ep.20 マクリス

「――ほんとに、ほんとによかったー! オーラが元気そうで!」

「心配してくれて、ありがと、パニー。でも、もう大丈夫! ほら、見て! ちょー元気!」

「――少しでも変だと思ったら、すぐ教えてね?」


 マクリスとの合流を無事に果たしたパニーたち一行は、予定通り、今後の船旅をマクリスの操る船に託すこととなった。荷物の運び入れを進めている最中、長き眠りからオーラがようやく目を覚ました。外界の船や炎に対して特別な感情を抱いていたわけでもないという。そんな彼女が、なぜ突然恐怖を感じたのかは解明されぬままであったが、体調はすっかり回復し、以前と変わらぬ元気な姿を見せていた。その姿を目にしたパニーたちは、ようやく胸を撫でおろし、安堵の息をついた。


 漂流者のおじさんに対しても、オーラは驚いたものの、特段怯える様子も見せなかったため、パニーたちは潜んでいた不安を解き放つことができた。


 荷物の移動が終わり、次に訪れたのは、セルーノとリリーとの別離の刻。それまで共に紡いできた日々が、鮮烈な記憶として脳裏に蘇り、パニーたちの胸を強く締めつけた。彼らと過ごした時間のすべてが胸の奥底から沸き立ち、耐え難い痛みとなって次第に涙として頬を伝い落ちた。パニーたちは、最後の瞬間までセルーノとリリーのぬくもりを手放すまいと、名残惜しさに溢れたその姿を必死に目に焼きつけようとした。彼らの姿がやがて視界から完全に消え去っても、パニーたちはその場に佇み、手を振り続けていた。




---




「「「「「――よろしくお願いいたします」」」」」

「おう、行ってきますっと。あ、俺が戻ってくるまでに着替えてろよ~」

「「「「「はーい!!」」」」」


 セルーノとリリーとの別離を終えた後、パニーたちは、マクリスの提案に従い、漂流者のおじさんを預けるべく最寄りの島へ寄港することとなった。マクリスは、筋骨隆々たるその男を躊躇なく背負い、そのまま颯爽と上陸していく。彼のたくましい背中が次第に遠ざかるのを見送りつつ、パニーたちはクルーザーでの留守を託された。


「さて、着替えますか」

「全員一緒?」

「――たぶんそうじゃない?」

「これどうなってるの?」

「タンクトップ先じゃない? シャツはあと。多分マクリスとおそろだ」

「えー、この靴ぶ厚すぎない?」

「――ねぇ、これってザクロじゃない?」

「あ、確かにかわいー!」

「靴下も、ザクロだ! けどこれ、靴はいたら見えなくなーい?」

「僕どうしよう――」

「あー、そういやそうだな」


 船内に取り残された彼女たちは、まずは着替えに取り掛かることにした。マクリスの説明によれば、パニーたちの装いは、外界の人々から見れば一風変わっており、ひと際目立つ存在となりかねないという。それを見越して彼は、あらかじめ用意していた洋服を手渡した。洋服は、マクリス自身が着ているものと同じく、タンクトップにオーバーオール、そしてザクロの意匠が施されたシャツに、同様にザクロがあしらわれた靴下と靴の一式であった。


 この衣装は、彼のカフェで働く際の正式な制服になる予定であり、今回のパニーたちの訪問に合わせて急遽、お揃いのデザインを手配したのだという。ザクロの意匠から察するに、このカフェではザクロが取り扱われているのだろうか、そんな推測が頭をよぎる。


 普段より装いに対して繊細な感性を持つウェナとオーラは、華やかな色彩の組み合わせを楽しむことに慣れていた。しかし、白・黒・紺の三色で抑えられたこの服装は、彼女たちにはどこか味気なさを伴うように映り、その表情には終始わずかな陰りが漂っていた。二人は、シャツの着こなしに工夫を凝らしたり、オーバーオールの紐を微調整してみたりと、ささやかな抵抗を試みたものの、どうにも納得がいかず、どこか居心地の悪さを感じているようだった。


「ニウスは、俺のシャツとりあえず羽織っとけば?」

「――うん、そーする」


 急遽同行することとなったニウスの衣服は、当然ながら用意されていなかったため、彼はやむなくエイディのために準備されていたシャツを借り受け、その場をしのぐこととなった。




