はくひょーデイズ☆

サントキ

生との遭遇

 ぬるぬるとした泥の中を泳ぐように走っていた。バタバタと突き刺す雨が目に入る。身体中が軋んで痛む。

 逃げないと……

 息ができているのかも分からない。口の中だけがカッカと熱く、頭の後ろがツンと冷たい。

 ずっと無理に動かしていたのが、とうとう膝が折れてしまって、前のめりに倒れ伏すと、スンスンと鼻を鳴らして泣くことしかできなくなってしまった。

 それからの記憶は、まるで無い。



 やれやれ、私は遭難した。

 そんな風に考えながら、羽山詩織は道なき道を登っていた。

 まさかこんな山で遭難するとは……詩織は自分に落胆しながら、とにかく上を目指していた。山で迷ったら上に進めと、どこかで聞いた覚えがあった。

 途中で体力が切れて、へたり込む。

 まあ、遭難したとは言っても何だかんだ生きて帰れるだろう……

 なんて甘い考えも儚く、とくとくと辺りは暗くなる。秋の日はつるべ落としとはよく言ったもの。少し赤みがかったと思えば、あっという間に夜が来る。

 ここって熊とか出るっけ。

 余計なことを考えるな、と水を一口含んで頭を冷やす。水は存外温かった。それが余計に時間の経過を思わせて、更に不安を掻き立てる。

 ああ、神様仏様! 良いことしますから早く登山道に戻して下さい!

 史織は目に涙を溜めながら切実に祈った。

 ……それとも、これは神罰だろうか。父と母が死に、それを理由に大学をやめてしまい、遺産を食い潰しながら無職を続けている。姉は頑張ってるのに私は何もせず、親が遺してくれた金で自堕落に生きて……

 死んだほうが良いから、私は順当に死ぬのか。

 そんな悲観的になろうが死にたくないものは死にたくない。だってまだやり直せるはずなのに。

 でもなんで山に登ってたんだっけ?

 わずかに戻った体力で立ち上がり、乾いた葉を踏みながら、泥中を藻搔く心地で足を動かすが、何も得られないまま。次第に暗いわ疲れたわで、どっちが登りなのかも分からなくなり、平べったい石の上に座り込んだ。荷物を降ろしても安定して、ちょうどいい休憩場所だ。

 幸い食べ物は余計に持っていたから、ちょっとずつ腹に入れれば次の太陽くらいは拝めるだろう。史織はぼんやりとそう考えていた。

 カロリーメイトを一口齧り、ざりざりと舌で潰しながら、うとうとと微睡む。目の裏で星が弾けるように、鮮やかな夢が暗闇と混ざり始めた。


 ……女の子の声が聴こえる。

『ここにいるの! 来て! 気づいて! 出して!』

 音の発生源は真下。自分の座っている石が青白い燐光を放ち、わずかに振動している。

 その滑らかな石から降りて、指を入れられそうな隙間に無理やりねじ込むと、少しだけ爪が剥がれたような痛みが走った。それも構わず持ち上げると、中からは……


 ハッと目が覚めた。あたりはまだまだ暗い。

 自分の下の石を撫でる。指が熱い。ドクドクと脈打つような痛みと少しばかりの痒みを感じる。

 まさかな……

 懐中電灯をつけて石の縁を照らす。そこからは、何か指のようなものが出ていた。

「ぎゃあ!」

 史織はビビり散らして懐中電灯を落とす。

「ねえ、降りたいんでしょ! この蓋退かしてよ! 出してくれたら何でもしてあげるから!」

 続いて、叫び、懇願するような声が聴こえる。夢の中の声……ああ、これはまだ夢の中なのか……史織は冷静さを取り戻し、手探りで岩から降り、言われるままに石を持ち上げようとした、のだが。

「お、おもすぎる……」

 先ほどとは違い、両手を使って持ち上げようとしてもビクともしない。

「動かないの? え、そんな……そんな……」

 早くこの夢から覚めないかな。まあ覚めてもどうしよもないんだけど。失望したような少女の声を聴きながら史織はぼんやりと考える。

「……ねえ、降りるためなら、生きるためならなんだってできる?」

「ん〜生きられるなら何でもするよ」

「後悔とか、しない? 死んだほうがマシだなんて、絶対思わない?」

「わかんないけど……死んだら後悔すらできないし、今は死にたくないよ」

「手を出して」

 石の下から飛び出している指にそっと手を差し出した。

 ブツリ、と皮膚を突き破る音。史織は視界がぐるりと歪んで、脳が冷たくなっていくのを感じた。暗い、暗い、意識の底、夢のない領域……



 史織は朝日を浴びながら自分の住むマンションの前にたどり着いた。ズキンズキンと頭が痛み、絶えず欠伸をする。女の子の手を引いて、自室へまっすぐと向かう。ぎこちない手つきで鍵を差し込むと、掌に赤黒い痣があることに気がついた。

 ああ、そういうことか。

 部屋に入ると荷物を放りだしてベッドに倒れ込んだ。そこで初めて生きて帰れたことを実感し、安堵で大粒の涙を流しながら泥のように眠り込んだ。

 少女は眠る史織を覗き込み、よかった、と呟いて床に転がった。

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