六十六話 変化と亀裂と
チーブス王国の北西部に位置する都市セイカ。
シトラスが新しい三人の友人たちと成果で生活を共にし始めてから、半年の月日が流れようとしていた。
戦火から辛くも逃れた街の街路樹が、冬支度に金色と赤の衣を纏っていた。
ウィップは、二階にある自室の窓辺に肘を乗せ、窓から街の通りを見下ろしていた。
出店で買った焼き芋を息子と半分に分けあう親子が、屋敷の前の通りを通り過ぎて行く。
大工の親方とその弟子と思われる逞しい体つきの男たちが、木の板と道具箱を持って、笑顔で焼き芋を頬ばる親子とすれ違う。
様々な人が、様々な理由で通りを歩いていた。
その顔には戦火に怯えていた半年前の影はなく、都市はすっかり平和を取り戻しつつあった。
ウィップは背後の人の気配に気がつくと、
「夏も終わりだな……」
振り返りもせずにそう言った。
開け放っていたウィップの自室の扉。
ちょうどその部屋の前を通り過ぎたカスタネアが、窓辺で黄昏るウィップを見かけて、彼の部屋に入ってきたところであった。
「そうね。見習いを含めて護国騎士団に入ってから今までで一番楽しい夏だったわ」
ウィップの頭の上から、カスタネアも冬支度を始めるセイカを見下ろす。
彼女のボリューミーなピンク色の髪はばっさりと短くなり、ボブからショートボブぐらいの長さに落ち着いていた。
今から約三ヶ月前に
「それは……そうかもしれないな……」
「あら? 否定しないのね? 変わったわね。てっきりウィップのことだから『俺の魔法の持ち腐れだッ』とでも言うかと思ったのだけど」
ため息を吐いて、視線を頭上のカスタネアに向けるウィップは、
「ネアの頭の中の俺はどんな奴だ? ……まぁ、去年までの俺だったら、それに近しいことは言ったかもしれないな」
カスタネアはその視線をウィップのつむじに向け、
「……やっぱり、変わったわね」
優しい笑みを浮かべるのであった。
二人の間にまったりとした時間が流れる。
こんなにのんびりと過ごしたのはいつ以来か。
若くして護国騎士団へ見習いとして入団した二人は、来る日も来る日も鍛錬と任務の連続であった。
それを疑問に思ったこともなかった。
それが彼らにとって常識の世界であったのだ。
「あら? ジンジャー様からの使者のお話は終わったようね」
「どうやらそのようだな」
二人の視線の下、屋敷の正面から二人の男が出てきたかと思うと、屋敷の前につけていた馬に跨って、遠くに去って行くのが見えた。
ポトム王国との王国軍の戦争指揮をとるジンジャーの使者と、シーヤとの間に秘密裏に対談が行われていた。
その使者の依頼で二人は席を外していたのだ。
護国騎士団と王国軍は管轄が違う。
そのため、必要以上に互いの情報が共有されることはない。
二人のいる落ち着いた空間をぶち壊す破壊音が、屋敷の一階から響いてきた。
目を丸くして、顔を突き合わせる二人。
何も言わず二人は身を翻すと、直ぐに一階へと向かった。
さして広くはない屋敷である。
居間に降りた二人の視界の先には、並んで座っている二人の男女の姿。
チーブス王国の姫であり、尋常ではない魔力を持つ濡れ羽色の髪を持つ美少女シーヤ姫と、ポトム王国の捕虜の身でありながら、訳ありのシーヤの御守役として傍に侍ることを許されているシトラス。
「シト、いったい何の騒ぎだ?」
「あ、ウィップ。ごめん、シーヤが八つ当たりしちゃって……」
眉をㇵの字にしてそう言った視線の先には、投げつけられて木っ端微塵に砕け散ったティーカップの残骸たち。
素早くティーカップの残骸に駆け寄り、カスタネアはその柄を確認する。
おしゃれ好きな彼女は、この家の調度品を管理していた。
集められたティーカップたちも彼女のセンスである。
絵柄の残骸を拾い上げてまじまじと見た後に、その胸を撫で下ろしている様子から察するに、彼女の中では壊れてもあまり問題ないカップであったようだ。
しゃがみ込んでいるカスタネアの背に向かってシーヤは、
「安心せい。そちのお気に入りではない……たぶん」
少々自信なさげにそう言った。
カスタネアは立ち上がり、腰に手を当てながらシーヤへと向き直ると、
