ep.5 それがリンディ

 ココナッツオイルを溶かした鍋に、きび砂糖シロップを加えると、その芳香ほうこうがキッチン中に広がり、甘い旋律が舞った。熟れたバナナの柔らかな果肉を丹念に潰し、オーツ麦と混ぜ合わせていく。別の鍋には、ブルーベリー、ブラックベリー、クランベリーを投入し、その上にレモンの皮を薄く削り入れる。絞りたてのレモン汁をたっぷりと注ぎ込み、しばらくすると、ベリー同士が溶け合い、濃厚で芳醇ほうじゅんなソースへと変わっていく。メープルシロップを少しずつ加え、全体に行き渡るように混ぜ合わせる。


 リンディは天板に半分の生地を敷きならした。先ほど作ったミックスベリーのソースをたっぷりと載せ、スプーンで均等に広げる。その上に残りの生地をふんわりと被せ、手のひらで軽く押さえながら、全体を滑らかに整える。そして、天板を窯の中へと滑り込ませた。


 焼き上がるまでの間、フェイジョアの果肉を切り取り、ミキサーに投入した。牛乳とヨーグルトを加え、スムージーのベースを整える。蜂蜜を少量垂らし、ブレードを回転させる。

 窯から甘い香りが漂い始めたのを感じ、確認すると、フラップジャックが見事なきつね色に焼き上がっていた。熱気と共に広がる甘やかな香りが、一層強く鼻孔をくすぐる。天板をそっと取り出し、カウンターに置いた。

 冷めたのを見計らい、棒状にカットしていく。切り口からは、鮮やかなミックスベリーフィリングが姿を現した。



---



 リンディは籠をたずさえ、広場へと足を運ぶ。彼の視線の先には、満面の笑みを浮かべて手を振るウェナの姿があった。軽く手を上げて応じると、ウェナの隣にいたオーラも彼に気づき、楽しげに手を振り返した。


「――二人とも、似合ってんな」

「でしょでしょー!? ねぇねぇ、今日は何の花だと思う?」

「――フェアリー・フィンガーズ?」

「おぉぉぉ!さすが、リンディ!大正解!――どうしてわかったの? 香り?それとも色?」

「いや、在庫がなくなってた」

「えー、なんだーつまんなーい」

「ねぇねぇ、今日もきれいに染まったと思わない? とっても発色がいいのー」


 ウェナとオーラは、色閃しきせんの雫や香閃こうせんの雫の制作に情熱を傾け、この一年間、リンディからその技巧ぎこうを学び続けていた。彼女たちはその魅力にすっかり取り憑かれ、日々新たな実験と挑戦を繰り返していた。色閃の雫で髪を華やかに染め上げ、香閃の雫で芳醇な香りを纏う。最近では、二人だけで多彩な色や香りを創造することができるようになり、彼女たちの日常を一層華やかに彩っていた。


「ねー!いい色だよね!リンディのおかげー! 教えてくれてありがとう」

「うん!リンディはすごいよ!」

「そりゃ、よかった」


 今日の二人は、フェアリー・フィンガーズを用いて髪を染め上げていた。ウェナの髪は桃色に、オーラの髪は葡萄色に染められ、眩い光沢を放っていた。


「わー、いい香り!お腹ペコペコだよー! 背中とくっついたよー」

「私なんか入れ替わったよー! 待ちきれないよー!」

「それは――すごいな」


 リンディがそっと腰を下ろし、バスケットの蓋を開けると、その芳香に誘われるように、二人は無意識に体を前へと傾けた。


「さすが、リンディ! さいっこうに、美味しそう!」

「本当に! 目がとろけそう!」

「それは――怖いな」

「ほっぺも落ちちゃう!」

「食べてからにしてくれ」


 ウェナは堪えきれない様子で、フラップジャックを一枚一枚素早く並べていった。その上にオーラはクリームチーズを添える。


「――映えは忘れないんだな」

「当たり前でしょー?」

「食べる前の礼儀よ。まずは目で楽しむの」

「ほら、リンディも」


 言われた通りに、リンディがヨーグルトとフェイジョアスムージーを注いだグラスを並べると、本日のアフタヌーンティーの準備が整った。


「よーし、完成! どう?」

「いい感じ! リンディも心に収めた?食べちゃうよ?」

「おー収めた収めた」

「もっと感激して―」

「そうだそうだ! こんなに素敵なスイーツ作れる自分をもっと褒め称えないと!自分への礼儀よ!」


 ウェナは待ちきれないとばかりに、目の前に並べられたフラップジャックに手を伸ばした。バターの香ばしさが鼻腔びこうをくすぐり、口に運ぶと、ザクザクッとした食感と共に、濃厚なバターの風味が口いっぱいに広がった。


