第3話 女にだらしのない遊び人の男
次の生で夫が森にやってきたのは前回よりも更に4年も遅い、32の歳でした。ヨタヨタと歩いてやってきた彼は挨拶もなしに家に入ってきました。
そして女神が夫が使っていたベッドに怪我をした仔狼を寝かせて看病しているのを探し見つけると仔狼をベッドから力任せに薙ぎ払い、そのベッドにうつ伏せで倒れ込みました。
女神はいきなり入ってきた夫の暴挙に驚き、慌てて仔狼に駆け寄りました。
「乱暴は止めてください!この仔は病死した母狼の傍にいたところを鷹に襲われて怪我していたのです!」
「……ここは俺のベッドだ。勝手に獣を寝かせるな」
女神はベッドから落とされた仔狼を抱き上げ、その体を撫でながら仔狼を宥めた後、夫に言いました。
「怖い思いをさせてしまったわね。痛かったでしょう?ごめんなさいね。私のベッドに寝かせてあげるから、もう大丈夫よ。……勝手にあなたのベッドを使ったことは謝ります。あなたはもう帰ってこないとばかり思っていたものだから……」
夫はベッドにうつ伏せたまま彼女に尋ねました。
「……何故?」
「何故って……。それはあなた自身が一番よくわかっているのではないかしら。あなたは今、何歳なのですか?あなたが前世で言っていた18の歳には、とても見えないのですが」
「遅くなったのには理由があるんだ」
慌てて顔を上げた夫の顔は、女神が美しく生まれ変わらせてあげたはずなのに、何故か彼の以前の顔よりも醜くなっていました。
夫は女神に、自分は美しい容姿がすっかりと変貌してしまうほどの重篤な病にかかって何年も寝たきりだったせいで、これまで森に来れなかったのだと言い訳をしました。しかし、その言い訳は嘘でした。
本当は男の容姿がすっかりと変貌してしまったのも、重篤な病にかかってしまったのも彼の自堕落な生活のせいだったのですが、それはここ最近の出来事で、それまでの彼は美しい容姿を生かして沢山の女性達と付き合うのに夢中になっていたから森に行かなかっただけなのです。
泉の水面は映すだけで音声までは聴こえないのですが、女神は前回と同じように18の歳になっても森に来ない夫を心配して彼の安否を確認していたから、彼の言い訳が嘘だとわかっていました。
当時、彼女は夫が女性と肉体関係を持つ様子を偶然見てしまったことで、彼が前世の最期に言っていた本当の夫婦になりたいという言葉の意味を知ると同時に彼が女性と結婚したのだと思い、深く傷ついたのです。
その後、女神は泉の水面で彼の様子を見ることなく過ごし、夫と過ごした過去の日々もそれなりに良い思い出だったと考えるようになっていたのですが、別の女性と結婚したはずの夫が怪我している動物を有無もいわずに薙ぎ払ったり、平気で彼女に嘘をつく様子に、彼女の中で今まで彼に抱いていた気持ちは急速に冷めていきました。
夫はバツが悪そうな顔つきで目をそらしたまま言い訳を続けて言っていましたが、いつまで経っても女神が何も言い返してこないので様子を伺おうと彼女の顔を見て、そこで初めて女神が彼を美しく生まれ変わらせる代償に自分の美しさを失ったのだと知りました。
「あんなにも美しかった君が何故こんなにも醜くっ!?……そうか。前回、君の体が前よりも縮んでいたことに俺は気がつくべきだったんだ!ああ、本当に申し訳ないことをした。俺を一番愛してくれるのは君だけだと俺は知っていたのに遅れてきて済まない!どうか愚かな俺を許してくれ!」
夫は女神の献身に心からの礼を言い、涙を流して遅れたことは詫びましたが、嘘をついたことを告白して謝罪することはありませんでした。
「ねぇ、何か私に隠していることはない?何を話しても私が怒ることはないから正直に話して欲しいの」
女神は夫に抱いていた親しみの感情が薄れつつも、もしかしたら彼は遅ればせながらだが森で待たせている元妻に別の女性と結婚したことを話して別れを告げようと思い立って森に来たのかもしれないと思いました。
だけど、いざとなって怖気づいて下手な嘘をついてしまったのかもしれないと考えた彼女は、彼が真実を話しやすくなるようにと微笑を浮かべて言葉を促しました。……ところが、です。
「実は今生はあんまり幸せではなかったんだ。前回のときに君から美しさだけしか貰わなかったのは失敗だったよ。だって美しさは歳を取れば衰えてしまうだろ?やっぱりさ、いつの時代も最後に勝つのは金だよな」
「え?お金?」
女神は森に来て直ぐに床に伏した夫が放った言葉に唖然としました。
「ああ、そうだよ。だって女達は俺が美しい間は俺に群がってきて、ただ傍にいてくれるだけでいいと、衣食住に困らないよう世話してくれて遊ぶ金までくれたけど、俺が美しくなくなって病にかかった途端、やれ結婚したいから寄生虫は出ていけとか、無駄飯食いの金食い虫は不要とかいって俺を追い出したんだぜ」
「女達?もしかしてあなたが結婚していたのはあのときの女性だけではなかったということ?」
「ん?結婚?馬鹿言わないでくれよ。全部遊びだよ、遊び。女なんてよりどりみどりだったのに、何でわざわざ結婚して、たった一人の女に縛られないといけないんだよ。とはいえ、女は最初のうちは顔が良い男を選ぶけど、最終的には金を持っている男を選ぶからなぁ」
