左手の力を抜くようにすれば終りかな」

 先日の、濃密過ぎる時間を共に過したおかげで、大体の性格と対処法を思い描いていたが。コレまでの絡み方からして、俺と神野島と同じく、お互いが離れる事を望んでいても、人ならざる力で縒りを戻してしまう関係だと勝手に想像している海野に、自分が行おうとしていた事をやられるも、無視された本人より俺自身に悲痛な思いが生じ。落ち着いて思い起こした今回も、色だけが鉄色から赤褐色に変わっただけの物を受け皿にしていた右手で握り締め、形だけでなく食べ方までウサギの真似をしている、残り半分となったリンゴを前歯で削り取りつつ、体内へ取り込む彼女へ手渡し。苦味を欲しがる口内に命じられるがまま台所へ赴き、粉末状のコーヒーが入れられた瓶と共に4人分のカップを手土産に元の位置へ座りなおした。

「ふーん。でも、このプニプニなら、粘土というより、チーズみたいな感じじゃない?」

「そう!チーズだよ!やっぱ凄いよ昌人!海ちゃんもそう思うでしょ?」

 俺からしてみれば少し大きな灰皿にしか見えないのだが、反論するような事でもなく、褒められるのも悪くはないけど、見ている内に不満が生まれてきた盾もどきを最後に凝視する海野から酷評がくる事を祈りつつ、全員分のマグカップへ水量計が振り切れている電気ポットの湯を流し入れた。

「ふむ。すこし不恰好だけど外見は問題ないか。ムロチャン、折角作ったのに悪いが、内側が気になるから切断させてもらうぞ。綾美、印石貸してくれるか?」

「良いけ・・あ!ねね海ちゃん。海ちゃんなら無くても出来るし、二人に印石を使わない時のやり方を教えるのはどうかな?」

「構わないが、覚えたての二人に見せても使える代物じゃないぞ?」

「それは分かっているけど、ほら、何事も経験って言うし、見るだけでも次に魔法を使い時の役に立つかも・・」

 昨日も、刺された日も、この二人と似た事をやっていた気がするけど、想像していた以上に恥ずかしく思えてきた、生温い夫婦会話を行なってくれている二人を微笑ましく見守りつつ、今の所は俺と同じ気持ちらしい、神野島と一緒に苦味の後に染み渡る熱さで体を温める。

「・・分かったよ。でも、久々だから上手くいくか分からないぞ?」

「海ちゃんと私が出会った時には出来ていたじゃない。だから、心配しなくても大丈夫だよ」

 途中から彼女の顔どころか、二人の話し声すらも意識から除外し。何かの拍子に散らばった甘菓子を使い、俺の印石とチョコの包みを種に見立てた花びらがカラフルすぎるヒマワリを、一緒に作ってくれた神野島と共に観賞していると。自分に気合を入れるかのように、表面しか冷めていないと思われる飲み物を一気に飲み干したカップを卓上の創作花へ直撃させた海野を二人して睨みつけた。

「ちょっと海野!私の傑作になんて事をしてくれるのよ」

「スマン。詫びに、今回は俺が魔法を教えてやるから、それで勘弁してくれないか?」

「それは綾美が持ちかけた要望だから私とは関係ないでしょ。聞いて無いと思ったら大間違いだからね」

 あたかも奴が考案しそれに俺が乗っかった体で苦言を呈しているが、二人の会話に口を挟むより速く動いた、自動車を購入する時の神野島とディーラーのやり取りが思い浮かび。見るに耐えない海野の困り顔から、頭ごと目を逸らし。境界線を作るように青地に白い線が引かれた晴れ空を眺めつつ、変な糸が邪魔をする首裏を右手で擦りあげる。

「駄目でしょ昌人‼他の傷は魔法で治せても、頭だけはどうしようも無かったのだから、手は膝の上‼」

 魔法で治した自体始めて聞いた気もするが。そんな事より、膝は膝でもスカートに隠れきれなかった彼女の生膝の上に右手を封じられ。幼少期に経験すると思われる叱責で訪れた気恥ずかしさを鈍らそうと、自由を許された左手で自分が口を付けたマグカップを口元へ近づけた。

「まあ良いわ、この話は後で決着をつけるとして、早く魔法を使って見せてよ」

「じゃあ、やるけど。ムロチャンと綾美は・・なんていうか、準備できているか?」

「うん、こうやっておけば頭も掻けないし、始めて良いよ」

 『多分』ではなく、『確実』に右手の件ではないが、今、喋る素振りを見せようものなら今度はマグカップごと彼女の膝へ引っ張られる気がし、殆ど残されていないコーヒーで舌を湿らしつつ。両腕の袖を引き上げ、彼女の数珠を押し潰したような、薄っぺらいブレスレットを見せ付ける海野へ向けて視線だけを送った。

「よし、まずは、簡単に今までのおさらいから。魔法は、経験さえ積めば誰でも扱える物で、印石とは知識を溜め込んだ人が思い描いた物を、実体化させる道具って、神野島は綾美から、ムロチャンは俺から教わったと思うが。魔法に慣れてしまえば、印石という補助輪とも増幅器とも言われる便利品を使わなくても使用出来るようになるんだが。今回は、使わない方法の内、一番分かり易くて一番面倒なスクエア式で・・」

 人が真面目に耳と目を向けている最中に行なう事だったのかは疑問だが、願わくば別の所で見抜いて欲しかった、カップが真横を向いた瞬間をついて、右手と同じ末路を辿った左手に、この際、スクエアであろうとヘクサゴンであろうとどうでも良く。この行為で全意識が彼女へ向けられたお陰で聞き逃した説明に、全面ガラス張りの縁はエメラルド色の、天辺が尖がった台形の何かを左手の内で回し続ける海野に向け、早く終わらすよう心の中で唱え続ける。

「コレも人によって周りの色と形が変わってくるが、この四角い状態が基本形で、ココに出したい物の対応物を取り込ませたら、後は印石を使う時と同じ要領だな。今回はカマイタチみたいなのだから、コイツに風を送れば・・」

 もう胸より上には手を挙げないから解放して欲しいところだけど、他の者からすればどうでもいい要望を述べる権利が存在する訳もなく、海野が行動をおこす度、拘束した両手首の圧を増していく、興奮ともとれる彼女からの無意識だと思いたい攻撃を堪えながら、右手をウチワ代わりにした程度で、風車のように回転速度が上がった台形の物を握り潰した左手を、俺が作り上げた灰皿もどきへ宛がった海野に、痛みが集中を妨げる意識を向けた。

「ここまで来れば説明はいらないと思うが。後は手に溜め込んだ力の栓を抜いてしまえば・・」

 握り潰した意味とは何だったのかを教えてくれないまま進められるも、神野島が質問をしないとなれば、聞いていなかった所で説明があったか、俺の想像力が足らないだけのうち、願わくば前者であってほしい思いを抱いたまま、海野の両手に挟まれている土器が新しい顔を見せるまで、残された面々で見つめた。

「・・さて。少し時間は掛かったが、何とかなったな」

 多く見積もってもインスタントラーメンが茹で上がる程度だったけど、使用者にしてみれば掛かりすぎていたようで、簡単な詫びとともに真っ二つにされた、紙が飛ばないよう、押さえ付ける事が関の山の哀れな土器の片割れが置かれたテーブルへ視線を向け直す。

「ふーん。適当にチーズで例えたけど、本当にそれっぽくしたのね」

「ほんとにね。何も知らされずに出されたらカジちゃうかも」

 確かに、適当な皿に盛られていたらタルトに間違えそうな物ではあるが、口へ運ぶ前に食べ物としては硬すぎる弾力で躊躇いそうなものだけど。気の狂いで口にしたとしても、魔法とは違い病院へ連れて行けば良いだけの話しで。遂に匂いまで嗅ぎ始めた食い意地の張った娘衆を遠目に眺めつつ、原形を失い始めた新しい煙草の山を手探りで引き当て、ビニールを引き裂く。

「ねー海ちゃん。結局、昌人が作ったコレはどうだったの?」

「そうだな・・形以外は力不足からの副産物だろうけど、始めての意識した造形物ならこんなものじゃないかね」

 ボーダーラインがあったのかは、周りの三人ないし、先任魔術師殿にしか分からない事だが、かなり大雑把な返答でも、一応自分が作った物への評価は伝わり。原因究明に勤しむ輪に加わらず、新しいコーヒーを淹れたカップを連れ、咥えタバコのままベランダヘ飛び出した。

「さてと。今日はどうしようかね」

 二度ある事は三度あると言うし、欲しがる人は居ないトラブルに巻き込まれるくらいなら、一日くらい部屋に閉じ篭りたい思いで口にしたものの、何かしら行なっていないと気が休まらない性分に選択の余地などなく。大型トラックの真後ろに引っ付いて信号が見えるのか心配になる乗用車を眼で追いつつ、早急に行なわないと生活に支障がでる物事を解消できる建造物までの道と大よその時間を頭に記憶させ、最後はサイレンを鳴らされても文句を言えない無理やりな曲がり方をした車を見届けた後。まとめ買いのオマケで付いてきた硬い使い捨てライターでタバコに火をつけようとするも、どう考えても、こちら側へ来るとしか考えられない人物の歩行に煙を諦め、まだ熱い液体を口内へ注ぎいれた。

「ねー昌人。やっぱりタバコは止められないかな?」

「んー。まあ、本数は減らしていこうかなって思いはあるけど、それ・・」

「じゃあ!私が数を管理してもいいよね⁉」

 本当に管理するつもりなら奪い取ったタバコを握り潰したりしないと思うけど、彼女のやる気を削いでまで自己管理するほどのものではなく、吸えないのであれば肌寒い四階のベランダに居る必要はなくなり、干していた自販機に吐き出される事必至の、波打つ紙幣を洗濯バサミから解放し、観察の次は撮影会へと変わってしまった部屋へ戻る。

「ムロチャンを使って悪いが、コレが入る箱って家に置いてなかったか?」

 かれこれコイツと暮らし始めて6年になるのだし、いい加減俺が何所に物を仕舞うのか憶えてほしいものだが、口で示すより足を動かしたほうが早い事もあって、暇を持て余すあまり、下半身の肌着を隠す布切れを極限まで肌蹴させたままベッドへ寝そべる神野島を叩き起こし、隙間詰めに使っていた示された物を入れるには少々大きい気もするダンボールを引き抜く。

「折角良い感じに溜まっていたのに、ムロチャンのせいで滅茶苦茶になったじゃない」

「知らんがな。そんな事より、一応女なんだし毛布の一枚くらい掛けてからやれよ」

 とは言ったものの、外ならまだしも日中の室内で毛布は暑すぎる気がし、コイツの体格なら丁度隠れそうな紙箱で本来見えないはずの太腿を覆い、ゴミ箱から取り出した、多分、彼女が食べた跡だと思われる菓子箱を海野へ手渡し、ベッドの空いた場所へ腰を落ち着かせる。

「おいおい、入る物とは言ったが、流石にコレじゃあ送れないだろ」

 菓子箱が恥ずかしいのなら、コピー用紙でも何でも良いから適当な紙切れで覆い隠すくらい思いついて欲しいものだが、渡した手前丸投げする訳にいかず。押し入れの収納ボックスから、遊びより仕事と、題名しか目を通していなかった、祭りの注意事項が記載されたチラシを探し出し、開け口をテープで塞いでも尚、外装を気にする海野の頭へ載せる。

「馬鹿でかい箱に紙を詰めるよりマシだろ。心配せんでも封さえしておけば送れるし、嫌なら向こうでメール便として送ってもらえば良いじゃないか」

 いっその事、俺が負担してでも包装資材を買った方が早く思えてきたけど、渋渋インクが透けて見える灰色の再生紙で箱を包む海野を見届けている最中に行ない始めた、ベッドへ腰掛けた俺の両脇を塞ぎ、頭部に装着された謎のゴム紐を両サイドから弄る女性陣に頭を預けたまま、適温を過ぎてしまったコーヒーを舌に味合わせた。

「・・まあ、コレなら文句も言われないだろし、後は送りつけるだけだな。確か駅前に営業所があったよな?」

「駅前というより、モールの中だがな。俺も用事があるし連れてイッ・・」

 寝ている間の他にも、痛みを感じない穏やかな時間を過したいものだけど、自分の人生から切り放せられないようで。弄りに飽きたとふんで空になったマグカップをテーブルへ置こうとするも、俺が動くタイミングにあわせたとしか思えない紐の位置調整で後頭部の傷が圧迫され、息を止めても歯を食いしばっても紛らせられない痛みが襲ってくるも、反応が遅れても何時かは確認してくるであろう人物へ先手を打つ方が大事で、右隣の頭を撫で回した。

「うー。まだ何もしていないのに何で意地悪するのー、昌人の馬鹿」

 馬鹿は言いすぎだけど、下手に損傷個所を弄られ、今以上の苦痛を味わうよりマシだと自分に言い聞かせつつ、今は髪を梳かしている彼女の手が届かない正面のタンス側へ足を動かし、財布代わりの透明なビニール袋と長短様々な鍵が群れをなすキーホルダーの両方を右手の中へ収め。事態を起こした神野島からの言い訳を聞き流しながら、処分されたコートの代わりとなる羽織ものをタンスの中から探し出す。

「動く前に何か言ってくれたらこんな事にならなかったのに、何で言ってくれなかったのよ」

「ねー昌人。病院行くくらいなら私に診せてよー」

 用事という何にでも捉えられる言葉を使った俺も悪いが、そもそも、頭の傷で病院へ行くのなら夜の内に救急車で運ばれていると心の中で反論しつつ、服を探している間に見つけた、身に付けるのは高校の入学試験以来となる古臭い腕時計を左手首へはめる。

「でもムロチャン、その頭で運転して大丈・・」

「運転は駄目だよ!何がきっかけで傷が開いちゃうか分からないのだから絶対駄目!」

 カースタントをやるわけでも草レースをするわけでもなく、ただ数キロ先の複合商業施設へ移動するのが駄目となれば、極端に例えたら頭を浮かせたまま寝ろと言っているようなもので。彼女からの忠告を話し半分に、日中だけなら十分だと思われる薄い七部袖の上着へ腕を通すが、口だけでは物足りず、行動で阻止してきた彼女へ視線を向けた。

「どうしても行くんだったら私が運転する!」

 誰が運転してもシートに身を委ねる時点で、多かれ少なかれシートに触れる機会は訪れ、ならば、道を知らない人に任せるより、知っている人物が動かした方が、体に優しく交通の妨げにもならないけど、胸元へ持っていかれた鍵を奪い取ってまで運転したくはなく。首裏を擦りたがる右手を左手で捕まえたまま、他人に動かしてもらうにあたって一番気になる質問を投げ掛ける。

「じゃあ任せるけど、その前に、免許は持っているとして、限定とかじゃないよな?」

「限定が何の事か分からないけど、今見せるからちょっと待ってね」

 質問の意味が理解できないレベルとなれば、問題なかったとしても他の所で大問題になりそうだけど、最悪足を交互に動かして移動すれば良いだけの話しで、奪い返される事を恐れてか、あたかも自分の所有物かのようにカバンの中へ入れられていた長財布に鍵を挟ませた後、学生手帳サイズの小冊子を開き。先ほど折り畳んだ風変わりな服と髪色で辛うじて彼女だと分かる、細々とした文字が乱立する証明写真付きのページを見せつけ確認させられても、ミミズが這いずり回った跡にしか見えない、つづり字の英文が理解出来る筈がなく。左手に持たされた証らしき薄っぺらい本を、座りっぱなしの二人の前へ置いた。

「ふむ。当分、渡る予定はないし、国際免許じゃなくて外免切替の方が良かったんじゃないか?」

「そうなんだけど、免許センターの場所が分からなかったし、警察署に言ったら後日送るって言われたから今はコッチでいいかなって。コレでも運転していいんでしょ?」

 何処かの睡眠中にしたと思われる、国際免許やら外免切替より前の話を、今一度して欲しいところではあるが、夜中の一波乱も合わさり、何時ぞやのご教授みたく、酸欠にならないかと心配になる時間を耐えられる自信は存在せず。アノ免許では運転できない車だと知っている二人から言及が無いことを問題なしと捉え、だらしなく背中で垂れる袖へ左腕を通し。昼時で手遅れだからと、手首を解す彼女を誘い悠長に茶を啜る三人をそのままにドアノブへ手を掛けた。

「──あー・・やっぱコレじゃ不味かったかな」

 神野島は想像通り動じなかったとしても、まさか、必要の無い場面で気を使う二人まで不動だとは思ってもみず。こちらもこちらで心を持っているかのように駐車場へ赴いた途端に姿を隠した太陽のお陰で肌寒くなった体を摩擦で温めつつ、多少は暖を取れそうな自家用車のボンネットへ背中を押し付け、白く長細い包み紙を欲しがる口を硬く閉じたまま、俺を見つけるやいな、掛け布団の代わりにされていた緑色の服を渡してくる彼女を先頭に、発泡スチロールの口を封じたガムテープの接着具合を確かめる、若夫婦を待ち続けた。

「急ぐのは良いけど、その格好じゃ風邪引いちゃうし、頭のネットが恥ずかしいかなって」

 松葉杖に頼って移動する人も居る事だし、保護ネット如きで恥じらいなど訪れないが、もう一つの風邪に関しては分からなくもなく。魔法がどうたら言っていた時点で気付くべきだったのかもしれない、中に折れて二枚組みに見えていただけだった紛らわしいローブを頭から被る。

「おー。何か違うけど似合ってるよ昌人」

 中途半端に励ますのなら放っておいて欲しいものだが、脳内に残った記憶と共に出したものを戻せと言って出来る代物ではなく。視界の妨げにしかならない、着た際に自然と被せられたフードを脱ぎ、出し切ったと思えば、まだ残っていた振袖内の飴玉で口寂しさを抑える。

「ふーん。ムロチャンの場合、フードの時は暗殺者で脱いだら魔術師になるのね」

「そうそう、それだよ!やっぱ神野ちゃんなら分かってくれると信じてたよ」

 ファッションチェックで盛り上がるもの良いけど、男性陣からすれば時間の浪費以外の何物でもなく、彼女へ開錠を促す言動は海野に任せ、何所に乗り込むか不明だが誰かしら乗るはずの後部座席へのドアを開いて待ち、最後まで残った助手席のシートへ背面を預けた。

「くどくなるけど、本当にMTを運転出来る?」

「大丈夫だよ。むこうではずっとマニュアル車の右ハンドルだったから」

 それにしてはクラッチペダルを踏まずにキーを回しているように見えるが、こちらが口を出す前に気が付き何とか車に命を与え一息つく彼女を横目に、カーナビへ目的地を覚えこませる。

「ほお。俺はてっきり小難しくて使っていないと思っていたが、使えているじゃないか」

「俺だってコレくらいは扱えるけど、それより・・」

 この車が我が物となったその日から操作方法を覚えはしたが、機械が馬鹿なのか俺が馬鹿なのか、青線が引かれたルートは直進でも分岐を右へ進めの指示通り車線変更したにも関わらず、再三再四繰り返される右の指示に気を取られ、危うく赤信号の交差点に突っ込む所だった経験から、現在地と方角を示してくれる高性能地図として使っていた埋め込まれた機材を触っていた右手で、何時までも空吹かしをしながらシフトノブを弄る彼女の左手首を握り、後方の突起物に持っていく。

「流石にサイドブレーキを引いたままじゃ、重たいし危ないだろ」

「あー、だから動かなか・・」

 ブレーキを壊さずに済む代償と思えば良いとしても、苦痛だけはやめて欲しかったけど、起こった事はどうしようもなく。サイドブレーキに気を取られ、踏み込んだままのアクセルの勢いそのままにヘッドレストへ頭部の傷口を押し付け、エアバックが出なかった事だけが不幸中の幸いと言ったところの、急発進の次に訪れた急ブレーキに顔面を空気袋の出所へ強打し、額よりも少し下、眉間付近に右手を添え、前後の痛みに悶え苦しむ。

「昌人大丈夫⁉ちょっと診せて⁈」

 洋間の時みたく撫でて逃げようにも、この狭い車内で逃げられる場所もなく、足が今何所にあるのかも忘れる人物へ強行し、運転に悪影響を与える訳にもいかず。エンジンストールなぞ知らんと言わんばかりに体ごと助手席へ向ける彼女に頭を預け、一番痛む後頭部ではなく眉間だけに視線を送る彼女の青い両目を見つめる。

「うーん。赤くはなっているけど大丈夫みたいだね。海ちゃん、ごめんだけど、出る前に入れていたちっちゃい保冷材もらえるかな?」

「言われなくても準備しておりますよっと。ちょっと大きいが我慢してくれよ、コレが一番小さい物だから」

 大きかろうとも小さかろうとも、冷やさせすれば文句はなかろうに、あたかも俺がごねているかのように海野の膝の上に置かれた発泡スチロールの中を物色する彼女に代わって、徐々に後退していく車のサイドブレーキを引くことで停止させた矢先、結局は初めに見せ付けてきた物に落ち着いた保冷剤を眉間へ押し当てつつ、出だしがこれでは、もう一度同じ事が起こらないとも思えず、多少なり衝撃を抑えられるフードで視界の上部を隠す。

「昌人のシートベルトは大丈夫っぽいけど、後の二人も外れないようにシッカリと点検してね」

 3人を待つ間に脳裏へ浮かんだ徒歩と交通機関を使うルートなら、既にバスへ乗り込んでいる時間が過ぎ去ってもまだ、上下も加え自宅から100メートルも進んでいない残念極まりない事態に陥っているが、完璧な繋ぎ方を目指すもことごとく失敗してでも一応は車を動かそうと試みる中、歩き出す事もできず。ようやく動き出したと思えば、遊びが少ないを口癖として、ブツクサ文句を垂れる彼女の相手を適当にしながら、同じ道でも運転席と助手席では別世界に感じられる景色を目で追い続けた。

 俺ほどではないものの、ナビが邪魔になるのか、それとも、単に運転で手一杯だったのか、左折の前に距離を教えてくれているにも関わらず、何がどう転んでも案内しないであろう両脇のサイドミラーを削るか削らないかの普通自動車が通って良いものかも分からない場所へ車をねじ込み、大通りを走っていれば両替だけは済ませられていた銀行を諦め、狭っ苦しい路地を迷走すること1時間、ようやく線路沿いに走れば良いと学習した彼女に安堵したのも束の間。今度は、立体駐車場入り口の発券機に手が届かず、車内で手を伸ばす方法を模索する彼女に代わって、憤りを込めた警笛を全身に浴びつつ紙切れを抜きに機械まで俺が赴き。毎階悩みに悩んだ挙句、消毒がどうたらで屋上に、後退を諦め前進で車止めへ前輪をぶつけて停止した車から一目散に飛び出る。

「ねー昌人。もしかして車酔いしちゃった?だったらコレに・・」

「いや、それは必要ないけど、ちょっとね」

 誰よりも先に飛び出た事が災いしてか、わざわざグローブボックスに入れていた、袋が足りなかった用のビニール袋を手に近寄ってきた彼女の手で差し伸べる行動を抑え。綺麗とも汚くともいえない中途半端な船が忙しなく横断する海路を手すりに片腕をついたまま眺めた。

