ep.7 17人

 蛇口を捻ると、水が勢いよくやかんに流れ込んだ。小さな気泡をまとって満ちあふれていく。火をつけると、音を立てて青い炎が燃え広がり、底を包み込んだ。ヌプトスは手早くクロスで手を拭きながら、チラリと時計を確認する。じわりと湯気が漏れ始めるのを見て、視線を棚へと移した。


「――アイガ、今日の一杯は何にしようか?」

「……」


 彼は棚の中を探り、瓶のラベルを読み上げた。並んだ茶葉を指でなぞりながら、吟味していく。


「今日は二人にリラックスしてもらいたいからね――」


 次々と候補を口に出しながら、その一つ一つに視線を走らせる。瓶の間を指先がさまよう中、ふと手が止まったのはレモンバーム。さらに、その隣にあったパッションフラワーにも目を留めた。彼は小さく頷き、アイガに問いかけた。


「おや、レモンバームもあるね。パッションフラワーも佳いね――」


 彼はパッションフラワーの瓶に目を留め、しばし考え込む。手元の紅茶の葉を見比べつつ、アイガに言葉を投げかけた。


「ねぇ、アイガはどれがいいかな」

「――なんでもいいわ」


 思いのほか冷たい返答に、ヌプトスの手は止まる。彼女の視線はどこか遠くへ、何かに心を奪われたままだ。彼は眉をひそめるも、微笑みを崩さずにカモミールの瓶を手に取った。


「そうかい?それじゃぁ――アイガの好むカモミールにしようか」

「――えぇ、そうしましょう」


 湯を注ぎ始めると、カモミールの花がゆるやかに水面に浮かび上がり、花弁が開いていく。湯気が二人の間を薄く満たし、カモミールの優しい香りが漂った。


「ほら、アイガどうだい。とても良い香りだろう――私もこれが大好きなんだ。心が和むね」

「――えぇ、そうね」

「どうだい? 気持ちが落ち着くかい?」

「――えぇ、少し」


 アイガは皿を手にしながら、視線を遠くに彷徨わせている。その瞳の奥には悲しげで、意識の外で何度も皿を擦り続けていた。何度も水の中に沈めては、また上げ、また沈める。皿を洗う指が震えているのをヌプトスは見つめ、言葉を飲み込んだ。


「話せそうかい?」

「――」

「――アイガ」

「――わからないわ」

「わからない、か」

「だって、あの子――私の――私の息子の――セルーンとオーディスの、大切な宝物だわ」

「私の、だけじゃないよ――私たちの、さ」

「――そうね。でもあなたは賛成してる――私とは、違うわ」

「全面的に賛成しているわけじゃないんだ。私だってできることなら、ずっと一緒にここで暮らしていきたいさ。――ただ、パニーはもう子どもじゃない」

「十八なんて、まだまだ子供よ」

「私たちにとってはね。いつまでも子どもさ――でもパニーにとって、十八はきっともう大人なんだよ。分別のある子だ。だからこの年まで待ってたんじゃないかな――しっかりしてきたと思うんだ――成長したあの子の気持ちを尊重したい、そう思っているだけさ」

「――他のことであれば尊重するわ」

「――アイガ」


 カモミールの香りが、二人の間を埋める。ヌプトスはカップを手に、しばしの沈黙の後続けた。


「――やっぱり、やっぱり、無理よ。無理――私にはできないわ。目の前で危険に身を投じようとしているあの子を、黙って見過ごすなんて。そういう時に、止めること。それこそが私たちの役目でしょ――昔のあなたなら、きっと私と同じ考えだったわ」

「――昔ならきっと、そうだね。私も止めていた気がするよ」

「――何故変わってしまったの」

「私たちの使命は、過去の教訓を後世に伝えること、それだけだと、そう思うようになったんだ。如何にそれを用いるか、どのような未来を築くか、その答えを見つけるのは若者たちの役割だ――子どもたちの姿を見て、私の思索も変わったのだろうね」

