展示シリーズ

三栖三角

赤い絵画

赤い絵画

 

 それは父の部屋だった。父だけの部屋。僕は興味本位で、ある日その扉を開こうとした。実際に中を見たわけじゃなかった。扉は鍵が閉まっていたから。だけどその扉の前にいる僕の姿を見た父は僕を叱った。その声は優しく、穏やかだったけど、僕を見下ろす目と、腕を握る父の手は震えていた。とても小さな震え。父からすれば、少し力を入れただけなのかもしれない。けどそれが怒りによるものだという事が、幼かった僕にも理解できた。怒りに不釣り合いな優しさを張り付けたような微笑みに恐怖を覚えて、それからは扉に近づく事もなくなった。

 学校に行く時、友人と出かける時、僕を見送る父が素っ気なく感じることがあった。機嫌が良くないのかと思ったりもしたけど、僕が友人と言い合いになって、泣きながら早く家に帰った日、家にいるはずの父の姿がどこにもなかった。休みはリビングで仕事か、テレビを見ているはずだった。父を探して二階に上がった。探す必要なんか無く、一人で泣いていたらよかったのに。あの日はどうしても、甘えたかったのだ。父の優しさに。父はとても優しかったから。だけど、その日は違った。

 廊下の奥から声がした。声というには、湿度を含んで、哭く様な音に混じって、細かく乾いて、裂くような高い音がした。僕はそれを聞くのが苦痛だった。高い音は身体を浅く切られるように痛かったし、低く湿った音は、張り付くようで、重く身体に染み込んでいくような気がした。張り付くような低い声が父のものである事に僕は気がついていた。だけど、そう思いたくなかった。外に出て、さっきまで友人と過ごした公園に戻ってきたけど、当然友人はいない。ベンチに腰掛けて、いつもの時間まで待つしかなかった。とても長い。目を瞑ると、さっきの音が耳元に迫ってくる。怖い。呼吸が浅くなる。汗が滲んで気持ち悪い。まだ短い腕で身体を抱きながら、震えがおさまるのを待った。気づくと眠ってしまったようで、あたりは暗くなって、遠くから父が息を切らして走ってくるのが見えた。僕を叱ることもせず、ただ優しく抱きしめてくれた。だけど僕はされるがまま、その日父に触れることはなかった。僕を抱く腕が少し震えていたから。

 父はとてもいい親だったと思う。母は僕が生まれるのと同時に亡くなったと聞いた。父は亡くなった母親の分も僕を愛するように努めていたと思う。母の話を幸せそうに話す父の話を聞くのが好きだった。母は花が好きだったから、興味がなかった父も、徐々に花が好きになっていったとよく話していた。だから玄関には毎週新しい花が植えられていた。父は体が強い方ではなかったが、僕の前では気丈に振る舞っていた。そして、僕が悲しんでいる時には抱きしめてくれた。その細い身体に抱かれて、安心することもできた。僕を縛るよりも僕の権利を優先したし、叱るよりも対話することを優先した。しかし、あの日以降、次第に父の存在を不快に思うようになる。しかし、幼かった僕は、自分に良くしてくれる人間に対して不快に思ったり、ましてや嫌がるなんて事を受け入れられる程、自我を父親から分離できていなかった。自己否定に似た罪悪感を感じて、自己否定した。僕は父を好きでいないといけないのに。彼に対してお返ししないといけないのに。僕は父に対する不快感を悟られないために、父への態度を気がきくように、いい息子でいるように努力するようになった。自分自信を慰めるように。周囲からは親孝行な息子だと言われるようになった。これは嫌悪感を感じさせるものに対する防衛反応によるものだったが、そうする事で親子関係における適度なコミュニケーションを維持する事ができた。しかし、僕が大学に入り一人で暮らす事になると、緊張が解けたように、関係は疎遠になっていった。

 それでも父の誕生日には毎年花を贈った。その花が花瓶に飾られている写真が報告のように届く。しかし、僕は返事をする気が最期まで起きなかった。

 

 父が亡くなったのは、僕が働きはじめて五年が経ってからだ。

 父の住んでいた家に来るのは、数年ぶりだった。僕は父が病気をしていることを知らされていなかった。長期休暇をとった父が、出勤日になっても姿を現さず、連絡も取れない事を不審に思った父の同僚が家に来て、死後数日経った状態の父を見つけたらしい。

 遺体の処理は済んでいるが、その他の物は父が亡くなった時点のまま放置されている。リビングにはこれまで父に贈った花の全てが吊るされていた。生の残滓を僅かに残したまま、死に切ることができずに吊るされている。


  そういえば、あの部屋はどうなっているのだろう?二階に上がり、奥の廊下を見つめる。父の遺体はこの廊下に、床に這いつくばるような形で倒れていたらしい。黒い扉。父が死ぬ前に見ていたであろう扉。幼い頃、この廊下の前を通る度、いつも誘われているような気がした。僕はその度に父のあの目と震える肌の感触を思い出した。だけど、父は死んでしまった。僕はあの扉の先を知らない。何があるか、今なら確かめたっていいだろう。扉にはきっと鍵がかかっていて開かないだろうと思ったが、リビングの戸棚にあることはわかっていた。乱雑に鍵や工具が詰め込まれた箱からは錆の匂いがして、密集した鉄製の部品が棘のようにこちらを睨んでいるような気がする。どこのものかわからない鍵も複数散らばっていて、それらの為の扉が僕の知らないどこかにあるのかもしれなかった。その中に一本だけ、使い古された黒い扉のドアノブと同じ鈍い色をした鍵があった。