---




「ん? どうした?」

「――お、おかえりなさい」

「あぁ、ただいま――で、どうした? さっきまで"ニーヴィー"に発狂してなかった?」

「"ニーヴィー"?」

「あれ? 言ってなかったっけ――この子だよ」


 マクリスは微笑を浮かべながら、もたれかかっていたクルーザーの淵を、軽やかに二度、指先で叩いた。


「このクルーザーに名前があるの?」

「そりぁ、名前くらいあるさ――こいつは、"ニーヴィー"だ。よろしくな」

「「――よろしくお願いします」」

「どうした、どうした? さっきはあんだけニーヴィーのこと褒めまわしてくれたのに――なんだ、もう飽きたか? いろいろ触っていいって言ったろ?」

「ほ、褒めまわすって――」

「いや、――な、なんか」

「――ねぇ?」

「――ん? ほんとにどうした。お前ら、借りてきた猫みたいだな」

「(――え?)」

「(ネコ?)」

「(なになに? ネコ? どういう意味?)」

「(そもそも、ネコって何だっけ?)」

「(外界人を虜にする生き物じゃなかった?)」

「(そ、習ったでしょ? 顔が丸くて、目が大きくて、耳がとがってるの。毛皮はやわらかくて、確か液体になるんだったかな? 長い尻尾もあって――魔性の生き物だったはず)」

「(魔性の生き物を借りてきたの?)」

「(どういうこと?)」

「(借りる方法までは、書いてなかったと思う――)」

「(俺も知らねぇ)」

「――あー俺が、悪かった、気にすんな。何してんだ――いやむしろなんで何もしてないんだって聞きたかっただけだよ」

「せめて、そこのソファに座ればいいだろ」

「――そ、そふぁ」


 

 着替えを済ませたパニーたちは、船尾のプラットフォームに腰を下ろし、落ち着きなくその場に座していた。新たに纏った外界の衣装には未だしっくりと馴染めず、異界の産物とも思えるクルーザーの中で、緊張が彼女たちの表情を硬くさせていた。互いに視線を交わし合いながら、どこか居心地の悪さを感じる中、マクリスの帰還を待つ時間は長く思われた。



「なんというか――」

「――その、ねぇ?」


 彼女たちが知識として持つ船といえば、どれもが素朴な木製のものでしかなかった。外界船を幾度か目にしたことはあったものの、実際に乗船するのはこれが初めての経験である。この"ニーヴィー"は全体が流線型を描き、その純白の船体はまるで光を纏うかのように眩しく輝いていた。操縦席の背後には、何故かキッチンが備わり、小型の冷蔵庫までが付属するという不可解な設計である。さらに、リクライニングシートと称されるソファが設置され、ボタン一つでそれがフラットになり、ベッドとしても使用可能だというが、彼女たちにはその意味すら理解が及ばなかった。触れることなく勝手に開くトイレの蓋に至っては、何と人の動きを感知しているのだという。まるでトイレの蓋に意思が宿っているかのようなこの現象に、一体いつから物に魂が宿るようになったのかと、彼女たちは困惑を隠せなかった。さらに広々としたデッキには、ボタン一つでコックピットのシーティングが自動的に延長されるという、彼女たちの理解を遥かに超えた機能までもが備わっていた。


「おしゃれすぎて――」


 船体の側面に設えられた広大な窓から垣間見える内部には、本来ならば家に存在するはずのふかふかとした大きなベッドが鎮座し、さらにはテレビまでが完備されていた。その光景は、彼女たちが知る世界とはあまりにも乖離しており、いつの間にか外界の人々が家ごと海を渡る術を得たのかと、彼女たちの困惑はますます深まるばかりであった。


 さらに船の進行手段に至っては、人力によるオールでも、幻贖の力を借りるでもなく、エンジンと呼ばれる機械によって駆動しているという。この仕組みは、彼女たちの理解を遥かに凌駕し、単純な理では到底説明がつかないものであったため、ひとまず"魔法"として認識せざるを得なかった。


「なんだ、なんだ、まじで、どうしたお前ら」

「「「緊張してるの!!!」」」

「緊張?――なんで? ほら、リリー見てみろよ。すっかりくつろいじゃって」


 異界の風に触れた際の昂揚感が次第に薄れゆくと、彼女たちは如何にして時を過ごすべきか戸惑いを覚え、ただマクリスの帰還を待ち焦がれるばかりであった。その一方で、リリーだけは楽しげに船内を探索し、最終的には気に入ったのか、リクライニングシートに取り付けられたドリンクホルダーの中に、満足げに身を落ち着けていた。




