綺麗な羽

とうふとねぎの味噌汁

第1話

 彼女には灰を被ったような、ボロボロの羽が生えている。僕は彼女のその翼が、彼女の美しさを表したその背中が、羨ましくて仕方がなかった。

 羽の綺麗さで序列が決まるこの世界で、目を疑うような痛々しい羽の少女。彼女は悪い意味で有名だった。

「ねぇ聞いて! あそこの人、灰被りに会っちゃったんだって」

「うわ、かわいそう。あんなもの見ちゃうなんて。自分もあれみたいになったらって考えると、怖いよね。家帰ってちゃんと羽の手入れしないと」

 噂好きの女子二人が、教室の端でキーキーと騒いでいる。本当にくだらない。そんな事どうでもいい。汚い羽を見たって、自分の羽が汚れるわけがない。そんな話をする暇があるなら、自分を磨く時間に当てた方が有意義だ。そう考えていたら、うるさい女子二人と目が合ってしまった。

「あ! 哉翔くん!」

「ああ、おはよう」

「あそこにいる人、灰被りに会っちゃったんだって。哉翔くんも気をつけてね、あなたの綺麗な羽が、汚れてはいけないもの」

 気持ち悪い。笑顔に邪悪さがない。完全に善意で言っている。僕の顔が引き攣りそうになる。

「ああ、それは災難だったね。僕も気をつけるよ」

 完全な嘘。この羽は綺麗なんかじゃない。この世界で一番醜いのは僕だ。善人のふりをして、他人を見下している。仮面が剥がれそうで、耐えられなかった。体調が悪いふりをして、僕は教室から逃げた。

 チャイムが鳴る。僕は一人で裏庭に向かっていた。座り込んでため息をつく。

「こんなところ見られたら、もう終わりだな」

 哉翔は授業を休むなんてこと、しないはずなのに。教室に戻っても、うまく哉翔を演じられる気がしない。いつもそうだ。僕が哉翔なのに。僕は哉翔じゃない。生き生きとした植物の色を、視界に入れたくなくて目を瞑る。僕は、みんなが讃えるような完璧な存在じゃない。みんなが見てるのは僕じゃない。僕の羽だ。きらきらの太陽を浴びながら、うっすらと七色に艶めいている翼を、記憶から消す。この穏やかな風も、羽が気持ちよさそうに立てる音も、全て鬱陶しい。こんな羽があるから、皆僕に理想を押し付ける。自分に都合の良い時だけ皆の憧れを守ろうとするくせに、たまに訪れる虚無に耐えられない僕が嫌いだ。

「あの、大丈夫ですか?」

 目を開くと、黒髪の少女がいた。羽はボロボロで、灰を被ったような色をしている。あの子だ。僕は慌てた。彼女にあまり関わりたくないのもあるが、僕のままでいる時は、誰にも会いたくなかった。

「え、あ、うん。大丈夫だよ」

「でも、顔色悪いですよ」

 本当に心配そうに見つめてくる。そんなに覗き込まれたら、僕の綻びに気づかれそうで、急いで目を逸らした。

「紛らわしくてごめんね。ちょっとぼーっとしてただけなんだ。だから、本当に大丈夫」

「そうだったんですね。よかった……。何もないけどぼーっとしたい時って、ありますよね」

 彼女はほっとしたように微笑んだ。良心が痛む。僕より羽は破れているのに。こんなにも純粋で、無垢な目を向けられるなんて。もうここから離れたかった。僕は哉翔を演じ始める。

「でも……。本当に辛かったら無理なさらないでくださいね」

「心配ありがとう」 

「いえ……。今も辛そうな顔をしているので」

 おかしい。哉翔は完璧のはずなのに。そんなことありえない。

「いや、本当に大丈夫だから」

「そう、ですか。すみません。しつこくて」

「全然。ありがとう。優しいね」

 彼女は、羽に見合っていない。彼女は綺麗だった。ボロボロの翼のまま、人の心配をする。人を案じることができる人は、余裕のある人だ。僕とは違う。

「優しいなんて……。私は、ほら、こんなのだから。せめて行動ぐらいは正しくありたいって思ってるだけです」

「すごいね」 

 僕の身の丈に合っていない羽をちぎって、彼女に渡したい。僕こそあの灰のような翼が似合う。

「あ、ごめんなさい。こんなに話しちゃって。哉翔くん私と話しても全然嫌な顔しないから。優しいね」

「そう? どういたしまして」

 僕は優しくなんかない。僕が彼女に嫌な顔をしないのは、哉翔だったらそうすると思ったからだ。僕は臆病なんだ。彼女ほど強くない。きっと僕が彼女の立場だったら、全てに絶望して、人の気持ちなんて考えられない。土の懐かしい匂いが鼻をくすぐる。ほっとするような、むず痒いような気持ちになる。僕はもう疲れたんだ。

