十七話 属性魔法と深淵と


 闘技場での敗戦後、茫然自失で自身の部屋に戻ったシトラス。

 汚れもそのままに、ベッドに腰かけ放心状態であった。


 ――負けた。


 それも完膚なきまでに。

 ミュールとメアリーと組手をする時は、いつも自分が一番だった。

 三人でずっと磨いてきた剣。


 腰かけたベッドに後ろから倒れこみ、天井を見上げる。


 ――負けた。


 ビルとバーラに稽古をつけてもらっていたのに。

 毎日のように稽古を重ねてきたのに。

 母親で剣士でもあるダンシィにも褒めてくれた剣。


 何かを掴み取るかのように、右手を天井に伸ばす。


 ――負けた。


 自分は勇者になるはずなのに。

 自分が憧れた絵本の勇者は、悪を颯爽と倒していたのに。


 しかし、闇雲に差し出した手では、何も掴むことできなかった。


 不意にこみ上げてくる笑い、

「……ふふッ」


 瞼にこみ上げた熱を隠すように、差し出した腕を曲げて、熱が今にも外に零れ落ちそうなその瞳を覆った。


 入口の陰からミュールとメアリーが、シトラスの様子を伺っているが、それに気が付く様子もない。


 二人は、いつも自信に満ち溢れているシトラスの様子とのギャップに戸惑い、言葉をかけかねていた。


 敗戦後、闘技場を早々に後にしたシトラス。


 ミュールは、勝ち上がった控室にいないシトラスの姿から敗戦を察して、足早に戻ろうとするメアリーをなんとか宥めて、しばらくシトラスを一人にさせていた。なんとかメアリーを宥めたのはいいが、その実、ミュール自身もタイミングを計りかねていた。


 窓の外を見ると、空がもうそろそろオレンジ色から青に染まろうとしている。


 しばらくして、ミュールは、室内から鼻を啜る音が止まったタイミングを見計らって、部屋に入る。シトラスに配慮して、わざとらしく大きな咳払いをしながら。


「あー、シト? 大丈夫か? 怪我とか――」

 言葉を選びながら歩み寄るミュールを後ろから押しのけ、メアリーがシトラスに飛びついた。ミュールから『シトラスの為を思うならそっとしてあげろ』と言われて、渋々引き下がったメアリーだが、解禁されるや否や、忠犬の如く駆け出した。


