『呑んだ涙は汚く募る』
錆色兎
我が人生に――
いじめとは、どうして起こるのだろうか。
劣等感?認識の違い?意見の相違?
考えうる要因が多すぎて、最早なにが着火剤なのかすらもわからない。
「オラぁっ!」
「おいおい、腹守んなよ〜」
――今、彼等を衝き動かすものの正体も、一切がわからない。
殴られて、蹴られて、また殴られて。
下卑た笑い声が響き、彼を襲う衝撃は衰えを見せなかった。
「おらっ、おらっ……ちっ、つまんねえな」
「そろそろ帰ろう?――ねえねえ、この後どこで遊ぶ?」
「そうだな〜……」
やっと飽きてくれたのか、彼等は舌打ちしながら平然と雑談を開始した。
その口から出る言葉は全てが軽く、聞き慣れたその声は不快感すら感じる。
……いや、不快感どころの騒ぎではない。
怒り、憎しみ、失望、絶望……黒に黒が重ねられ、それ以外の色を食い尽くしていく。
このどす黒い静かな激情は、
「……行った、か」
今日もあの苦しみが終わった。
鈍い痛みを感じることで、今自分は生きてるのだと実感する。
――彼の名前は珍しい。
影山という苗字はともかく、名前の方は何人いるかわからない。
少なくとも彼の地元ではそんな名前の人はいないし、テレビやネットでもそんな名前の人物は見当たらない。
昔、小学校の時に出された宿題で「自分の名前の由来を教えてもらい、それをまとめる」というものがあったのだが、両親に訊くと「二人共百合の花が好きだから」という、何とも馬鹿らしい答えが帰ってきた。
生まれるのが女の子だったら「百合」という名前にしようと思っていたらしいのだが、生憎と男だったため、人の漢字を入れることでお茶を濁している。
不純物が入ったことが気に食わないのか、それとも男は世話が焼けるからなのか、「女の子だったら」なんて言葉を百合人は何度も聞いてきた。
その度に自分の名前と、性別と、果てには両親すらも恨んでしまうほどだ。
故に百合人は自分が「綺麗な百合」になれるとは全く思っていない。
家に飾られている百合を見て、彼はつい嘲笑を浮かべてしまうのだ。
自分は真っ白で綺麗な百合にはなれない。
彼の花弁は、既に真っ黒だった。
教室でも彼は他人と関わろうとせず、授業中も休み時間中もずっと1人で寝たふりをしている。
――そんな彼を見かねて、両親は百合人を見限ったのかもしれない。
「百合人が一番大切」、なんて言葉を聞いたのはいつが最後だっただろうか。
少なくとも、高校に入ってから、それどころか中学校に入った段階から両親の口数は減っていった。
今は、目すら合わないほどの無関心さを見せている。
いつか言われた愛の言葉も、とっくに蒸発しきっているのだろう。
なので百合人はいじめの相談をせず、1人部屋に引き籠ることを精神安定剤としていた。
この時ばかりは両親の放任主義にも感謝である。
「……っし、宿題終わり……ゲームしよ」
生活も食事等は一応親が作ってくれているため、彼の生活は安定していた。
食卓が賑わう、なんてことは一切なかったが。
青白く光る画面に視線を釘付けにしたまま、百合人は夕飯を待ち続ける。
――そして夜は、退屈な時間と共に過ぎ去っていく。
************
退屈な授業を聞き、今日もまた学校が終わる。
皆にとってはオアシスのような、百合人にとっては蟻地獄のような時間だ。
殴られるのも慣れてしまい、痛覚が日に日に鈍くなっている。
刺されでもしないと痛がらないんじゃないかと本気で思うほどには。
……それがいいことかどうかを、百合人は考えないことにした。
「……ん?んんんん?」
「――?」
傾く夕日がやけに眩しくて、俯きながら帰っていた百合人は、聞き慣れぬ女性の声がして、顔を上げる。
目の前のベンチ、そこには1人の少女が座っていた。
自分の高校とは違う制服。
目はぱっちりとしているが、どこかお淑やかで、大人しそうな印象の少女だ。
彼女は怪訝そうな表情で体を傾け、百合人の顔を覗き込んでいる。
その整った顔立ちは、百合人の足を止めるには十分なほどの効力を発揮した。
「君、君!痣だらけじゃないか!」
「……えっと」
「とりあえず、何か冷やすものを……そうだ、これ!」
彼女は困惑する百合人に目もくれず、鞄の横に置いてあったビニール袋を差し出した。
「これ、氷入ってるから!痛い所あったら当てて!」
「えっと……はい」
百合人は言われるままにビニール袋をふくらはぎに当てると、冷たく心地よい感覚がした。