「あら、ムロチャンが車酔いするなんて珍しいけど。出すにしてもソコは迷惑になるからね?」

「だから、何所であろうとお構い無しに吐き出すお前と一緒にするなっての」

「なによ、私が何時何所で出したって言うのよ」

 酔う可能性があると自ら言っておきながら、俺に対抗し暴飲暴食した結果だけならまだしも、目の前にエチケット袋があるにも関わらず、こちらの膝目掛けて発射した、絵日記の題材にする事が出来なくなった小学生時代の夏休みを忘れたとは言わせたくないものの、外の景色と深呼吸で落ち着きを取り戻しつつある己を、何の利点も無い思い出で、飛び出した当初の気分に戻したくはなく。もう少し会話を続けさせたい気分なのか、不吉な笑みを浮かべながら腕組みを始める神野島を見ている内に戻ってきた体内の第二波の防衛に失敗し、次第に息が荒くなる顔面の内、口元を強く押えながらカバンの中へ仕舞い込もうとしている先程のビニール袋を奪い取り、車すら止められていない四隅の内の一角で袋を口へ押し当てた。

 神野島が珍しがるのも分かるけど、それ以上に、どんな悪路でも、大半が落ち着いていられない大荒れの航海であっても酔った事がなかったのに、運転が荒かっただけで催す自分が信じられず、臭いと乱れた息継ぎに誘発される液に不甲斐ない気持ちを込め胃の中を空にし、一刻でも早く精神を安定させるためか、背中を擦ってくれていた人物から離れ、重く膨れた袋を怒り任せに硬く結んだ。

「ごめんね昌人。二ヶ月ぶりだったけど大丈夫と思ってたんだけど、こうなるんだったら私が運転しなかったら良かったって言うか・・ごめんね」

「元を辿れば、怪我しているのに出掛けるとか言い出した俺が悪いし、綾美が気にする事じゃないよ」

 この、介抱のために働かせる頭を少しだけ運転にまわせさえすれば逆流させる事もなかった気もしなくは無いが、起こったものは仕方がなく。どうせ飴玉であろう、カバンの中をまさぐる彼女から遠ざかり、歯科院とエレベーターがあるだけの室内にあるトイレへと足を動かした。

 一応、異性禁制の場であることもあり侵入はしてこないが、袋の処理をするくらいは静かに出来ると思っていた俺が愚かだったらしい、運悪く、他に人が居たと仮定すれば、日が暮れるまで閉じ篭っていそうなドア越しに安否を確認してくる声が響き渡る男子トイレの手洗い場で、手をかざさないと流れてこない水を汲み、口内を濯いだ際、濡れた口元ついでに顔面へ水を浴びせ。流れそびれた透明な液体が水道に沿って顎先へ集まる、防護ネットを隠しきれて居ない黄金に輝く縁が特徴のフードを被った己を見つめ続ける。

「フー。やっぱ頭の影響・・」

「昌人大丈夫・・みたいだけど。これ何本に観える⁉」

 ほんと、自制というもので押し留めてほしいものだが、入ってきた目上の者を叱りつける気になれず、このお方の行動を抑制させるには髪を乱すしか方法がないって事が確定した。進入早々、せめて動かさずに見せて欲しい、焦点を可も不かもない胸元へやらなければ倍に観えるW型の先端の本数を答え、ティッシュディスペンサーから薄皮が剥けるのではと思える程荒い紙で顔と手を拭いつつ、更なる質問を申す彼女の頭を撫で回した。

「うー。ただ今居る場所を聞いただけなのにー」

「それを言うなら、綾美は何所に居るんだ?」

「うー。それは・・あ・・」

 他の奴なら、いっその事、とぼけてくれた方が愛想を尽かせられるものだが、彼女の場合、中途半端に思い出してくれた方が気になる事も確信した、半端に髪を整え、頭上に大小様々なサークルを作る彼女と共にトイレから抜け、俺の考えている事が分かっているらしい、誰よりも小さい娘が伸ばしてきた右手の緑茶を受け取った。

「家でも出来る戯れを見せびらかしにきたのなら、誰も居なくて残念だったわね」

「そのためだけに、わざわざ疲れが残った体を動かす訳無いだろ。でも、お前と海野が手本を見せてくれるのならやっても良いがな」

「海野とやってもノリが良すぎて面白くないし、ソコはムロチャンとやらないとね」

 いきなり交際を促したと思えば、今度は相方が居る前で今から浮気をしますと言っていると捉えられても仕方の無い、続ければ何所かしらで拗れそうな神野島との話を空になった缶同士が奏でる淀んだ音で終了させ。危険を察知してか、一人、別行動を取った海野に続いて呼び寄せるまでもなく屋上まで来てくれたエレベーターに乗り込み、何をするにも必要な通貨を得るオマケで両替も頼めるはずの、案内板にも大きく記載された信用金庫の階層目掛け、昇降機を降下させた。

「・・おー。久々にこんな分厚い封筒を見たかも」

 数分の順番待ちで使えるATMで出金でも良かったのだが、機械が読み込むとは到底考えられないシワまみれの紙幣を試しに食わせて見る気にはなれず。番号は近くても先の利用者がもたついたお陰で、結局一時間近く女性の嫉妬を題材とした恐ろしい昼のドラマを観させられた褒美としてもらった、棒付きの飴を兄妹と間違われたと思われる姉妹へ分け与え。雑な縫い目であっても振袖を作らざるを得なかったのか、ようやく理解できた。腕を引っ込めるという、一手間が必要だった多彩なカードが入れられた袋だけを右側の振袖へ仕舞い。口には出さなくても持ちたいという願望が感じられる彼女へ膨れ上がった信金のロゴ入り封筒を手渡す。

「ふーん。ムロチャンって車とか買っていてもちゃんと貯金はしてたんだ」

「ねー・・あ、ごめん昌人。でも、ご縁の意味を込めて増えるだけの安い自給でも、ちゃんとやり繰りしてたっていうか・・・凄いよ!昌人」

 全くといっていいほど気休めにもなっていないが、俺も含め、誰しもが行なってしまう勢い余っての言動を責める必要もなく。フォローにもならない釈明を交えつつこちらの表情を伺う人物の髪を再び撫で乱し。気持ちに余裕が出来る、苦情を申す彼女の呟きを耳に入れながら、機械に頼るより自力で登ったほうが速い階段を登りきり。眺める事はあっても敷地内へ足を踏み入れなかった中間層向けの小物が陳列された店内へ全身を浸す。

「ふーん。ムロチャンの事だから、またやっすいのにすると思ってたけど、綾美に対しての見栄かしらね」

 過去に商品入れ替えの頃合いをはかり、ココでの購入を促してきた人物が放つ言葉とは思えないが。一度足を踏みれた手前、早々に退散する訳にもいかず、出費を抑えつつ余計な物入れを持たずに済む品を探す俺を知ってか知らずか。店員という、今一番目を合わせたくない人を連れたまま呼んできた彼女へ視線を向けた。

「ねー昌人。この、水色と茶色だったらやっぱり水色だよね?」

「どっちかと言われたら水色だけど、それは買わないぞ」

「あっ。値段が気になるのなら私が買ってあげるから何も心配しなくて良いよ。って事でコッチの水色でお願いします」

 今と同じ行動をとってもいいから、せめて俺が躊躇う理由くらいは聞いて欲しいものだけど、物申すより店員へついて行く方が大事らしく。ショーケースに並べられた、多分、求めている機能が全て揃っていそうな財布を掴み上げ、会計を済ませようとする彼女の元へ駆け寄った。

「良く使う物と分けるのも良いけど大変だよ?前にやった事あるけど、面倒になって結局一つ纏めにしちゃったし」

 思い込みだけなら良いけど、折り畳み出はあるものの、コレが小銭入れに見える視力でよく車を運転できたものだがココで用途を説明するよりやる事が存在し。彼女の所有物のように、バックの中へ収められた封筒内から、二倍三倍どころではない桁が一つ増えてしまった金額分の紙幣を引き抜く。

「無理しなくても大丈夫だよ。後でゆっくり返してくれても良いし、他の事で返してくれても良いから」

 一体何を思って他の事と申したのか聞いてみたい気もしない事はないけど、後腐れが残りそうな彼女の進言を受け入れるくらいなら、流れ出る涙すら惜しくなる金額を支払った方が楽で。紙幣より薄い紙切れ一枚と一緒に寄せられた紙袋を手に提げ、懐以上に消費した気がする体をエスカレーターへ預けた。

「早速彼女に財布をプレゼントするのは良いけどさ、もう一人大事な人の事忘れていない?」

「お前は愛しの海野に買ってもらえばいいだろ。第一、前に買った・・」

「あ!だから自分で買うって言い張ってたんだ。ありがと昌人、もうちょっと可愛いのが好きだけど大事に使うね」

 端から二つ持ちするつもりはなかったし、だからといって予備という不用品を家に置いておくのも勿体なく奴の提案どおり進呈するのが一番だけど、二人してご不満なのであればとりあえず二人の立場を変え。店員の表情や対応を見る限り、事情を知らない人の前ではカップルで通した方が良さそうな彼女に新しく買い与え、場の状態に素早く順応し見物するだけだった、何時もの便乗購入を諦めた神野島に水色の長財布を渡そうとも考えるが。口を動かす前の最終確認で過った、この行動により、男物を渡されたと不貞腐れる神野島の物まで買わされ、結局は何も知らない海野の手に財布が落ち着く最悪のシナリオに、今にも口から出たがる空気を鼻から抜き捨て、本日で最も時間を割くと思われる携帯ショップへ足を向かわせた。

 今までお世話になっていた店舗に吸われたのか、それとも、まだ平日の昼間という事が幸いしたのか、発券機へ向うより先に話しかけてきた店員へ紛失ついでの機種変更との旨を伝え。やはり、俺だけが異端者という事らしい、最新の携帯に触れられてご満悦な姉妹の元へ店員を連れ歩く。

「ふーん。処理も早いしイラスケのムロチャンにはもってこいかもね」

「イラスケと言われるほど時間待ちでイラついた事なんて無いぞっと言うか、それは落としたら壊れそうだから、やっぱ昔ながらの奴が良いかな」

「何言っているのよ、そんなのだから何時までもアナログ人間って言われるんじゃない。店員さん、この人に決めさせたら明日になるので私が決めますけど、この携帯と強化ガラス。あと手帳型のカバーでお願いします」

 神野島自身が使ってみたいという可能性も無きにしも非ずだけど、無知な者が出しゃばる話しでもなく、誰にも言われた事は無いが脱アナログのためだと、今までの基本使用料より割高な気がするタダプランから目を逸らし、家電量販店のパソコンでトランプゲームをする子供のようにA5サイズ程の謎の板を触り続ける彼女の元へ逃げ寄る。

「あ!ねね昌人、今なら無料でついてくるらしいし、コレも一緒にどうかな?」

「無料ねぇ、でもコレ・・」

「あーそっか、そういえばタブレットも付いてくるんだっけ。じゃあ、コレもお願いします」

 色々とオプションがつけられてタダになる事が分からない奴でもなかろうに、人の銭だから好きにすると言ったところのようだけど、初めのうちは戸惑いながら神野島と話を進めていた店員も遂に奴のペースに呑まれ、手続きをする為に移動するって意味しか含まれてなさそうな一瞬のアイコンタクトを送る店員の意に反し、右袖から一枚のカードを神野島へ渡す。

「後は任せるから必要な時だけ呼んでくれ」

「別に怒んなくても良いじゃない、私はただ・・」

「怒っちゃいないよ。知らん者がしゃしゃり出るよりお前がやった方が良いって思っただけ。まあ、サインやら色々とあるだろうからその辺に座っているけど、内容は綾美と相談して好きにして良いよ」

 実は夜中の持久走の反動で張りきった足を休ませたいと正直に申し出た所で『どうせ座るから付いて来い』と言われるのがオチって事もあり、納得はしないだろうけどそれに近い感情は芽生えそうな釈明で店員を含めた三人の女性から離れて待機所のソファーに座り、彼女の運転から続く精神力を削る行動に疲れた体へ目一杯空気を送り込む。

「ふー・・やっぱ寝不足と運転かねー」

 周りに誰も居ない油断からかアクビや筋伸ばしと一緒に愚痴までこぼしてしまったが、既に俺の事なんか忘れて談笑する女性陣に声が届くはずもなく、フリードリンクコーナーのドアに調整中との張り紙がされているお詫びからか、気持ちほど安く設定されている自販機で温かいコーヒーを購入し、緑茶では解消されなかった嘔吐の影響で喉に何かが付着している気持ち悪さを抑えている最中、ふと目に留まった微弱すぎて聞き取れないテレビの画面に映し出された火災跡に画面隅の文字を読み上げる。

「『老朽化した照明灯が原因か⁈』・・まあ、普通に考えればそうなるか」

 光度は落ちていても本体ごと落ちていなかったと記憶しているが、下部のテロップに書かれている『垂れ下がった電線付近が激しく燃えていた』って事は、俺が倒れた後にでも千切れたものだと考えながら、真実を知らないメディアが市の役員を問い詰める問文で隠された、俺でも何故剥がされていたのか分からないアノ道路の溝を呼び起こし、ニュースは変わろうとも意識は脳内の思い出に向けられた自分のままで居続ける。

「・・うー。昌人のイジワル」

 自分が記憶しているだけの過去を呼び起こしても見返りは無いと分かっていても、人間違いしていた人物との素敵な出会いから今に至るまでを想起する事に必至で気が付かなかったが、多分、現実へ戻す低周波で唸る前に何かを言っていたと思われる、気落ちというより憤りに近い、瞬きを忘れた瞳で睨みつけている彼女の頭を撫で回す。

「うー。こんな所で撫で撫でしなくてもいいじゃないー、いじわる」

「うー、意地悪で悪かったですね。そして何の用だ?」

「うー。だから!終ったからサインが欲しいって・・もう昌人なんか携帯もたなくていいよ‼」

 真似をしたのが気に食わないのか、無視していたのが気に触ったのか分からないけど、用件だけは伝わり、立腹した拍子に手櫛をやめた華奢な手で半分以上残っているコーヒー缶を握らせた後に再び彼女の頭へ優しく手を乗せ、今の行動を追及される神野島や応対員どころか周りに居る店員までもこちらに視線を向けている窓口へ足を動かした。

 俺としてはもう一時間ほど引っ張られると思っていたが、卓上へ並べられた書類を見る限り残すところ本人の署名で終るようで、対応員が勧めるがまま彼女が座っていた椅子に腰掛け、無数に並べられた紙の重石とされていたボールペンを手に取った。

「ご契約内容についての説明ですが・・」

「あー。口座引き落としが変更になったとかじゃなければ問題ないので大丈夫ですよ」

 付人二人で決めたって事もあるが、どの道俺が決めたにせよ請求書が来る頃にはオプション価格なんて忘れているはずで、俺の対応が予想外だったのか、神野島まで次なる言葉を模索する中、黙々と、前に機種変更した時より多い気がする署名欄へ文字を刻む。

「・・さて、他に署名がいる場所は無いですかね?無いようでしたら支払いのほう・・」

「この人ってどんな所でも汚い字で書くものですみません」

 せめて昔ながらのミミズ字と言って欲しかった気もするけど、汚いからと書いた個所へ取り消し線を引く事はできず、辛うじて認識できると判断した書類の写しを作りつつ、本当に手帳のようになっている携帯を卓へ置き口を開く店員の言葉を耳に入れる。

「いえ、特徴のあるサインですので覚えやすいですよ。それと、カバーやフィルムのお支払いですが、彼女さんにお支払い頂いたので大丈夫ですよ」

 遠まわしに汚いと言っているが、苦言を呈し、折角娘達が作り上げた和を乱す事でもなく、深く持ってやっと第一関節が画面に触れる新しい携帯の外装である焦げ茶色のレザーカバーのホックを繋ぎ合わせ、出来れば一つまとめにして欲しかった二つの紙袋を手に提げて席を立つ。

「機械音痴なもので二人に任せましたが、お騒がせしてすみません」

「いえ、こちらも楽しい話を聞かせてもらいましたし。それと、大事になさってくださいね、女の私が言うのもアレですけど、あれほど彼氏さんの事を思う人って中々居ないですから」

 単なる神野島以上のお節介焼きだと思うけど、一同、ガラスに映し出される自分を確認しつつ髪型を整える彼女を見る中、店員へ向けて礼を込めたお辞儀をし、近づいても振り向かない彼女の肩を叩き、カーペットから大理石の床に変わる境目を越える。

「・・それで?俺の用事は済んだが、他に用事かあったら先に言えよ」

 後を付き歩く小言製造機は電池が切れるまで放置しておくとして、今朝、そして財布屋と、男二人に対して何かを企てていそうな小娘に、突如、無理難題を押し付けられても困り。迷子の海野の分は後で清算するにして、安堵も拒否もさせない、生き殺しとも言える、ギリギリのラインをついてくる神野島のわがままを聞き届ける。

「そうねー。本当は海野に強請ろうと思っていたけど、逃げちゃったし・・じゃあ洋服で!」

 じゃあって事はアイツがいたら安い物にしていたって事だったのか聞いてみたいところだが、どうせ覆る事の無い口論をするのなら、潔く受け入れたほうが、体力、精神面共によろしく、動き易くさえあれば何でも良い俺が決める訳にいかない衣料店を選ぶよう、神野島を先頭として階を下っていく。

「今のムロチャンに払える場所だったらココかな。って事でムロチャンの気が変わらない内にいくよ綾美」

「・・別に服なんて要らないし・・」

「なに言ってるのよ。折角ムロチャンが謝罪も込めて好きな服を買っておいでって言っているのだから、可愛い服を買わないと今度はムロチャンの機嫌が悪くなるよ?」

 あたかも自分はオマケのように彼女を巻き込んだように見えるが、俺からしてみても、多分神野島の服だと思われるサイズの合っていない窮屈そうな上下では可哀想という事もあって、口を噤んだまま、手を引っ張ってでも店内へ入る二人を見届け、吹き抜けの中央を通り越し、対岸にある真新しいテナントへ向けて歩き始めた。

「・・えっと、じゃあそのお任せスムージーでしたっけ?それでお願いします」

最後に訪れた一年前には無かったって事もあるが、オープンキャンペーンの張り紙より目立つ『絞りたての美味しさを約束します!』っていうのぼり旗通りの自信が本物かを確かめたく、この系列では始めてかもしれない、昔はドキュメンタリー番組でなくとも聞いてきた気がする脱サラの言葉が相当すると思われる、白髪が目立ち始めた年頃の男性に勧められるがまま注文した、ジュースとどう違うのか分からないスムージーと言うらしい黄緑色の粘り気がある液体が入れられた容器と一緒に、頼んでもいない二つ折りのポイントカードを受け取り、通路ではなく落下防止用の高いガラス壁の先に見える店舗へ体を向けたまま背もたれの無いベンチに体を支えてもらう。

「さぁ・・いーくら掛かるのかねー」

 今回は二人分ということもあり、普段買わされる神野島代は越すであろうけど、アイツに金を無心し断られた場合も考えて1・6倍でお願いしたいところだが、陳列されていた洋服をあてがう彼女のために神野島の腕へ掛け直されたおびただしい量の服を見た後で同じ願望が生まれる程能天気ではなく。吸引、嚥下(えんげ)、共に苦労する酸味の加減を間違えたのではと思う、飲み物で気を紛らわせていると、黄色い物で左目の景色を塞ぎ、僅かに露出している左頬へ冷たい感触を味あわせて嫌がらせを行なう犯人へ眼光を向けた。

「どうしたムロチャン?二人とはぐれたのか?」

「べーつに。ただ正面の店からお呼びが来るまで待機中なだけ」

 一階の営業所に持ち込み送り状を書く程度ならここまで時間を掛けられないし、だとすれば、分かっていると思って何も言わなかった俺の用事を足と直感で探っていた事になり、思索すればするほど哀れむ感情が生まれ、本来なら催促の言葉を出そうとしていた口に飲み難さを大きさで解消しようとした結果、余計、力が必要になってしまったカップ内の液体を胃へ流し込む。

「正面のか、何か散在したい出来事があったのなら相談にのるぞ?」

「じゃあ金」

 潔い縦返事なんて期待していなかったけど、気はなくても会話を続けるなり笑いで誤魔化してくるとの考えから単刀直入に話してみるもお互いの口をストローへ向ける作用しか生まれず、もうじき訪れる惨劇をいっときでも忘れられる話題を探してみるが、今度は、少しでも長引く題材を探そうとする己の欲からタイムアウトが起こり、遠目でも分かる服を着ているからか、迷うことなく手招きを行なう神野島に見えないリードを引かれ、再び飲み欠けとなったカップを海野へ渡し、真ん中に通路が欲しかった長方形の道を半周した。

「何をモタモタしているの、早くしないと綾美が払っちゃうわよ」

 払う予定者からすれば今後の生活が楽になる事だし、ココは甘え、払ってもらうのも好い気がしてきたものの、周りに他客が居ないにも関わらず、先ほどの携帯を一括で支払える金額に近づきつつあるレジの数字を見た後に同じ考えが出しゃばる筈がなく。1や2ではすまない、大雑把に割算しても4倍はある大金を封筒から引っ張り出し、手違いでコノ値段になっていたという儚い願望すら打ち砕く硬貨だけの釣り銭を、当分は硬いままだと思われる財布の中へ流し入れた。

「神野ちゃんこんな感じになったけど・・あ!昌人。神野ちゃんと相談して決めたんだけど、どうかな?もうちょっと色つけたほうがいい?」

 全身を見てくれと言わんばかりにその場で一回りする彼女だけでなく、彼女の舞を見届けろとの命令か、袋詰めを行なっていた店員から発せられる物音すらも消えた今、色が明るすぎて目のやり場に困るって理由で逃げる訳にいかなくなり。回転を終え、こちらの反応を心待ちにしている、そのうち来るといわれたらそれまでだけど、俺からしてみれば春を先取りしすぎな、コブシと桜を題材にしている服装に対しての感想を口にする。

「そうだねー・・まあ、俺はともかく綾美が喜んでくれるのなら俺も嬉しいって言うか」

「うー。昌人、それ答えになってないよ。神野ちゃんはどう思う?」

「んー、ムロチャンにシフォンフレアスカートとの組み合わせは早かったってところかしらね。私からすれば十分だと思うけど、店員さん、さっき試着した服の値札を切ってもらえますか?」

 人に着て見せるための服に遅い早いがある事やら、薄いカーテンを重ねたような膝丈まであるスカートの名称と教えてもらい、さらには明確な回答を求める彼女を宥めてくれた素晴らしい友人に感謝の気持ちを込め。金額が金額だったからか、仕舞い終えた衣装を出してまで値札を切り落としてくれた上下一式と共に試着室へ隠れる神野島を置き去りにし、今まで持っていた沢山の紙袋を一つにまめられる袋を手提げたまま、俺が座っていた場所に小さな信号を作る海野の元へ戻った。

「海ちゃん見て見て!神野ちゃんと一緒に考えて決めたんだけど似合ってるかな?」

「そりゃあもう、可愛いぞ綾美。今回はツバキをイメージしたのか?」

「そうそう!赤色で気に入った服がなかったからピンク色で代用して・・あ、さっきコーヒー飲んだから緑色ので」

 花糸の白を上着とし、ヤクを髪色、花弁をニットの羽織物とフレアが頭に来るのか中に入るのか忘れた何たらスカートで表現しようとしたのか、それともおしべ全体を髪で、二種の色が混ざった花弁を服で表したのかという納得できる答えを追い求める思考を吹き飛ばす。海野が渡そうとしていた容器を断り、比べなくとも誰かの飲み欠けだと分かる筈の俺が飲んでいた緑の液体が入った容器のストローへ口を付け、酸っぱい中の美味しさとやらに感動する彼女へ余計な情報を伝えられず、背後から何時もの入り方をしつつ近づいてくる奴の飲み物まで持つ。