「うわっ、メアリー!?」

「誰にやられたの? それ」


 左手に座ったメアリーは、そのくりくりとした大きな赤の眼で問いかける。

 息を吸うくらい気軽な口調だ。


 だが、ミュールは知っていた。ミュールはこの年端もいかない少女が、息を吸うような気軽さで、人を害することに決して躊躇などしないことを。


「対戦相手だよ。あの――」

 シトラスの話を遮るように、彼の右手に座って、左手でシトラスの肩を抱いた。

「それはそうと怪我はないのか!? 元気無さそうだったから心配したんだぜ!」

 シトラスは少し曇った顔を見せたものの、自身を心配する二人に笑顔を向ける。

「――うん。大丈夫。ちょっと痣になっているけど、それだけだよ。それにしても、あー、悔しいなー。二人はどうだった?」


 メアリーもシトラスの対戦相手が読み上げられた際に、その場に居合わせていたが、内容は微塵も聞いていなかったことがこの時ばかりは幸いした。

 西の四門、アップルトン家の嫡子を襲撃するなど常人じゃ到底考えないことだが、彼女は常人ではなかった。これ幸いと話をぶった切るミュール。


 鼻を掻いて紛らわすかのように話題を二人にそらすと、二人はさも当然な顔で、

「「勝った」」


 シトラスの表情が歪む。

 三人で敗北したのは自分だけだと知って。


 シトラスの表情から心情を慮って、肩を抱きながら励ますミュールは、

「まぁ元気出せって! 勇者になるんだろ?」


 ロックアイス領にいる時から耳にタコができるほど、シトラスの夢は聞いていた。

 ミュールは最初こそ馬鹿にしていたが、師匠バーバラによる調教おはなしと、シトラスと触れている内に次第に感化されていき、今では最大の支援者の一人であった。


 シトラスの胸元に顔をうずめたメアリーも、ミュールの言に小さく賛同の声をあげる。


 ミュールは言葉を続ける。

「それになんだ? 勇者は腕っぷしが強くなくちゃいけないのか?」

「……そうじゃない? 本だと悪者や悪の怪物とか倒さないといけないし」

 シトラスの肩を抱いたまま、空いている右手の親指で自身とメアリーを指さすと、

「そんなん俺とメアリーに任しとけよ」

 ジト目でミュールを見つめるシトラスは、

「ぼくとそんな成績変わんないじゃん……」

「俺はまだ本気出してないだけ。メアリーはどうか知らないけど……」


 二人の視線は、シトラスの胸の中で甘える少女に移るが、当の本人はどこ吹く風で甘えるようにその身を寄せている。


「それに新入戦がダメでも魔闘会が、次があるんだ。特訓してそこで勝てばいいんだ。あと、魔法試験と……」

 ミュールは、抱いていたシトラスの肩から手を離し、励ましの言葉と共にその背中を軽く叩いた。

「試験かー」

「試験だなー」

 話を持ち出したミュールとシトラスが揃って首を傾け、唸る。

「「うーーん……」」


 シトラスのバイブルである絵本には、勇者の頭が良いとは書いていなかった。



 カーヴェア学園には多くの行事がある。

 在校生は、勉学に行事にと、忙しい日々を送っていた。。


 新生戦の本選は、予選の翌月から始まる。

 本選への切符を掴み取れなかった者も、長々と反省している時間はない。多くの者は次の行事で少しでも良い成績を残すために、さらなる努力が求められる。


 シトラスも例には漏れず、学園城内の大図書館に足を運んでいた。

 教科書を開き、羽根ペンを紙に走らせる。ミュールとメアリーは、午後から行われる新入戦の本選出場のために、闘技場へと向かい、この日は珍しく別行動を取っていた。


 新入戦の観客席は、本選開始に合わせ、午後から解放される。シトラスは本選までの時間を、魔法試験に向けての試験勉強に費やすために、他の生徒同様に勉学に励んでいた。


 大図書館は、王国一と言われる蔵書を有しており、ともすると迷子になりかねない広さを誇っている。館内からの蔵書の持ち出しは原則禁止であるため、大図書館の館内の平日は、勉学に励む生徒で盛況を誇っていた。


 しかし、特に本日は授業が休みの光の日。

 午後から新入戦の本選があるとはいえ、新入戦に関心のない上級生で、館内の席の三分の一ほどが埋まっていた。


 館内の中央では、司書を務める教員が、館内の平和を守るために、その目を光らせている。


 シトラスが座っている席は、本棚近くの角の席。その隣こそまだ空席であったが、前後の席や、通路を挟んだ隣の席では、他の生徒が彼同様に勉強に励んでいた。


「ふぅ……七曜は試験に絶対出るとして後はなんだろ?」


 シトラスが勉強に一息ついていると、

「はろ~!」

「えっーと、はろー?」


 通路側から声をかけてきたのは、白髪茶眼のかわいらしい少女。

 目にかかる粉雪のように白い髪。赤のようにも、黒のようにも見える茶眼。口元には愛嬌のある笑顔が浮かんでおり、歳はシトラスとそうは変わらなそうである。


「隣いい~?」

「うん、いいよ」


 間延びした口調と、ダボっとした服装。袖は指の先まで覆い隠してなお余りある。いわゆる萌え袖というものである。

 カーヴェア学園では、制服をどう着るかに特に指定はなく、彼女のように一部の生徒の間では、制服を着くずしたり、改造されていた。

 彼女も服装は、やや奇抜な格好ではあるが、全体的に美少女といって差し支えのない容姿である。


「ありがと~。一年生だよね~? ボクの名前はハロルシアン。君は~?」


 余らせた袖ごと手を差し出すハロルシアンを名乗る少女に、

「ぼくの名前はシトラス。よろしくハロルシアン」

「よろしく~、長いからハロでいいよ~」


 袖越しに手を重ねる二人。

 シトラスのハロルシアンの第一印象はちょっと不思議な子、であった。


「わかったハロ。改めてよろしく。……ハロはなんだか不思議な眼をしているね」

 目にかかる彼女の純白の前髪はその瞳を覆い隠す。動くたびにチラリと純白の奥に見える瞳は、茶色にも見えるが、光の角度では他の色にも見える。

「そ~? シトは眼がいいんだね~。ところでシトは試験勉強かな~? この季節に偉いね~」

 シトラスの反応に、くすくすと可愛らしく笑うハロルシア。


 科目毎の独自の中間試験を除けば、学園の進路や成績を担う魔法試験は年に一度。年度末の一発勝負である。多くの生徒が、魔法試験の日程が発表されてから、堰を切ったように図書館に訪れる。この時期から大図書館に来る生徒は、特に新入生では珍しい。