「あ、ありがとうございます」
「いやいや、君ホントに大丈夫?それ、ぶつけたわけじゃなさそう……もしかして虐待?――それとも、いじめ?」
いじめ、と言った時の彼女の声が少し低くなったような気がしたが、それは気の所為だとして無視する。
「いじめ、ですかね。………………あ、すみません!もう大丈夫です!大丈夫なので、僕帰りますね!」
――マズイ。
それを肯定してしまった瞬間、百合人は自分の失言に気付いた。
人の施しを受けるなんて久々だった。
それが百合人の口を緩めてしまったのかもしれないが、出た言葉は感謝でもなんでも無く、いじめの告白だ。
一体、それを彼女に言ってどうなるというのだろう。
知らない人にいじめの相談など、烏滸がましいにも程がある。
それに、あまり事が大きくなると、注目を浴びてしまってもっと学校に居づらくなるかもしれない。
ましてや他校の生徒を巻き込んでしまって、一体どんな大事件になるのか。
そんな恐ろしい想像をして、百合人は逃げるようにその場からの退散を試みる。
……が、
「待って」
腕を掴まれ、逃げることを封じられた百合人は、観念したように彼女に向き合う。
「大丈夫です!さっきは変なこと言っちゃいましたけど、僕は大丈夫です!なので帰ります!氷、ありがとうございました!」
説得とは違う、あまりにも一方的な発言の押し付け。
百合人はもう、なりふり構っていられない。
「大丈夫なわけ無いじゃん。そんな、切羽詰まってるくせに」
「ぁ……」
的確な指摘を喰らい、百合人は思わず言葉を失う。
ここぞとばかりに、彼女はさっきの意趣返しを開始した。
「私としては痣だらけで暗い顔をした人が目の前から歩いてきて、すごく心配だったし、何があったのか聞きたかったしで、君に話しかけたの。なのにお礼だけ言って退散って、虫が良すぎないかな!?かなぁ!?」
彼女は感情に任せてまくしたて、その頬は若干紅潮している。
その整った顔の眉間に皺を寄せ、一目で怒っているのだと分かる。
その圧に、散々理不尽な怒りに晒され続けた百合人が耐えられる訳が無い。
「すみません……」
「謝らないで。とりあえず、どんなことがあってこうなったのか、聞かせて」
「はい……」
色々な感情が入り混じって、百合人は俯きながら力なくそう返す。
百合人は不安と申し訳無さで一杯になりながら、少しずつ溜まっていた澱を吐き出した。
「僕、いつも殴られてるんですよ、放課後に」
「うん」
「でも僕はそんなことされる覚えなくて、ただ皆と仲良くなりたくて――」
「うん」
「でも、無理だった。失敗した。皆を笑わせることも、驚かせることも、何もできなくて……不満が、爆発したんだと思います」
「うん」
「僕に対する態度は段々冷たくなっていって、それでも諦めず話しかけ続けたら、ある日を境に、暴力を振るわれるようになったんです」
「うん」
感情が湧き上がり、百合人が目に涙を浮かべても、彼女は静かに聞き続けていた。
ワンパターンな返事をするだけの彼女は、今どんな表情をしているのだろうか。
怖くて見られない。顔を上げられない。
「嫌だった。やめてほしかった。でも、僕がやめてって叫ぶ姿が面白かったのか、どんどんヒートアップしていったんです」
「……うん」
「悪いのは僕だってわかってるから、ずっと相談もせずに耐えて、耐えて耐えて耐えて……いつしか、それが日常になった」
「……」
遂に、彼女の返事はなくなった。
それを意識した瞬間、無駄な心配が百合人の心を埋め尽くす。
呆れられただろうか。失望されただろうか。
根性なしだと思われ、軽蔑されただろうか。
その沈黙が怖い。
その行動が怖い。
その雰囲気が怖い。
……彼女が、怖い。
「っ――!」
もういっそ、失望したならそう言えばいいのに。
意を決して、百合人は顔を上げる。
そこには――
「……え?」
――泣いている、彼女の姿があった。
「泣い、てる……?」
「いや、ごめん。泣くつもりはなかったんだけど、少し、いや大分、感極まったと言うか……」
落ちる涙を拭って、潤んだ目で彼女は百合人を見た。
そして、
「……私は、君が苦しむのを見てられない。少しでも、君の苦しみを和らげるために、私は何ができるかな?」
そう言った。
最悪、の二文字が脳裏にちらつく。
他校の生徒を巻き込んではいけないと、わかっていたではないか。
なのに、結局手を差し伸べさせてしまう。
