イカゲソくんはアッパラ・プープーパー

笹 慎

1.襲来

 これは、あるひと夏の思い出の話である。


***


 その日はまだ六月だというのに酷く蒸し暑くて、エアコンをつけるか、窓を開けてしのぐか、そんなことをオレは逡巡していた。


 仕事から帰宅後、中年男性が発する自分でも臭いと感じる加齢臭を風呂場で洗い流す。独り身であることをいいことに、Tシャツとボクサーパンツだけで、第三のビールを飲み、あぶったスルメに醤油と一味唐辛子とマヨネーズをつけてかじりながら、iPhoneをいじる。


 オレは日記アプリでちまちまと日々の出来事を書いているのだが、書いているだけで日記を読み返すことはほとんどない。だから、画面をスクロールして日付を遡っていたのは、本当にたまたまだった。


『アッパラ プープーパー

 そう唱えよ』


 見返した日記の見覚えのないページには、確かにそう書いてあった。


 あれ? そういえば、そもそもなんで日記なんて書き始めたんだっけ? 新たなる疑問符が頭をもたげたが、いまはそんなことどうでもいい。


 もう一度、該当ページを見た。


『アッパラ プープーパー

 そう唱えよ』


 何度見ても全く見覚えのないトンチキな文章。日付……先週の木曜日に、こんな意味不明な文章を書くほど泥酔していた記憶はない。ちょっと怖くなったので、一度アプリを終了して再起動することにした。


『アッパラ プープーパー

 そう唱えよ

 お願いします

 人助けだと思って』


 ……。再起動後もそのおかしなページは消えていなかった。それどころか、文章が増えている。なにこれ、コワッ。


「だいたい、どういう意味だよ。アッパラ、プープーパーって」


 思わず、そう声に出して、今度はその日記のページをスワイプで削除した。それから再度アプリを終了する。これでも復活するようならアプリ自体を削除しようと思ったが、再起動後も変な日記のページはちゃんと消えたままだった。


 ようやく安心して、改めてスルメをかじり直す。それから、テレビのリモコンで契約している動画配信サービスの中から映画を探し始めた。それにしても暑いな。選んだ映画の再生を一旦中断して、エアコンをつけることを決意し、窓を閉めようと立ち上がる。その時だった。


 ドンッ!


 窓ガラスに何かがぶつかった音がした。硬いものというよりは、柔らかいコンニャクに近い弾力を感じる音だ。ここはマンションの八階。近所の悪ガキがイタズラで何かベランダに投げ込んだとは考えにくい。鳥だろうか。それなら、窓ガラスが割れなくてよかったが。


 なんとなく鳥なら鳥で死体は見たくないなと思って、ベランダを確認せずに部屋で立ち尽くしていたら、今度は網戸がガタガタっと揺れ始めた。もしや、泥棒か? オレは部屋にある武器になりそうなものを探したが、何もない。せめてマヨネーズで目つぶししてやろう、とマヨネーズの容器を握りしめて、窓に向かって構える。


「どっこいしょ。ああ、これ、引くんですね。地球の家具は難しいな」


 のんきな泥棒はそう言って、網戸を開けた。……泥棒? あ? ん? なんだ、


「ちょっと、そんな物騒なものをこちらに向けないでくださいよ。マヨネーズっていうんでしょ、それ。油でできてますよね? ヌルヌルはちょっと。って、すでにこの素体はヌルヌルなんですけどね。ワラ。あ、『ワラ』の使い方あってますか? ネットで勉強しただけですので」


 半透明なソレはマヨネーズを指差す。いや、指じゃないのか? 吸盤がついている腕……足? オレはそれを知ってはいるが、脳内の常識がその結論を拒否している。


 触手。十本の揺れる触手。


「……イカ?」


 間抜けなオレの声が他人の声のように、オレの耳に届く。


「ああ、はい。この星にある可動性を有する素材の中で、構成が我々に一番近かったものですから」


 全長一メートルほどある巨大イカが窓のサッシを越えて、我が家にヌルヌルと入ってくる。そして、器用に触手で網戸と窓を閉めた。


「いやはや、助かりました。起動コードをどう入力してもらえるかが一番の難局でしたから」


 起動コード?


「アッパラ、プープーパーなんて、どう考えても言ってもらえなさそうだったし。全く、こんなコードを設定したうちのエンジニアは何考えてたんですかね。それにしても、この星は暑いですね」


 巨大イカは、今度はエアコンのリモコンを触手にからめると、ピッとボタンを押して冷房をつける。奴が這ったあと、フローリングの床は濡れていた。エアコンの小さな駆動音が響く。


「あ、自己紹介を忘れておりました。私は、■■■■■■■から参りました■■■■■と申しまして、あ、失礼いたしました。これは地球人には認識できない音でした。端的に申し上げますと、私は宇宙人になります。厳密にいいますと、この地球のある宇宙とは別の宇宙から参りましたが、細かいことは、まぁ置いておきましょう」


 そう言ってお辞儀をする巨大イカを眺めながら、オレは「これはきっと夢だ」と思った。夢を夢だと認識するのは明晰夢っていうんだっけ。頭痛くなってきたな。今日は缶ビールまだ二口くらいしか飲んでないのに。随分、酒に弱くなったようだ。これが不惑か。


「それにしても、個体識別名称の音を認識してもらえないのは不便がありますね。地球上での仮の呼称が必要です……むむむ」


 チラッと巨大イカは、ローテーブルの上のスルメを見た。


「……イカ……イカゲソ。ええ、私のことは『イカゲソくん』とお呼びください。ああ、『イカゲソくんさん』といった二重の敬称は不要です。さかなクンと一緒です」


 身体の中央についた大きな黒い目がオレを見つめる。ヌメヌメと室内灯に照らされて光っていた。しばらく見つめ合う。結局、オレの方が目をそらした。もう寝よう。夢の中で寝る。ベッドに横になり、クリストファー・ノーラン監督の映画みたいなことを考える。


「あ、もうご就寝されますか? エアコン、おやすみタイマーにしましょうか?」


 オレは掛け布団を頭から被った。


「お節介かと思いますが、寝る前に歯は磨かれた方が……。歯周病リスクが……」


 布団から手だけ伸ばし、ベッドサイドに置いてある室内灯のリモコンをつかむ。そして、イカゲソくんと名乗るエイリアンの言葉を消灯によって、無理やり遮った。


(続く)

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