緑の絵の具

脹ら脛

短編 緑の絵の具


 お母さんに用意してもらった大きな画用紙を、机の上に広げます。その画用紙はとても大きくて、私の家の小さなテーブルなんて簡単に飲み込んでしまいそうです。

 今日は夏休みの宿題をします。あさみ先生が「大きな画用紙に夏休みの一番の思い出を描いてきてください」と言っていたので、私は何を描こうか、夏休み最終日の今日まで決められませんでした。ユキちゃんとカブトムシを取りに行ったこと、いとこのさーちゃんと一緒に行った海のこと。他にもいろいろ候補はあったけど、私はお父さんと行った散歩について描くことにしました。

 お父さんは、いつも家にはいません。私がその理由を聞いても、「用事」という嫌いな言葉で、いつも簡単に流されてしまいます。でもその日はお父さんは珍しく家に帰ってきたので、一緒に散歩に行くことにしました。お父さんは私のことをあまりよく知りません。私がコンクールで一番を取ったことも、テレビに映ってインタビューされたこと、そして最近できた私の夢についても。そんなことを話すことができるのはお母さんだけです。もっとお父さんに私の話を聞いてほしいと思うけど、私の願いはいつもかないません。

 私の家には、学校に当たり前のように置いてあるヒッセンがありません。だから、お母さんに頼んで、いつもケーキに乗せる生クリームを作るときに使う銀色の器を用意してもらいました。カサカサに乾いた筆の先を水につけると、若返ったようにみずみずしさを取り戻します。お母さんとお父さんの肌も、こんな感じになってほしいといつも思います。

 絵の具が入った箱を開けます。全部で十二のカラフルな色たちが、いつも私を迎え入れてくれます。私が生活する世界は、こんなにもたくさんの色でできていると考えると、とてもロマンチックな気持ちになります。そのことをあさみ先生に話すと、実はもっといろんな色があると言っていました。百まで数を数えられる私でも数えられないほどたくさんの色があると、あさみ先生は笑顔で教えてくれました。

 だから私は、この絵の中に全部の色を入れてあげようを思いました。それでもこの世界は表せないと思うけど、今は仕方がありません。私が今描ける最大限のカラフルを描きたいと思います。

 オレンジは太陽。灰色はマンション。青は空にも使えるし、それを映した窓にも使えます。こんな感じで、様々な色を白い画用紙に乗せていきます。その日のお父さんの服は暗めの青色で、私は黄色のワンピースを着ていました。どんどん鮮やかになってゆく大きな紙に、私はとてもワクワクします。

 この日のお父さんは、とても眠そうでした。髪もぼさぼさで歩くのもとても遅かったです。私が途中トイレに行って戻ってくると、お父さんはベンチに座ったまま眠っていたりもしました。それが少し悲しかったです。

 大変なことに気が付いてしまいました。緑の絵の具が無くなっていたのです。そういえば前に、田舎のおばあちゃんの家に行った絵を描いた時に使い切ってしまったのです。どうしようかと思って、お母さんに助けを求めようをしたけれど、その必要がないことに気が付きました。私が住んでいる東京の世界には、緑で塗るところはありません。何度思い出しても、散歩の道には、緑色は思い出せません。

 その日、眠そうなお父さんに、私は少し怒ってしまいました。せっかくの私との散歩を楽しくなさそうにしているのだから当然です。その時はそう思っていました。でも後からお母さんに聞きました。お父さんはあんなにぼろぼろになりながら、私の将来のためにお金を稼いでくれてるって。だから私は今、お父さんに謝りたい気持ちでいっぱいです。でもお父さんは、今日もいません。だから私の思いを伝えることもできません。


 ガチャと、ドアが開く音が鳴りました。最初はドロボーが来たと思いました。でもリビングに入ってきたのは、なんとお父さんです。

「ケーキ、買ってきたよ」

 そういいながら、お父さんは私では到底持ち上げられそうにないバッグを、ドスンと床に落としました。

「まーちゃん。誕生日おめでとう」

 お父さんは、私にケーキを渡してきました。私は少し、泣いてしまいました。今言おう。そう決めました。

「お父さん。散歩のとき、怒っちゃってごめんね。お父さん、私のためにこんなにぼろぼろになって働いてくれてるんでしょ」

 ちゃんと言えました。そしたら何だかすっきりしました。

「いいんだよ。お父さんはまーちゃんが大好きだから」

 私はとても嬉しくなりました。

「この絵は?」

 お父さんがそういったので、私は大きな画用紙をもって、お父さんに見せてあげました。

「これ、お父さんとの散歩の絵。夏休みの一番の思い出」

 お父さんは、とても笑顔になりました。

「私、絵描きさんになりたい。絵を描いてみんなを喜ばせたい」

 お父さんはもっと笑顔になりました。だから私は、もっともっと泣いてしまいました。


 私の涙が、画用紙に落ちてしまいました。慌てて拭き取ろうとしたら、絵の具がまだ乾いていなかったので、周りの色を巻き込んで広がってしまいました。

 緑色。

 お父さんの青い服。私の黄色いワンピース。その間には、綺麗な緑色が浮かび上がりました。

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緑の絵の具 脹ら脛 @Fukku3361

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