「ちょっと!何で私を無視して寛いでいるのよ、一人ではしゃいで恥ずかしかったじゃない‼」

「待てとは言われなかったし、店員に見せびらかす為だと思っていたが違ったのか?」

「なによそれ、折角ムロチャンが反応しやすい服に着替えてあげたのに酷い扱いね」

 小さい者をより幼くさせたところで何も掻き立てられず、このまま失笑だけを残して距離を離す事もできたが、連続で無視するのは身近な人だとしても度が過ぎる行為だと思い止まり、早く持てと言わんばかりに俺の膝へぶつけてくる、さっきまで着ていた服が入れられた紙袋と、色からして甘いと思う赤い容器を交換し。口には出さなくとも、もう少し構ってほしい願望が滲み出ている神野島の頭を、何時ぞやの彼女を落ち着かせたように優しく撫で、集り根性が盛んな今、昼飯まで奢れと強要される前に屋上までの道のりを先導し始めた。

「──ねー。行きはアンナ事になっちゃったし、誰か運転代わってくれないかな?」

 一度起こってしまえば、後は繰り返さないための対応をしてしまえば良いだけで、運転したければそれで良かったのだが、投げやりとも捉えられる、運転席へ開錠という役割を終えた鍵を置き、誰よりも早く車へ乗り込んだ彼女ついでに帰路の相談をしようとするも、既に誰が代わるか決められていたらしく、さっさと動かせと言わんばかりに彼女を交えて談笑する三人に急かされ、もう一つも出したかった袋を諦めて後部座席より後のラゲージスペースの扉を閉め、交代要員の任を務めるにあたり邪魔な振袖に収められた重りと一緒に水色の製品を、何かしらいわれると思いきや俺より探し物の方が大事らしい彼女のカバンへ流し入れた。

「うー。何でそう意地悪するかなー、いい大人になれないよ?」

「じゃあ、大人だし、このまま改善しなくてもよさそうだな」

「そういう意味じゃないんだけど、えっと・・コノ服とお財布ありがと、大事にするね」

 叱るのか礼をするのか決めて欲しいものだが、この他に探し物にまで意識が分散しているなかでの選択で混乱し、とりあえず最も当たり障りのないお礼を言っておけってところだと思われる彼女へ流し入れた携帯達を預かってもらうよう頼み、白線で仕切られた枠に収まりはしているものの誰が見ても無理やりねじ込んだと分かる斜めった車をサイドミラーと目視を頼りに後退させ、気を抜けば何階に居るか分からなくなるスロープを前車に続いて下っていく。

 駐車券を取る時とは違い、個々が思い思いのタイミングで向う事もあり、適度に留まる事はあってもサイドブレーキを引いてまで制止させる必要はなく。超過しているとばかり思っていた時間を四時間までは無料で出させてくれる機械に正され、昼と夕どちらにしても中途半端な時間をどうするか考えるには最適の主要道路に入るための長ったらしい信号に引っ掛かかった。

「んで、これからの予定があるのなら早めに言って・・」

「よしできた‼昌人、コレ私からのプレゼントね」

 俺が言い出そうものなら全力で拒むが勝手に行なう分には問題ないのか、話を遮ってまで声に弾みをつけたと思えば、後数台で発進しなければならない車の運転手へ差し出された、銀色に輝く辛うじて左手に収まる容器を持ったままローからセカンドへギアを変え、前車が作った見えないラインどおりに車を曲がらせる。

「言い忘れたけど、それタバコを入れるケースで、ソコに入っている分だけ吸って良いからね」

「うん、ありがと。でも今は運転・・」

「よし!じゃあソコで決まりって事でムロチャン達が大騒ぎした所でよろしく」

 また機嫌を損ねられても困るし今だけは話し終えるまで遮ってほしくなかったが、願い虚しく塵去り、何時までも合流できないバスに前を譲る時間を使い変速の妨げになるケースを彼女のカバンの中に入れた。

「もしかして色が気に入らなかった?じゃあ明日、もっと可愛いのを買って来るから今は我慢してもらえるかな?」

「いや、それで十分なんだけど、ちょっと今は持つ訳にいかなかったからね。そして神野島よ、大騒ぎした場所って何所だよ?」

 これで納得してくれるのを祈るのみだけど、お隣さんの小言の中に俺の名前とシルバーとは違う色の名前が出ているという事は何を言っても聞き入れてもらえそうになく、箱の件は流れに身を任せるとして。俺が行きたくないと言うのもあるが、そもそも通行止めになっていそうな場所へ向えとおっしゃる小娘へ、最終確認がてらの間違いであって欲しい願いを込めた返しの返しを待つ。

「私が家に帰る如きで回りくどい言い方するわけ無いでしょ。ほら、二つ目の信号を曲がってテレビにあった場所へ向いなさい」

 隣の人なら行く事は変わらなくとも気遣いくらいはしてくれただろうけどコイツにその行為を期待した俺が馬鹿だったようで、理由をつけて逃げられない為か大回りになる一方通行の道に入れと申される神野島の指示通りに二つ目の信号を左折し、夜中に入った道の合流地点となる場所を目指した。

「──ふーん。随分と派手にやったのね」

 どうせ入ったところで住居も無いことだし入り口から通行止めされていると思いきや、アスファルトが行方不明になっているK字路の軸足部分だけのようで、現場検証を疎かにするのなら自分達がやると言わんばかりに立入禁止のテープを掻い潜る三人にため息を漏らしつつ、車はおろか人すら居ない分岐点で一応ハザードランプを焚き。持たせようとしているのは分かるがダッシュボードの上はやめて欲しかった、反射する光で意識が散漫になっていたシガレットケースと予備のライターを手に収め、久々の煙を肺に入れながら奴らが踏み荒らす現場を黄色紙の外側から見届ける。

「ねー昌人。こんなの見つけたけど、もしかして昌人の?」

 俺のも何も、外装を剥がした、息を吹きかけなければ消せない内容器を見せられても反応に困るが。とりあえず、言葉に出さなくても今までの言動から嫌がっていると思われる煙の根源をケース底に付いていた気持ち程度の灰皿で押し消す。

「かもしれないけど、箱がないと何ともねー。近くにコレと似た色の物が落ちてなかったか?」

「うーん。見た感じは無かったけど、それより口直しの飴ちゃんどうぞ」

「そしてムロチャンが求めていた物もどうぞっと」

 小出しにされるよりはマシだろうけど、タイミングを考えられない程切羽詰っていた訳でもなかろうに。どちらが先に受け取られるか競っているらしい、こちらの胸を突く手前まで伸ばされた腕のうち、早く貰わないとアリが寄りそうな、ご丁寧に包装紙を外してくれた飴を口に含んだ後両手の平を占領する邪魔な容器を各振袖に仕舞い。腕が重たくなったのか、こちらの手が露出する頃合を計り舞い上げられた薄く小さい破片を右手へ収めた。

「見つけたからどうするって事はないが、その番号は証拠になるだろ?」

 コレを理由にして何かを要求してくる人間を見てみたい気もしなくもないけど、わざわざ自分から損しかしない役を請負いたくは無く、スス汚れても判別できる見慣れた四桁の番号が彫られた鉄片を指の腹で撫で拭きつつ使用法は違えど有益な物をくれた二人に礼を放ち、最後に近づいてくる人物との距離を保つように車の後部座席へ膝を乗せ、ラゲージスペースに置かれたままの袋から取りそびれていた箱を引っ張り出す。

「あのさ、私を弄ってくれるのは嬉しいけど一々テンション変えるの面倒だし、できれば一気にやってくれない?」

「知らんがな。っていうか、それを言うためだけに出口を塞いだのか?」

 言われてみれば、立場が逆だったとすれば時間を置かずして何度もやられると嫌になってくるだろうけど、一度とってしまった行動を謝罪すると今以上に怒られそうな予感しかよぎらず。だったらいっその事、何を言われてもコレまでの絡み方を貫いてみようと、俺の返答が予想外だったのか、さっき貰った飴が丁度収まりそうな口をしたまま降りられるスペースを作ってくれた神野島の隣に足を下ろし、もっと絡んで来いと訴えてくる娘へ無視という弄り方をしつつ、再び砂地へ足を踏み入れようとする彼女に箱から取り出した機械を渡す。

「あーえっとね、電源ならコノ小さなボタンを長押ししたら付くよ」

「そうじゃないんだ。ソレ好きに使って言いよって意味かな」

「え?でもコレ昌人が契約した物だし昌人が使わないと駄・・」

「良いじゃん貰っちゃいなよ、どうせムロチャンが持っていても箱に入ったまま放置するだけだからさ」

 何だか一番本人が言わないといけない部分を持っていかれた気がするが、多少言葉が変るだけで同じ意味を言い直すとなれば強要になるし、そもそも間違った事を言った訳ではなく。嬉しいという言葉では足りない歓喜の礼にほぐされた表情のまま三人に背を向け、いい加減疲れたと訴えている気がする車へ乗り込み、車内前方中央の赤いボタンを押し戻した。

「実はねコッチに返ってくる前からコレ欲しいなって思ってて。代わりになるか分かんないけど飴ちゃんならいっぱいあげるから、本当にありがと」

「うん、ありがと。そんで、もう行く所は・・」

「早く上の跡地に行きなさいよ、今更拒否しても引っ張って連れて行くから」

 さっき無視が奴の腹の虫を騒がせたのか、何かしら頭に付けるはずの言葉を忘れどのような事が起ころうと連れて行く意思を示した神野島に反論なんてもっての外で。彼女も危険を察知したのか袋から出された四色の飴の選択を後の二人にさせ、残っているからと断る選択肢は無いと思われる残された飴の内取りやすい左側を左手で摘み、イチゴとレモンの何ともいえない味に困惑しながら故郷を思い出す、車の他に掃除をしてくれる者が居ない落葉だらけの坂道を登りきる。

 数年前に訪れた時はチャンチャな子供は当たり前として童心を捨て切れなかった人達が投棄したと思われる玩具が散乱しているだけの場所であったが、時が経つにつれ流行も変化したようで、パイロン代わりの破棄タイヤとチョークで作られたジムカーナ場に成り果てた跡地が見えやすいよう徐行し、スピンターンしろと言わんばかりに付いた円形のタイヤ痕の外周をなぞるように転回させた。

「このコースをドリフト走行すれば良いのか?」

「誰がそんな事を頼んだのよ、いいからさっさと車から降りなさい」

 反省させる意味で歩いて帰れって事だとしたら距離が短すぎるけど、散歩がてら放浪しておけば時間なんていくらでも稼げると、袖が引っ掛かりモタツク俺を見かね、運転席のドアを開けてくれた神野島の横を通りすぎた途端、比喩ではなく本当に傷をエグる痛みに苦しみながら奴のであろうフードを握り締められた手を払い除けた。

「イッテ。無視したのは悪かったけど、頭引っ張るのはやりすぎだろ」

「ごめん・・でも元はといえばムロチャンが逃げるからじゃない!」

「逃げるって。ココから歩いて帰れって事だろ」

「そんな事のためにこんな面白くない場所に向わせる訳ないでしょ。綾美、さっき話した通り印石貸して」

 鷲づかみせずとも素直に印石が欲しいと頼んでほしかったものだが、今でこそさっき渡した機械に夢中で声が届かない彼女が何時振り向くか分からない中、少しでも痛みを和らげる作業に忙しいのに、何の利点も無い苦言を返す暇などあるはずがなく、声で駄目ならと彼女の肩を揺する神野島の動作に合わせ後頭部を擦る右手を下ろし、気付くとは思うが彼女も神野島を無視した保険として胸元へ下げられた自分の印石を服の中から引き抜く。

「印石なしでも俺は構わないが、流石にソレをやると神野島が本気で怒るから胸元に戻しな」

 何が原因だったか忘れたけど泣いた時より面倒だった事だけは鮮明に記憶している、神野島の怒りを受け止めたい気持ちなんてあるはずがなく。印石を貸してもらえてご満悦な娘が突き当たりの石垣へ向う姿をボンネットへ背中を預けたまま見届け、奴に大声を出させない気遣いか、灰皿無いと強請る左手の逆の手で示されたタイヤ痕のレーン内へ体を収めた。

「二人へ綾美からの託けー、魔法の大本は印石じゃなくてイメージだってさ。んじゃ後はお好きにどうぞ」

 印石がらみとなればあいつが使う魔法の的になれって事だろうけど、なら俺にまでコノ光景を見る気すら無いらしい彼女が放ったと言い張る海野の伝言を頭の中で復唱していると、視線の左端から飛来してくる半透明の塊に身の危険を感じ、自分に許された僅かなスペースで体を捩る。

「ちょっと!避けたら何の意味も無いじゃない‼」

「あんな物を受け止めたら俺が・・」

「御託はいらないから次は受け止めなさいよ!」

 今までにデコイ役として使われることはあっても、避けるくらいなら天に召されろとまでは言われなかったが、こちらからの準備を待つことなく靄が纏わりつく両手から放たれた、殺しにかかっているとしか思えない、丸みを失った塊を受け止められる唯一の手段であろう器状の盾を急ぎ想像し、中皿にも満たない小盾の中心を飛来物に合わせ左腕一つで衝撃を受け止めた。

「じゃあ次いくからしっかり取りなさいよ!」

 夜中の大騒動より衝撃は弱かったものの腕に障害が無かった訳ではなく、疲労抜け、せめて器に詰まった塊だけでも落とさせて欲しかったが、言い放つ暇を与えない両手の靄に先程より重たくなった気がする盾を構え、刺衝から打撃だけに変更された物体を受け止めた衝撃もさることながら器に収まりきらなかった破片に襲われた脛を擦りつつアスファルトへ膝をつく。

「なによ。コレくらいでもう根をあげるの?ムロチャンらしくない」

 心のどこかで絶叫しながら怪我の具合を確認してくると思う自分が甘いといわれたらそれまでだけど、足だけは動きたがっても心は機械に囚われた、何時の間にか運転席へ移動し、棒付き飴を舐めつつ浮いた両足を投げて遊ぶ彼女に眺め疲れ。立ち上がるだけで精一杯の足を組み立て、さっきの塊が溶けたらしい水を含んだローブの砂を払う。

「あーのさ。受ける身の事も考えて使ってくれないか?」

「じゃあムロチャンも撃ってくればいいじゃん。そうしてくれたら私も試せるし早く撃ってよ」

 育ち(覚え方)は違っても殆ど同じ時期に体得したものだし、奴に出来て俺に出来ないわけはないだろうけど、新しい物好きというのか勉強熱心というのか、問われる前に問うてきた神野島とは違い盗み聞きした程度の知識で作り上げた物をどうやって応用するべきか悩みたいところだが、即座に行動へ移さなければ再び的になれと言わんばかりの靄に、夏場であれば気持ち良さそうだけど今は拷問でしかない氷盾を持ち上げ、何時解放してくれるかは気分次第となる神野島の氷塊を粉砕し続けた。

「──こんなモノなのね。大体分かったから休憩して良いわよ」

 完璧を追い求める前に俺が倒れると気遣ってくれたのか、奴にも考える時間が必要なのか分からないけど、何はともあれ、この氷片で作られたサークルから一秒でも早く逃げたく、意地だけで持っていた氷盾で氷塊の一部を砕き、付いているだけで幸せだったと思う事にした左腕を擦りつつ水場から抜けても付きまとう、子供用の音が鳴るサンダルが壊れたような音を撒き散らしながら日が当たって温かそうなアスファルトを選び、腰を落ち着かせた。

「二人ともお疲れー。甘い物が飴ちゃんしかないけど良かったらどうぞ」

 財布を入れた時は飴以外の菓子があった気がしないでもないけど、彼女なりに今居る場所で最適な物を選んでくれたものだと考え、苦言を呈したところで『綾美に介抱されてるから良いじゃん』と言われるのがオチだと思われる、違う口へ運ばれる黄緑色の飴を羨む視線を神野島から逸らし、おなじみの赤球を舌の上で転がす。

「うーん。何だか力が入れられないっぽいけど、どこか痛かった場所とかある?」

「痛くはないけど、痺れを抜く前に次がきていたからね。まあ少し時間を置けば動かせるようになるし大丈夫だよ」

 受け始めた当初のスネ強襲のほかにも破片が衝突した場所が幾つかあった気もするけど、面倒見が良いとしても過保護すぎる彼女に親告していると裸同然にさせられると脳に言葉を留め。こちらの言葉に安堵したのか、明日、普段どおりに過せるか不安なアザだらけであろう身体から離れ、俺にも聞いて欲しかった、短時間の多発で異常がないかの問診に恥じらいでも出たらしい神野島のぎこちない応答に笑いを堪えながら、白い煙を噴かしつつ彼女に上げた機械を弄る海野を羨望の眼差しで見つめた。

「じゃあ買ってくるけど、体が慣れてない内に使いすぎたら寝込んじゃうし、異常がなくてもこれ以上は使っちゃダメだらね」

「どうせ頼んでもムロチャンがやってくれないし大丈夫よ。それより、早く行かないと学生で混雑するわよ」

 少し力を入れただけで真っ二つに出来そうな板が放つ不思議な魔力には誰も逃れられないという事なのか、見つめ続ければいつか渡してくれると思っていた金属箱を光らせる事はしても渡す気はない海野に愛想尽かし、出すのであれば先に出して欲しかった、待つ間の口寂しさをなくす為とかでアスファルトへ散らかされた菓子箱の一つを開封し、次の小袋を千切る前から開けて待つ神野島の口が塞がるようスティック菓子を挿し続け、次の車検が訪れる前に壊れそうな歯車が悲鳴を上げる乗り物の去り姿を見届けた。

 昼飯を抜いたから空腹って事は分かるが、的当ても済んだ事だしわざわざ氷が水に変る様を観賞しながら菓子を貪るくらいなら、帰宅し、ありあわせの料理を食べた方が奴の体にも水浸しの靴を履き続ける俺にも有益だと思われるけど、何かを買って来るらしい車組みに連絡を取ろうにも、次から次へと菓子箱の裏面を黙読する奴から読み取れるものは電池切れ、もしくは仲良く車内に置き去りであり。口内の水気が持っていかれないか心配になる速度で気に入った菓子を開けていく神野島とは対称に、海野からもお預けを食らったタバコに見立てた棒菓子をふやかしつつ、空になった箱を潰す。

「あのさムロチャン。我慢してとは言わないけどせめて風下に行ってから出してよ、折角のおやつが台無しじゃない」

 体臭が混じった水を含む靴下を晒したなら言われても仕方の無いことではあるけど、脱ぐと履く時に辛い思いをするだけだと踏み止まる俺から放たれる臭いとすれば、色々とあって風呂に入っていないのが原因の体臭だと思われるが、それならもっと早いうちから言ってくるだろうと考える暇があれば移動したほうが早く、何が気に食わなかったのか分からない季節限定のイチゴ味らしい菓子箱と共に広げ潰した空き箱を持ち、落葉が散らばる土瀝青(どれきせい)の上へ尻を置くも今度は神野島の方向から芳ばしいを通り越し、重く苦い臭いを感じ、右手に作ったコブシを鼻先に押えつつ右側の人物が気付いてくれるのを待つ。

「なによ、私が人の居る前でするわけ無いでしょ」

「そうか?俺なら大丈夫って何の気なしに出してた記憶があるがね?」

「また大昔の話を持ち出して。そんな性格してるから今まで彼女も作れなかったのよ」

「ソレはお前がいらぬ所で茶茶を入れたからだろ。それに今まで感じなかった臭いがあるのは確かだし」

「だから!コノ臭いはムロチャンのすかしっぺでしょって言ってるの‼大体、いくら古い付き合いだとしても年頃の女の子が人前で出すわけが無いでしょ。そしてムロチャンが煮え切らないから手を差し伸べただけでしょ」

 不思議な生活が送られたお陰かこの辺で俺の負として止めておく思考も働きはしたが、前回が数日前でも数ヶ月ぶりに感じられる周りに誰も居ない、二人だけの口論をやめる気になれず。邪魔するものといえば徐々に冷たくなる冬風だけの好条件の元、僻み合戦を楽しんでいると、俺ではない何かを指差す神野島につられ、俺が着ている彼女のローブに似てはいるが俺以上に怪しい姿に妙な安心感が訪れる、頭の以外は真っ黒な二人組みが近づいてくる様を、こちらも二人で見つめた。

「オイ貴様ら‼『チーフ』を何所へやった⁉」

 氷塊の残骸より、男女が人知れぬ間所に居るという一歩身を引く必要がある事を察する方が重要だと思われるが、遠目でも分かる白縁メガネを装着した、俺には弱弱しいと感じても世間は美形と呼ぶらしい顔もちの男性声が鳴り響くも、何所も何もまず『チーフ』とは誰の事かが分からず、博識と揶揄しつつお隣さんへ尋ね、確実に警察でも自警団でもない人物の相手をするよう頼む。

「と申されているが、チーフって誰の事か分からないし適当にあしらってもらえますか?博識のお嬢様」

「何で私なのよ。こういう時こそ男のムロチャンがやるべきでしょ」

 機嫌直しには多すぎる服を買ってやったことだし、過剰分をココで清算してくれたほうがこちらとしても楽だけどコイツにその気は無いようで、断固として俺に退散させるよう要求してくる神野島を説得する時間も惜しいらしく。先ほどのか弱い声の持ち主ではない別の声を所有する、趣味はレスリングとでも言いたそうな人物の両手から出された夜中に見た物より小さい火玉がこちらの足前の落ち葉を焼く。

「怒らすようなこ・・」

「ほー。ムロチャンが使えない時に良い実験台が現れたじゃない」

 実験台にしては殺気だっていると思えるけど、忠告するより早く臨戦態勢に入る神野島を止める術など存在せず、映画のような戦闘前の台詞を耳に入れつつ、草を焼くだけでは勿体ない下火へ向う炎が鎮火しないよう周りの落ち葉をかき集める。

 くだらない会話をする暇があれば攻撃してしまえと思うのは俺だけなのか、それとも武士道精神とやらに縛られた行事を行なっているだけなのか、コレまでの経緯を話し終えたと思えば3人仲良く自己紹介を行なう中、面倒事には変わりないが適当に聞き流すだけで済む、存在を忘れ去られた傍観者のまま火種を絶やさない事に全力を尽くす。

「──やるじゃねーか‼ならこちらも全力で相手しよう!」

 よくよく考えてみれば傍観も静観もせず火力だけを凝視しているが、無理やり話題だからと海野に連れて行かれたラブコメディ映画の時みたく脳内で場景を描けばいいものと捉え、三人の言葉と、漫画やアニメで出てくる擬音をかみ合わせながら小枝を炭へ変貌させるも。このままでは地面が歪むと考え場所変えの際、確認していた焚き火用だと思われる、湿った大薪が残された穴あき一斗缶へ慎重に火種を引越し、木が含む水分を蒸発させながら持っていても仕方のない空き箱を火に掛けた。

「ちょっと!左腕動かせるのなら加勢しなさいよ‼」

 アクション映画の最終決戦に例えるなら主人公の優勢が劣勢に変る程度の時間しかたっていないのにも関わらず助けが必要らしいけど、奴が口にした左腕だって、確かに動かせはするものの熊手にするのがやっての左手が役に立つとは思えないし、そもそもコレ以上面倒事に巻き込まれると何も起こらない日が異常に感じそうで。加勢しなくても何とかなりそうな、俺より大きく相手の術を綺麗に分散させる盾を展開している神野島へ『面倒』の二文字を送り、奴に気を取られている内に勢いが弱まった焚き火へ可燃物を足していく。