「ウェナ様、至福のひとときですね」

「そうですね。オーラ様、満悦の極みですね」

「大袈裟だな」


 フラップジャックを食べ終えたウェナは、満足そうに手を拭きながら、オーラが差し出したスムージーのグラスを受け取った。グラスを持ち上げ、まずはその色合いをじっくりと眺めた。ミルクとフェイジョアの果肉が混ざり合い、滑らかな乳白色の液体がグラスの中で揺れる様子を見て、ウェナは微笑んだ。


「――ウェナ?」

「しっー、静かに――ウェナは今自己陶酔中なの」


 グラスを軽く回しながら香りを嗅ぎ、フェイジョアの爽やかな香りとミルクの甘い香りを楽しんだ。満足げに息を吐き、ゆっくりと一口含むと、まずは口の中で転がすようにして味わう。ミルクのまろやかさとフェイジョアの爽やかな風味が舌の上で絶妙に混ざり合うのを感じた。ゆっくりと喉を通し、ウェナはグラスを手にしたまま、しばらくその余韻を楽しんだ。


「はぁぁぁっー」


 ウェナはひたすら恍惚こうこつとした表情を浮かべていた。彼女の様子を見守っていたリンディとオーラは、酔いしれるその様子に、あきれた眼でこっそりと笑い合った。


「おいしー!」

「ほっぺは健在か?」

「ほっぺなくてもかわいいー?」

「おー、かわいい、かわいい」

「どっちがかわいい?」

「――どっちも」



---



「――リンディー!」


 三人がピクニックを楽しんでいると、急ぎ足でケイとリアが近づいてきた。広場の穏やかな空気が、不穏へと変わっていった。


「おい、どうした――」

「リンディ、リンディ!」

「リンディー!!!」


 二人の様子に、リンディは困惑し、胸に不安がじわじわと広がり、鼓動が速まっていく。何か重大な問題が発生したのではないかという疑念が湧き上がった。


「どうした?何かあったのか」

「不測の事態! 緊急報告!」

「どうかしたのか!?」

「ねぇ、エイディどこ行くの?!」

「――は?エイ……ディ?」

「エイディ?!何があったの!?」

「おい、ケイ、リア!エイディがどうしたんだ!?」

「今ね、エイディが荷造りしてたの!」

「――は?」


 その言葉で杞憂であることが明らかになり、リンディは拍子抜けし、安心したように大きなため息をついた。


「え――なんでいま落ち着いたの!?」

「服とか靴とか詰めて、家出するんじゃないかってくらい大荷物だったよ!」

「――い、家出!?」

「どこ行くのって聞いても、教えてくれないの!」

「あー――」


 二人はなおも心配そうに眉をひそめ、リンディの返事を待っている。彼は一瞬困惑したが、すぐに苦笑いを浮かべながら腰を下ろした。その様子を見て、二人は少しだけ不思議そうに首をかしげた。


「リンディ?――心配じゃないの?」

「何か知ってるの?」

「そうなの!? 教えてよ!」

「あー、まぁ、家出じゃない。心配すんな――近いうちに、あいつらから直接話があるから」


 その言葉に二人は一瞬硬直し、顔を見合わせて驚嘆の声を上げ、さらに詰問するように声を荒げた。


「え?あいつら?――エイディだけじゃないの?」

「あ、やべっ――」

「誰?誰? リンディもどこか行くの!?」

「あ、いや、俺じゃなくて――」

「リンディじゃないの!?――じゃぁ、誰なの!? 何か知ってるんでしょ!」

「リンディ教えてよ!」


 二人は怒涛の勢いでリンディの顔のすぐ前まで詰め寄った。リンディは苦笑いを浮かべ、困惑しつつ後退る。


「数日もしたら、あいつらから話あるって」

「それなら今でも一緒でしょ! 待てないよ!」

「――黙秘権は?」

「口止めされてるの?」

「あー、いや――口止めされてない――か?」

「じゃあ、いいじゃん」

「――いいのか?」

「いいよ!」


 リンディは一瞬、視線を彷徨わせて言葉を探し、次いで首を掻きながらためらいがちに口を開いた。


「――いいか。外界に行く理由は本人たちから聞けよ」

「わかった、わかったから――誰なの?」

「――パニーだよ。エイディと一緒にいくの」

「パニーが!?」

「どうして?」

「だから――それは本人たちに聞いてくれ」

「外界って――行くの禁止、よね?」

「――そうだな」

「解禁されたの?!それなら、私も! 私も行きたい!」

「わ、私も! 行く!」

「はぁ?」

「俺も!」

「私も!」

「なんでこうなった――」


 ケイとリアだけでなく、呆気に取られて成り行きを見守っていたウェナやオーラも突然騒ぎ始め、リンディは困惑した。四人が一斉に声を張り上げ、その場は瞬く間に騒然となった。その喧騒の中、リンディは圧倒され、疲れ切った表情で遠くを見つめた。