「私は――そう思わないわ」

「子どもたちは、これからも長い、長い人生を歩むんだ。その未来の責務を担うのは、老い先短い私達には無責任で――力不足さ」


 ヌプトスには、彼女の揺れる心の音が聞こえていた。しかし、今の彼に投げかけるべき言葉は見つからない。パニーを呼んでくると告げて部屋を出ようとしたそのとき、アイガが背を向けたまま言い放つ。


「私は、生きている間だけでも――役に立ちたいの」


 

「――パニーを呼んでくるよ」

「――えぇ」

「アイガ、私は今回のことはさっきも言った通り、パニーの気持ちを尊重したいと思っている。応援し、支えたいとね。けどね――アイガの気持ちも同様に尊重したいんだ。だから、僕も含めて、今日はとことん話し合おう」

「二対一なんだから、私のほうが劣勢なのは明らかでしょうに――それでも、私はパニーを――説得してみせる」


 アイガはヌプトスに背を向け、キッチンを出ていく。ヌプトスはその背中を見送り、息をついた。未来を信じたいと願う自分が、アイガの不安にどう答えられるのか、自問し続けている。




---




「パニー、こちらは準備ができたよ」


 ヌプトスがパニーの部屋の前で立ち止まり、軽くノックを鳴らす。扉がゆっくりと開き、憂いの表情をたたえたパニーが顔を覗かせた。


「心構えはできたかい?」

「――うん、まぁ」

「そう、よかった。ほら――パニーおいで」


 パニーはためらうように間を置いてから小さく頷く。ヌプトスはその反応に目元を緩めつつも、彼女をダイニングへと誘う。アイガはすでに席についていて、二人が近づくと視線だけ向けるが、すぐにそらした。先日の激しい口論の残響が、テーブルの上で漂っている。ヌプトスは、パニーの着席を見届けてから自分も向かいに腰を下ろした。


「少しでもリラックスできるようにと思って、カモミールティーを淹れたんだ――どうかな?」


 その言葉に応じて、パニーの表情がわずかに和らぐ。アイガもまぶたを閉じ、息を深く吸い込む。ヌプトスはティーポットを傾け、カモミールティーを注ぎ、まずパニーに、次にアイガにカップを差し出した。


「どうぞ、まずは一口味わってみて」

「――ありがとう」


 パニーは香り立つカモミールの気配に心を浸らせる。重苦しかった部屋の空気が、少しだけほどけていく。


「いいかい。今日は、落ち着いて話すんだよ。前のように喧嘩するのではなく、心を開くんだ」

「――えぇ」

「――うん」

「二人が出した答えが、たとえ交わらなかったとしても――その度に心を伝えることから始めよう――さぁ、パニーから」


 心の中で繰り返してきた言葉が、パニーから込み上げてくる。頑なであると言われることは多いけれど、それも祖母譲り。覚悟を決めて、アイガを見つめ話し始めた。


「――おばあちゃん、あの、私――あれからもう一度、ちゃんと、真剣に考えたよ」

「そう、それで――私の気持ちは伝わったかしら」

「――アイガ」


 冷たく切り出したアイガの声を、ヌプトスが軽く制した。アイガは少し表情を和らげて言葉を止め、ヌプトスは、パニーに促すように視線を送り、続けるように頷く。


「もちろんおばあちゃんの気持ちは伝わってるよ。心配してくれてるって、ちゃんとわかってる、つもり。だけど――私の気持ちは変わってない。私の意思は、そんなに簡単に諦められるほど、弱くない。私は今でも、外界に行きたい――そう思ってる」