結局、弱くて無様で、誰かに助けられなきゃいけない。
面倒なことにはさせられないと、百合人は慌てて懇願した。
「大丈夫です!これ以上この一件が大事になっても困るし、僕はもう慣れたんで!だから――」
「嘘つき」
その一単語で、百合人の口は閉じられた。
彼女は言葉を継ぎ、百合人の欺瞞を、打ち砕いていく。
「慣れるなんてことはないよ、絶対に。殴られる苦しみってのは痛くないようで痛いし、慣れたようで全く慣れない」
「……」
強く、力の籠もった声だ。
――いつだったか、百合人が憧れた声だ。
力強く、何度でも立ち上がる、百折不撓の精神を思わせる声色。
挫けて、逃げて、耐え続けた百合人には無縁なものだと思っていた。
しかし、この目の前の彼女は、痛みも苦しみも何もかも承知の上で、百合人に語りかけている。
しかし、何故だろう。
彼女は、誰にも見せず、1人で苦しんでいるのかもしれない。
気丈に振る舞っているように見えて、実は陰で泣いているのかもしれない。
不思議と、そう思った。
「私にできることなんて何も無い。私がそのいじめを止めてあげることは、残念ながら不可能だ。だけど、君の苦しみを和らげることはできる。」
「……」
「私が君の愚痴を、苦しみを、悩みを聞こう。そうすれば、少しは気が晴れるんじゃないかな?」
「……!」
その、思わぬ申し出に、百合人は絶句していた。
どうしてそこまでする。どうして名前も知らない男のために、そんな事ができる。
「私は君が苦しむのを見てられない。ここは私の通学路でもあるんだよ。そんな辛気臭い顔をされると、私が困る。それでいいでしょ?」
「……」
なんで、とは言えなかった。
きっとそれが答えなのだ。
目の前で人が苦しむのを見てられない。許せない。
きっとそれだけで、彼女は百合人に手を差し伸べようとしている。
「……本当に、いいんですか?」
「勿論!それに恥ずかしながら私は友達がいなくてね。君にそれを期待しているわけじゃないけど、話し相手くらいにはなってくれると嬉しい。Win-Winの関係ってやつだよ」
彼女は両手のピースを合わせ、「W」の形を作って見せる。
その笑顔はどこまでも眩しくて、百合人が焦がれ続けた輝きを孕んでいた。
「……ありがとう、ございます」
涙が溢れそうになり、百合人は思わず上を向いた。
しかし、涙は止まること無く、頬を伝って地面に落ちてしまう。
それを見て彼女がクスリと笑い、
「涙、溢れてるよ」
と、そう茶化した。
百合人は隠すことをやめ、ポケットに入っていたハンカチでどうにか涙を拭う。
一頻り涙を流した後、百合人は手を差し出した。
彼女は一瞬困惑したような顔になったが、すぐに手を差し出して彼の手をしっかりと握る。
この握手は、「日常」への決別と、涙を隠さない決意の表明だ。
「私は黒崎麗華!よろしく!」
「影山百合人です」
「ゆりひと?珍しい名前だねえ」
「自分でもうんざりしますよ」
言葉を交わしながら、麗華と百合人は笑い合った。
――百合人にとっては、久しぶりの笑顔だった。
************
次の日も、またその次の日も、百合人はいつも通りの仕打ちを受けながら、その帰り道の表情は明るいものだった。
もう溜め込むだけじゃなく、吐き出せる相手ができたからだろう。
「や!」
「こんにちは」
ひらひらと手を振りながら、元気な声で麗華が挨拶をする。
百合人もそれに応じると、二人は近くの公園、そのベンチに座った。
「さて、今日の愚痴を聞こうじゃないか!」
「そうですね〜、どこから話そうか……」
世間話でもするように、二人は愚痴を吐きあった。
勿論、それだけではない。
百合人の愚痴が終わると、お返しと言わんばかりに麗華の愚痴が飛んでくるのだ。
「――で、その先生がとにかくウザくて。予告無し、文字通りの抜き打ちでテストやってくるような人なんだけど」
「それは、中々うざいですね」
「でしょ?だけど、今日はその先生が休みで自習だったの。そしたらクラスの皆が大喜びして、隣の教室に居た先生に怒られちゃった」
「どれだけ騒いだんですか、全く」
心なしか百合人の声音は弾み、彼が笑うのを見て麗華もつられたように笑う。
百合人にとって、この時間は何よりも楽しい時間で、楽しみな時間だ。
愚痴を言い合って、時には世間話もしてみる。
その時だけは幸せに笑えるのだから、面白いことこの上なかった。
嘲笑でも、愛想笑いでもなく、本心から笑えるのだ。