「あーもう良いわよ。後でおぼえておきなさい‼」

 彼女からの言付けを護る他に何を憶えたら良いのか知らんがこちらとしては半焼けの大薪へ如何にして火を移すかが先決で、俺と似た思考を持つ人物が使用した痕跡が残るススだらけの六角レンチを火掻き棒として燃え残しの大薪が外炎へ当たるよう位置を調節し、小出しにするのが面倒になってきた焚きつけ用の枝を全て投入した。

 コノ愚考が正解と言うより単なる遇中であったが、何はともあれ白煙からの鎮火に至らずに済んだ事は確かで。うるさいだけの声音を微弱にしてくれる木々の炸裂音へ耳を傾けながら、周りを暖めるだけでは勿体ない一斗缶の四隅へ奴が食べ残した焼き菓子を乗せる。

贅沢を言えば金網ないし鉄板が欲しかったところではあるが、一つ叶えば新しい欲望が生まれると、使えそうな者がないかあたりを見渡す目を自制心に任せ。もう半分も焼きたい所だけど下手に弄って缶の底に落としでもしたら勿体なく、まだ火が強い内に置いたおかげで黒ずんだクッキーの表面を掃い、焦げの臭いを凌駕する溶けた砂糖で一層強調するようになった甘さで口内を満たす。

「そんなに私がやられてる姿が楽しい訳⁉」

「楽しいツマラナイはおいといて、そろそろ必殺技でも使って終らせてくれよ」

「じゃあその必殺技使ってあげるから早く盾になりなさい‼」

 あるのなら呼吸に合わせて激しく肩が上下するほどに疲弊するまでとっておく必要性をぜひ聞かせてもらいたいところだが、今、余計な口出しをするとソノ必殺技を受ける的が俺になる予感にもう少し胃の機嫌を取りたい体を立たせ、再加熱組みラストのクッキーをかじりながら神野島の元へ向った。

「それで?どう護れば納得するんだ?」

「話しなんて後でも出来るんだから、早く魔法でも体でも良いから私を護りなさいよ」

 見物人を長らく務めた俺に言わせてもらうと、いくら吠えていても無視しておけば何もしてこないとの結論に至ったのだが、この考えにイチ早く到達するはずの神野島が発奮し相手の語りに眼力で応じていてはこちらが宥めても遅く。興奮して無意味な挑発を送る人間ではないと分かってはいるけど口封じとクールダウンのため、収束を忘れた手の靄が恐ろしくなってきた娘に残りの菓子を咥えさせ体を反転させた。

「座っていれば怪我をせずに済んだものを。では、こちらか・・」

「私が攻撃するまで何があっても護りなさいよ」

 こう何度も護衛を強調されると耳栓でもしたい気分になってくるも向こうの二人組みの威嚇だけに神経を使うよりかはマシだと捉え、咀嚼するのか喋るのかどちらかにして欲しい、何を言っているのか分からない神野島の篭った声を聞き流し。二人の手に纏わり付く朱色と藍白の靄が膨れるに合わせて、魔法がらみでは使ってこなかった右手を曲げ伸ばし、本調子ではない左手の代役で神野島の物より一回りも二回りも大きい塊を防げるよう、こちらも今まで以上に大きい盾をイメージするも。土色どころか色すらない、透明で室外プールの表面のような波紋に気を取られ目を切った隙に分裂した氷塊が追えず、身体へ被弾するコースかと思いきや右手が展開する透明な何かの一点に集中した衝撃に体勢を崩し、神野島を巻き込んで地面に背面を打ちつけた。

「あーもう。何があっても護りなさいって言ったでしょ」

 従前のパターンでは記憶に何らかのダメージがあるはずなのに、衝撃が弱かったのか当たり所が良すぎたのか、どちらにせよ前回の外傷を貫く頭痛はするものの意識が朦朧とすることはなく。意味は違えど、大怪我だけは負わずに済んだはずの奴が早急に体勢を変えてくれるよう念じながら、顔ではなく胸元へ向け話し始めた神野島の声を耳に入れ、返事を待っていると思われる無言の時間を使い、早く痛みの峠を越すための深呼吸を行なう。

「ふーん、もしかして年頃の女の子と引っ付くのが恥ずかしくて何も言えないのかな?じゃあ、もう少し昔みたいにくっ付いていよっと」

 本当に嫌なら直ぐに逃げるし、そもそも新しく仲間に加わり、めでたく姉妹になった娘達と一緒に暮らしといて恥じらいも何も無いと思われるが、今置かれている状況でこちらが出来る行動は皆無で。このまま昔のように寝てくれると信じ近くに居るのであろう姉の方からの妬みをどのようにやり過ごすか思考を練っていると。こちらの温もりがお気に召さなかったのか、たった今、意識を取り戻したとでも言いたそうな無表情のまま起き上がる神野島に引っ張られるように上半身を起こし。車のアイドリング音からして近くにいると思いきや付き添った海野と一緒に先ほどまで殴り合いではなくとも、ソレに近い何かをしていた相手と話す時間を好機とふみ、抓られ衝突しておいて無傷なわけがない後頭部へ恐る恐る右手を向わせネットの内側に張られた布を触った。

「ムロチャン。癖で持っていくのはいいけど、また綾美にどやされるわよ?」

 心配してくれるのはありがたいがこちらとて自分の体の事でありながら無知のまま誰かに任せるのは不安で、少々湿り気はあるものの想像していた開きではないらしい頭から右手を退け。もう、放つ事も受ける心配もないであろう和気藹々としたアチラさんから白煙だけを撒き散らす一斗缶へ焦点を合わせ、頭の他に異常がないか確認しながら歩き、神野島に衝突したせいで狙いが大幅にずれココへ撒き散らされたと思われる水浸しの菓子を拾い集める手助けか、はたまた煙たかっただけか。缶内の水を当てられ愚図り火の薪を蹴り出し、水浸しの地面で蹴り転がす軟弱な方の男性から発せられる声音を脳内へ留める。

「こちらの早とちりで攻撃して申し訳ない。どこか痛い所があったら言ってくれ、全額こちらが負担させてもらう」

「いえ、こちらこそ血気の多い娘が挑発してしまいスミマセンでした。怪我の事は心配しなくていいですよ、俺もアイツも擦り傷程度ですから」

「それでは此方の気が収まらないので。では、裸で申し訳ありませんがコレ・・」

「箱ごとは流石に頂けませんが・・じゃあ、中の一本だけ、あと火もらえますか?」

 劇中の賄賂の受け取りシーンであっても隠しているのに、何故堂々と包装紙に詰めた紙幣面を表にして差し出された、今時どころか過去に存在したのか疑われる金付き箱を断るも、その内容物の誘惑には敵わず、紙は紙でも葉が包まれた紙タバコを貰い点火したまま待ってくれていた男性から火を頂き、至高のひと時を満喫する予定だったが、自分が愛用しているものより濃度が高く拒絶反応で咳き込む頭を自分の足元へ向けた。

「とうとう自我より先に体が吸引を拒んできたか?」

 それならそれで辞める理由になるし願ったり叶ったりではあるけど、咳を落としきった後の吸引で拒絶されることはなく、行かない方が見のためだと思われる、一人服についた汚れを掃う神野島の元へ向かった男性と入れ代わりに接触してきた海野から遅すぎる銀箱を受け取り、吸い殻入れの中へ先端の灰を落とす。

「ところでさ、お前も綾美もアノ二人と仲が良いらしいが誰なんだ?」

「んー、誰と言われても仕事仲間以上の何者でもないけど、どう説明したら納得出来るかな」

「じゃあチーフって誰のことか分かるか?」

「知る限り俺のことを指してると思うが。その話を誰から聞いた?」

 これまで面倒との理由で適当に聞き流していたが頭に残った僅かな記憶と合わせただけも、何故このような事態に陥ったのかわかった気がする海野の答を労い、タバコを口元へ持っていく際の寄り道で火種を神野島に詰められる哀れな男性に向け。俺と同じ感情に浸っているのか、半身分はなれたココからでも聞こえるため息を鼻から強く吐き出し、この距離で目立たなければ問題ない気もする顎ヒゲの伸び具合を確認し始めた海野と、お互い一方通行の心の声で語る事に飽きた自分の口からフィルターを離し、半分で満足した煙草を灰皿へ擦りつけながら唇を動かす。

「まあ、俺にも神野島を止めなかった責任があったし強く責めないけど。今回は全員無事でも何かあってからだと遅いし、感情任せに突っかかる前に一呼吸置け位は言っておいた方が良いかもな」

「やっぱ言った方が良いかね」

「年上に注意って難しい事だけど、お前を思っての今回だったりするわけだし、なお更ね」

 諦めを込めた注意をするくらいなら勢い任せに怒鳴った方がケア出来たかもしれないけど、悲観した所で何が変るでもなく、なら俺と同じ過ちを辿る可能性か少しでもある海野が道を踏み外さないよう尽力しろと、言葉足らずな気もするが気持ちだけは込められたと思いたい早速実行に移す海野と別れ、インクは滲んでいるが中の小分け袋までは溶かしていないはずの菓子箱を今一番飲みたい物の香りが漂う車内に納め、今になって重たくなってきた両肩を回すも。空気が読めているのか読めないのか、こちらの動きを止めてまで両肩を揉み始めたもう一人の娘に、こそばゆい感情を堪える条件反射で肩に力を入れた。

「うーん。こってるって言うより肩が震えてるけど、肌寒いとかダルイとかある?」

「肩のコリも寒気もないから、ソコまで擦らなくても・・」

「オイ小僧‼お嬢の心配りを邪険に扱うとはどういうことか説明・・」

「怒っちゃ駄目だよタクちゃん、昌人だって風邪気味でピリピリしてるだけだし怒っちゃ駄目。あと、丁度良い温度だからコレ飲んで体温めよ?」

一体何所から説明を求めたら良いものか自分なりに順番を整理したい所ではあるが、執拗に体を触る彼女から離れた程度で立腹する人間が監督する場所で余計な話をする気にはなれず、タイミング悪く、タバコの影響で飛び出す渇いた咳に反応した彼女に再び背中を擦られ、肺が正常に作動する頃合を計って丁度良いと言うかぬるく、不思議な事に、飲み口付きの蓋に橙色の液体が付着した妙に軽いカップへ口を付ける。

「よし。じゃあ暗くならないうちに帰りたいし皆乗っちゃって」

 人に乗るよう促す前に、法律に抵触する定員外乗車の言葉を思い出して欲しかったが周りに指摘する者が居ないとなればこのまま直立に徹し、何かしらアクションがあった際にフォローする役になるもの悪くなく。一人で帰るのならコノ程度許してくれるであろう、自分に甘い読みで振袖へ仕舞われた銀箱の蓋を開く。

「昌人―、早くしないとご飯の材料が減っちゃうよ?」

「ん?俺が乗ったら定員オーバーだから先に帰っていいぞ」

「駄目だよ。魔法使って疲れてるだけでも駄目なのに風邪もあったら一人で帰らせられないよ」

「じゃあ、ココの後片付けもあることだし、俺がムロチャンの介護しながら帰れば問題ないな」

 誰かに介護されないと自宅にたどり着けないほど疲弊していたら何があろうと座席にもたれているけど、俺が納得させるより早く加勢した神野島と一緒になって彼女を言いくるめた海野と、もはや遊びが原因では無いと思われるタイヤが数周するごとに止まる地帯から抜け出し、下り坂の彼方へ消えていった車からタバコ入りの箱に視線を変え、色々と今更過ぎるK字路で使ったはずのライターを探しに両手を各袖へ引っ込めた。

「火ならさっきの箱に付いてるぞ」

 今の時代、探す気にさえなれば何でもあるとは聞くがまさかライター機能まで付いているとは思わず、サイズをあわせる為に端に追いやられ、か細い代物ではあったけど吸いながら付ける分には十分な火に感銘を受け忘れていたタバコに火種を作り、火の在り処を教えただけはなさそうな海野へ箱を放り投げ。コレまでの苦悩を昇り続ける白煙に託し、短くてもようやく気遣い要らずの時間を、話しかけてこないとなれば同じ情態だと思われる海野と満喫する。

「──さってと。あいつ等に言った手前やらない訳にいかなくなったし、そろそろ始めるかね。何ならムロチャンも手伝うか?」

「いや、これ以上は勘弁してくれ」

「だろうな。まあ、ライターは借りるがそこで一服しながら観といてくれ」

 早いに越した事はないけど、発言から行動までの間を極限まで切り詰める必要があったのか。今日か昨日か忘れたが、何時ぞやのスクエア法とやらで左手の中に展開し自らの吐息で回転させたガラスキューブのような物を確認させるのかと思えば握り潰し、海野へ吸われる生暖かい微風を感じさせつつ、糸でもついているらしい手首のスナップだけで神野島が出現させ俺が砕いた坂道側の氷塊群を連れ回し。アッチは誰が作ったのか分からないけど、男二人が来る前に存在しなかった事だけは確かな小石群を、暇を持て余していた右手で俺の正面付近へ引き寄せ、磨り潰せなかった氷を一つ一つ地面へ叩きつけながら戻ってきた海野から、何のために持って行ったのか不明な箱を返却してもらう。

「俺でも息が乱れるのに野球部ってよく何十個も投げられるな、尊敬するよ」

「んー、何ていうか。俺もいきなりやれって言われたら息切れ起こすし、ソコは一緒じゃないかな」

 まずはこの、煙の出る嗜好品を疑えば全てが解決すると思われるけど、余計な発言で俺に飛び火する事だけは避けたく、灰皿が無い間にフィルターまで到達した煙草の残骸を箱に仕舞い、中途半端に残さず飲み干せばよかった甘ったるいカフェラテで口内を潤していると眼前でちらつかされた、何所にでもある小石と空になったカップを交換する。

「さっきはイヤって言ってたけど、俺の肩がこんな感じだし。やり方は教えるから投げてくれないか?」

四十肩には早すぎるし肘が耳の高さまで上げられる時点で十mそこらの投てき位は出来ると推測されるが、長年タマッコロを触っていた影響か意識せずとも遠投に最適な部位を探す右手を観られては何も言えず、どうせ投げるならと石全体の砂埃を手の平へ擦りつけながら、コノ行動を承諾と捉えてくれた海野の発言を聞き留める。

「とりあえず、ムロチャンが左で投げる姿は見たこと無いから石を左手に渡して。印石の影響で変な物が出来るかも知れないけど、右手に収まる四角い入れ物を想像して、ソレが出来たら石を右手に戻して握りなおしてみ」

 こちらとしては初めての事だし一つ一つ確認しながら話して欲しかったところだけど、運が良かったのか奴の静観からして必然なのか、海野が出していた物を想像したものの縁の色が白いどころかひし形の、慣性か何か知らんがとりあえず時間を掛けて回転する四角い物体と一緒に言われたとおりの小石を戻して握り、先ほどの海野にはなかった薄茶色の靄を纏った右手を眺める。

「よし、そこまでいけたら印石を使う時と同じで、イメージを手に送ってアレに投げたら終り。今回は消す事が目的だから、アッチの石が消せる程度の適当なもので問題ないかな」

 その適当なものが一番想像に困るけど、具体例を出されてもその通りに出せる自信がある訳でもなく。海野が引き摺り回した氷を砕けなら想像も容易いが、まず、消す発想自体した事がない石に対しての妄想をする間、海野に待たせるのも悪いと、消滅の延長で思いついた破壊という二つの言葉だけを乗せて、振りかぶるだけ力の無駄な小石群へ手首のスナップだけで投げるが、投げた石に雷管序の火薬が詰められていたようで、衝突の際に爆発を起こし、消すでも壊すでもない、弾き飛ばされた石を海野みたく避ければよかったと思うには遅すぎ。捕球可能なライナー性の飛球と左腕を伸ばしてもグラブをはめていないのに取れるはずがなく、勢いを微減させた代償にしては大きすぎる摩擦熱が篭った左手を振りながら、対物は対物でも屋根でよかった住宅街の一棟に当たった石から視線を逸らし、今回は左手に移っただけの皮膚は破けてなくてもまた赤く爛れた部位の周辺をもみ続けた。

「いやー、消せとは言ったが吹き飛ばすとは思わなかったな。左手大丈夫か?」

「火傷にはなるだろうけど指も動くし大丈夫かな。それより、飛んでいった物は回収するのか?」

「したかったらやっても良いが、どうせ時間がたてば消える物だし放置で問題ないかな」

 なら何故、怪我を負ったのは自己責任としても、俺に使わせてまで後片付けに勤しむ必要はなかったと思われるがこの問題が解決した所でヒビラく左手が鎮まる訳もなく。石がどのように消えるのかは知らんが、コッチは何時までも水浸しの靴からして融けた後の蒸発が消えるの意味であろう、外気より早く篭った熱を抜いてくれる砕かれた氷の中から大きい物を数個左手に収め。俺からしてみれば目に当たる石くらい端へ寄せても良いと思うけど、蹴るどころか見向きもせず、上がらないとほざいていた肩を回しながら道の影へと消えて行く海野を追いかけ、一度やれば何度やっても変らないと言わんばかりの事件現場を踏み荒らした。

「──ところでさ、何時か忘れたけど綾美は自宅待機が云々言って、さっきのはチーフって呼んでるらしいし、お前って一体何やってんの?」

 いくら長年ルームメイトとして共にしてきたとしても、そこは従兄弟でも実の兄弟でもない友達という事もあって、何時も精密機械を弄り稼いでいる様には見えなくとも生活費を出してくれる内は詮索しないでおこうと決めていたが。近頃の身の危険を通り越し、絶命の恐れすらあった出来事から。彼女や夜中の変り者、そして今回の出来事の引き金となった二人組みとも面識があるらしい海野から今聞いておかなければ、謂れのない恨みを立て続けに向けられると記憶が薄れる前にまたやってくると思われる面倒事に正常な対応をしきれない自分を危惧し。一線も持たず入るのは店に悪く、数ブロック先の自宅では阻止される事もあり、吸い貯めを行なっている最中に渡された袋から、火傷を負っているし冷たい方が良かった缶コーヒーで右手を暖めつつ、出て早々に菓子パンを食らう海野へ問いかけた。

「ん?そりゃアレだけど。まあ、小難しい話は食った後にしようや」

 食べたい気持がない訳ではないけど、先発組みが直帰し、こちらの買出しを望んでいるとは考え難く、残したら何かしら言われそうな女性陣の機嫌を損なわないよう水分だけで済ませようと考えていたが、空腹を憂い、こちらの分まで購入し勧められもした物を食べずにいれば、今度は海野の気分を害すると、今朝の飯よりも昨晩の寿司よりも少ない夕飯である事を祈りながら、パンよりソバが多い気がする焼きそばパンを頬張り。俺と同じく食後の一服を欲する隣へ箱を渡し、設置型の灰皿を挟んで煙を巻き上げる。

「・・やっぱ食後の煙草は良いものだねー。こんな気持ちであっても説明しないといけないか?」

「んー。まあ、聞かなくてもどうにかなる事だし、ノリ気じゃないのなら無理強いはしないよ」

 俺の応答が悪かったと言われるとその通りであろうが、出会いなら中学、同居なら高校から連れ添う野には俺の心理などお見通しと思っていたのは大きな間違いだったようで、簡潔で良いから教えて欲しい意味を含ませた言葉をそのまま捉え、煙を吐く他には飲み物を流すしか使われない海野に釣られて、続け様では流石に吸いきれない煙草を擦り網底の溜め水に落として足を動かし、マンション内の昇降機を待つ間に伝えられた『仕事仲間』との、その先が知りたかった言葉を頭に残したまま四階にある自宅へ戻り、俺にはマネ出来ない、この図体で年下だと思う方がおかしい大男へ命令する神野島達と帰宅時の挨拶を簡単に済ます。

「あ。アッチに行く前にムロチャン、この前使ったコンロは何所に仕舞ったのよ?」

「何所って、お前が食器棚に仕舞えって言った・・」

「オイ小僧‼姐さんに向ってなんて口の・・」

「はいはい。くだらない労力使わなくて良いから、タクちゃんはまな板に集中する!」

 帰宅早々トイレに駆け込む海野と、事故さえしていなければ向こうに居るはずの彼女が知る人物となれば一期一会になるはずがなく時間の問題とは思っていたが。出会いが出会いだったからか、その予想より早く新しい従者より下僕に近い存在かもしれない人物から怒鳴られないよう靴の乾燥を諦め、フローリングを濡らす靴下とこのまま返すのは気が引ける汚れたローブを脱ぎ、この程度で回したくはないけど致し方ない洗濯機を最小水量で動かしてから。コレも魔法と信じたい、砂糖とは違う穂のかに甘い香りと蚊柱のように粉塵が舞う室内を進み。裸体より、この場所で脱ぐ必要があったのか気になる彼女と視線が会う前にベランダで立ち往生している風を部屋へ送り込んだ。

「ふぅ。あ、帰ってたんだ。おかえり昌人」

 神野島じゃあるまいしもっと気にするべき場所があると思われるが、蒸し返して恥じらいを与える必要もないと彼女と対面になる何時もの座布団へ挨拶の返しを口に出しつつ腰を落ち着かせ。お代わりが何たらで卓上のカップを回収し、台所へ消える、順応出来るまで待って欲しかった彼女がドアに隠れるまで見つめ続け、高校時代に受けた面接の様な重っ苦しい雰囲気に呑まれないようテーブルに散りばめられた、ロージンにしては粘り気が少ない粉を布巾で拭き取り、こちらが発言しないからと容易に想像できる軟弱顔からの話を聞き入れる。

「少年よ、君が使っていた魔法についてだが、アレは印石を使った物なのか?」

「んーどうなんですかね?俺も何が起こったのか分からないもので、印石が・・」

「印石と不肖手(ふしょうしゅ)が絡んだ時の減殺な。ムロチャンの腕ならアレくらい簡単に避けられるけど、俺が説明するよりソノ石を見せた方が早いかもな」

 さっきのコンビニでは思うまま質問してしまったけど、今思えばあそこで断ってもらえてよかった、この手の話しになると高確率で出てくる新しい用語を頭の隅の隅へ置いておき。海野に促される前から出すつもりだった印石を胸元からテーブルへ移動させ、触るとかえって窒息させてしまう花に付着した白粉を振るい落とす。

「なるほど、結晶痕ですか。しかしチーフ、なぜこの少年が上物の印石を?」

「そりゃ室谷家の長男だからな。表札で気付かなかったのか?」

 悩んだらコノ人に占ってもらえと云われているらしい母親が有名なのは、最も欲する小学生の時から聞かされてきたが、ソノ息子だから出来る事なんて何一つないけど。名だけで納得した人へ訳を問い、嫌でも行き着く、兄妹より神野島と過した時間の方が多かった常人には理解されない幼少期を蒸し返してまで質問する事でもなく、俺の代わりに印石の入手経路を話してくれる海野の声を聞き流しながら、花弁から落ちた粉塵と一緒にタンス上の白粉を布巾へ馴染ませた。