「――落ち着け。とりあえず」

「落ち着けるわけなくない?!」

「むしろなんで落ち着いてるの?!」

「いいか。行きたいっていうなら、パニーとエイディに直接相談してくれ」

「わかった!」

「行ってくる!」

「――は? 今すぐじゃ――おい、待て!待てって!」


 ケイとリアは来た時の勢いそのままに、エイディの家に向かって駆け出した。ものの数秒で、彼らの足音が広場から遠ざかっていった。



---



「あーあ、いっちゃった」

「はぁ、ケイもリアも落ち着けよ」

「――もういないよ?」

「――知ってる」


 ケイとリアの後ろ姿が遠ざかっていくのを見送った三人は、呆然としばらくその場に立ち尽くしていた。


「あーもう、いいか?パニーもエイディも、ばあちゃんたちと、まだ交渉中なんだ――それが終わったら、みんなに伝えるっていってた。それまで待つか――あとでエイディたちに話しに行くんだ」

「ケイとリアは?――行っちゃったよ?」

「もう手遅れじゃない?」

「だからこそだよ。今頃、エイディたちのところカオスだぞ」

「「――確かに」」


 頭を抱え、疲労の色を隠せないリンディに、ウェナとオーラがそっと寄り添い、励ました。


「リンディ、元気出して。今日作った色閃しきせんの雫がまだ少し余ってるから――」

「ん?」

「髪色変えるとね、元気になるの」

「それはお前らだろ。俺は別に―――」


 ウェナはにっこりと笑い、小瓶を手に取った。リンディが止める間もなく、彼女はスポイトで桃色の液体を吸い上げ、髪に慎重に垂らしていく。鮮やかな桃色が髪全体に染み渡り、見事に変わっていく。リンディは少し呆れながらも、成り行きを見守るしかなかった。続いて、オーラが葡萄色の液体を毛先に垂らしていくと、桃色と葡萄色が混ざり合いグラデーションが広がった。二人の楽しそうな姿が視界に入り、リンディは困惑しつつも、仕方なさそうに肩をすくめた。


「どう?――いい感じじゃない?」

「うん!かっこいい! 似合ってる!」

「――いや、俺見えねぇし」

「大丈夫。リンディはどんな髪色でもかっこいいよ」

「かっこよさに磨きがかかっただけだから、安心して」

「あぁ、そう。まぁ、もうそれでいいや――ありがとな」


 二人にかっこいい、かっこいいと口々に褒めそやされ、リンディは照れくさそうにしていたが、次第に口元がほころんでいった。


「――ねぇ、リンディ」

「ん?どした?」

「エイディが行っちゃったら、さみしくない?」

「――そりゃ。さみしいよ」

「さみしいのに、いいの?」

「心配だけど、さ。パニーもいるし。あいつだってやりたいことやって――そのうち帰ってくるだろ」

「リンディは行かないの?」

「おれも――行っていいのか?」

「やだ! 行かないで!」


 二人の瞳の中に宿る寂寥せきりょうの色に気がつき、リンディはどうしたものかと一瞬逡巡しゅんじゅんし、二人の頭の上に同時に手を置いた。


「さっき、ウェナもオーラも一緒に行きたいって言ってたのにか?」

「――行くなら、一緒に行きたい」

「行けないなら、一緒に行かないでほしい」

「――わがままだな」

「――わがままだもん」

「パニーもエイディも行っちまったら、みんな寂しくなるだろ」

「それって、つまり、みんなのため?」

「いや、俺のため。俺だって――寂しいのは嫌だ」


 ウェナとオーラは顔を見合わせ、笑みを交わした。薬学の才に秀で、知恵深く、容姿端麗で、心優しい。子どもたちからは兄貴分として慕われ、大人たちからも一目置かれる存在、それがリンディだ。彼が作る薬は、時に病に苦しむ人をも癒し、その豊富な知識と経験は、あらゆる場面で頼りになるものだった。リンディの存在そのものが、安堵感をもたらし、かけがえのない支えとなっていた。

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