第9話 little

『少しずつ君の人生は転がり落ちていく

 少しずつ人生をかけて返さないといけない

そしていつも俺は問いかける

ここにいる理由を』


 

 退院を明日に控えた午前の天気は綺麗な晴れであった。少年はデイルームに座り、外を見て、不愉快な笑みを浮かべた。


 「勉くん、調子はどう?」


 広崎さんの声だ。検温が始まる。


 「ああ。そこそこです。」


 「そこそこね。」

 少し笑いながら答えた。


 「明日で、退院だね。おめでとう。」


 「ありがとうございます。お世話になりました。」

 

 「いろいろあると思うけど、無理せずに頑張ってね。」


 検温の一連の動作を終えると、広崎さんは右手を少年の前に突き出した。少年も、自分の右手でその手を握り、握手を交わした。柔らかな優しい手であった。少年の心の底では、「ああ素敵な人だ。自分のお母さんが広崎さんであったらいいのに。」という思いが響いた。


 検温が終わり、十時のラジオ体操が始まる。もう一緒にラジオ体操をしてくれる同士はいないから、参加する必要性は全くない。しばらくの間、病棟を散歩することにした。


 明日で最後だと思うと、ソワソワする。それは楽しみが昇華されたものではなく、緊張と恐怖が混じり、変化したものであった。


 病棟を三往復くらいして、部屋に戻ると決めた。退院するための心の準備をしなくちゃいけない。ベッドに座り、外の黒い地面と白いガードレールを見ながら、radioheadの青と白のアルバムを聴いた。


 なぜこうも苦しいのだろう。自分は過ちをおかして、このベッドの上にいる。クラスメイトは、授業を受けて、部活をして、青春を味わっている。自分が外れ者であることは分かっている。でも、もう苦しみたくはない。このベッドから自分的革命を起こすんだ。そう強く誓った。



 退院当日は忙しかった。荷物をまとめて、水岡先生と母親と三人で退院後のことを話し合った。当分は、この大学病院に通院することになった。母親は「遠いから大変。」と大きく呟く。少年はそんな光景が嫌いであった。


 広崎さんを含めて複数の看護師さんに見送ってもらった。自分たちを閉じ込めていた電子錠の音はいつもより重く聞こえた。外の空気は冷たくてとげとげしいものであった。


 一時間ほど経って帰り着いた自分の部屋は何も変わっていなかった。入院前の出来事がリアルに思い起こされて、苦しくなる。この部屋に迎え入れられていないような気がする。とりあえず、勉強机の前に座る。デイルームの椅子のような柔らかさは感じない。五分も座っていられなかった。


―公園に行け。


 そうだ、散歩に行こう。


 財布と家の鍵をバックに入れ、イヤホンを耳につけて、散歩の準備をする。行き先はもちろんいつもの公園である。リビングでくつろぐ母親に「散歩に行ってくる」とだけ言って、家を出た。


 一ヶ月ほど通らなかったが、その散歩道は変わっていないように思える。道にせせりだした松を避けて、広い道路に出る。横断歩道を渡って公園に入る。公園には誰もいなかった。公園にある小さな丘の上に行くと、海がよく見えた。その海の黒々しさは、少年にとっては馴染みが深い。少年はしばらく海を見つめていた。


 「ああ。生きているんだな。」


 そう少年は呟いた。少年は生きている。あの時は死んでしまおうと強く思っていたが、今、生きているのだ。これからも自尊心を削って日々を過ごさなくてはならないのだろうか。また誰かと比較され、数値が与えられ、管理され、ココロを歪ませる必要があるのだろうか。


 明後日から高校に復学する。そのことが、少年の脳を捕まえて、悩ませる。この社会に馴染めず、取り残された状況は十分わかっている。少年の繊細な心は、電球のように一度割れてしまったらもう光ることはできない。しかし、少年は、その電球をもう一度光らせてやろうと夢想していた。昨日、病室で心に決めたのだ。それでも、社会に復帰することは大きな恐怖を伴っていた。少年の少し上向きな視線は海面で跳ね返り、派手に散乱した。


 少年は、スマートフォンで公園からの景色を写真に撮った。そして、ツイッターにその写真を投稿した。そして、家へと帰った。


 その日は久しぶりに家族三人で食卓を囲んだ。近所の弁当屋のオードブルがテーブルいっぱいに広がっていた。ご馳走であるが、食卓の雰囲気は一か月前と変わらず酷いものであった。両親は必要最低限の会話しかしない。なぜ、未だに同じ屋根の下で暮らせているのか少年には理解できなかった。三人は、黙々と食事する。たまに会話が始まるが、長くは続かない。


 そそくさと食べ終わって、少年は自分の部屋に戻る。ここだけが自分の国である。CDプレイヤーを取り出して、電源を入れる。コレクションしているCDから一枚を選ぶ。Oasisのセカンドアルバムを選ぶ。今日から変わるのだ。そんなざっくりとしたやる気を確かめるためにアルバムを聴く。太いギターサウンドが少年の心意気を固める。リアムの声色は生意気で芸術的だ。冗長な曲展開が、戦い前の少年をリラックスさせてくれる。



 それから二日経って、久しぶりに高校に登校する日になった。登校中、路面電車で出会ったクラスメイトは驚きながら少年に声をかけた。


 「勉!久しぶりだな。生きてたのか。」


 少年は愛想笑いをして、「久しぶり。」と答えた。なんで休んでいたのか聞かれたが、本当のことは言える訳がないので「入院していた。あんまり言いたくない。」とだけ答えた。そうしたら相手は申し訳なさそうにして聞き返すことは無い。


路面電車を降りて、クラスメイトと共に学校まで歩く。久しぶりの校門をくぐった瞬間から体が緊張する。周りの目線も気になる。他のクラスメイトに何を聞かれるのだろうか。恐怖でしかない。しかし、ここで負けていてはいけない。自分は変わるのだと少年は誓ったのだ。


 教室に入ると、皆が驚きの表情で少年を見た。「勉じゃん!」と皆が言った。路面電車でのくだりを今度は複数人に対してした。説明をすると気まずい空気が流れる。やはりこの空間は少年のものではない。


 少年の席は廊下側の一番後ろに変わっていた。


 「久しぶり。」


 声をかけたのは、隣の席の林登である。この学校で一番少年と仲のいい生徒である。しかし、少年は入院していたことを林登には言っていない。彼にだけは打ち明けていいように思っていたが、やはり簡単に話せることではない。別に話すのはかなり後ででいいように思う。


 「うん。久しぶり。」


 と、少年は答える。そのまま、朝礼が始まった。



 少年は、ベッドで仰向けになってスマホをいじっていた。かなり気疲れした一日であった。詳しいことは話したくないと言ったのに、聞き出してこようとする奴がいたし、勝手な噂をたてる奴もいた。久しぶりの授業に全くついていけないことも苦痛に感じた。YouTubeで適当な動画でも見て、気を紛らわす。すると、Twitterの通知が入ってきた。


 「初めまして。この前の写真って美鷹北公園からの景色ですか?」

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