「そうみたい、良かったぁ……。でも姫ぇ、、物に当たるのはやめてよ~。何があったの? よかったら話聞くよ?」
珍しく鼻息を荒くするシーヤは、
「ジンジャーめが、こやつの身柄を渡すように要求してきおった」
ポトム王国の北東方面軍に所属していたシトラスであったが、ジンジャー率いるチーブス王国に敗れ、その結果としてシーヤの御守役と言う名の人身御供に指名された経緯があった。
「……ジンジャー様が? なんで?」
カスタネアの疑問に、シーヤがシトラスに意味ありげに視線を送る。
シトラスはその視線の意味を理解して笑うと、
「ぼくのことは気にしないでいいよシーヤ」
「……こやつには人質の価値がある、らしい」
シーヤはそう言って不満そうに鼻を鳴らした。
ウィップが口を開く。
「……姫は何かご存じで?」
「知らぬ。そもそも、ジンジャーめが一方的にこやつをわらわに押しつけてきたのじゃ」
シトラスが最初の出会いを思い出し、
「シーヤは最初はすごくツンツンしてたんだよ」
笑いかけると、シーヤは
「……余計なことは言わんでよい」
過去の自分を思い出し、恥じるように顔を背けた。
今もシトとネア以外にはツンツンしているだろ、という言葉をウィップは寸でのところで飲み込んだ。
彼のデリカシーもまた共同生活で成長を遂げていた。
共同生活を始めて間もないころであれば、思いついた言葉は、すぐに口を突いて出ていたことだろう。
「どうするの姫?」
カスタネアは、並んで座るシトラスとシーヤの間に顔を挟んで、そう尋ねた。
「こやつはやらん。もうわらわのものじゃ」
「もの、って……」
シーヤの言葉にシトラスが少し寂しそうに微笑むと、
「ち、違うぞ。そういう意味ではない」
慌てて弁解に走る。
シトラスと話すときだけ時折見せるシーヤの年相応の姿を見て、カスタネアはクスリと笑みを浮かべる。
「ねぇ、ウィップどうする?」
「……どうするもこうするもない。相手はジンジャー様だ」
どこか考えごとをしているウィップに、そっかー、とカスタネアは玉虫色の返事を返すのであった。
◇
ピクピクとシーヤの口元が動いている。
その視線の先、机を挟んで優雅に紅茶を啜っているのは、
「――シトラスくん、お元気そうで何よりです」
昨日使者を寄越したばかりのジンジャーその人であった。
シーヤとシトラスが並んで座り、その正面にただ一人座るのは、ポトム王国との戦争においてチーブス王国軍の総指揮を執るジンジャー。
ウィップとカスタネアは、ジンジャーの許可を得て、シーヤとシトラスのすぐ後ろに立っていた。
「事情が変わりましたので、シトラスくんの身柄は再度王国軍で管理いたします。管理、と言っても非人道的な扱いではありませんよ? むしろ、賓客としてご不便のないように丁重におもてなしいたします」
朝食を食べて、さぁどんな一日にしようか、と思っていた矢先の来客であった。
昨日の今日で、使者の差出人が来るなどと誰が考えられようか。
門先で一番最初に応対したカスタネアが、子女にあるまじき大口を開けて、甲高い悲鳴を漏らしたのも無理はなかった。
僅かばかりのジンジャーの供回りは、主人の命を受けて今は室内の壁と同化していた。
「これは非公式な訪問ですので、護国騎士団のお二人も、そう畏まらなくて結構ですよ? お二人のお話は伺っております。若くして騎士団に名を連ねる天才たちだとも」
後ろに立つ二人にウィンクをして見せるジンジャーに、
「……ありがとうございます」
ウィップは軽く頭を下げた
カスタネアが元気よく挙手する。
「はいはい! 閣下がご本人が来るほどの何かがあるんですか?」
「……お前はもう少し言葉をだな」
彼女のその物言いに、ウィップがぎょっとして苦言を呈す。
「構いませんよ。彼女のような直球な質問は嫌いじゃありません。そうですね……彼の身柄一つで戦争を一つ回避できるかもしれません」
「えッ!? シトって御曹司さまだったのッ!? それなら私もっと媚びたのにッ!」
「お前は何を言っているんだ……」
ウィップは額に手を当ててため息を吐く。
二人の掛け合いを見て、対面に座るジンジャーは心底楽しそうに笑っていた。