「昌人―。何で私の服洗ってるの?」

「何でって言われてもねー。まあ汚れていたからかな?」

「じゃあ、寝るときの服はどうするの?」

「無いのなら神野島の寝間着でも借りたら良いんじゃない?」

「それでも良いけどさー。神野ちゃんの服だとちょっとお腹が出ちゃうんだよ」

 奴の衣服だとヘソ出しファッション状態になり腹が冷え、更に、服の締め付けで寝辛いってところだろうけど、そもそも寝相さえ良ければ風邪を拗らせる事もないし。圧迫感にしても、季節は違うが『長い付き合いだし、ちゃんと隠しているから良いじゃん』と申されるエアコンの長時間使用による電気代惜しさに居座る夏場の神野島みたく、陰部を隠しただけの格好で寝る選択も、恥部を隠す布を目視できないようにする為の衣類を所望するならワイシャツでも何でも引っ張り出すが、今でこそ彼女の動きに合わせ小突き合う程度に留まるカップを任せていると大惨事を引き起こす予感しか浮かび上がらず。先程の内容に付け加え、俺の言動に対しての小言を放ち続ける彼女から、少量ながらも小麦色の液体が右往左往するトレイを受け取り、入った当初に出されていたカップから順に配っていく。

「うー、人の話しは聞かないし、ごめんなさいかと思ったらお盆だけ持っていって意地悪までするし。仕事をしてたとしてもそんなんじゃ社会に出たとき大変な事になっちゃうよ?」

 繰り返される小言に飽き飲食店の背景音と同じ扱いをしていたのは確かでも、世間での社会とは少々違っても長年働いていた事だし、この世の渡り方程度はワキマえているつもりだけど、彼女から言わせればバイトで稼いだ小銭を娯楽につぎ込む学生となんら変らない存在であるらしい苦言へ反論させる暇を与えないかのように、わざわざ対面へ置かれていたカップを近づけ、俺の隣に座る意思を見せた彼女に喋る動作を忘れ、自分のカップどころかコチラのカップ内にもティースプーンを突っ込み茶色い湯葉のような膜を下の液体へ馴染ませる彼女に台詞を忘れ。ココに入ってきた時と同じ匂いを放つ彼女に懐古し、色は似ていてもソノ中には一滴たりともコーヒーが含まれていないミルクココアでその思いを強調させていった。

「──つっかれたーから私も話しの輪に入る」

 アノ廃墟で彼女が言っていた魔法の使いすぎで起こる症状なのか。皆が黙々と板状の機械をなぞる流れについていけず、寒気と暖気を換気している他に理由が思いつかない戸締りを行なう俺が居るだけの部屋に四人で卓を囲い談笑する姿が見える神野島に毎度の減らず口は叩けないと悟り、一時間もすれば慣れる室温に耐え切れずエアコンの設定温度を変更し、俺達だけならまだしも客人が居る前でベッドに倒れ、今でも十分見える太ももを更に見せ付けるだらしのない小娘を観察するには絶好の場所であろう元居た座布団へ座りなおした。

「お疲れー。じゃあ神野ちゃんの作ってくるからちょっと待っててね」

「あー、ムロチャンの貰うから行かなくていいわよ。そして、暇そうにしているムロチャンはソコのお菓子投げて」

 奪われた事に気がつかないとなれば、まだ異性として認識している証となるキワドイ生足から目を逸らすも、長い事離れ逸らしたままやれる自身がなく頼まれたからには投げなければならず。元は俺の物だったマグカップの、ワザトと勘繰ってしまう、下唇で作り上げた口付け跡へ口を付ける、分かり易く十台の時に聴いていた言葉で言うところの『関節キス』を行なう奴に言われた通り、寝そべる体勢でも限界まで手を伸ばせば取れるはずの、茶菓子として扱っているらしい菓子鉢から、煎餅と饅頭の中間の洋菓子が封入された袋を体ではなくベッドへ投げた物と同じクッキーを自分の寂しがる口へ押し当てた。

「でも、それじゃ量が少ないし、タクちゃんのもあるから行って来るよ」

「そのタクちゃんなら抜き型を買いに行って当分帰ってこないし、コレくらいが丁度良いから。まったく・・ショウちゃんはショウちゃんで叩き切ろうとするし、タクゃんは細々した事ができると思ったら花の形にするって言い張るし。よくペアで居られるものね」

「お手数おかけしてスミマセン姐さん。しかし、こうみえても何だかんだ上手くいっているので、今更相手を変えるものアレかなと」

「ふーん。まあ、二人がいいって言うのなら側がトヤカク言う事も無いわね。ごめんね・・・じゃあ、話しを変えて。ムロチャンは誰と組むつもりなの?」

 意図しない睡眠でどうする事も出来なかったとしても数日だらけていた事に変わりない行いのお陰で体が鈍ってしまい、ちょっとした運動とは違うがソレに近い行動をしただけで疲弊し、何でも良いから力を加えていないと寝てしまいそうな体へ、焼き菓子を食べるという咀嚼力を与え、三人ではあるが実質、神野島と『ショウちゃん』というあだ名の持ち主である軟弱者の二人の会話を聞き流しながす最中に訪れた問いかけに、唾液で纏まったクッキーとは違い意味の整理どころか理解もできていないまま、空になった口と喉を使う。

「組むもなにも、お前が払ってくれるとも思えないし当分は海野で良いんじゃないのか?」

「なに意味分からない事言ってるのよ。私が良いのなら素直に『一緒になってくれ』って言えば良いじゃない」

「は?お前と一緒とか、お前こそ寝言は寝てから言えよ」

「なによそれ!折角ムロチャンに選ばせてあげよって決めたのに、そんな言い方するのなら頼まれても一緒になってあげないから!」

 質問の意味を間違えていたとしても、どうせ何時もの馴れ合いさえ行なってしまえば答えを教えてくれると思っての返しのつもりだったが、携帯を放り投げてまで神野島を宥める海野の迅速な行動を見た後に同じ思考が生まれるはずがなく。擦ったら確実に隣の人から怒られる頭をやめ。アスファルトヘ頭より先に衝撃が加わったらしい右肩を揉みつつ神野島の問への補則をしてくれる海野との対話を始める。

「すまん、ムロチャンが何の話をしているかは分からないけど、ソッチじゃないんだ」

「じゃあ何だって言うんだよ?」

「車の中で話したら黙ったままだったから考えてると思ったんだけど、帰りに催促しておけばよかったな、スマン」

「だからソノ話すべきってヤツを教えてくれないと、俺としても返事に困るぞ?」

 運転中なのか逆流に耐えている時なのかは知らんが、どちらにせよ大惨事を免れ、目覚まし時計の分針を弄る程度で済んだと思う事にした、ベッドへ再びうつ伏せで体を預ける神野島を眺め。これ以上の諌めは神経を逆なでさせると察し、飲み跡も動かした形跡もないマグカップを持ち上げ、円滑に言葉が発せられるよう湿らす海野に対抗し、明らかに先程の薄茶色とは色が違う緑色のクッキーを口に含んだ。

「掻い摘んでも飲み込めないと思うから初めから話すと、俺達魔術師ってのは基本二人一組で行動するもので、その理由を簡単に説明すると攻守、潜入と連絡、探索の分担。まあ、もっと簡単に言っちゃえば一人でやるより何かと都合が良いからって事だな。そしてココからが本題で、本当なら正式に術師として認められた後にペアを決めるから、俺もそのつもりで検定品を送ったんだけど、その直ぐだったかな?ムロチャン達を探している時に、今日中に決めて連絡しろってお達しがね。それでアノ廃墟に向う途中で話したんだけどムロチャンは聞いてなく、今に至るって感じ。とりあえず、形だけで良いからタクショウ以外の俺達で決めてもらえるか?」

 前回の話しでは、学校のような面倒な課程をふまないと術師にはなれないが、俺と神野島は状況を考慮しての特例とか何とか言っていた気がするけど。今までの生活では暇そうにしていた海野から察するに、物を見る前から採用を決めるほど人手不足じゃなさそうで、団体なのか企業なのか質問したい己を押し殺し。肩揉みのせいでこっていると勘違いし、揉む、叩くとは違う抓る手法で右肩に痛覚を与える娘ではなく、今回で一番泡を食ったであろう、他人なら思う事はあっても絶対に話したくない奇抜な髪色をした海野の顔を見つめた。

「分かった。気に食わなかったら変更できるだろうし、とりあえず俺とで・・」

「じゃあアノ時言ってた防衛型同士は組めないっての嘘なんだ」

「ソレは、何て言うか。組めないより望ましくないってだけで、別に組もうと思えば組めるし、ソッチの方がスムーズに進行するケースもあるから」

「フーン。だったらムロチャンと海野のどっちを選ぼうか真剣に考えた私が馬鹿だったのね」

 回していれば何かしらの玉が飛び出してくる福引機のような性格である事は、今までの失敗から学び、また、ココを出る前の一波乱より数ヶ月前の俺からも、当たり以外はあしらっておけと教えたにも関わらず。良いとも、俺も似た態度をとる事もあるし、悪いとも言い切れない、不貞腐れ、面倒な奴へ変貌した神野島につけこまれた。良くいえば周りに相談できない悩みを打ち明けられる存在、悪くいえば一人で居たい時も付き纏ってくるお節介な存在の海野へ憐(れん)情(じょう)に満ち溢れた視線を送り、自然と痛みから逃れようと力を入れ始めた右肩を抓り続ける手を反対の方へ移動させる。

「じゃあこうしようか。俺と神野島が組んでムロチャンと綾美が組む。コレならバランスも取れるし、丁度良いだろ?」

「ソレだと今の生活と変んないしツマンナイじゃん」

「決まったからって離れ離れにはならないし大丈夫だよ。それに、神野ちゃんとか海ちゃんと組んじゃうと昌人が甘えちゃうし、私が責任持ってお世話するから安心して」

 カップル云々の時でさえ俺の意見なんて聞く耳すら持ってくれなかったし、交際宣言より前から同棲が決まっていたかのように物が増え。近くに家があるにも関わらず、隙あらば住所も変えてしまおうとしている彼女以外の者まで居座る、乱脈とした今の生活以上に捻じ曲がらなければ好きにしてくれとの嬉しくない余裕に身を委ね。俺の肩に恨み辛みをぶつけられた後だからか、柔らかい手つきにみえる神野島の両肩を揉み解す仲良し姉妹から、卓上の銀箱片手に逃げ、ベランダに小指以下の小さな照明を灯した。

 体温で暖められた室内に慣れすぎたのか、あの時見たく雪は降っていないのにも関わらず、バイトの深夜上がり時より寒く感じられるエアコンの室外機が煩いベランダから眺められる、運転している側からすれば気が散る原因でしかない、鉄骨にまきつけられたイルミネーション付きの大きな橋をくぐるプレジャーボートを見送りながらの喫煙に釣られた。ようやく、目に当たる所では吸うなと願っている事に確信を持てた彼女に、シケモクとして残してもコノ調子では味わえない吸殻入りの箱を突き出された両手の上へ落とし。待機に飽き、カセットコンロの力を借り土鍋へ熱を伝える洋間に戻った。

「あれ?神野ちゃん、タクちゃん待たなくて良いの?」

「いいのよ。どうでもいい事に付き合うより自分の体が大事だから。ちょっと煮えるのに時間掛かるけど食べちゃうわよ」

 『人の噂をする時はゴザを敷いて待て』との言葉を知らない奴でもなかろうに。常時出ているものではあるが、熱せられた事により目視で確認できるようになった、蓋の抜け穴から噴出す蒸気を凝視している真っ只中に聞こえた、人力で調整しないと、怒り任せに閉じたように聞こえる玄関ドアの悲鳴の後。体験と周りの話し、何より自分の直感から訪れると身構えていた、喧騒を聞き流しながら、臭いを消せと食前に渡された飴玉を断り。何時ぞやの景品で貰ったものの、謳い文句の清涼感が強すぎ放置していた錠菓で痛くなった舌先を呼吸で涼ませ。安いからとしか思えない三割引のシールが貼り付けられた食品用ラップを退かし、ダマにならないよう広げられた豚のコマ切れ肉を、ポケット状に開けられた中央へ投入した。

「ちょっと!何で勝手に肉入れているのよ硬くなるじゃない‼」

「そんなことより姐さん!今からでも遅くないですから花形に」

「うるさいわね、そんなにしたかったら粘土でも買ってきてやってなさいよ!」

 この口論で最大の被害者は、明日にでも菓子折りを持って謝罪回りをしなければならない俺と知ってか知らずか声を荒げ続ける大小のオトナへ、神野島の家で話して欲しい思いを持ったまま白く浮き出た灰汁を取り除くも隣の彼女は異物が気にならない人のようで。網杓子と一緒に置かれていたお玉杓子を使い、煮えはしても味は出も入りもしてない肉と共に野菜を小皿へ移し終えたタイミングで海野が持ってきた色とりどりの缶チューハイを、分かってはいたが、俺以外の人物が座るないし着席予定の場所へ置き。何故茶を出さないのか理解に苦しむ、朝と同じ白液が入れられたガラスコップを眼前に置かれ、朝食は学校給食と思い込み乗り越えたが、今回は二度と作らないと思っていた牛乳鍋になる組み合わせに顔を強張らせたまま両手を合わせた。

「姐さん。やっぱ見栄えが悪いと食が進まないと思いませんか?」

「だから、花にしたら周りの食べられる場所が勿体ないし、ソレまで入れたら今以上に見栄えが悪く・・」

「あ、オカワリ持ってくるからちょっと待っててね」

 食し方が違うからか前回みたく、牛乳と野菜が組み合わさった奇妙な味にはならないものの、醤油で味を調え、完成させられた料理に合わず。それなら先に飲んでしまえとコップを空にした事が災いし。喉が渇いていたと間違い、俺も勘違いだと分かっていても、半透明なガラスの内側へ液体が注がれるにつれ、勘違いが嫌がらせに思え。焼きそばパンで済ませば良かったものを欲望に負け菓子を摘んでいた手前、聞き入れてくれる訳がない彼女が俺の小皿へ集中している隙を付き、再び注がれないよう牛乳パックを相手の手が届かない俺の左足、ベランダ側へ移動させ。風邪を治すためらしいが、明らかに多すぎる、豆腐がむき出した岩に見える野菜の山を周りの者を巻き込んでの料理談義で満腹を紛らわしつつ一片一片口に運んでいく。

「ねー。そういえばさ、私達が居ない間に魔法使ってたらしいけど、どんなの使ったの?」

「私は綾美が見てた時と同じ氷」

「コチラは姐さん一人だった事もあってタクと交互に攻撃を」

「ショウが殆ど言ってしまいましたが、付け足すならお嬢が知っている通り俺が下属、ショウが上属で姐さんと手合わせを」

「そして俺が危なっかしい複合術を『爆散』させたと」

 全てが噛まずとも磨り潰せる豆腐であれば飲み込めるかもしれないが、嫌でも下あごを動かさないと喉に詰まるその他の具を箸で裂きながら、打ち合わせをしていたかのように質問へ答える四人目の言葉に、周りがコチラへ視線を送る中でも怯まず正面の神野島隣でアグラを組む海野へ眼光を向けるも、対象どころか周りも気が付かないようで。勢いよく上蓋へ穴を作り、ガスを噴射した彼女が余計な詮索をする前に口内の異物を飲み込んだ。

「そうだな・・海野が起こした爆発?とりあえず、ソレを防ごうとしたけど、透明でモヤモヤした物に気を取られて倒れたって感じかな」

「モヤモヤも気になるけど、その倒れた件から。ムロチャン何か新しい試みと言うか、今までと違う使い方しなかったか?」

「違うねー。強いて言えば左手が痺れてたから右手でやったくらいだけど、関係あるのか?」

 野球の影響もあって握力は左手が勝っているにしても、箸を筆頭に繊細な技術が求められる動作は右手を使っているし、手先へ伝達するだけでも利き腕の方が扱い易く力も加え易いと思われるが、酒のツマミなのかツマミの酒なのか分からない一名を除いた術師の先輩方は、原因が特定できても返答に躓くようで。誰かしらが答えを見つけるまでの間、話し相手を失った、魔法に関してはこれまでとおなじく、同期の扱いで良いはずの、俺の取り皿から肉だけを奪う神野島と動作だけの煽り合戦を行なうも。頭を指先で突く動きを立腹と間違え、謝罪してきた海野に謝り返し、似たようなものではあるが、見下すよりホクソ笑むが正しい神野島に本当の憤りを沸き立たせながら、噛む度に食欲が消失していく繊維に沿って裂かれた白菜を丸飲みにしていった。

「こんな空気の中話すのも酷でもあるし、前にも話した気もするけど、まあいいや。そんで、詳しく説明すると眠たくなるから簡潔に説明すると、魔法にも箸を持つ時みたいな得意、不得意ってのがあって。出したい個所に適合した場所なら極端な話し、精根尽き果てるまで出せるけど、適合しなかった場所。分かり易く起こった事で話すと土系統の印石とムロチャンの右手のように意図しないどころか何を出しているのかも分からない現象を減殺。適合していない手を不肖手(ふしょうしゅ)、足を不肖足(ふしょうそく)って呼ぶんだけど、まあ、憶えたところでテストがあるわけじゃないし、辞書引いたら出てくる減殺に近いからそれだけ憶えておけば良いよ」

「じゃあさ、私みたいに両手で同じ物が出せる人はどうなの?」

「それは、世の中に両利きが居るのと同じと思えば。使い方とすれば、交互に撃つとか強弱をつけるとか、重ねて強大な力にするとか、神野島の思うがままにどうぞ」

初めの息継ぎまでこそ面と向って話したものの、飲まず食わず、真剣に耳を傾ける神野島と対話する海野に、刻一刻と寿命が縮みはしても幽霊ではない筈の俺の存在そのものを問いたい己が居ないわけでもないけど、ソレを行なったところでこちらにメリットが生じないとの損得勘定で。文まで作り上げ、残すは文に合わせて形を変えるだけの口に入れた勢いを無駄にしないよう食道を通したエノキタケが胃に到達した開放感から、天へ向け空気を吐き出した。

「しかしですよチーフ。いくら室谷家の坊ちゃんだとしても不肖手で減殺された法術でチーフの爆発を防げるとは到底・・」

「ソレはアレだよ。当たる前に運よく俺のが当たったか、もしくは減殺じゃなくて上属系の何かが出ていたとか。ほら、風とかなら見た目は似た感じになるだろ?まあ、何にせよ、衝撃は体の対応力にしても、魔法は受け止められる防御型って事に変わりはないよ」

「ふー。コレってお店で飲むよりジュースっぽいけどちゃんと酔えるんだね。昨日神野ちゃんが買ってくれた蜂蜜酒は高いし今度からコレにしよっかな」

 いくら飲んでも気分が上向かなかったスクリュードラーバー程度で酔いが回るのであれば、いくら割ったといっても、元の度数が高かい蜂蜜酒とやらを空にすれば泥酔するはずで。愚痴だけならいくらでも聞いてやるが、前は上手くやり過ごせたといって同じ事を行い解決するとは思えない、泥酔後の泣き付かれが訪れないよう監督しなければならない立場ではあるものの、魔法がらみで俺に喋る権限が与えられると思いきや、鶴の一声で酒談義に変り、想像していた文が消滅した穴を埋めるように入り込んだ疲労に集中力を欠き、心なしか乱雑に扱っている気がするカシスオレンジと表記された缶へ口を開封する彼女を見届けた後、座ってもいられない体を横たわらせ左肘で作った腕枕へ頭を乗せる。

「ふーん、ムロチャンにもスケベ心あったんだ。もしかして今までにも見ようとしてた?」

「あ?露出狂の美咲殿に興味なんてないよ」

「なによそれ、知ってる人ならともかく、誰の前でも脱ぎだすようなゲスな女じゃないわよ」

「まあ、そんな事はどうでも良いんだけどさ、悪いが少し休ませて貰うぞ」

「駄目だよ昌人。欲しくないからって食べなかったらコンコン酷くなっちゃうよ?」

 今時小学生にも使わない擬音で風邪を例えられると、こちらとしては同調、通常、反抗のどれを選択すればいいのか迷っている所に映りこんできた、とりあえず困った時にやっておけば話が流れる、額へ手をやり、熱を測る彼女の頭を撫で回し、代わり映えのしない小言で雑念を消し去り、起こってしまえばコノ場の明るさも苦にならない世界へ浸っていった。


「『なんだかんだ難を逃れ帰路につくも、日中の多大な出費序の度重なる厄の影響で夜の会食中に寝る』・・んー。もう少し上手く書けそうな気もするんだけどなー。ど・・」

「ふー。ココのお風呂って足をピンと伸ばしても入れるからちょっとのぼせちゃった。あと、お風呂のボタンって自動のところが赤くなってたら温かいままだよね?あとあと!ちょっと汚れが気になったから掃除しておいたよ」

「お疲れさん。ボタンをいじってなければずっと温かいから心配ないよ。今、冷たい物を出すからくつろいでていいよ」

 長い時間コントロールパネルが点灯していたし、シャワーだけではないと分かってはいたが。溜めた湯を捨て再度お湯張りするのは水が勿体なく、だからといって追い炊き、足し湯機能を停止させては、そのうち来訪し、何時入ると言い出すか分からない海野の相方の苦情を聞かされる事必定で。日付が変るまで残すところ半周に足が出る程度の時間で内容積と同じ使用水量にならない事を祈りつつ四ドアの冷蔵庫を片っ端から開き。前回戻ってきた時に入れた記憶が蘇る、種類ごとに陳列された缶の中から突出したミックスジュースを片手に、脱衣所にあるはずの櫛を使えばいいものを手櫛で髪を整えながら、俺が書いた文章を黙読する彼女へ近寄った。

「ねー昌人。コノ日って昌人が寝た後も何かなかったっけ?」

「あったけど、それを書く前に書く事が多すぎてな。あんまり冷えてないから早めにどうぞ」

 何所で記入欄を変更したら良いものかも分からない異常で多忙な日々を極限まで要約し、見られるという事は自分が思い出せるだけではいけない、当事者なら誰でも思い出せる文章で書き起こせるのであれば、是非とも代筆して欲しいものだが、言うだけ言い台所へ逃げた彼女に進言する気にはなれず。正直に皆と一緒に居過ぎて寂しいと言えば良いものを、ココから徒歩で10分と掛からない場所にもぬけの殻となった実家があるはずなのに、二人きりだと海野がヒモ男に思われる。綾美だけに任せられない。別々に生活するより一緒の方が節約できるなど、その場で思いついた言い訳をしていた神野島が寝る予定の、今の状況では俺のとは言えない俺達の寝室の隣、妹の部屋へ赴き。何故よれているのかを考えるより正す方が早いベッドシーツを張り詰め、入りきらないとは分かっているけど、多少なり確保しておかないと怒られそうな収納スペースを居た当時に使っていた制服が掛けられたクローゼットに作ってから、肌色の水を入れたグラスが二つ並べられている元居た場所へ戻った。

「ねー昌人。昌人は飲み物ばっかりでお腹すかないの?」

「んーそうだねー。空いてはいるけど、カップ麺探してる間にあいつらが来るだろうからね」

「そっか。牛乳があったらご飯の時に丁度お腹が空くんだけど、買えば良かったね」

 何かにつけて白濁液を飲まされる俺の身になってほしいところだが、文句を好き嫌いと捉え、今の、朝と晩+アルファから食事毎に変更されては、いくら体に良い物でもソノ体が対応できなければ意味がなく。誰にもメリットが無い思い付きを口ずさむ前にお世辞にも綺麗とは言えない、目立たない色を切らしていたと思われる、赤い糸で仕上げられた、甘い個所を何重にも返し縫された振袖が特徴の、予備のローブを被った彼女の髪を撫で乱し。一人分を取り分けたお陰で喉を潤すには丁度良いグラス内の液体を飲み干す。