これは百合人に劇的な変化を齎す。
いつしか、日頃から笑う回数も少しずつ増え、更に人間関係も改善されていった。
「何か、影山雰囲気変わったね」
「前までのうざい感じじゃなくて、むしろ優しくなってる」
「彼女でもできたのかよ」
きっかけは些細なことだった。
ある日、先生がつまらないギャグを言ったが、当然の如く教室は静まり返った。
百合人はその様子が何故か面白くてしょうがなく、声を出して笑ってしまった。
その時のクラスメイトは、皆驚いた表情をしていた。
泣きも笑いもせず、ただただ殻に閉じ籠もって縮こまっていたはずの彼が突然笑いだしたら、驚きもするだろう。
――ただ1人、彼だけは敵意を剥き出しにしていたが。
「お前、なんであんなところで笑ったんだよ!ツボ浅すぎね?」
「先生のギャグは面白くなかったけどね」
「それは先生が可愛そうだろー」
そんなふうに軽口を叩ける程度には、クラスの人間との仲も良くなっていった。
友人と言える人物も何人かできた。
日々を楽しく生きることができるようになった百合人は、麗華に話す愚痴も少なくなり、最近は専ら世間話に花を咲かせている。
百合人の中で、麗華は友人であり、恩人だ。
その感謝を、恩を、何で返せばいいだろうか。
サプライズでもしようかと考えていると、チャイムが昼休みの時間が訪れたことを告げた。
鼻歌でも歌いたい気分で、席を立ち上がった百合人に――
「おい、影山」
聞いただけで身の毛がよだつ、かつての「恐怖」そのものの声。
「付いてこい」
その声が、平穏を崩すという確固たる意思を孕んで、百合人に降り掛かった。
************
またいつものか、と楽観的に考えていた。
話し相手が、友達が、できたことで舞い上がっていたのかもしれない。
「お前、何があった」
誰も来ない、体育館の裏の隅で。
開口一番、そんな疑問を投げかけられる。
百合人は、主犯格とその取り巻きたちに囲まれていた。
「少し、いいことがあっただけだよ」
「お前ごときがか?」
「俺だって――」
お前ごとき。そう言われて、百合人は少しムカついた。
そのせいで、つい数日前までなら絶対にしないであろう罪を、彼は犯してしまった。
――即ち、
「ムカつくんだ――よ!」
その返礼は、明確な悪意と拳によって為された。
その拳は鳩尾を穿ち、百合人は急所に攻撃を喰らったことで膝をつく。
それを許す奴らではない。
脇腹に蹴りが炸裂。バランスを崩して倒れた百合人を、今度は全員で蹴り続ける。
ただ只管に、暴力、暴力、暴力。
蹴られて、殴られて、上から降り注ぐ侮蔑に塗れた視線や罵詈雑言は、心身ともに百合人を痛めつけていく。
「っ――」
調子に乗っていた。
最近生活が良くなってきていたから、思い上がっていたのだ。
自分はもう、苦しむことはないのだと。
だが、違った。
ささやかな幸せの代償が、この悪意の海と暴力の嵐。
この等価交換とも言えぬ不条理は、いとも容易く百合人を「厳しい現実」へと叩き落とす。
――しかし、もう百合人は苦しみを叫べる。
不条理に、理不尽に、抗える。
「――や、めろぉぉぉおお!」
百合人は雄叫びと共に1人の男の足を払い、転倒させる。
そのままの勢いで足を振り回し、何とか起き上がった。
「てめぇ……」
怨嗟に塗れた視線が百合人を射抜くが、百合人は臆さず走り出した。
目標は、校舎の中までだ。
何とか人の目につかない体育館裏を抜け出し、表に出てくる。
しかし、百合人は足が速い訳ではない。
あっさりと捕まって、もう一度殴られる羽目になった。
「この、このぉ!お前なんかが幸せそうにしやがって!お前が――」
「君たち、何をしているのかな?」
――人間、一時の感情に流されると失敗しやすい。
百合人の目の前、そこに立っていたのは、担任の先生だった。
「影山くんと、そのお友達……ってわけじゃ、なさそうだけど」
「いや、これは、その……」
奴等はこの場における最善を考え、言い淀んだ。
これは好機とばかりに、百合人は声を張り上げる。
「先生!僕はずっと、常習的に殴られてました!いじめを受けてたんです!」
「なっ……」
言葉を失ういじめのメンバー。
百合人の発言に、担任は目を細めて男たちを睨む。
「わかりました。全員、放課後生徒指導室に来なさい。1度、事情を聞こう」
担任のその言葉は、彼等にとって死刑宣告にも等しいものだ。
絶望が漂う中、百合人はただ1人、希望を見出していた。