「私、教室に行きにくいから、ちょっとサボり気味なんだけど、頑張ってこれから行こうと思ってたんだ。今日はダメだったけど、明日からもう一回頑張ってみるね! またね」

 彼女が去っていく。僕は彼女の後ろ姿を、天使のようだと思った。今まで見た中で一番綺麗だと思った。

 

 キーンコーンカーンコーン。

 授業開始の合図とともに、ガラガラと扉が開く。

「すみません、ギリギリになってしまいました」

 灰を被ったようなボロボロの羽。

 教室がざわつく。普段来ない彼女に、好奇の目を向ける者や、あからさまに嫌な顔をする者。皆、様々な反応をしたが、好意的なものは一つもなかった。

 興味ないふりをして、目線を逸らす。窓を通して、曇りのない青空が見えた。校庭の桜の木から、花びらがさらさらと落ちる。

「おお、久しぶりだな。元気だったか?」

 先生は流石だ。嫌な顔一つしない。

「えと……はい。元気です」

 困ったようにはにかみながら、おどおどと答える。先生は注意はせず、僕の隣の席に座るように促した。

 僕は彼女が来たことを、嬉しいとも、嫌だとも思っていた。学校に来るべきは、彼女のような人だと思う。彼女のような清廉な人が、楽しく生きられる世界がいい。それでも、そんな素晴らしい人が、目の見える範囲にいるのは嫌だった。僕の汚さが目立って、苦しくなってしまうから。そんな自分勝手さも、直視しないといけなくなるから。

 綺麗な魚は、濁った水の中では生きられない。僕は、僕たちは……濁った水だ。

 

 昼休み。お弁当を取り出す。哉翔は人気者ではあるが、特定の仲の良い人はいない。ちょっとしたことで仮面が外れることを、僕は恐れた。哉翔は、みんなより一歩引いて物事を見ないといけない。間違えたことをしてはいけない。完璧であらねばならない。そのために、化けの皮が剥がれるような可能性は極力排除した。それに、一人の方が気が楽だった。

「哉翔くん」

 嫌な予感がした。

「どうしたの?」

 透明感のある、可愛らしい声。

「ご飯、一緒に食べない?」

 彼女だった。クラスがしんとする。時計の秒針が耳に響く。数多の視線に晒される。彼女は微笑んでいるが、目が不安げに揺れていた。哉翔がどうするか考える時間も、余裕もない。

「いいよ、一緒に食べよう」

 彼女は、とびきりの笑顔を見せた。羽も少し揺れているように見える。埃のような色をした、痛々しい羽。

 憐れみの眼差しが突き刺さる。疑問を抱く視線も。

 怖かった。みんなにどう思われたかが不安で仕方がない。最近、哉翔のふりが上手くいかなくなってきた。哉翔だったらどうするのか、どうすればいいのか、わからない。ごめんねと、断っていただろうか。その方が、周りは気にしなかったかもしれない。でも、僕は一緒に食べることを選んだ。僕には、断るなんて選択肢が、なかった。

 嬉しそうにお弁当を開ける彼女。素直に、よかったと思えない自分が憎い。

 やはり、間違えているんだ。全て。

 あーあ。明日から、僕も避けられるかもしれない。哉翔のこの羽に、見合わないことをしたかもしれない。

「あの……」

 そわそわ声をかけられた。

「ん?」

「ありがとうね。一緒に食べてくれて」

 翼のせいで除け者にされて、クラスに来るのも怖かっただろうに。きっと、僕に声をかけるのも、相当勇気がいる行動だったはず。やはり彼女は芯のある人だ。

「ううん、僕も一人より二人の方がいいなって思ったんだ」

 僕は、彼女になりたい。

 

 何かあっても、何もなくても、次の朝は来る。めんどくさいと思っても、生きている以上は逃れられない。変わり映えのしない日常。つまらなくても平穏を望んでしまう、卑怯な自分。そんな自分が、嫌だと思ってしまった。

 彼女がドアを開けると、騒がしかった教室が静まり返った。少し泣きそうな顔をしながら、気まずそうに歩いている。クラスメイトはどうでもいい話題に花を咲かせながら、一人じゃないと強調し合っている。

 僕の隣の席を見る。灰を被ったような、ボロボロの羽。俯く彼女。

 自分が嫌いだ。心底呆れて、軽蔑している。そんな僕が正しくなりたいと思うなんて、許されない。そんな権利、とっくになくなっている。

 『変わりたい』

 わかっていたはずなのに。馬鹿なのは僕だ。一番醜いのは僕だ。

 もう、自分に嘘はつきたくない。思うまま、正しく生きていたい。過ちを、繰り返したくない。

 それは、贅沢な望みなのだろうか。汚くても、見苦しくてもいい。それよりも、大事なものがあると気づいてしまった。

 僕は、哉翔のふりをやめた。 

 彼女を見る。偶然、目が合った。

「おはよう」

 僕は、初めて友達に挨拶をした。

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