「うん。そうだよ。ハロも?」

「うん。よかった~。なら、問題の出し合いをしようよ~。ボクもここで試験勉強の復習を~、するつもりだったんだけど~、手を動かすより口を動かす方が~、好みなんだ~。なんてたって~、魔法使い、だからね~」

 ハロルシアンが口にしたのは、呪文で口を動かす魔法使いを比喩した鉄板ジョークである。

「ふふっ、ハロはうまいこと言うね」

「ふふふ、でしょでしょ~」

 シトラスの笑う顔を見て、ハロルシアンも破顔した。


 拳を口元にわざとらしくあて、こほんと咳ばらいをするシトラス。

「じゃあぼくから問題を出すね。まずは基本。七曜とその属性反発は?」


 人指し指を立てて問題を出すシトラスに間髪入れず答えるハロルシアンは、

「七曜は闇・火・水・風・雷・土・光の七つで~、闇と光~、火と水~、風と土~。雷はどの属性とも反発しない~。簡単~」


 ニコニコと笑う彼女は言葉を続ける。

「じゃあ、次はボクの番~。魔法協会が~、定めている魔法使いの能力を示す~、魔法位階で~、正式に魔法使いと認められるのは~、何位階から~?」


 ハロルシアンから矢継ぎ早に出された質問にシトラスは、

「えっーと、あれだよね。七位階あるやつだよね。……うん、三位階!」

「ぶっぶ~。四位階だよ~。三位階からは~、プロとして認められる位階だね~。魔法使いとしては四位階から~、認められるよ~。ひっかかったね~」


 余った袖に隠された手を口元に宛がい、ぷーくすくすと笑う少女。

 動きに合わせて、彼女のショートボブの髪がふわりと揺れる。


 おどけた調子のその笑みに、シトラスも思わす笑みが零れる。


「ひっかかってしまった! じゃあ、雷属性が属性反発しない理由は?」


 負けじと張り合うシトラスであったが、

「雷属性は~、すべての人間が~、生まれながらに~、その因子を有しているから~、簡単簡単~。魔素マナ魔力オドの違いは~?」


 またしても、ハロルシアンの方が一枚上手であった。

「くっ……すみません覚えていませんッ……」

 大袈裟に悔しがるシトラスと、くすくすと愛らしく笑うハロルシアン。

「は~い、ハロの勝ち~」


 初対面の二人であったが、互いに人見知りをしない性格もあって、あっという間に打ち解けていた。


 その後も、シトラスとハロルシアンは問題の出し合いを続ける。


 ぽわぽわした雰囲気とは裏腹にハロルシアンは頭が良く、シトラスの問いにすらすらと答え、逆にシトラスが解答に詰まる局面が度々あった。

 しかし、シトラスが答えられなかった問題は、彼女がわかりやすく説明してくれるので、シトラスは時間が経つのも忘れて、彼女との一問一答に熱くなった。


 しばらくすると、ハロルシアンはシトにおすすめの本を取ってくる、と言って離席したので小休憩。


 あたりを見渡すと、自分たちのように問題を出し合う生徒や、書き取りに励む生徒、蔵書を読んでぶつぶつと音読を繰り返す生徒で、館内はある種の熱を帯びていた。


 本を探しに行ったハロルシアンを待つシトラスが、ぼんやりと館内を見渡していると、見覚えのある銀髪碧眼の二人組が近づいてきた。目の前に来たところで、ようやくその二人組が先日の控室でシトラスに絡んできた二人組であり、太った目つきの悪い生徒は、シトラスが新入戦で打ち負かした少年であったことを思いした。