************
「――とまあ、そんなことがありました。因みにあいつがイライラしてたのって、好きだった人に振られたのが原因だそうです」
「なるほどねえ。さっきの『ちょっと遅くなるので、今日は帰ってても大丈夫です!』ってメール、そういう意味だったんだ」
「そうですね。それでも待ってたのは、予想外でしたけど」
「見るからに何かあったからね。逆に、私の方は何もなかったんだけど」
そう言って、麗華は乾いた笑いを漏らした。
少し、疲れていそうな表情だ。
そんな彼女に、百合人は1つの小包を渡す。
「……これは?」
「チョコです。今まで話を聞いてくれたお礼にと思って。チョコ、無理だったら申し訳ないんですけど、大丈夫ですか?」
「いや、大丈夫……てかこれ、結構高いやつなんじゃないの?」
小包の中身を見た麗華が、驚きながらそんなことを言う。
それを聞いた百合人は、微笑んで言った。
「いいえ。――こんなの、安物ですよ」
その言葉には、どんな意味が含まれていたのやら。
「ふふ、そうだね。――君の憂いも消えたことだし、これはあれだね。『我が人生に、一片の悔い無し!』ってやつだね」
「何で死ぬ直前みたいなことを言ってるんですか」
二人は、暫く笑った後……最期の挨拶を、交わすのだった。
************
「……やっぱ俺、あの人のことが好きなのかもしれないな」
************
「ただいまー」
麗華は暗い、彼女らしからぬ声で自身の帰りを告げた。
しかし、当然のごとく返事は帰ってこない。
それもそのはず。
――彼女の帰りを待つ者などいないからだ。
暗闇に包まれた家の中、ゆっくりと麗華は廊下を歩く。
自分の部屋に辿り着き、そのドアを開けた。
「――よし」
決意を固め、彼女は椅子に足を乗せる。
首元に手を回すと、そこには繊維の感触があった。
――彼に、一言言っておこう。
ふとスマホを取り出し、1つのメールを送る。
「今までありがとう」
ただ、その一言だけ。
しかしそれは悲しみを、寂寥を、苦しみを、申し訳無さを、孕んでいた。
「ごめんね」の文字を打ちかけるが、あまり彼に心配をかけたくないので、それは断念する。
――私は、彼の力になれただろうか。
結果だけ見れば、確かに手助けになったとは言えるだろう。だが、彼が幸せを勝ち取れたのは、彼自身のお陰だ。
彼が行動に移したからこそ、掴み取った栄光だ。
「……かっこよかったなあ」
到底、自分にはできそうにない。
彼と出会ったのは、それこそ偶然の賜物だ。
偶然、違う帰り道を通ったら彼と出会って。
偶然、彼はいじめられていて。
偶然、
彼と仲良くなることができた。
しかも最期に、あんな良い贈り物さえ貰って。
椅子の上に立ったまま、彼女は小包を取り出す。
その中身のチョコは、甘いようで、苦いようで。何故か涙が溢れてくる。
――やめよう。
今更縋るのなんて。
結局、本当に言いたい
何が、Win-Winの関係だ。彼には隠し事させず、自分は一切を話さない。
そんな不公平なことがあるものか。
――「殴られる苦しみってのは、痛くないようで痛いし、慣れたようで全く慣れない」。
本当に、そうだ。
ついでに言えば、罵られる苦しみと、壊される苦しみも、慣れたようで全く慣れない。
――だから、逃げることにしたのだろうが。
彼は吐き出すことができた。ぶち撒けることができた。事態を好転させることができた。
自分はどうだ?
無理だった。
人に心配をかけたくない。
心配されたくない。
憐れまれたくない。
こんなのはくだらないプライドで、そんなの無視して吐き捨ててしまえばよかったのだ。
そうすれば、後もう少しだけ、彼と会えたかもしれないのに。
彼と笑いあえたかもしれないのに。
「っ……これ以上考えたら、駄目だな」
迷いが出てきてしまう。
決心はつけたはずなのに、どうしても彼の姿が脳裏を過る。
今やってしまわねば、この足は直ぐ様彼の元へ動き出すだろう。
その前に、しっかりとやりきれるうちに、やりきらねば。
そうだ。
最期に言ったではないか。
「――『我が人生に、一片の悔い無し』」
彼を救えた。
彼を導けた。
それでいい。
――潤む視界の中、椅子の倒れる音だけが響いた。
『呑んだ涙は汚く募る』 錆色兎 @aho1106
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