「うー。せっかく綺麗にしたのにー。私が大丈夫だからって神野ちゃんとかにナデナデしたら絶対怒られることなんだよ!」

「じゃあ、これからはどんな時でもナデナデしないよ」

「そうじゃないんだって!何で子供みたいなヒネクレかたをするかな。だからね、私が・・」

「それはそうと、匂いがしないけどアノ粉やめたのか?」

 コレを子供じみたと言うのかは知らんが、捻くれ者なのは自分が一番分かっており。サキに言っていた苦言については、彼女の半分以下の髪だからか、神野島に同じ事をやって怒られるどころか気が向けば振るい正す他にしてこないと実証済みで、このまま言わせていると後に響く話から、何時も嗅いでいた粉の匂いが感じられない事へ切換え。文句を放つ最中でもやっていた手櫛を中断してまで、旅行カバンが放置された脱衣所に駆け出した彼女が戻ってくるより先にコチラは家を飛び出し。落ち着いて考えてみれば回りが均等に青々としているなか、悠長にしていられない田へ水を送るためのパイプへ腕を突っ込む。

久しく使用していないところから推測するに、風で送り込まれた砂が集まるパイプ内へ周囲の雑草が幅を利かせていると、毒蛇が住んでいたら痛いでは済まされない事も忘れて左肩が隠れるまで突っ込み、ミミズにすら当たる感触がない砂利を掻き出し。見るからに持ち上げる動作だけで千切れる草が生えた土嚢を諦め、家の裏手にある育苗箱用のビニールハウスの建材が置かれた農具置き場から、吹き飛びより動物の侵入を防ぐための土嚢を数個持ち運び、用水路を流れる水を塞き止めるように一つ目の袋を置き、ソノ上に乗せられたパイプを固定させるための砂袋を用水路へ落とした。

「んー。板は入っていたから水は逃げないけど・・んー、まあ、どうにかなるか」

 この場合、『後悔先に立たず』と『転ばぬ先の杖』のどちらが正しいのか分からないけど、どちらにせよ自責の念から解き放たれる事はなく。作業中が暇すぎるからと耕さず見てみぬ振りをしてきた己と、何も知らない彼女に話したら縦返事が来ると知っていながら問うた己を責め立てつつ、彼女に突かれるまでの間、水路から迷い込んだ山水が湿らす田を眺めた。

「ねー、怒らせること言っちゃったのなら謝るから何してるのか教えてよー」

「怒っちゃいないし、ボーっとしているだけだけど、あいつ等が到着したのか?」

「神野ちゃん達ならまだ着てないけど、用事があるのなら電話してあげるよ」

 何時でも掛けられるよう電話帳のプロフィール画面まで移動しておくのは良い行いだと思うけど、YES、NOを聞く前からコールボタンを押すのだけはやめて欲しい、携帯を右耳にあてがう彼女の頭へ逃げる合図の手を乗せ、雪が積もった日はソリで遊んでいた坂を登りきる。

「ねー。昌人がでないから神野ちゃんが困ってるよ。言いたい事があるのならちゃんと言わないと駄目だよ」

 と申されも、勝手に用事があると思い込み通話を始めた訳で俺には関係のない事ではあるが、彼女は問題ないとしても、電話の向こうで待機する神野島だけは無視できず、離れてもマイクに拾われるよう彼女には煩かったかもしれない声で到着を急かし。除草剤はもっての外として草刈機は消失し燃やすには生気に充ちた草を除去する為、長柄の半月刃を納屋から持ち出し、今やっておかないと明日には困り果てる物干し台周りの草を地面から剥がしていく。

「・・うん、じゃあ牛乳だけで。あと、海ちゃんに安全運転でって伝えといてね」

 室内での会話直後で忘れようにも忘れられないといったところだとしても、どうせ飲むのは俺だし、緩く断る文を思いつかず承諾しかできないが相談だけはして欲しかった、電話へ喋る彼女の声を効果音に削り取った草に付着した土を振り落としていると、地につけた手の真横を削る半月刃に急ぎ左手を宙に浮かし根毛(こんもう)一つ残すまいと底に眠る小石まで発掘する長柄を押し止める目的のオマケで生まれた即席の手すりを使い、砂まみれの膝を立てた。

「言葉通り、根絶やしにしようとしてもどうせ風やら動物が種を持ってくるから、掘るというより削る感じで大丈夫だよ」

「分かった。じゃあ、後は私に任せて日記を付けてて良いよ」

 教えでは大げさすげる補足が残っているけど伝え終わったから実行に移せと言わんばかりの、テレビで当たり前のように流される流行の曲名もアーティスト名すら分からない俺に断定出来る筈がない鼻歌を交え、草の生えていない面まで削る彼女の側へ竹で編まれたテミを置き室内に戻り、足りなければココへ書けと申される、去年の同じ日に戻された罫線の他に何も書かれていない欄へペン先を押し付けた。


 ──明かりだけでも十分なのに周りから響く声も合わさり、嫌でもお開きの頃には目が覚めると思っていたが想いのほか疲労が蓄積していたようで、物音どころか豆電球一つ着いていない暗がりの部屋で意味もなく起きているのも辛く。熱からず寒からずの、程よい温かさを逃す前に二度寝を試みるも。見た記憶の無い夢の続きか、突然の瞼越しの閃光と神野島という人の皮を被った悪魔の囁きから逃れるように、人肌に暖められた力を入れずとも形状通りに凹んでくれる肌触りのよい不思議な物へ顔を埋めた。

 しかし、再び無の境地へ到達する願い虚しく散去り。意地悪く意識が散漫になってきた頃合を計りポルターガイスト現象で揺れるクッションに嫌気がさし。夢の余韻か、奴にしては珍しい根気強く起床を促す悪魔に従い上半身を起こすも、卓側で寝る、普段着を寝間着代わりにしていると思われる、青と白のボーター柄のワンピース娘。そして、彼女の体へ顔を埋めていた俺。更には、ソノ一部始終を間近で観覧した神野島ついでの、茶化しでも失笑でもいいから、表情に出して欲しい、彼女と俺のどちらを見ているのか分からない視線を向けつつマグカップを口に添える海野と。時間設定を間違えた目覚まし時計の比ではない起き方をしたが、代償として絶望の二文字で埋め尽くされた脳のまま下唇を噛み締めた。

「うー、ちゃんと起きてるから、もうちょっとだけ、このまま・・ね」

「子供のムロチャンが起きてお母さんの綾美が寝ダレてどうするのよ」

 何時なんどき彼女の養子になったのか思索するも、渇いた瞳を潤す一瞬で視界に入った正面の冷たい視線を送る人にこれまで口篭っていた理由を思い起こされ、弁解したところで苦し紛れと断定される状況下で挟む口なんて存在するはずもなく。神野島の介抱によって無理やり起こされた彼女が自我を芽生えさせる前に右手で首裏を痛みが出るまで擦り。何の感情を込め、差し出したのかは海野にしか分からない淹れたてのコーヒーで何時でも発声できる状態を作る。

「うー、まだ11時半だよ?こんなに早く起きてもすることなんて無いし、昌人だって眠たそうだし、もうちょっと寝かせてよー」

「そのムロチャンはコーヒー飲んでくつろいでるじゃない。だから早く支度してショウちゃん達のヘルプに行くの」

「うーん、でも、ショウちゃん達の上司は海ちゃんなんだし、こんなに一杯の人で行かなくてもいいんじゃないの?」

 口だけに専念し二者択一そのものを忘れるよりかはマシかもしれんが、洗濯機の乾燥機能を使ったとしても、物が物だし生乾きだと思われるローブにこの場で着替える彼女を視界に入れないよう、発声準備を整えたにもかかわらず機会を与えられなかった、無駄骨以外の何物でもない焼け爛れた舌へ残りの熱湯を流し。彼女との会話で疲れたにしては違う気がする、無言のまま素足へ布を履かせる神野島へ両足を預けた。

「ふー。でさー海ちゃん、ショウちゃん達も合わせると6人になるけど、こんなに沢山の人が必要って事は施設か何かなの?」

「施設っちゃ施設だけど、俺だけがお呼ばれだったのに、神野島が行くって聞かなくて」

「なによそれ。私はただ、飲酒運転にならないムロチャンを使うのなら一緒に行くって言っただけでしょ」

「あーそっか。まあ、そんな事はどうでもいいとして、綾美一人に留守番させるのは可哀想、じゃあ連れて行こうってイキサツだな。そんでもって、念のためにムロチャンはコレを、そして神野島は綾美が予備を持ってるはずだからソレを。脱がなくてもそのまま被れば良いからな」

 酒を飲んでいないのが俺だけにしても、何故相談もなしに送迎係とされているのか理解に苦しむが、今更何を言おうと周りが納得した決定事項が覆るはずがなく、頼んでもいない靴下を履かせてくれた神野島へ空になったカップを持たせ。ベッド目掛けて投げられた、彼女のとは色が違うだけの白色のローブを頭から被る。

 彼女のは体から放出されるモノというより、日中にアート工作用として使用した、食べ易い半溶けを通り越し包み紙の捻られた個所にまで勢力を伸ばしていた一口チョコレートの甘い匂いだったがコレは、いずれ身に纏う事もあろうと置く底で眠らせていた、湿った和服のような臭いがするが、着たそばから脱ぐと誰に何を言われるか分かったものでなく。これまた煙草を吸っといて何を言うかと指摘されるカビの異臭を放ち続けるも、コチラもコチラで、自分ではどうにもできないにせよ、言ってくれた方が気持ちに余裕が生まれたはずの、露出した部分だけでは飽き足らず着ていたローブを脱ぎ全身に擦り込む彼女から飛ばされる、白い塵を頭から被り続けた。

「ふー。神野ちゃんありがとね、渡されなかったらそのまま出るところだったよ」

「貸してもらった物を返しただけよ。でもコレ、専用品と同じ感じになるのね」

「うん。初めは躊躇ったけど、カンカンにも使って良いよって書いてあるからね」

 昔から教師に何を言われようとも、時には実力行使にも屈せず、地毛が見え隠れする頃には奇抜な髪色にしている海野と間違え、馴れ馴れしく接してきた事が発端だったりするし、誰かに話しかけた序に化粧品とでも言われて買わされた怪しい物かと思っていたが、神野島が疑うことなく使用した感想を述べたところからみて問題のない物質だったようで、非情になるべきか、『触らぬ神に祟りなし』の応用で知らないフリをしておくべきかで争っていた脳を『深読み』の三文字で落ち着かせたのも束の間。今にも菓子を摘みだしそうな、長くなる事必定の化粧品を題材とした会話の花を最も恐れていたと思われる海野から投げられるキーホルダーと財布を両手に収め、手先で移動するよう指示してきた海野の望みを叶えるため台所へ足を動かした。

「それと。靴だが、勉強熱心なアイツがやるって聞かなくて乾かしたから多分大丈夫」

 奴が駄々をこねた記憶が無いって事は俺が睡魔に負けた後にもう一波乱あったらしいけど、深く穿るなといわないばかりに外廊下へ飛び出した海野を質問攻めにする気になれず、到底、乾かしたとは言い張れないはずの、足を通した瞬間に靴底から伝わる冷感を味わいながらドアへ手を添えたまま待つ海野の下へ駆け寄り。こんな夜中に出歩く人なんてソウいないと思うが、日のあたる時間より怪しく思われる服装を目撃されない事だけを祈りつつ、一応枠内に収まりはしているが右側のドアを開けようものなら他車へ衝突する車の助手席から運転席のシートへ体を沈め、車に火をともした。

「それで?その仕事とやらに足で使うのはいいが、何所・・」

「ふふーん。ムロチャンと逃避行しようとしたようだけど詰めが甘いわね、そんなので私が気付かないと思ったの?」

「だからな?言った俺も悪いが、付いて来て後悔しても遅いからって・・」

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。私ならまだしも、海ちゃんが一緒にいたらソウならないから。それと、忘れてたみたいだから神野ちゃんと探したんだけど、コレであってるよね?」

 これ以上、知らなくても不自由なく生きていける事へ首を突っ込ませたくない海野なりの思いやりが解らんでもないけど。神野島とは違い、変化を望む人はいてもコレだけは遠慮する、災難に見舞われた俺ならこき使っても手遅れ以外の何物でもないと言いたそうなリヤシートにもたれ掛る女性陣だけに視線を向ける海野の胴体をシートベルトで押さえつけ、目的地が何所であれ、先に動かすからには失敗できない駐車場からの脱出を、運転してきて始めてかもしれない外壁いっぱいまで直進し、パワーステアリングの力を借りてタイヤをすり削りながら後退した後、マンションの敷地を抜け出し。どの道、大通りには出るのだろうと半感応式信号機が赤く光る交差点の停止線で車を止めた。

「やっぱ、纏わりついて邪魔だし脱いでいいか?」

「駄目だよ。作戦衣とは違っても、ちゃんと体は温めてくれるんだから脱いじゃ駄目」

「保温より機動性がいるんだけど、まあいいや。そしてムロチャンよ、コッチじゃなくて反対側の。憶えてるかな?高2の時、神野島達と花火で大騒動した場所の辺りなんだけど。まあ、解らなかったら、朝行った駅前のモールだっけ?あそこを目指してくれたら案内するよ」

 混雑する花火大会より好きに楽しめるオモチャ花火との神野島命令に従い、奴との記憶の中では最も高額なものかもしれない特上寿司を運んできた白川さんも巻き込み。男三人、無い銭をはたき周りの花火を買い占め。寿司と花火。妙な組み合わせに思えるモノも実際行なってみると想像以上に硝煙が辛く、折角の高級飯が台無しになったどころか、劣悪な視界が災いし、火花が花火という火薬保管場所へ落下。危うく消防を呼んでのお祭り騒ぎになる所だった場所を忘れろとおっしゃる方が間違いの、ショッピングモール側を表とするならアッチは裏になる、再建計画とやらで売らせたくせに重機の一つも止められていない旧工業地帯の一角を目指しながら、酔いが残っていたのか部屋でやっていたはずの化粧品についての議論を聞き流し続けた。

「・・ねーってば。うー、海ちゃんはずっと変な機械弄ってるし、昌人は片手運転で眠たそうだし、神野ちゃんどうする?」

「海野は知らないけど、ムロチャンの片手運転は何時もの事だからそのうち反応するはずよ。仮に無視し続けるようだったら、綾美と一緒に寝ていたところを見られて気まず・・」

「化粧水のことを聞かれても俺には一切分からんぞ」

 何かしら変化があれば、何度呼びかけたのか知れない彼女の口を酷使する事もなかっただろうけど、こんな時に限って中型トラック一台視認できない変りたての赤信号に捕まり、気が抜けていたのは事実で、羞恥心と眠気を入れ替えてくれた事には感謝するが。コレがAT車なら勝手に進んでいたであろう、動揺の作用として訪れた一瞬の脱力よってエンストを起こしてしまったエンジンを掛け直す動作を応答で誤魔化す。

「ボーっとしながら運転しちゃ駄目だよ。それと、化粧水は難しいかもしれないけど昌人って、ほっぺたがピンク色と肌色だとどっちが好き?」

「化粧を変えるつもりなら止めはしないけど、俺は今のままで良いと思うぞ。そして、ご希望の場所に到着した訳だが、本当にあってるのか?」

 信号から陸上競技場の走路程度しか離れていないことだし、長々と停止している間に歩かせた方が早かった気もするが、到着自体が答えを表しているのに必要の無い一言を放ち、罵倒という言詞に換え返還されては困り。携帯の液晶を頼りにするくらいならつけても問題なかったルームランプを灯し、乗り込む際に持っていなかったとなれば後の二人か車内に隠されていた内線通話機の動作確認を行なう海野からの反応を待ちわびる。

「ん?今回のエンストは随分と長いが、今度はガス欠か?」

「いや、一応言われ・・」

「ふーん、やっぱアレってエンストだったんだ。もしかして一緒に寝るだけじゃ飽き足らず、他の事もやって疲れたのかな?」

「茶化しちゃ駄目だよ神野ちゃん。折角、気持ちよく寝ていた所を起こして運転させても文句一つ言わないんだから感謝しなくちゃ」

「・・んー、まあ楽しい会話をしながら運転したのは理解できた。ココなら歩いても苦じゃないし、後はコレ持って待機しときな」

 携帯で十分だと思われるインカムをなぜ全員分用意されているのかの他に、どれだけ渋滞に捕まったとしても一時間もあれば来られる場所だし帰っても問題ない場所で待機との命令が気にはなるものの、こちらの質問を受け付けるより先に飛び出した神野島を追いかけるも説得に失敗し、申し訳なさそうに彼女から拝借した印石を渡す海野を見た後に問えるはずがなく。同行は妥協するとしても所持品だけは譲れないようで、終いには土下座するのではと勘繰ってしまう程に頭を下げた海野に同情したのか渋々ながらも車へ戻り、思いついた当初はコノ色しかなかったと推測される赤い糸で何重にも縫われた振袖から取り出した携帯を彼女に預からせる。

「もしかしたら電話が来るかもしれないけど、そのときは適当に言っといてね」

「うん。でも、あんまり無茶しちゃ駄目だよ?使えるとはいってもまだ・・」

「大丈夫。私だって危ないと思ったら引くくらい出来るから大丈夫よ。それじゃ、よろしくね」

 まず、今でこそ上手く靴の上にあるけど何時何所で落ちるかもしれない、戻った頃には砂まみれになっている裾引き事態が危ないと思うのだが、転倒し、何所かしら打ちつけたとしても奴の行動に問題があった事にすれば良いだけの話しで。前が空いたのに移動しないのは勿体ないってところにしてもだ、まだ身長の低い子供ならまだしも俺と大差ない背格好をした人間が行なうのなら素直に外から入った方が楽だと思われる、前列の狭間に設置されているセンターコンソールを跨いで助手席へ移動した彼女と共に視界の彼方へ突き進む二人を見届けた。

「さてーっと。とりあえず、コンビニにでも移動して待つかね」

「駄目だよ。海ちゃんからココで待ってって言われたばっかりじゃない」

「っと言われてもねー。ココ駐禁だから怒られるのよね」

 時には牽引車まで通る事がある道で一車線潰されては仕事にならないって理由だったらしいけど、今となっては抜け道として通れば御の字の場所だし、禁止を解いてくれたら良いのにとは思うが、お偉いさんからすれば、通行量が減った、ソレすなわち、変化を望む者は居ないになってしまうらしく。何のタメにもならない説教を受ける前に、丸に斜線がされた、判らない人の為に駐車禁止とまで書かれた標識を指差し彼女が納得したところで車を転回させ、休憩所としては機能し続ける、極力明かりが入り込まない位置で運送トラックが止まっているだけのコンビニの正面でエンジンを止めた。

「アイツらがとんでもなく遠くに行かない限りはココでも大丈夫だろ」

「うーん、分かんないから試しに付けてみよ」

 試運転するのは結構だけど少々離れた位では影響しないと予想した理由でもある、長ったらしいアンテナを引っこ抜く彼女に届かないと言われても反応に困ると、多分本体の穴でも聞こえるはずの俺用のインカムからイヤホンマイクのケーブルを外し、電源の入切兼用の音量調節のツマミを捻る。

「ねー。ザーって音しか聞こえないし、やっぱりアッチに戻らない?」

「そうか?俺には『新人が居るから』って海野が言っていたように聞こえたが。なんならイヤホンつけて聞いてみるか?」

 『客と従業員の声くらい聞き分けろ』と教え込まれた経験がこんな所で活用できても嬉しくないが、再び駐禁位置で待ち、二人と警察のどちらが先に来るかという精神衛生上非常に好ましくない遊びをする気にはなれず。壊したと思いきや、着脱式だったらしいアンテナを元通りにしたインカムを起動させ、彼女に聴かせている間にタダで止まっているのも悪いコンビニへ普段着と錯覚したまま入り、適当な商品と一緒にコノ服装では当然の反応であろう冷たい視線を浴び、車へと戻った。

「ん?今から作戦ぽかったが、もう満足したのか?」

「うん、聴いててもあんまり意味がないからね」

「まあ、意味が無いにしても全員分あるって事は流しとけって事だろうし、俺のはこのままにしておいてゆっくりしようや」

彼女の言うとおり、どちらかの息遣いを聴き続ける事で得られる情報なんて存在しないが、時折り、途切れ途切れで理解できなくとも人声が届けられるうちは電源を切れず、鮮明とまではいかなくとも、縦より横の方が邪魔でしかないノイズが減った気がするダッシュボード上へインカムを放置したまま持ち帰ったビニール袋をまさぐるタイミング悪く、探し当てた頃には店内に見える、白の次は緑で店員も困惑するであろう彼女のために買った温かいミルクティーの置き場に戸惑っている最中に発見した財布だけを持って行ったらしいカバン内の銀箱と置き換えて車を降り、薄暗い喫煙スペースへと足を動かした。

「・・あー、そうきまし・・」

「あ⁉昌人!勝手にタバコ吸っちゃ駄目でしょ‼ほら、ジュースあげるからソノ箱を渡して」

 イキサツがどうであれ俺が勝手に持ち出した時点で俺にしか非はなく、手に取る前に熟考したところで思いつかなかったと思われる、容器があるのなら残されているはずと持ち運んだ、抜いた本人も忘れていたらしい灰まで綺麗に拭き取られていたシガレットケースを、就寝中のドライバーなんて知るかと言わんばかりの怒号を響き渡らせる彼女から差し出されたカバンへ入れた物と同じミルクティーと箱を交換し、健康への気遣いと言うより子供のイタズラを叱咤するのに似た小言を聞かされつつ運転席へ戻る。

「沢山悪い事が起こっても良い事なんて一つもない物なんだから本当は止めて欲しいけど、私だっていきなり甘い物が体に毒って言われてもすぐに止められないと分っているから、じゃあどうすれば止められるかって考えたら少しずつ数を減らしていけば時間は必要でも止められるかなって・・ねー、ちゃんと私の話し聞いてる?」

「余っていても綾美の手の内にある時は目に見えるところにあっても勝手に持ち出すなって事だろ?心配しなくても、金輪際綾美の許しを貰って吸うから問題ないよ」

「だから!何でそう僻んだ考え方になっちゃうかな。だからね、吸ってもいいけど、昌人もできるだけ頼らなくても過せる努力をしよって事なの!」

「左様でございますか。まあ、何にせよ暖房つけるぞ」

 前夜にも感じたという事はローブと呼ばれる衣全般に言えるのかも知れないけど、ローブに包まれている個所は、走ろうが静止しようが不思議と高低温を感じない適温に保たれている気がするも、ソノ体温が凍てつく露出した部位を暖めてくれる事はなく。『面倒』と感じた時点で捻くれ者確定の世話焼きと呼ぶのか過保護と呼ぶのか知らんが、献身だけは感じ取れた彼女との話を切り上げ、適当な所で切るにしても今は掛けておきたいエンジンを起動させ、運転席側のエアコンの噴出し口へ右手を被せた。

「うー。昌人のためを思って言ってるのに、怒って不貞腐れちゃうし。もう昌人なんか病気でも何でもなっちゃえばいいよ‼」

 見捨てる台詞と、白い繊維は取っていないもののツボミが開花したように一つ一つ切り離されたミカンを膝の上に置いてきた行動が相反すると思われるが、ココで火に油を注ぐような言動をとれば、ベッドを少し大きくしただけの空間に居づらくなると悟り、放置していては時を置かずして硬化してしまう果実を歯で磨り潰し始めて程なく。呼び起こし事態が擦り込みに繋がると解っていても無意識に『ベッド』の単語で連想した無には戻せない悪態を謝罪すべく、声以外の物が口から飛び出さないよう、小娘たちの中では合わない物同士を掛け合わせるのがブームらしいミルクティーで口内を洗浄した。