 太った目つきの悪い生徒の少年の一歩後ろから、キノコ頭の少年が声を掛ける。


「よう」

「えっーと、待ってね……ここまで出てる。ここまでは出てるんだけど、ほら、あれだよね。うんうん、あともうちょっと……」

「……そこまでで良いから言ってみろ」

「ジャム・ファンガス?」

「違う! ジェームス・ファンガスだッ!!」


 ジェームスの怒声に、館内に静寂が訪れる。


 周囲の冷えた視線と、館内の中央で眉を顰める司書の女性。


「おい、ジェームス、声を抑えろ」

「あ、あぁごめん」


 首を竦めるジェームス。


 周囲もすぐに視線を切り、それぞれの時間に戻る。

 屈辱からか、顔を赤くしてシトラスを睨み付けるジェームスと、それを腕を出して諫めたもう一人の少年が顎を突き出し、シトラスを見やる。


 シトラスは視線に対して軽く頷いて、

「フィーブル・ハロー?」

「フィーブル・アローだッ!!」


 またしても館内に静寂が訪れる。


 館内の中央で、司書の女性が再び眉を顰めて、再度視線を寄越す。

 司書は、自身の左の人差し指と中指で自分の眼を差した後、その指をフィーブルたちにゆっくりと向けた。


 ――見ているぞ、と。


「お、おいフィーブル」

「くっ……!?」


 司書からの警告にたじろぐ二人。

 フィーブルは喉を鳴らすと、睨みつけながらシトラスに一歩詰め寄った。


「お前は……シトラスとか言ったな。お前は中央貴族の柱たる伯爵家の者に恥をかかせたんだ。俺を、中央貴族を敵に回したと思えよッ」

 鼻と鼻が触れ合いそうになるほど顔を寄せて、憎々し気に言葉を吐くフィーブルに対し、

「恥って……何かしたっけ?」

 シトラスはてんで心当たりがない様子で、その首を傾げた。

 何も理解していない様子のシトラスに対して、フィーブルは、

「……ッ! 田舎の有象無象は中央貴族に道を開けるのが道理であろうッ。俺は古くから中央貴族に名を連ねるアロー家の者だぞッ。それをあろうことか田舎者が初戦でッ」

 嚙み殺した声音で恨み言を吐くが、シトラスからすると、

「わざわざそれを言いに……?」


 シトラスの素直な疑問を煽りと捉えたようで、フィーブルの顔は真っ赤に染まる。


 シトラスが、元気な人だなー、などと内心で場違いな感想を抱いていると、白髪頭がシトラスの背後からひょっこり顔を覗かせる。


 ハロルシアンだ。胸には本を抱きしめている。


「なになに~、なにしてるの~?」


 額にかかる雪のように白い前髪の内から、シトラスとジェームスに視線を動かす。


「あっ、いやなんでもないッ。いくぞジェームスッ」

「ま、まってくれフィーブルッ」


 ローブを翻し、足早に立ち去るジェームス。

 それに追いすがるようについていくフィーブル。


「なんだったんだろ?」

「さぁ~?」


 二人は視線を合わせ、二人で首を傾げた。


 話を変えるように、ハロルシアンは、両手で胸に抱きしめていた本を、シトラスの方に突き出す。

「あっ、この本がね~、シトにおすすめの本だよ~」


 シトラスは彼女から本を受け取り、その表紙のタイトルを読み上げる。

「『魔力マナの人体に及ぼす影響』? ありがとう! 今からちょっと読んでみるよ」

「量が多いけどおもしろいよ~、シトの役に立つと思うよ~」

 ハロルシアンの言うとおり、拳ほどの厚みのある本は、かなり読み応えがありそうである。

「ありがとう。そう言えば、ハロは午後から本選を見に行くの? ぼくは友達が出るから応援に行くけど、一緒にどう?」

「あ~、ごめ~ん、他の子と約束しているんだ~」


 眉を少し下げたハロルシアンは、もう行かなくちゃ~、と相変わらず間延びした口調で告げると、図書館を後にした。唐突に表れて唐突に去る、なんとも不思議な少女であった。


 ハロルシアンの背中を見送ったシトラスは、館内の中央の上空に位置する魔法時計に視線を送ると、午後から始まる新入戦の本選までは、まだ時間はあった。


 今から向かうと暑さの残る空の下で、本選開始まで待機することになるだろうことは、想像に難くない。

 シトラスは、ハロルシアンが持ってきた年季を感じさせるその革表紙に、ゆっくりと手を伸ばした。


 ――魔力はその者を形作る。そして、この世に二つと同じ魔力はない。それが例え同じ両親から生まれた存在であっても。魔力というものは、万物に固有の存在であり、世界が万物に与えたその事実を、何人も変えることはできない。大切なことは、何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。もし、世界が与えたものを変えることができるとすれば、それこそが神か悪魔の御業である――