「この間の話、ちゃんと聞いていたの? 外界はとっても危険なの。あなたが想像する以上に――とってもね」

「どれだけ危険かは想像できない――だからこそ、行って見極める」

「どうやって危険を見極めるの? 危険に遭遇してからでは手遅れよ」

「それは――」

「――どうしたら、その気持ちが変わるんだろうね」


 アイガは少し紅茶を含む。目に湛えた憂いはどこか遠くを見つめて曇り、また長く息を吐き出しながらカップを置いた。


「なぜ外界が危険なのか、詳しく教えてくれれば――納得できたら考えが変わるかもしれない」

「それは以前にも言ったはずよ。幻贖の力を持つ私たちが外界人と関わること自体が危険なの」

「だから、どうして――」

「これ以上の理由は話せないと言っているでしょ。掟は私たちを守るために作られたものよ」

「――そんなんじゃ、納得できないよ」

「あなたが納得できなくても、この掟は変わらないわ。外界はとても恐ろしい場所なの――それだけわかってくれればいいわ」


 アイガは、カモミールの柔らかな香りにすら心がほどけることなく、押し寄せる想いをどうにも封じ込められないでいた。視線を逸らし、深いため息が重く落ちる。


「――危険な場所に行かせたくないと願うのは、至極当然のことだわ」

「だから、何がどう危険なのか、わかんないっだってば――具体的に教えてよ。昔は行き来が自由だったでしょ。どうしてダメになったの――理由が知りたいの」

「理由は教えられないと言ってるでしょ。昔と今じゃ状況が違うでしょ――これ以上は話せないわ」

「話せない、教えられない――そればっかり! 納得できるわけないよ!!」


 パニーの言葉が熱を帯び、胸の中で膨れ上がる想いが震える拳に伝わる。目頭に熱がこみあげ、視界が霞む。再び同じやり取りに戻るのは嫌だと、彼女は自分を必死で抑える。


「パニー、アイガも。いったん落ち着こう?――紅茶、冷めてしまうよ」

「――あの日からずっと、私たちはここで、幸せに暮らしてきたじゃない――どうして今更そんなことを」


 アイガの記憶に、息子を失ったあの日々が突き刺さるように過り、重く沈む。胸を掴まれるようなその痛みを隠そうと、彼女は眉間に深い皺を寄せ、抑えた声で呟いた。


「――そうだね。うん。幸せに暮らしてきたと――そう思うよ」


パニーは拳に冷気が滲み出し、ぽたんと氷の雫が落ちる。今日もまた、同じことの繰り返し。ぐるぐる巡る理性的な言葉が、怒りの渦の中に溶けて消えていく。


「でも、違う、違うんだよ。今更? そうじゃない。十八になるのを待ってただけ。大人になるのを待っていただけ――もっとずっと前から考えてた」

「十八なんてまだ子どもです」

「私は、大人になりたい――ううん、大人になるの」


 エム姉の結婚の際に聞いた言葉が、パニーの心を突き動かしている。『自分の道を選び取る勇気が、大人の証』と言った姉の覚悟。無数に広がる道の中から、自らの人生を選ぶ覚悟。エム姉が十八でその責任を引き受け、結婚という道を選んだように、私もこの年齢で大人の決意を固めたんだ。


 責任を背負う準備なら、もうできている。


「私は、海の民であることを誇りに思ってる。スコットリスたちを無限に愛してる。この力を――未来へ繋いでいきたい、そう願ってる」


 スコットリスと共にあるために授かったこの力。それを未来へと繋ぐ道を選びたい。選び取る先に、きっと笑顔の自分たちが待っている。


「わたし、私はもう子どもじゃないわ。わかってるの。二十年、三十年経って、おばあちゃんたちが――いなくなったら、ここに残るのは十七人よ。たったの十七人!スコットリスの民はたったの五人!これで――どうやって未来が繋がるの!!」

「そんなこと、もちろんわかっているわよ」

「わかってない!!」


 パニーは感情を爆発させた。アイガの無表情に向かって声を張り上げ、堪えきれない気持ちが一気に溢れ出す。ヌプトスが二人の間に入ろうとするが、パニーの勢いは止まらない。


「二人とも――」

「――それは私たちも考えてるわ」

「考えがあるなら教えてよ!」

「時期が来たら教えるわ」

「ほんとは考えなんてないんでしょ」

「考えて――」

「――私知ってるの」 

「――何を?」

「"幻贖の民は今度も滅びる。歴史は繰り返される"」


 パニーの言葉が、鋭い矢となって二人を貫く。アイガの視線がパニーとぶつかり合い、互いの心がさらけ出される。ヌプトスも思わず息を飲み、その場の緊張が一層深まった。


沈黙の中、パニーはさらに続けた。


「"また滅びるのね"――そう、おばあちゃんが昔言ってたの、聞こえてたよ」

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