「その、なんていうか。嫌な思いさせてゴメン」

「え?昌人が謝ることじゃないよ。私が駄目って言い続けたせいで昌人が怒っちゃったんだし、私こそゴメンね」

「ソレもこんな面倒くさい性格じゃなかったら起こらなかった事だし俺が悪いんだけど、もう一つの、その、寝てた時に枕代わりにしてたっていうか。それで。ね?」

「あー。それは心配しなくても大丈夫だよ。すぐ寝ちゃったからあまり憶えてないけど、昌人にやってもらった時は心臓なのかな?トクットクって音ですっごく落ち着けたし、一緒に寝るんだったら昌人にもやってあげようかなって」

 就寝前の記憶が無いに等しいけど、どちらかが入ってしまえば遅れた者は床で寝る事になる可能性を秘めていた状況下で俺が占領するとは思えず、寝付いた前後の行動を知りたい自分がいない事もないが、答えがどうであれ、結果が添い寝となれば自ら恥沼に浸る愚行と同等で。空腹で胃が痛みを伴う訴えを起こすよりかはマシでも、覚醒時にも休息を与えて欲しい、食べさせる事に快楽を覚えたらしい二輪目のミカンを消化していく。

 ──気が向いた時に購入した物であれば簡単に平らげてしまうデザートではあるが、食後に寝たとはいえ大した時間をおかずしての三輪目は辛く、口へ運ぶ左手が重たくなっている事を分っているはずなのに新しいツボミを開花させ始めた彼女が諦めてくれる願望を込めた寝たふりを行う為、背もたれの角度を限りなく水平にしてドアとお見合いを始めるも。首裏から背中に掛けて這う異物に背筋が凍り、これ以上の進行を防ぐ手段として虫より人の腕に似た大きさの異物を服の上から取り押さえた。

「あ。爪が当たっちゃったかな?ゴメンね昌人」

「いや、それはどうでもいいんだが、何で背中に手を突っ込んでんだ?」

「あー、えっとね。昌人だけお風呂入ってないから寝付きが悪いかなって。ほら、汗かいてたらベタベタして気持ち悪いでしょ?だから、コレでサラサラにしてあげようかなって」

 遠まわしに臭うと言っている気がするけど、気分の良し悪しは置いておくとして、小さくすれば耳障り、大きくすれば喧しいだけの荒くなった息遣いとノイズが響く中で寝られるはずがないと思われるが、彼女からすれば騒音より快適さが優先されるらしく。起こしてしまえば胴は諦めても、左袖を捲り上げて何かをすりこむ彼女の熱意に根負けし、どうせ言われる右腕を指示される前に差し出した。

「ところで、この変な粉は何だ?小麦粉か?」

「えっとね、ベビーパウダーって言って分るかな?赤ちゃんにパタパタするアレなんだけど、普通のタルクが入った化粧品より安くて優しい香りがするから好きなんだよね」

「あー、なるほど、だから出る前につけてたのか」

「うん、本当は簡単でも良いからシャワー浴びた後につけたかったけど、急いでたからコレだけでも付けようかなって。神野ちゃんも昌人みたいな反応であんまり驚いてなかったけど、もしかして使ってるの?」

「うーんっと。使っていたが正しいかな。昔、田んぼに入る時にちょっとね」

 鋤(す)きそびれた稲株で傷を作り続け足裏の皮を厚くしても使い道に困り、長靴を薄く長くした田靴を履いてきたが、コノ田靴が曲者で。ヌカルミにハマり靴とお別れしないよう足首が小さく作ってある物が存在し、無理やり履こうものなら靴擦れが起こる履物へ足を通す方法として使用していた粉末に驚嘆などなく、郷愁すら感じさせるベビーパウダーの肌触りを体に覚え込ませつつ、車内で舞う粉を窓から逃がす。

「外に出さなくても良い匂いだと思うんだけど、まあいっか。じゃあ神野ちゃんは何でか驚かなかったか知ってる?」

「ん?そりゃあ、同じ事やってたからな。神野島の事だし質問する前から話してると思うから簡単に説明するけど、中学は学校が違ったし離れ離れでも、それまでは本物の兄妹より兄妹のような生活を送っていて。その序でというか、植え直しって言って、田植えの機械じゃ植えられなかった場所を手で植える作業を手伝う時に一緒にやってね。そして、綾美のーって聞いてないし」

 教えられてはいないけど口が覚えてしまった彼女直伝の長話に彼女自身が飽きたのか、俺より他者が持つ機会のが多い気がする、メモ帳にカモフラージュされた携帯を耳に当て何者かと会話する彼女に言葉を失い。普段以上に力を入れないと落としそうな飲みかけのペットボトルを口へ当て、興奮するような出来事があったのか絶叫しているように聞こえるインカムへ意識を集中させた。

「・・それは伝えるけど、私は・・うん。分った・・だってさ昌人、お仕事だよ」

「仕事なら辞めたというよりクビになったが?」

「違うよ!ソッチじゃなくて今のお仕事の方‼ほら、早くソノ壊した機械を元に戻して体につける‼」

 インカムなら分らんでもないが持っていても仕方が無いミカンの皮までカバンに流し入れる彼女を見ては仕事が何の事か聞く気も失せたけど、途中で聞こえた『伝える』の内容を教えてもらわなければコチラは動き様がなく。とりあえず、急かされるがまま、外していたイヤホンマイクの接続ピンを本体へ繋ぎ、片耳へ引っ掛けるタイプのイヤホンを左耳へ装着し、ローブさえなければ簡単につけられた本体を首から落とす。

「もー、そんなに遊んでたら悪い人を見失っちゃうから早く‼」

「だからさ、その悪い人って何・・」

「口答えはいらないから早くコレもつけて走る‼」

 急ぐのなら人力ではなく、車を使った方が何倍も早いと思われるが追い出された後に近寄るとまた彼女に怒られると、意味も行く先も解らず、多分という曖昧な考えのまま初めに停車したわき道へ向け走りながら、首に掛けただけの印石やインカムの位置を調節し。スピーカーよりかは聞き取り易いイヤホンで珍しく海野が誰かに怒鳴る声を聞きつつ、マイクへ向け状況の説明を問う。

「綾美から悪い人を追えって言われたが、一体誰を追えばいいんだ?」

「・・ソノ・・オレ・・ニタ・・」

「どうでも良いから早くボートタウンに追いなさいよ‼」

 俺が走っていた事が理由で海野の声が雑音だらけになったにしては、神野島の当り散らしはクリアに聞こえ、問う前より頭が混乱してきたが、物思いに耽っていても仕方がなく、目的地さえ到達すれば自ずと対象も判明すると考え。ろ過されても濁った水に変わりはない工業水が流れ着く小型の船舶が繋ぎ止められている係留所までの最短ルートの、訴え方が間違っている気がする、申し訳程度に造られた木で囲まれた公園を走り抜け、邪魔なゲートタイプの車止めへ手を乗せて格好良く飛び越えようと試みるも、慣れない事は実践したい方が身の為だったようで。両手に付着した粉を、過去に使い慣れた松脂を含んだロジンバッグと思い違った結果、滑石の効力で主軸となるはずだった右腕がブレ、自分の体重も加勢し、脱臼したかと思うほど強くポールを挟んだ右脇にその場で悶え苦しむ。

「ムロチャンどうしたの⁉やられたのなら返事して‼」

「アー。イヤ。ウデウッタ」

「はぁ⁉何一人で遊んでるのよ!早く茶色いローブ追いな・・」

 『泣き面に『恥』』と間違える人が居るが『泣き面に『蜂』』が正しいコトワザだけど、今はくだらない豆知識より現実に起きた『蜂』に入る、頭をサッカーボールと間違えたにしては的がずれ過ぎている背中へ受けた衝撃にのた打ち回っている間に。一瞬でも視界へ写りこんだ、蹴ったと思われる茶色い物体は既に姿を消し。痛さで涙腺が緩むを通り越し痛すぎて呼吸すらおぼつかない体を立たせ、壁へ手を這わせたまま一歩一歩磯の匂いがする場所へ進み続けた。

「・・なーにさっきから、苦しいのに頑張ってますよーって感じだしてるのよ。わざとらしい」

「あー、イッテーな。お前も脇強打して背中蹴られたら分るって」

「またー、怪我を誇張してでも構ってほしいなら後で綾美に伝えてあげるから。今は私で我慢」

 周りと、出来る事なら心臓を止めたまま歩きたい肉体には逆らえそうになく、再開する場所が何所であれ素肌を晒す事になる上半身を見れば嘘じゃないと解ってくれるとは思うが、後先を想像するより今は目先の目標と。通行人が存在すれば独り言を喋る怪しい人、清聴をしている人からすると口喧嘩になる、俺達にすると他愛無い痴話喧嘩と同等の、会話をしている間だけは痛みを忘れられる罵り合いを行ないながら係留所へ続く最後の石階段を登りきる。

「あー、俺の行動が不味かった可能性があるから先に断っておくぞ」

「なによ、始めて女の子を紹介してあげた時みたいな予防線張らないで、早く言いなさいよ」

「じゃあ言うけど、本当に怒るなよ?多分逃げ・・」

「はぁ⁉何で簡単に逃がすのよ!それじゃ、私の怪我が報われないじゃない‼」

 アイツの事だし、前置きを入れた時点でどのような結果になっているのか分っていたような口ぶりだったけど、コチラの話し半分に怒鳴られた事なんて些細な出来事だと思わせる。俺の体はどうでもいいとしても、奴に怪我を負わせた情報をモット早く教えてくれていたら蹴った足にしがみ付いてでも逃がさなかったはずと。神野島のマイクを通し、状況説明を求めてきた海野へ、選んでいるわけでもないのに途切れ途切れになる言葉のまま、波紋は収まっても係留所から防波堤へ続く水泡が取り逃がした事を痛感させるミナモを眺めつつ、口を開き続けた。

「・・そうか。苦労かけてスマンな。体中痛いだろうし、ソコに居てくれたら拾いに行くけど、多分、俺達より先にショウが着くから、面倒とは思うが同じ・・」

「チーフ⁉こんな所で油売ってたら駄目じゃないですか」

「結果として怠けた事にはなりますが、チーフじゃなくて、もう一人の方ですよショウさん」

 街灯に照らされていることだし髪色で見分けがつきそうなものだけど、コノ人からすれば、何所かしら似た個所が見受けられる人物は海野に見えるようで。言葉より行動で正す方が数秒の違いであれど早かろうと摘み応えのない地毛を引っ張り上げ、コノ人が尊敬する海野の腰巾着である事を教え。防潮堤から更に反り立つ肩まで隠す壁に乗り上げた。

「しかし、何故、室谷家の坊ちゃんがこんな所に?」

「まあ、話せばややこしいので簡単に説明すると。海野に、茶色い人ですか?ソレを追えって頼まれ、追ったまではよかったのですが、ちょっと怪我しちゃいまして」

「そうでしたか。自分でよろしければ怪我を診ますよ?」

「あー、それは蹴られた程度なので問題ないのですが、鎮痛剤代わりにタバコを一本貰えます?」

 コレでも引かないとなれば大酒を食らい、自我そのものを消失させる他にないと思われるが、飲みたくもない酒に溺れて何が楽しいのか想像すればするだけ選択から遠ざかる中で浮上した喫煙という言葉に躊躇う感情なんて存在せず、アノ時持っていたとなれば今も所持しているはずの煙草を貰う序でにライターと思えばマッチだった火を頂戴し。近々交換しないと点滅を始めそうな黄色混じりの白熱灯めがけ、耐性より拒絶に近い、肺に入れられた少量の煙を吹きかけた。

「体が芳しくないところ申し訳ないですが、室谷家の坊ちゃんが遭遇したという人物はどちらへ向ったかご存知で?」

「俺の推測になりますが、こんな時間に釣りをしに行く人なんて居ないでしょうし、別の船着場へ向っている最中かと。自分がしがみ付いてさえいれば、捕まえられたかも知れないのに。スミマセンでした」

「いえ、元を正せば部隊が取り逃がしたシワ寄せが室谷家の坊ちゃんにいったので、謝る必要なんてないですよ。役不足ではございますが、作戦部隊を代表してお詫び申し上げます」

 寝とぼけた彼女が文句を垂れていた家での施設がどうたらにしても、ショウさんが口にした部隊がどうであれ、締りの悪い結果を作ってしまったのは、他の誰でもなく、今回の一軒で咎められる人間が居るなら怪我人の神野島から事前情報があればとの言い訳で納得しようとしたコノ俺であり、咥えたままでは意味を成さない煙草を土手へ転がし。わざわざ夜中を選ばず、明るい時間帯にやって欲しい、ランニングシューズを履いた人物の足音が消えた頃合を計り、不審人物として通報されない事を祈るばかりの、単なる我慢比べになってしまった前かがみを先に止め。邪魔臭い頭の網と一緒に後頭部に張り付いたガーゼを剥ぎ取る。

「室谷家の坊ちゃん。早々で悪いのですが、そのガーゼだけは取らない方がよろしいのでは?」

「本当ならそうなんですがね、荒治療というかなんていうか。まあ、可愛がりすぎたら体が怠けるからって事にしておいてください。ソレと、人も追えない出来損ないに畏まる必要なんてないので、もっと気楽に話してもらえますか?」

 苛立ち任せの行動で折角の膜が剥がれたらしい自分では見えない後頭部へ気を使ってくれるのはありがたいけど、そんな事は、今までの後悔の念をも凌駕する、潮風も手伝ってか、どの部位より疼痛に悩まされる自分が痛感しており。平常を装うためにも、年上に丁寧語を使われると対応に困る自分。そして、いくら仕事だとしても片足を突っ込んだ者に対してまで言葉に気を配る相手の心労のためにも、肩の力を抜いて話してくれるよう頼み。思いのほか置き去りにする時間が長くコンクリートを焼き始めた煙草を咥えて程なく、二つ眼の閃光で辺りが鮮明に見えるまで煙を巻き上げ続けた。

「二人ともご苦労さん。こっから先は本部のフリーランが探すらしいから引き上げていいぞ」

「分りました。しかし、支部の作戦に本部が出てくるなんて珍しいですね」

「情報より数が多かったとしても現に総動員して失敗したわけだし、支部の低俗どもには任せられないって事じゃないか?電話ではそんな感じだったし。まあなんにせよ、点数が無くなるのは気に食わないが、アッチが尻拭いしてくれると考えたら良いんじゃないかな。そうそう、言い忘れてたけど、タクは綾美のアレで・・」

「なあ綾美、俺の財布が何所にあるか知らない?」

 労いの言葉をもらえはしたけど、それ以降は俺なんて居ないも同然の、本部やら支部やらの上下関係にしても、フリーランとか言う新用語を学習し、話しに加わる気になれず。ただ運転したくなかっただけではと勘繰ってしまう、空になった運転席へ乗り込みダッシュボードの上を探ってみるがお目当ての物は無く、在り処を知っていそうな隣の彼女へ問うも、別れた後で何かあったのかタブレット端末を弄るのが忙しいのか知らんが、声を発するどころか顔も向けることなく差し出された財布から一枚の紙幣を抜き。話し足りないけど言葉が出ないらしい気まずい空気へ挑む。

「裸で申し訳ありませんが、煙草のお礼です」

「いえ、坊ちゃんにそのような物を頂くわけには・・」

「一時でも気が楽になったのに何も無しではコチラの気が収まらないので」

「受け取るまで付き纏われたくなければ折れといた方が良いぞ、こうなったムロチャンはなに言っても聞かないから」

 拒まれた恩返しをどの様に行なうか想像を働かせる事はあっても、生まれてこの方、言い方を変えるとストーカーになるような行動はした事がないけど、海野の助言がどの様なものであれ受け取ってくれた事実に変わりなく。この、自分でも強引だった気がする行為を踏ん切りとしたショウさんが来た道を引き返す後姿が辺りの闇と同化するまで見届け、ココからは俺かと思いきや先に乗り込んだ海野に命を預け、免許を取って以降初めてかもしれないロングシートにもたれた。

「ところでさムロチャン。話しを聞いてた限りじゃなかったし、分んないんだけど。煙草って箱の束ごと貰ったの?」

「俺の体を見ればカートンごと貰ってない事くらい分るだろ。気晴らしに一本・・」

「一本と五千じゃあ嫌な顔されるわよ。私だって、いくらムロチャンが有難く思ったとしても命に関わる大事じゃないタダ同然の物と引き換えって言われても断るし。何もしないよりは良いけど、ちょっとは受け取る人の気持ちになってみるのも良いかもね。綾美もそう思うでしょ?」

 まさか、帰りの車内でも一悶着が起こるとは思ってもみず、次第にこみ上げる憤りを内に潜めたまま神野島からの説教を脳内で何度も復唱してようやく分った。等価や十倍程のコーヒーならまだしもソコから更に数十倍、煙草からだと二百倍以上の価値になる紙幣となれば難色を示すのも当然であり。パワーウィンドウ側の僅かなスペースへ左肘を着いたまま左拳へ幾度となく額を押し当て。他者への怒りなんて忘れ、自己満足でしかないと知らされた己の行為を恥、悔やんだ。

「もー、ムロチャンに構ってたら綾美が寝ちゃったじゃない」

「え?起きてるけど、どうかしたの?」

「彼氏の事で話してたのに、どうしたのじゃないわよ」

「あー、音楽聴いていたからゴメンね。でも、昌人の事なら、どうせ私が何言っても無視するんだしどうでもいいよ」

 仲直り出来たと思い込んでいた出来事のお陰で過去の積り積った不平不満が呼び起こされ、腹の虫が騒いでいるのだろうけど、冷たいまではいかなくてもコレまで何かにつけて口うるさく、時には付き纏い、無言の圧力を開けてきた彼女が投げやりになった事で更なる自責の念に駆られた自分を夜風に当てたいところだが、逃げても行き着く先が一緒では余計居辛くなるだけで。ターンバックルのように離れ離れになる仲を繋ぎ止め、一方を巻き過ぎて平衡が崩れてしまわないよう俺にも話しかけてくる神野島へ適当に応答し続け。バック気分ではなかったらしい前進で駐車場に停められた車からいち早く抜け出し、悠長に歩幅をあわせて歩く三人が乗り込むまで昇降機のドアを開けて待ち。夜盗に入られたのかと血の気が引いた、視認できる限りでは単に鍵の閉め忘れだと思われる自分の部屋でローブを脱ぎ、タイミングを見誤り首に掛けたままになっていたイヤホンマイクとインカムを海野へ手渡した。

「そういえばムロチャン、頭の怪我が酷くなっているが大丈夫か?」

「大丈夫かと言われたら駄目だろうけど、地面の上でゴロゴロしちゃったからね」

「そんな事も言ってたな、確か蹴られたんだっけ?もしかしたら骨に響いてるかもしれないし、優秀な治癒師殿に診てもらわないと、っな?綾美⁇」

 気にはなるが車内で啖呵を切った手前、自分から近づけなかったらしい、会話の節々で顔を上げていた彼女が海野のネイ弁によって腰掛けていたベッドから立ち上がり、口は嫌がっていても体は接近してくる彼女はもちろんの事。海野はないとしても、誰よりも早く当てずっぽうであって欲しかった、まるで蹴られた個所が判っているかのように指先で突いてくる神野島に脱がされないよう、後頭部の外傷を留意し、シャツを脱ぎ捨てた。

「ほー、つま先だけと思ってたけど綺麗に蹴られたものね。もしかして足じゃなくてアイロンで殴られた?」

「アイロン持って逃げ回る人が居たら逆に尊敬するわ」

「そう?ムロチャンだって熱冷ましをつけたまま学校来てそのまま帰ったし、アイロン持って逃げていてもおかしくないんじゃない?」

「アレはまだ風邪こじらせたとか想像出来るが、アイロンは意味不明だろ」

 奴をうならせるほど綺麗に模られているのなら是非自分も拝見したいものだけど、わざわざ映し鏡用の手鏡を探すのも周りの娘に借りるのも面倒で。とりあえずは、コイツにも恨まれる事をしたのか興味本意なのかは知らんが、金ゴテのような形だと思われる背中の打撲痕を押し続ける神野島の正面を向き。触診のハンデキャップを受けたまま、どれだけ瞬きを抑えられるかという争いまで含まれていそうな非常にクダラナイ睨めっこを続けた。

「うーん。背中と右のワキも赤くなってたからやってみたけど、多分、大きな怪我じゃないよ」

「そうか。じゃあ後は、もう一踏ん張りって事で神野島とかにやったのと同じやつ使って今回の件は終わりだな」

「それなんだけど、背中は心臓に近いし、ワキも局部用の印石は持ってないから、ゴメンけど今回は確認だけで。でも、ちゃんと湿布とかは貼ってあげるからそれで許して」

 瞳を乾かし焦点が定まっていないだけだと思っていたけど、海野との会話からして、触診を終えたお次は手当てとソノ手法を伝えられ理解していても湿布の冷感を無表情のままやり過ごす命令だけは体が耐えられず。強張る背中に意識が散った一瞬の隙をつき潤された目で確認しても変らない、開始当初より確実に面積が増え、耳を澄ませば鼻息すら聞き取れそうな神野島の顔面に今度は精神が根負けし、背面を触られ行動に制限が掛かっている中で唯一動かしても眼前の娘が残念がるだけの首の力を抜き。火傷はしたが抜いた記憶もなった記憶もない、気になっても再生されるまでは剥けない針で水だけ抜いた水ぶくれ痕のように皮がヨレている右手の平を揉みながら、剥がれない為らしいが右腕の自由を奪う結果にしかならない気がする、肩甲骨から脇を跨ぎ、関係のない腕まで巻き込んで貼られた湿布を紙テープで固定し終えるまで姿勢を維持し。どうせやるのなら先に動かしてしまえと、俺に満足したお次は携帯を見つめる神野島の観察を始めた。

「──ゴメンありがと。俺が相手の立場になって喋れたらコンナ事にならなかったのに、その、ゴメン」

「うん、私もアソコでちゃんと話せばよかったのに意地張っちゃってゴメンね。私もやっちゃうし、今度からはお互い無視しないように気をつけよ?」

「えっとだな、今言っておかないと忘れるかもしれないからスマン。電源と音量が一緒なのは解ってたと思うが、マイクのオン、オフはコードの真ん中にあるボタンだから憶えといて」

 手当ての終了を告げる煩わしい被り物が再び頭皮を覆った事でようやく散らばっていた勢いが集束し、飾り気のない謝意と一緒に謝罪を発言できたが。出来る事ならコノ身が果てるまで味わいたくないイガミ合いの要でもあり、鎮火へ向っていた炎へ可燃物を投下する愚行と同値の余計な発言でもある海野の戯言に反応した彼女を落ち着かせる為にも。誰かしらのマイクに集音されていたかもしれない気遣いを無視した他に、本数管理されているのも忘れ、気晴らしという一時の感情を優先した己へ過ちを刻む為にも謝罪し続けた。