「誰かの間違いでは? ぼくの領地はもう……」
「……私どもには掛ける言葉がありません。」
ジンジャーは途端に笑みを消す。
悼むように胸に手を当てて、その目を閉じる。
シーヤが二人のやり取りに口を挟む。
「……どういうことじゃ?」
「おや? 姫はご存じなかったのですか?」
その発言に、驚いた、と言わんばかりにジンジャーはその目を丸くする。
表情を消してシトラスが制止する。
「ジンジャー。やめて。シーヤには関係ない」
「そうですね。姫殿下は世情に疎いですから無理もありませんね。これは失礼しました」
ジンジャーはそう言って、シーヤに向けてどこか慇懃無礼に頭を下げた。
その物言いが癪に障ったシーヤが、
「……なんじゃ? 勿体ぶりおって、言ってみせよ」
苛立しそうにそう言うと、ジンジャーは仰々しく反応してみせる。
「本当によろしいので?」
「だめ」
「よい、申せ」
食い気味でジンジャーの発言を遮るシトラスを、シーヤはさらに遮る。
ジンジャーは口を開く前に、いま一度居住まいを正すと、
「シトラスくんのご領地は我々の手で滅亡しました。領地の名はロックアイス、我々にとってはグラキエース、と言ったわかりやすいかもしれませんね――詳しくは、私よりもそこにいるお二人の方がよくご存じかもしれません」
ジンジャーはそう言って、含みのある視線をシーヤとシトラスの背後に向けた。
その視線の先には、顔面蒼白な二人の姿。
片や困惑。
「どういうことじゃ?」
「どういうこと……?」
片や怒り。
異なる口から出た同じ問。
しかし、意味もその矛先は違った。
訝しむ素振りを見せるジンジャーは、
「……おや、誰もご存じないので? 昨年末、チーブス王国が滅ぼしたポトム王国の町の一つ、ロックアイス領の御子息さまですよ、彼は。経緯は不明ですが、お二人は従軍されていましたよね。侵攻軍に。今回の戦役を通して随分な功績を挙げられたと。その甲斐あって今年から騎士団に名を連ねたと報告は受けております」
打ち込まれた疑惑の棘。
二人はその顔を蒼白に染めるばかりで、何も言葉を返さない。返せない。
震える口を開く。
しかし、そこから言葉は何も出てこない。
それこそジンジャーが話した内容の事実であった。
ジンジャーは仰々しく胸に手を当てて顔を俯かせる。
「心中お察しします。しかし……これこそが戦争なのですッ! 誰か個人が悪いわけではありませんッ! ですから、私は上に立つ者としてさらなる悲劇を止めなければなりませんッ!」
しかし、この場の誰も、ジンジャーの芝居がかった仕草を気にかける余裕はなかった。
ジンジャーの口先で打ち込まれたその棘は、半年かけて培った四人の信頼関係を立ちどころに壊してみせたのだ。
四人対一人のある種の対立関係で始まった非公式の会談。
それが今や四人の心は離れ、四組の対立関係となっていた
「なに、それ……。二人が、殺したの……? ぼくの家を、故郷を……父上と母上と?」
友人の"大切"を奪った時、奪ってしまったと知った時、果たして何と声をかけたらいいのだろうか?
謝罪? 弁明? 説得?
そのすべては意味をなさない。すべては過去。
吐き出す言葉は、言葉を吐く者にとっての慰めに過ぎない。
聡い二人だからこそ、思い至る。
かける言葉どころか、言葉をかける資格さえ失っていたことに。
「ま、まて。理解できぬ。ジンジャー。なぜ、なぜ……。お主わかっておったのか?」
シトラスの身の上を分かったうえで、自分の下に寄越したのかという質問に対して、
「はい……と言いたいところですが、そうではありません。それこそが私がここに足を運んでいる理由なのです。……シトラスくん、話は続けられそうですか? お辛いなら席を外していただいても……」
震える肩。ズボン固く握りしめながら、
「大丈夫、です」
こらえるようにその下唇を固く噛んだ。
「わかりました。……端的に言うと、ポトム王国に姫のような力を持つ者が確認できました。しかも複数名。偵察に出した私が個人で抱えている諜報部隊もやられました。今は偽の情報で時間を稼いでいますが、それも時間の問題でしょう――」
シーヤのような力。他者を卓越した圧倒的な力。