 ハロルシアンが持ってきた本の内容は概念的な表現も多く、まだ習っていない魔法や理論について触れており、ページをめくるにつれてシトラスの頭は、うつらうつらと舟を漕ぎ出していく。


 第二章のページをめくる頃にはその背中は丸くなり、その瞳は半分以上閉じつつあった。


 その意識はどこか遠く。その首は何度も落ちては上に戻り、落ちては上に戻る。周囲の声もやがては子守唄に変わる。




 落ちゆく意識の中で、声が聞こえた。


『神童の弟と言うから期待していたが弟は弟に過ぎない、か』

 

 あぁ――

 

 脳裏に先日の光景が浮かぶ。にじむ視界。荒い吐息。頭上から投げかけられ失望を孕んだ声。繰り出した剣は通じず、相手の剣を防ぐこと叶わず。


 ――なんて弱いのだろう


 踵を返し、去っていく相手の背中。

 自分は這いつくばって、相手の影を見送ることしかできなかった。


 だが、声が聞こえる。囁くように。


 ――それでいいのか?

 

 いやだ。


 ――そのままでいいのか?


 いやだいやだッ!!


 立ち上がれなかった自分を奮い立たせる。立て、と。立ち上がれ、と。

 自分はこんなところで終わらないと。自分をこんなところで終わらせないと。


 拳を握り、地面を押し返し、顔を上げる。顔を上げた先は――



 ――闇があった。



 光すら飲み込む黒闇。


 底なしの穴のように、吸い込まれるように。


 漆黒の闇。

 ヤツ・・がコチラを見ている。


 逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ。

 

 しかし、その足は動かない。


 動かなければ、動かなければ、動かなければ、逃げられない。


 いつの間にか周囲はその色を失い、世界はそれを形作ることをやめた。

 世界に上もなく下もなく、右もなければ左もない。ただあるのは目の前の漆黒ヤミ


 闇に近づく、闇が近づく。


 自分の姿さえわからない。自分は何で。自分はどこにいるのか。

 世界が色を失う。色あせていく世界に声が響く。


 あゝ、あゝ


 音が聞こえる。カツカツカツと。世界が揺れるグァングァンと。


 声が聞こえる。声が。声が――




 そこでシトラスの意識は覚醒した。


 荒い吐息。額にびっしりと浮かぶ汗。だが、熱い吐息に反してその顔は青く。ひどく乾いた喉。乾いた喉は痛みとなって、その存在を訴える。


 何かを見ていた気がする、何かに見られていた気がする。


 だが、シトラスは思い出さない。思い出せない。


 ただ、目覚めたことに安堵する自分がいた。そこでふと気づく。左手を包みこむ温かさに。


「大丈夫?」


 いつの間にか固く握りしめられていた左の拳。そして、拳を包むのは人の温かさ。


 シトラスがゆっくりと視線を左に送ると、そこには、膝をついて拳を両手で包み込むメアリーの姿があった。


「ど……して……?」


 館内に設置された魔法時計の短針は、当に昼を過ぎていた。

 しかし、夕方と呼ぶにはいささか早い。

 新入戦が終わる時間には、まだ早かった。


 唾を飲み込み、再度言葉を吐くシトラス。


「どうして……?」


 沈黙。喉が渇く。

 シトラスは、立ち上がってメアリーの手を引き、大図書館を後にした。


 廊下の窓側にメアリーを引き寄せると、大きく息を吸って吐き、震える声で、窓を背にしたメアリーに言葉を投げ掛ける。


「本選は……? この時間なら、まだ大会中だよね」


 再度の沈黙。

 シトラスは、どうしようもない喉の渇きを覚えた。


「……シトがいなかったから」


 視線を下げてか細い声で答える少女に、シトラスは言い知れない感情が、己の中でこみあげてくることを感じた。それと同時に、どこか嬉しく思う自分がいることも確かだった。


「……ごめんね…………ありがとう……」

「ううん、いいの……。私が来たかったの……」


 窓から見える闘技場の空に、魔力の光が伸びた。

 ガラス越しに見える光景には、手を伸ばしても届かない。


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