侵入

 家に帰りつく頃には息切れしながら、瑠唯は表通りから道を折れて庭へ入った。祖母と住む自宅から細い道を挟んだ向かいに、祖父の民宿を改修したゲストハウスがある。


 ゲストハウスは民家二軒分ほどの大きさがあり、見た目はほぼ新築だ。ドミトリールーム前のウッドデッキの脇が駐車スペースで、瑠唯の業務用バンが停まっている。島に来てすぐ、祖母の知り合いから安く譲ってもらったものだ。


 上がり切った息を静めながら、ゲストハウスを眺める。祖父の死後二年以上も放っておかれたのが、つくづくもったいない。母も叔母も福岡や東京で暮らしていて、こちらへ来られなかったから、瑠唯が来るのは誰にとっても丁度よかった。


 あとでもう一度、清掃に漏れがないことを確認しよう。夕方には、初めての宿泊客を郷ノ浦港まで迎えに行く予定だ。


 鍵を取りに、祖母の奈津と暮らす自宅へ入ろうとした。奈津は家の隣に広がる畑へ出ているころだろうか。思ったときに、背後から声がかかった。


「あら、帰ったの」


 振り返ると、奈津が立っていた。日に焼け、皺のよった顔は、瑠唯の知っているどんな人より柔和だ。怒ったところを見たことがなく、いつでも身ぎれいにしている。今も灰色の髪を乱れなく後ろでまとめていた。小柄で、瑠唯より少し背が低い。


 手に持った古風な藤かごには、朝露をつけた小松菜が入っている。きっと昼食におひたしが出るだろうな、と思ったとき、奈津の足元を見てぎょっとした。


「な――」


 白いしっぽを優雅に立てて、あの猫が座っていた。いかにも愛らしい顔で、奈津の顔を見上げている。


「おばあちゃん、これ」

「さっきそこで見つけたの」


 まるで山菜でも採ってきたかのように、奈津は言った。


「かわいいでしょう?」


 見目麗しいのは間違いないが、いったいどうやってここまで来たのだろう。人間の足と猫の足と、どちらが速いのか――少なくとも、持久力は自分のほうがありそうなのに。


 瑠唯におかまいなしに、猫は奈津のゴム長靴に体を擦りつけた。

 やめろ。何てことをしてくれる。


「首輪も何もついてないけど、野良かしらねえ」


 瑠唯に対してだけ向ける流暢な標準語で、奈津は言った。幼い瑠唯が濃すぎる九州弁を理解できず、ショックを受けてから二十年、奈津は徹底して標準語で話し続けている。


「いやー……どうかな。毛並みが良いし、家猫だと思うけど」

「でも、聞いたことないわ。こんな美人さんがいたら、噂になってるはずだもの」


 確かにそうだ。島内の人事や噂を掌握している奈津なら、家猫の分布もおさえているだろう。


「みんなに訊いたら? こんなの来たよって」

「そうねえ」


 奈津はしかし、ほとんど猫の受け入れを決めているようだった。眼を細めて、猫のつぶらな瞳を穏やかに見つめている。新たな孫を見つけた、と言わんばかりの顔で。


「誰も心当たりがなかったら、うちの猫にしちゃおうね」


 膝を折って猫を撫でながら、奈津は言った。どっと脱力しながら、瑠唯は絶句して猫を眺めた。


「でも、うち鶏飼ってるし。猫がいたら危ないよ」


 家と畑のあいだには、小さな鶏小屋がある。そこで年取った牝鶏を一羽飼っていた。鶏が猫に襲われたらかわいそうだ、という論理で攻めようとするも、奈津に響いた様子はない。


「小屋の中に入れてるから、大丈夫よ。私は時間もあるしねえ。瑠唯ちゃんの仕事を手伝うっていうなら別だけど」


 奈津が何気なく付け加えたことに、微かに胸が痛む。当初、奈津はゲストハウス事業に大いに参加してくれるつもりだった。一緒に宿泊業を営むつもりで待ち構えていたところ、瑠唯が単独で切り盛りすると知って拍子抜けした様子だった。自分のわがままで始めることだから、できるところまで自分でやりたいのだと言うと、納得してくれた様子だったが。


 でも、その時の奈津の表情が淋しげだったことを思い出して、何とも言えない気持ちになる。その奈津が猫を飼いたいというなら、瑠唯が止める筋合いはないのではないか。


「あら」


 にわかに猫は奈津の手を逃れ、黙り込んでいた瑠唯に歩み寄った。にゃあ、と媚びるような声を上げながら、ランニングシューズに体を擦りつける。


「瑠唯ちゃんのことも好きみたいねえ」


 満足そうな奈津に、瑠唯は引き攣った笑みを返すのが精いっぱいだった。

 追い打ちをかけるように、先ほどの男の声が響いた。


「観念しろ。神から逃れられると思うな」

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