「あのさ、聞かされるコッチが疲れてきたし、そろそろ止めにしない?」

「でも、コレだけはちゃんと話し合わないと次に同じ事が・・」

「堂々巡りになってるから私が纏めてあげるけど。海野が怪我した私に気を取られた隙に対象が逃げて、バックアップ要員だったムロチャンに追わせたら。私の推測になるけど海野と同じ白色のローブを着てたせいで海野と間違えられて右脇と背中を蹴られ。ココで、タクちゃんの傷を治してた綾美がボタンを押し忘れたマイクに叫んでたけど、ムロチャンに聞こえるはずがなく、私に文句を言いながらボートタウンに向うも徒労に終って。今度はムロチャンがマイクを切り忘れてショウちゃんから貰った煙草を吸ってたら、また綾美が相手に伝わらない独り言を無視と勘違いして拗ねた。そして、今に至るっと。これってさ、誰が悪い、誰が正しいって話じゃないと思うんだけど。無茶するなって忠告を破った私が居て。ソノ私を庇いすぎた結果、ムロチャンを怪我させて逃がした海野が居て。機械の操作を誤り、独り相撲をした綾美が居て。諸悪の根源は自分だと決め込んで謝り続けるムロチャンが居る。結論だけ言うと全員悪い所があったって事。言い方がキツイかもしれないけど、綾美が言ってる、同じ轍を踏まないように話し合うのも、そもそもワダチが浅く幅広いから躓く事なんてないし、逆に綾美の心配が足枷になる可能性だってあるんだから、こんな事はズルズル引き摺るより、『そういえばあったね』くらい簡単に思うこと」

 俺に限れば、コノくらいなら今の自分にも出来るという驕りを仕置きされた他に解りやすい要約はない気がするけど、向こうは向こうでコチラの出来事が可愛く思える騒動が起こった事を伝える、もとより隠すつもりはないと見受けられた苛立ち任せの総括を聞き届け。捲るだけに留めておけば良かったシャツを右腕から通していく。

「んーっとまあアレだな。とりあえず色々あって皆疲れただろうし、暗い内にやらないといけない用事がなければ、風呂入るのなら入って寝ようや」

 今更行なったところで手遅れだけど、夜分に大騒ぎして近隣住民を寝不足にさせない気配りの可能性もあるが、まばたきをする度、途中で引っ掛かる瞼を必要以上の力で仕舞いきる仕草からして、自分だけも就寝したい願望を伝えた海野にいち早く神野島が賛同し、何故どちらかを女部屋にしないのか理解に苦しむ、ラッチボルトが奏でる向こう側へ行きそびれた、右手首の黒く歪な球体が連なるブレスレットを回す彼女につられ、物音一つ立てず、神野島に牙を折られた同士仲良く手首を触れ続けた。

「やっぱさ綾美。こんな事していても何にもならないってのは言い過ぎだけど、明日は何が起こるか分らないし、とりあえず今はソレに備えて寝ないか?」

「うん。でも、寝かたが悪かったら治るものも治らなくなっちゃうし、昌人が寝付いてから私も寝るから大丈夫だよ」

 どれだけ痛くても自分ではどうする事も出来ない寝返りを憂慮するなら夜通し監視する事になると思われるが、海野のアクビが伝染、悪化した眠気まなこをコジ開けてまで彼女に付き合う考えには至らず。見届けるとなれば切っても無駄なエアコンが動いたままなら何所で寝ても変らないと、フローリングよりは柔らかいラグの上で座布団製即席枕を作り。後頭部の怪我で仰向けにも、湿布の新たな弊害として一番落ち着ける右肩を下にする事も許されない体をうつ伏せよりはマシ程度の寝辛い事には変わりない左向きの体勢で全身の力を抜く。

「ねー昌人。こんな所で寝たら風邪引いちゃうよ?」

「うん。でも・・もうココで・・」

 爽快な気分とまではいかないものの寝疲れには程遠い存在である事だけは誰に問うても即答される睡眠から、丁度、頭が目覚める時間しか起きていないにも関わらず、前回の散々な目にあった真夜中の疾走より距離も時間も短いジョギングで寝酒をしたかのような欠落した集中力になる理由としては、二十歳から始めたアノ嗜好品(タバコ)が初めに思い浮かぶも。今から断絶宣言したところで歯切れの悪い返事の後に何かを言っていた気がする彼女の声が脳内で再生される事はない安直な考えのまま目を閉じ、安眠への通行券代わりとなる一度限りの深呼吸の後。元から散漫だった意識を無へ変えていった。


「『綾美の腹部へ顔を埋める夜中に叩き起こされ、支部総出の一大作戦にバックアップ要員として赴くも失敗に終り。作戦で生じた後始末ではなく、私情が大半を占める反省会で睡眠時間を削る』・・・やっぱ、初めのは消・・」

「えー、勿体ない。初めての合体みたいなものだし消さなくて良いじゃん!」

 戻ったのであれば到着の合図くらいして欲しかったものだが、伝えられたところで適当に返して終る些細なことより、今コノ状況に陥ることを危惧して黒塗りにするか迷っていた文を盗み読み、感想と提案を述べられた恥じらいを表情に出さぬまま日記を閉じ。洗うより追いかける方が大事だったらしい、周囲の液体が底に集結した空きコップを、小悪魔から距離をおく為だけに持ち運び、スポンジ代わりの指先で内周を拭きあげた。

「なによ、アッチの魔法使いにならないのなら・・あ⁉もしかして、もうやっちゃってるとか?」

「どう思おうがお前の勝手だが、ソレを・・」

「私とお風呂に入って一緒の部屋で着替えまでした仲なんだし、別に恥ずかしがる必要なんてないでしょ。それで?コッチにも色々と算段があるから大体の開始予定だけ教えてもらえる?」

 何時もの興味本意にしては行き過ぎた言動となればコイツも里の空気に呑まれ、自我を保持できない情態といった所のようだけど、推測しても時間に任せるしか解決策など存在せず。どの言葉が火種になるか分からない、洗い物をしている最中でも気を抜くなとの訓告だと思う事にした神野島という重石を背負ったまま歩き、両肩にまでぶら下げ彼女と共に土間へ到着した海野から両手の買い物袋だけでも引き受ける。

「それじゃ、チーズを使うときに探すハメになるから手前に。と言うより、何でジュースが汗かいてるのよ。節約と称して全てを腐らしたら元も子もないわよ?」

 言っている事が解らなくもないけど明日には真っ白い冷気が出てきそうな限界まで強めなくても冷え、物によっては品質が低下する低温障害を引き起こす可能性も生じるが、同居を始めて三ヶ月が経とうとしてもまだ喧嘩だと思い込む彼女の近くで談論をする訳にいかず。背中の神野島に指図されるがまま、味噌を筆頭に長時間保存できる毎日のように使用する品を奥へ、チーズやバターといった乳製品は良いとしても、これほどの物をどうやって消費するのか不明な大瓶に詰められた粒マスタードを手前へ置き。その後も首から生えた新しい手が示した場所に袋内の食品を冷蔵庫へ収め。先の思い越しでは誰もが悪く、誰の責任ではないと結論づけられたが今回ばかりは俺が発端となる今後の予定を口ずさむ。

「初めに断っておくが怒らないで聞いてくれよ?手遅れかもしれないが沼田だけ米を作る事になったから。お前に押し付けないようにはするけど、場合に・・」

「それなら余った苗を譲ってくれるよう電話しておいたから心配ないけど、その話って昨日決まった事なんだけど、もしかして綾美から聞いてなかった?」

 単に洗い物を最小限に留めたかっただけと思われる最後の晩餐と称し。悪運なのか幸運なのか俺には判別できない、本当ならアノ橋で終えていた命を繋ぎ止めた祝いらしい、アノ、とんでもなく高い寿司のネタを増やした物ではあっても。俺の懐事情を哀れみたのか、それとも、明日の行動を考慮してか、酒だけはアノ日より少なかった気がするけど、彼女にしてみれば、談話という酔いさえ足りていればアルコールなんてツマミ程度で良いらしく。今日の予定の為に誰よりも早く寝た後にでも稲作へお題が変った事になるが、会話と酒で泥酔した彼女にソノ内容を保存するのは無理だったようで、危うく二重発注になるところだった苗情報を知らされた事に感謝し、やらせるのなら草まみれの時にさせればよかった砂まみれの手を洗い脱衣所から出てきた彼女と一緒に、新しい居間となる予定の、掛け布団が取り外され、長テーブルとして使う電気コタツが置かれたフロアへ移動する。

「とりあえずコッチでも使えそうな物だけ持ってきたが、神野島の言うとおり必要なかったな」

「だから言ったでしょ、持ってきても邪魔になるだけだって。私の話を聞かなかったんだし後始末はちゃんと・・」

「大丈夫だよ。あっちのポットはあっちで、このポットはコッチのテーブルで使う事にして、カップも同じ感じで使えば良いんだよ」

 あって困るものではないけど、少しであろうと便利になる代償(洗浄)は払わなくてはならず神野島の命令に賛同したかったのだが、頑固と年が合わさるせいかココに居る誰よりも発言力が強くなった気がする彼女の一声に歯向かう者など居らず。知らず知らずの内に無数の傷が入った今でも光を反射する狐色のテーブルと、白色ではどうしても目立ってしまう電気ポットの置き場所を脳内に組み立てられた想像空間の中で動かし続けた。

「綾美が使うって言うのならそうしても良いけど、何で枕なんて持ってきたのよ?邪魔なだけじゃない」

「ん?そうでもないぞ?枕が違うだけで寝つき・・」

「枕でも寝間着でも何でも良いが、とりあえず、凝った物を作るつもりなら早めに手をつけないと飯抜きになるんじゃないか?」

「なによ突然。お腹がすいたのなら素直にそう言いなさいよ」

 期限までは確認していないものの、値引きシールが貼られ、水滴がどうたら文句をたれていたとしても冷凍庫へ放る選択を取らない理由は、今夜食卓へ並ぶからだと思っていたが、購入した本人に作る気がないとなればタラの切り身はどうするつもりなのか知りたい。カマボコやらネギやら至れり尽くせりの、後は鍋で茹でるだけのソバセットが人数分入れられた買い物袋を持たされ。何時からか二本足で歩く珍しい馬になってしまったらしい俺の背中へ、乗り手になりきる小娘を乗せたまま台所へ移動し。せめて椅子にでも腰掛けて監督して欲しい神野島の指示通り、四人分の出汁を流し入れた鍋を火に掛けた。

「ねー。ご飯の支度なら私がやるから二人は休んでていいよ」

「いいのいいの。ムロチャンにもたまには料理させないと、作らせる時に変なの食べさせられるからね」

 焼き魚ですらカラスの羽根にしてしまう海野はアレ(論外)としても、突如作れと言われてもレシピは思い描け、店には出せなくても家庭料理としてなら許容範囲だと自負している俺が台所に立つ時間が減ったところで作れなくなる事なんてないと思われるけど。ココで場所を譲り神野島と不毛な議論を行なうのも面倒で、今回は包丁どころかまな板すら使用しないにもかかわらず、在り処を問いつつ辺りを物色する彼女の頭を撫で回し。どうせ移動やら何やらで数分のロスが生じる事を前提とした芯が残ったままのソバを鍋から引き上げた。

「うー、撫でなくてもパックに全部入ってるって言えば納得したのに。昌人の意地悪」

「意地悪も何も、初めから綾美の目の前に置いてあったぞ」

「うー、それでも、台所は女の戦場というか、そんな言葉があるじゃない」

 俺は来るなと言われたら行かないまでだが、それを言い出すと俺をココへつれてきた神野島を否定する事に繋がるけど。どんな手抜き料理であろうと手伝いたかった熱意を粗末に扱ってはならないと言った所か。何の恨みかは知らんが、ざわざわ俺の顎下でお盆を持ち顔面を熱気に晒す神野島が差し出したお盆が彼女の手に渡り、両腕が首に巻かれた事を確認するまでもなく息苦しいコノ状態が一刻でも早く解かれる事を切に願い。ダイニングテーブルの椅子より慣れた座布団が良いらしいコタツテーブルへと持ち運ぶ彼女のあとを追う。

「あ。そろそろ海野にも構ってあげないと拗ねちゃうから私は向こうで」

 俺にはただ、携帯を弄っているようにしか見えないが、奴には寂しがっているように見えたらしく、自分の思い通りに動いてくれた馬を愛撫したつもりか、俺が彼女にする行為が伝染したのか、どちらにせよ小っ端恥ずかしくなった事だけは確かな。撫で回された後ろ髪を自分の手のぬくもりで正す序でとして、絞め続けられた後遺症か今までどの角度を使い生活をしていたのか忘れた首裏を擦りつつ、北側でも開けた高所であれば差ほど日当たりを気にしなくて良いウッドデッキへ面した、誰にも相手にされない残された丼の前に座り。どうせ俺がするまで誰も手をつけないだろうと先陣を切り両手を合わせた。

「そういえばささ神野ちゃん。今日はお酒買ってないの?」

「え?晩酌できるくらいしか買ってないからと思ってたんだけど、今飲む?」

「うーん、今日は皆疲れちゃってると思うし早めに飲んで早く寝ない?」

 疲れた体に覚醒という鞭を打ち続けたくないのであれば、眠りが浅くなる酒を絶ち夢の中へ入れなくとも横になっていれば良いものを。出会う前は知らんが、一日一本であろうと缶を空にせずにはいられないようにも思われる、彼女の将来を最悪の順から思い描きつつ、老若男女問わず受け入れられる商品ではあるが何か物足りない汁を口内で転がし。苦いからだとしても、たまには違う味(ビール)も試みて欲しい、毎度お馴染みのカクテル缶を周りの缶と触れ合わせた。

「そういえば、ムロチャンが酒を飲むの久々じゃないか?最近はゴタゴタが多くて飲めずじまいだったし」

「そうか?三日前に飲んだような気もするけど」

「アレは体調が悪いとかで先に寝た綾美が残した気の抜けた酒だったじゃないか。アンナのでムロチャンが満足したとは思・・」

「ねー昌人。やっぱり、引き返しって言葉もあるし、お酒はやめてコッチにしよ?」

一昨日発症したアレルギー性だと思われる鼻炎を風邪と間違えているのなら。彼女だって、三日前、日頃の疲れを紛らわす目的で買った反鼻入りの高級栄養剤を試飲し、昨日まで具合が悪いと訴えていた気もするが。俺も人の事は言えない自分より他人の世話を焼きたいありがた迷惑な性分が導いた。いくら体に良いと言い聞かせても飽きの境を越しトラウマになりそうな牛乳を食事中に口論したくない一心で飲み干した後。満足し自分の酒缶へ手を伸ばす彼女に覚られないよう、役目を終えた器を下げる口実で台所へ赴く。

「嘘ついて煙草吸いにいくとまた綾美に怒られるぞ?」

「あー。それなら取り上げられたし問題ない」

 コレがザルであればまた違ったのかもしれないけど、冷たく、デザート感覚でもない甘さの飲み物と、薄口か濃口かは別にし、みりんの甘さが気になった掛け蕎麦との食い合わせが、昔懐かしき学校給食のソフト麺と牛乳以上に体へ堪え、滝登りが行なわれるか中止に追い込めるかの瀬戸際で、水量を増やす他に効力を持たない煙なんて体に取り込めず。怒られると忠告している割には共に叱られようと企てているようにしか思えない、箱から飛び出した一本の包みを無視し、洗い物で気分を変えたくても後から小言を聞かされるネタを仕込むつもりはなく。煙と一緒に煙たがれる発生源になろうとする海野を、今までが夢のように感じられる、街灯はおろか民家の明かりすら疎らな夜景が虚しい田舎の夜が一望できるウッドデッキへ誘導した。

「しかしアレだな。何年ぶりかは忘れたが前に来たときより明かりが減ってないか?」

「まあ神野島が言うには小学校が来年廃校らしいし、そんなものじゃないかね」

「廃校って。あんな通りに面して隣には団地があるのにか?」

「んー。その団地が遠回りしないと本道に出られないっていう詐欺に近い作り方されてるから、一つの家庭が手放すと決めたら後は簡単にね。今となっては還暦(かんれき)以下より古希(こき)以上のが多いんじゃないかな」

 俺としては山やら水田で冷やされた空気が心地よく、額の汗が自然乾燥するまで留まりたい思いでいるが。相手方は下界の気温に慣れすぎ、何が目的であろうと抜け道でしかないヘキ地の気温に合わせられず、食後の一服へ行かなければ良かったと心の中では思っていそうな左腕を擦る右手が止まらない海野を引きとめてまでココでする必要はない談話を続けるのも悪く。灰皿を忘れたのか、地面へ火種を押し付けた煙草を片手にカーテンが閉められた居間ではなく脱衣所から室内へ入る海野を見届けた。

 遠くに見えるコノ地域に唯一存在する信号周りの通行量が減った事だし、多少なり暗闇が薄れるかと思いきや、地下歩道でも不気味なのに、地表、それも、なければ川に落ちる可能性もある橋前の街灯が点滅しているのにも関わらず誰も担当者へ連絡していないとなれば俺の想像以上に事態は深刻なようで、山やゴーストタウン並に真っ暗な団地の中に隠れた同級生がまだ同じ家に住んでいるのか心配になってきた矢先、居間側から射し込む光とガラス戸の開く音に意識が持っていかれ。折り畳まれた布を持ち近づいてくる、見慣れはしたが相変らず寒そうな衣類しか身につけない小娘へ焦点を合わす。

「そこで格好つけて物思いに耽るのも良いけど、後が閊えてるんだから早くしてよ」

「跡が閊えるって言っても綾美はお前らが来る前に入ったし、長いのはお前くらいだろ」

「じゃあ私と一緒に入って童心に返る?それとも後でコッソリ綾美を誘って混浴かな?」

 早く入りたいのであれば先に入り一時間でも二時間でも好きなだけ旅の疲れを癒せば良いし、今夜入りそびれても明日、目覚ましの洗顔序でにシャワーを浴びたら良いだけのことで、俺としては好きな時間に好きなだけ入れば良い結論に至るだけなのだが。全員揃っての帰省に浮き足立っている感じがする今の神野島に対しての余計な言動は、自らを窮地に立たせるだけとのようやく働いてくれた直感に任せ。普段なら投げてでも渡そうとするはずなのに、何時までも大事な物のように両手で挟む寝間着と共に脱衣所へ向い、中途半端な髪色のお陰でスモークガラス越しでも何所にいるか一目で分る海野へ承諾を得てから脱衣する。

「スマンな出来る事なら回避したかったんだけど・・」

「ちっこい方に言われたんだろ?俺が入る時にブツブツ言ってたからそれくらいはな。まあ、経緯はどうであれ、丁度良い機会だし背中流してやろうか?」

「それは大丈夫。長居したらまた気持ち悪くなるかもしれないしシャワーで済ますから脚伸ばしてゆっくりしていて良いよ」

 結果から言ってしまえば、バイトという通貨を対価とした労働が加わっただけであったが、高校進学がキッカケとなり人生の半分以上を過したこの地帯を抜け出せても修学旅行で入った大浴場でさえ嫌々だった性格は変らず。厚意かからなるスキンシップだとしても、それより内に潜む羞恥心が勝り。海野が持つボディタオルを奪うに近い形で取り、二箇所あるうちの上段に掛けられたシャワーから噴き出る水しぶきを全身へ浴びせた。

「しかしアレだな。思い出させて悪いが、ムロチャンの背中って見るたびに跡が増えるんだな」

「お前の身代わりになって刺されたのと、神野島の暴走を抑えるのが忙しくて取り逃がした頭目に思いっきり蹴られたくらい。と言うか、腕の弾痕もだが、お前が絡む時って俺が受け皿になる事が多くないか?」

「言われてみればそんな気もするが。まあ、その足術中心の頭目だって一番危ない腹じゃなく背中で受けられた強運の持ち主だし、大丈夫だって」

 強運なら負傷するどころかソノ場に居ないし、半殺しに合う悪運の方が正しい気もするが、どれだけ嫌がろうと職務柄、傷が絶える事はなさそうな俺への励ましと受け取り。全身に付着した泡を流す序での洗髪を行い、どうせ出るのだろうと言わないばかりの投げられたタオルで体を拭く。

「ドライヤーは後としてだ、洗濯機が二つあるがどっちを使うんだ?」

「肌着とかは小さい方で他の服は大きい方。んで、色移りやらが気にな・・」

「別の場所に置いとけだろ?気になる服はないと思うが、その辺は神野島と綾美に任せるか」

 後に続く神野島がやってくれるだろうけど。思い出してみれば、服を脱ぎいれる際に小さいとは言っても5kg容量の上開き洗濯機に緑色の物体が雑じっていたような気もするが。口より行動で済ませようとしたばかりに、知らない人物が居る、すなわち弄るネタになると神野島になじられ、奴の話を信じ込んだ彼女との間に気持ちの悪い隙間が生じた、何時ぞやの事件を繰り返して得られるのは小悪魔のご満悦な表情だけで、朝になっても変化がなければその時、今度は口で説明する事にし。井戸水を上げるモーター音かと思いきや、ないと困るどころか、洗うのが面倒とかで出来合いの物を買うくせに何故持ってきたのか理解に苦しむ、ミキサーの中を回る液体を観察する姉妹が居るダイニングテーブルへ移動した。

「あ⁉二人ともお疲れー。もう少し長くなると思ってたからもうちょっと掛かるけど、もう飲んじゃう?」

「んー、海野は分らないけど、俺の・・」

「ねー神野ちゃん、まだブツブツが残ってるけど、もういいの?」

「好くはないけどコノ機械が何をやっても言うことを聞かないのよ」

 俺が質問に答えている最中に関わらず、他者ないし物へ意識を奪われるって事は、飲みたくない一心で仮病というカードをきっても、その場はやり過ごせても数日は過保護すぎる看病に付き合わなくてはならず、飲む他に選択肢は存在しない彼女の訴えだけど。どの道、同じ行動をとらなくてはいけないが、就寝前にどれだけ無駄な労力を省けるかが懸かっている、容器の底へ溜まる赤い果皮の硬い果実を粉砕させるようミキサー本体の裏についた赤いボタンを押し込み、喧しいモーター音を家中に響かせた。

「おー、ちゃんと説明書読んだのに忘れてたよ。もしかして昌人って機械が苦手っぽくみせて実は得意だったりするのかな?」

「そんな事はいいから、早く作らないと先に寝るぞ?」

「あーそうだムロチャン。海野には言ったんだけど、綾美と相談して4人一緒に座敷で寝る事にしたから」

「何だよそれ、『雪(ゆき)』の部屋が余ってるんだしあっちで寝れば良いじゃないか」

「私は良いけど、アレだけ可愛くしてあったら海野が嫌がるでしょ。それに、何時も綾美と二人っきりの所にちょっと人が増えるだけだし問題はないと思うけど。あ⁉ムロチャンの心配なら大丈夫!どんなに小さな合図でもちゃんと見つけて対処するから‼」

 週一の頻度で訪れる泥酔した時こそ素直にベッドで寝てくれるが、毎度のように向こうから提案されることはあってもコチラから添い寝を所望した憶えはなく。寝息を立てるまで起きていても、朝になればラグ上で寝る俺へ密着しているだけなのだが。前に自分も体感した経験もあり、ただ人肌が心地よいだけと分っていても風邪予防がどうたらと、余計怪しまれるだけの言い訳を吹聴する彼女が居る以上、俺がどれだけ熱弁しようが徒労に終るだけで。今の関係を面白がる神野島を調子づけない為にも口を噤み。怒る気も失せる、敷布団は四つあっても、掛け布団と枕は三つしか敷かれていない座敷で立ち尽くす。


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