---




「――なるほどな。ま、ニウスのことは、そのエルって兄貴が事情知ってんだろ? それなら大丈夫さ。兄貴がどうにか説明してくれてるだろうよ。一先ずは家に着いたらどうにか連絡手段考えようか」

「――ありがとうございます」

「――っんな、かしこまんなくたっていーよー。もっとラフな感じでいこうや」


 マクリスの傍らに座したパニーは、微かな緊張を纏いながらも静かに身を落ち着けた。エイディたちは外界の知識を貪欲に吸収せんと、ベッドに横たわりつつテレビに没頭しており、操縦席にはパニーとマクリスの二人のみが残された。目の前には、尽きることなく広がる穏やかな海が続き、クルーザーのエンジンから伝わる低く響く振動が静かに体に浸透してくる。これまでの波乱に満ちた旅路とは異なり、航海は平穏無事に、かつ順調に進んでいた。


「――ん? どうした?」

「いや、あの――」

「どうした? 言ってみろよ。俺の顔になんかついてるか? あ、もしかして俺の顔怖いか? 結構イケてると思ってるんだけどな、ウケはいい方なんだ。ま、でもコワモテって言われんだわ」


 パニーがマクリスの横顔に視線を据えていると、彼女の視線を敏感に察知したのか、マクリスが不意に口を開き、言葉を紡ぎ始めた。


「えっと――」

「――実はね、カフェも若い子向けの商品出したいとは思ってんだよね。見た目って大事じゃん?――じゃないよね。ごめんね? 何の話だったけ?」

「あ、あのおじい――じゃぁなくて、ヌプトス、あ、何度か会ってますよね? 私のおじいちゃんなんですけど――」

「――あぁ、お前か。ヌプトスの孫娘――似てないね?ま、祖父と孫ならこんなもんか」

「そう、ですか」

「――ま、いいや。続けて」

「あ、それで、マクリスがどんな人か聞いた時、寡黙で真面目な方だって聞いていたので――」

「――はぁ?」

「想像以上に話をしてくれる方だなーと」

「寡黙? 真面目?――誰が?」

「――あなたが」


 彼との出会いはまだ浅いが、彼はパニーたちの問いに対し、逐一誠実に応じるだけでなく、こちらが言葉を紡ぐ前に自ら話題を持ち出してくれる。その様子は、パニーの心中に無意識に築かれていたヌプトスの語る寡黙なマクリス像とは、あまりにも隔たりがあった。


「俺、結構話すの好きな方よ?」

「それは、はい。なんとなく伝わります」

「あぁ――まぁ、そうだなー。お前のじいさんとは特段、親しくないしな。今まで会ったの――覚えてないけど、数える程度よ?」

「――それは、聞きました。年に一度か、多くても二度程しか会ったことないって――でも、私たちとは今日初めて会うのに、今も、たくさん話してくれてます」

「そうか?」

「そうです」

「ま、何つーか、あれだ」

「――あれ?」


 マクリスは、口元にかすかな苦笑を漂わせ、表情をほんのりと緩めた。その微笑にはわずかな逡巡が影を差し、彼の心中を垣間見せるかのようであった。彼は無意識のうちに首筋をかきながら、視線を逸らし、そっと伏せるように目を閉じた。


「俺は――」


 マクリスは、一瞬だけパニーに視線を投じたが、その目はすぐに前方へと逸らされ、まるで何かを避けるかのように、ぽつりと短く言葉を零した。


「いや、なんでもないよ、ただ、人見知り、なんだ」

「――うそ、なんか今言おうとしましたよね?」

「いや、なんつーか。お前に――あいつの孫娘に言うのも大人げないっつーことで――空気読んだんです、お前も読んでくれる?」

「空気? 読む?」

「あー、だよな。空気は吸うものだよな」

「――え? どういうことですか?」

「パニーって、意外と押しが強いのね?」

「そうですか?」

「知りたい?」

「とっても」

「どうしても?」

「――気になります」

「あー、じゃぁ、遠慮しないよ?」

「はい」

「言う気はなかったんだけどな~」


 マクリスの瞳に一瞬、微妙な揺らめきが走り、その儚げな変化が、言い知れぬ不安の影を密やかにパニーの胸奥へと忍び込ませた。


「悪いな、俺は――海の民がどうにも好かん」


 その短い告白は、静寂を鋭く切り裂いた。

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