彼女と半年以上生活を共にした二人は、その相手の持つ力の規格外さが実感できた。
「――判明しているだけでも二名。その二人ともが上級魔人級です。辺境に残っていた騎士団の一部が対応に当たっていますが、まったく足りません。騎士団本隊は王都に戻っておりますので、応援が間に合うかどうか……。ここらでポトム王国とは手打ちにしたいところです。ポトム王国も北東方面軍と中央方面軍が壊滅した以上、これ以上の戦闘の継続は、国家的損失でしかありません」
ジンジャーの口から損得で語られる戦争。
「あなたたちが始めた戦争じゃないかッ!!」
淡々と語られる政治の一端。
戦争は政治の一つである。武力を伴う政治的交渉。
そこに価値があれば継続し、価値がなくなれば止める。
唇をキュッと一本に締め、鼻に皺を寄せたジンジャーは、
「それを言われると耳が痛いのですが、私たちは国家。一枚岩ではないのですよ……とは言っても、シトラスくんの憤りは最もです。私にできる最大限の補償はしましょう」
俯くシトラスの、
「……してよ」
くぐもった声。
「はい?」
「家族を返してよッ! ぼくの父上をッ! 母上をッ! ぼくの故郷をッ!」
シトラスはその顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
先ほどから与えられた情報のショックで、言葉を失っているシーヤであったが、それに追い打ちをかけるようなシトラスの涙。
それは彼女を大いに狼狽えさせた。
ジンジャーは初めて申し訳なそうな表情を浮かべると、
「……残念ながら、それは私の力の及ぶ範囲でありません」
「なんで……どうして……」
拭いきれない悲しみ、恨みがましいシトラスの言葉に、
「――しかし、なぜシトラスくんの領地が滅ぼされたんでしょうか?」
ジンジャーはさらにこの場に一石を投じた。
「え?」
顔を上げるシトラスに、ジンジャーは不敵に微笑むと、
「実はそれは私も知りたいとするところなんですよ。なぜ、ロックアイス領だったのか。敵国で挟撃を恐れたとはいえど、なぜ、わざわざアニマの森付近の町へ北上してまで、ロックアイス領を狙ったのか……。ねぇ、お二人さん?」
先ほどから視線が定まってないウィップとカスタネア。
二人を射抜くジンジャーの目は笑っていなかった。
ビクリと肩を震わせる二人。
その瞳から目を逸らすことは許されなかった。
「あの時、あの場所で何があったんですか?」
無言を貫く二人。
「お願い」
シトラスが縋るようにその瞳を見つめる。
彼には全てを知る権利があった。
ウィップは一度息を大きく吸い込み、そして吐いた。
「……ポトムに内通者がいたんだ。しかもかなり上層部に。その詳細までは知らない。これは天地に誓って本当だ。……ただ、グラキエースは、シトの故郷はな……。売られたんだよ」
語られたのは耳を疑うような現実。
「負ける理由がなかった。国境のポトム軍の人員、配置、装備。俺たちは攻める前に全ての情報を持っていた。俺たちに与えられた任務はグラキエースの破壊と、当主の殺害だ。その対価にグラキエース一帯をチーブス王国に譲るという話が通っていたらしい。俺たちの誰もが変な話だとは思ったさ。敵国に攻めこんで、その対価に敵国から領地を譲られるなんて。だが、この話を持ってきた伯爵は確信があるようだった」
文字通りの売国である。
そして、相当に地位が高い者が絡んでいることは想像に難くなかった。
派遣されている軍全体の人員、配置、装備は末端の構成員の関知するところではない。
その情報を譲り受けたチーブスはさぞ攻めやすかったことであろう。
戦う前から勝敗は決していた。いや、勝利を譲られていたのである。
「障害なんてものはほとんどなかった。ポトムの領地に入っても、拍子抜けするほど簡単にことは進んだ。唯一の障害になったのは、グラキエースに入る直前で現れたとんでもなく強い覆面の猫人族の戦士ぐらいだった。それを俺とネアでなんとか討ち取って――」
「――いま、なんて?」
「え? いや、猫人族の覆面の戦士を俺とシアで討ち取って……」
黒髪銀眼の友人の影が脳裏を掠める。
――ライラッ!!