夫は倒れた自分を懸命に看病していた彼女が顔を強張らせたことに気づくことなく言い募りました。
「だからさ、今度は金持ちの家に生まれ変わらせてくれよ。お願いだよ。来世こそ必ず君を大事にすると約束するよ。そうだ、宝石やらドレスやら君が欲しいもの全て買ってやるからさ」
死が近づいた夫が青い顔色で口にした願いは欲望にまみれていましたが、女神は彼が森に来た本当の理由を知っても前言した通りに怒りはしませんでした。
何故なら女神の心は怒りよりも悲しみと虚しさでいっぱいになってしまったからです。
「宝石やドレスを私が欲しがったことなんて一度もないのに、そんなことも覚えていないなんて。一途に私を愛してくれた夫はもう、いなくなってしまったのね。……別れましょう、私達。せめてもの恩情で今生のあなたを看取ることくらいはしますが、私は今後あなたと二度と夫婦にはならないし、あなたの願い事も叶えません。これからは生まれ変わっても森には来ないで」
「ちょっと待ってくれよ。金持ちに生まれ変わらせてくれないと困るよ」
「あなたにとって、私との別れよりも自分が金持ちに生まれ変わることの方が大事なことなのね」
「そりゃ、当然だろ。誰だって自分が一番大事に決まっている。もしも君が俺の願いを叶えてくれないというなら、叶えてくれるまで何回生まれ変わっても森に押しかけるからな」
女神は夫だった男が脅すのを悲しく思いながら言いました。
「あなたはもう私の夫ではないのだから、願い事を叶える対価はきちんとあなた自身から貰います。それでもいいなら叶えてあげてもいいわ。ただし、これを最後に次は絶対に森には来ないでください。私は二度とあなたの顔を見たくないの」
「俺が払う対価は何だ?金銀財宝か?それとも生贄を何人か見繕えばいいのか?」
そう問う男に女神は顔をしかめて言いました。
「よく金銀財宝や生贄などの供物を捧げればいいと勘違いしている人間が多いのだけど、人間とは次元の違う世界で生まれた神には、それらは何の価値もないから捧げても願い事は叶わないのよ。神にとって価値があるのは、魂が生まれ持っている幸運なの」
「幸運?」
「ええ。特に私のような年若く未熟な神は、他の神々に比べて奇跡を起こす力が圧倒的に少ない。魂の持つ幸運はそれを補ってくれる力になるから、願い事の対価に幸運を貰うのよ。だけどあなたの場合は願いごとが大きすぎて、幸運を全て貰ったとしても対価分には全然足りない。対価を払えないのに願いを叶えてもらおうとするのは止めておいた方がいいわ。だって神との契約で違反して債務不履行になった場合、願い事をした魂は神にどのような負債を課せられても文句を言うことが出来なくなるから」
「そんな。何とかならないのか?」
「そうね……。幸運は足りていないけれど、今のあなたには女神である私から貰った背と美貌がある。それを私に返すのなら、あなたの持っている幸運はそのままあなたの元に残るようにして願いを叶えてあげるわ」
本当は女神が男にあげた背と美貌に加えて、男の幸運の内の半分を追加でもらえば、丁度帳尻は合ったのですが、二度と男の顔が見たくなかった彼女は、男が森に来る事態が起きないようにと考え、彼から幸運を貰うのは止めておくことにしました。
「う〜ん。元の容姿に戻るのは嫌だけど金持ちになれるのなら致し方ない。それで頼むよ。……正直言うとさ、俺も俗世を離れて君と森で夫婦ごっこをする人生を繰り返すのに、いい加減うんざりしていたんだ。だって、あまりにも純真無垢で美しすぎる女神の君を抱きたいなんて申し出るのは気が引けて人生三度とも君を抱くどころか、キス一つ出来なくて鬱憤が溜まりっぱなしだったからさ。別れてもらえて良かったよ」
女神の夫だった男は渋面で女神の提案を受け入れた数時間後に息を引き取りました。女神は前までは夫が亡くなる度に大泣きし、悲しみにくれながら夫が生まれ変わるのを待っていたのですが、彼女はもう男のためになど一滴の涙だって流したくはないと思いました。
「これで私は本当に独りぼっちになったのね。誰も来ない森で永遠に一人きりなんだわ。それでも心が悲しくて虚しくなるだけの人と一緒にいるくらいなら……私は独りでいい」
事切れた夫だった男の亡骸を無表情で地面に埋める女神の足元に、女神が看病していた仔狼がすり寄ってきました。
『クゥ〜ン』
まるで傷ついた女神を労るように鼻を鳴らして擦り寄る仔狼を抱き上げ、彼女はくぐもった声で言いました。
「……りがとう。慰めてくれているの?あなたはとても優しいのね」
『クゥ〜ン』
女神に抱き上げられた仔狼は彼女の頬を伝っていた雫を舐めました。
「フフッ、くすぐったい。……そうね。私にはあなたがいる。あなたには私がいる。私達は独りじゃないわね」
四度目の人生を生きる夫と一緒にいた短い時間、ずっと強張っていた女神の表情が緩み、微笑みを浮かべる様子を仔狼は金色の目をキラキラと輝かせて見入っていました。
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