  スイッチをつけても電気がつかない。しかたなくスマートフォンの明かりを頼りに廊下を進む。照らした天井には電球が差し込まれてなかった。窓から差し込む光が背後に遠のいて行く。足元だけを照らす頼りない明かりの中で、まるで父の背中を追っているみたいだと思う。床にそこまで埃が溜まっていないから、父は最近までここにきていたのだろうか。扉を近くで見ると、家の大きさ対して、不釣り合いなくらい大きいように見える。静かで冷たい空気が周囲を満たして、時が止まったみたいに静かだ。ライトで照らしてみると、黒いと思っていた扉は、後から塗装されたみたいに、所々はげて赤色がのぞいていた。まだらな塗装が、引っ掻いたみたいだ。黒から覗く赤が、鮮明で痛々しい。同時に僕の両腕を握りながら叱る父の、震える腕と瞳の危うさを思い出す。それらを断ち切るように鍵を差し込んだ。


 扉はあっけなく開いた。押しながら鈍く光るドアノブが視界に入って、やはり僕を誘っているような気がした。暗くて奥が見えないが、ライトに照らされた床が赤い。手を伸ばしてスイッチを探す。


 指先が小さい突起に触れる。明かりが広がるのと同時に視界が赤く包まれた。床や壁、天井に至るまで赤い部屋だった。窓はなく、湿ったような空気が充満している。中は扉の大きさと比べると狭い。天井は高いが、奥行きは大人が五人ほどで窮屈に感じるくらいの広さしかないように見える。奥にテーブルが置かれていて、その上に古いスピーカーが一台設置されている。椅子とルームライト。家具は普通の木製の家具で、明らかな異物として浮いていた。部屋の奥に額装された絵画があった。赤く薄暗い部屋の隅で、白いアメーバの様なものが床に倒れている絵。赤い部屋の中に赤い絵画が飾られている。この絵のための部屋のように見える。部屋で撮られた写真の様にも見えるが、写真というには解像度が低く、悪い夢をそのまま画像だけ抽出したみたいだ。

 

 ——父はこの部屋で何を?

それに、この絵の中で横たわっている白い物体はなんだ。それはいくつもの触手を伸ばして、部屋中の赤に触れて、先端が赤くなっているように見える。この絵に描かれているのがこの部屋だとしたら、椅子の上に白い物体がある筈だった。しかし椅子の上には何もない。長時間濡れていたような黒いシミを残していた。

 この部屋は暑い。それに、入ったばかりの時よりも意識が朦朧とする気がする。そろそろ戻ろうかとした時、扉が無い事に気づいた。

 

 「どうして」

 

 理解できずに立ち竦みながら、周囲を見渡す。扉が消えて、壁になっている?そんなはずはない。僕は扉を閉じなかったはずだから。しかし左右を見渡しても、扉らしいものはない。力が抜ける。壁に寄りかかろうとして、背中に突起を感じる。僕は反射的に前に倒れ込んだ。違う。僕が触れたのは電気のスイッチだ。僕はここから入ったはずだった。ただ内側のドアノブがないんだ。いつの間に?閉めた覚えはないが、現実、扉は閉じられている。扉の隙間は見える。指を動かしても隙間に入るはずがない。立ち上がって、扉を叩いた。柔らかい。衝撃が吸収されているみたいに、音が吸い込まれていく。何度叩いても、壊れない。木造の扉だったはずだ。映画みたいに、扉に身体ごとぶつける。身体が跳ね返されるように後ろに倒された。倒れても、痛くない。床も衝撃を吸収しているみたいだ。身体が熱くなるのを感じる。出られない?手のひらが汗で濡れて、赤い床が何かの生き物のように湿った肉のように見える。床の木目が肉の繊維のように、部屋自体が生きて、呼吸をしている。

 

 ——揺れている?僕の鼓動のせいか?音が聞こえる。僕の声じゃない。頭上のスピーカーから獣のように低く哭くような音がする。その中に混ざって高く突き刺すような音が混じる。音の高鳴りに合わせて、部屋全体が揺れる。揺れだけじゃなく、波打っている。赤い部屋は生きて、血液を全身に巡らせているように激しく動いている。

 

 「助けて」

 

 ただ部屋の隅にある椅子だけがこの空間から浮いたように静止していた。引き寄せられている。あそこに、あそこに行ってはいけない。だけど、もう僕はそのことしか考えられなくなっている。あそこに行かないといけない。

あそこに……行きたいんだ。

 

 「——お母さん」

 

 身体に体液が伝うのを感じながら、床を這って動く。もう服を着ていない事に、僕は気づかない。早く身体にまとわりついた体液を、この不快を拭い去りたい。激しく響く音から解放してくれ。これ以上は耐えられそうにないんだ。

 

 肉体のように蠢く部屋全体に押し出されるように、僕の手が椅子に触れた。

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