シトラスは大きく目を見開いて歯を食いしばった。
シトラスから漏れる激情は、隣に座るシーヤに生まれて初めてとなる感情を抱せた。
それは恐怖であった。
その事情はわからない。
しかし、隣に座る彼女はシトラスの心の慟哭を感じた。
それは言葉を越えて、直接彼女の魂を震わせるほどのものであった。
それは、シーヤだけが感じた感情なのか。
それは彼女にはわからない。
ただ、どうしようもなく怖かった。
胸に響いたその激情が。その慟哭が。
シトラスは胸を渦巻く激情を押し殺す。
「つ、続けて……」
頭がどうにかなりそうであった。
「あ、あぁ。それで後はグラキエースに入って……俺"が"任務を遂行した」
消え入るように呟くウィップに、
「私"たち"よッ! ウィップだけじゃないわッ!」
これまでウィップの隣で黙っていたカスタネアが、涙声を上げた。
強い自責の念から、その声の最後は裏返っていた。
「つまりは、お二人が揃ってシトラスくんの御両親を害した、と……。いやいや運命って怖いですね。そのお二人が、偶然にもその御子息であるシトラスくんとこれまで共同生活を送っていたなんて」
「――まれ」
「はい?」
悪びれずに首を傾げるジンジャーに、
「だまれ下郎が」
シーヤの左手から魔力の束が放たれた。
「……あっぶないですね」
至近距離から放たれた魔力を、ジンジャーを逸らすことで躱してみせた。
「嘘ッ!?」
「魔法の軌道を捻じ曲げた、だと?」
いま目にしたものが信じられないとばかりに、目を見開いて驚く二人。
魔力を打ち消すでもなく、書き換えるでもなく、ただ逸らす。
一見簡単そうに思えるが、それは想像以上に困難を要する。
なぜなら、魔力は反発するからである。
ある魔力に異なる魔力を合わせると、魔力同士の反発作用により、上位の魔力による事象の書き換えが発生する。
魔力同士が等しい場合は、魔力の逃げ場が無くなり暴発する。
ジンジャーのそれは現代魔法科学の理解の及ばない世界であった。
シーヤ派苛立たしげに歯ぎしりをする。
「相変わらず珍妙な魔法道具を……」
「持つべきものは魔法商人の友人ですよ」
彼女の両手には黒地に金の刺繡が施された手袋。
それこそが世にも珍しく魔力に干渉することができる魔法具。
過去にジンジャーがシーヤの御守役を務めた際に、その責務を全うできた理由であった。
連れてきてジンジャーの供回りの者が、その警護に動いた。
それを他でもないジンジャーが制する。
――わらわを舐めるなよッ!
もう一度、今度は右手で放つが、それはただ家の風通しを良くする二つ目の穴を作る結果に終わった。
挑発するように微笑むジンジャーは、
「何度やっても一緒です」
安い挑発にムキになったシーヤが、さらに次の一撃をくりだそうとした時、
「シーヤやめて」
シトラスの無機質な声がそれを抑止した。
いつもの温かい声とは違う。
それはまるで別人のようだ。
シーヤにとってシトラスは、友人であり、家族であり、恋人のような存在。
しかし、今のシトラスはどこか遠い存在であった。
「ぼく、行くよ」
無音が部屋を支配した。
その言葉にジンジャーが満足そうに笑みを浮かべると、すっかり冷めてしまった紅茶のカップを手にとって喉を潤す。
「――そち、いま何と言った? いや、いい。わらわの聞き間違いじゃ、そうに違いない」
信じられないという表情。その声は微かに震えていた。
シトラスは縋りつくシーヤに視線を寄越すこともしないで、
「何度でも言うよ。シーヤ。ぼくは行くよ」
「ならぬッ!!」
シーヤの絶叫が部屋に響く。
かつて、御守役として最もシーヤの傍にいる時間が長かったジンジャーですら、聞いたことのない大音声であった。
シトラスは努めて声を押し殺し、
「……また戦争が始まるよ?」
「関係ないのじゃッ! わらわが全て消すからッ!」
そう言って右袖を握りしめてくるシーヤに、冷ややかな視線を送る。
その冷ややかな視線ですら、今の彼女には嬉しかった。
彼が自分を見てくれるのであれば。
「……そうやってシーヤにとって必要じゃない者はすぐに消すの?」
「あぁそうじゃ。わらわにはお主がおればいい。お主もそうじゃろ……?」
普段の泰然とした彼女とは、まるで異なる媚びるような仕草。
シトラスは何も返さない。
それどころか、再びその視線を正面のジンジャーへと向けた。
縋るようにシトラスを見つめるシーヤ。
「……なぜじゃ? なぜ何も言わぬ……? なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ……なぜ?」
とぐろを巻いて漏れ出す彼女の魔力。
それは魔力視の魔眼を持つシトラスだけでなく、室内にいた誰もが知覚することができた。
机の上、カップに紅茶が揺れ始める。
否、紅茶だけでない。
屋敷が、大地そのものが揺れ始めていた。
自責の念から言葉を失っていた二人の頬に汗が伝う。
「おいおいおいおい、なんか姫おかしくないか?」
「姫がシトのことを好きなのは、知っていたけどこれは……」
左手でシトラスの袖を握りしめたまま、顔を俯かせたシーヤは、
「そうか……。結局そちも裏切るのじゃな。わらわを――」
「ちがうッ! こんなのはおかしいよッ! シーヤッ!」
初めてその手を――
全てを滅する力を。
――シトラスへと向けた。
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