ショートショートvol.4『プランティア』

広瀬 斐鳥

『プランティア』

 食欲がなくなったのは、ハタチを過ぎたころだったと思う。たしか、街なかのカフェで大学の友達とランチをしていた時だ。

 席に着いてメニュー表を眺めてみたら、そのほとんどが読めないのだ。かろうじて読めたのは、「ミネラルウォーター」と「オレンジジュース」だけ。私はたぶん、そのカフェで何度もスパタやサンイッチなんかを食べたりしていたのだけれど、それが書いてあったはずの場所には、ぐじゃぐじゃに絡まったヒモのような模様が描かれているだけだった。

 友達は、せっかくのランチだというのにオレンジジュースだけを注文した私を不思議がっていたけれど、私はダイエットだとか、適当な理由をつけてごまかした。

 それからというもの、私は何かを食べるということをしなくなった。別にそれで何かが困るということもなかった。水分さえ摂っていればお腹が空くこともなかったし、体調が悪くなるということもないのだ。

「それって、おかしいよ」

 昨日から付き合い始めた彼氏が、口を半開きにして言う。私の目の前には、例によってオレンジジュースが置かれていた。氷が入ってよく冷えたそれは、クーラーのない私の部屋の中でしきりに汗をかいている。

「でも別に困ってないから」

「そんなわけないじゃん。病院行こうよ。俺も付き合うからさ」彼氏は身を乗り出す。

 私はその勝手な物言いにクラクラしてしまって、気が付いた時には別れを告げていた。彼はいよいよわけが分からないという顔をしていたけど、私が天井の隅っこを見て押し黙っていたら、ついに家を出て行った。暑さに耐えかねたのだろう。

 ありのままの君を受け入れるよ、なんて歯の浮くようなセリフを言われたものだから、ついバイト先の先輩からの告白を受け入れてしまったけど、結局はこうなるのだ。私の部屋にしきりに入りたがっていたくせに、入ったら入ったで怪訝な顔をして、最後はハレモノ扱い。どういう了見だろう。

 吸ったこともないタバコをふかすように、ふうっと息を吐く。

 食べることに関心がなくなったあたりで、私は街に住むことに少しずつ違和感を感じ始めていた。それは都会の喧騒に疲れたとか、やたらと細かいゴミの分別に嫌気が差したとか、そういうことではなくて、なんと言えばいいのか分からないけど、裸で砂利の上に座っているような落ち着かなさによるものだった。ここは、自分の居場所ではないのではないか。そんな本能的なささやきが、頭のてっぺんから聞こえてくるのだ。

 私は水分だけを摂取する日々を続けながら、そんなささやきを振り払うために、現実に繋ぎとめてくれるものを探し求めた。アクション映画をたくさん借りてみたり。電車で赤ちゃんに手を振ってみたり。身体を安売りしてみたり。受けるべき講義もないのに大学に毎日行ってみたり。失踪した両親の遺したお金で当分暮らしていけるのに、コンビニでアルバイトを始めてみたのもその一つだった。

 要するに、私は必死だったのだと思う。霞がかった頭を働かせて、なんとか私は、私がいた場所に留まろうとしたのだ。ただ、そんな付け焼刃の自己防衛策が、成功するはずもなかった。

 映画は見ずに放置して、借りた料金の数十倍の延滞金を取られた。あやしたはずの赤ちゃんには泣かれるし、見知らぬ誰かに身体を許しても、虚しさばかりが募った。大学に至っては、キャンパスを歩いているところを職員に呼び止められて、とっくに退学になっていたことを知った。アルバイトはちゃんとできていたか、あまり思い出せない。もうコンビニに行くこともないだろう。

 何もかもが、あいまいになっている。

 アパートのベランダに出て、ぼおっと陽を浴びる時間がいちばん心地よかった。冬は落ち込み、春は気分が春めいた。いつしか、オレジジュースを飲むこともなくなっていた。渇きを癒したければ、月明かりの下、ベルンダに座っているだけでよかった。湿った夜気が身体にしみ込む感覚は、快感めいたものさえあった。かといって、日光に肌をさらすのも好きだったから、結局、私は、昼も夜もベルンダから通りを見下ろしていたのだ。


 私はふと、自分が電車に乗っていることに気が付いた。

 記憶は断片的だけれど、どうやら私はアパルトを追い出されたようだった。何となく覚えているのは、ドアを叩く音と、青い制服。あとは半日だけ付き合った彼氏もどきの顔。でもそれも、電車の扉がばたんと開けば、私のちっちゃな頭の中から飛び去って行った。

 いま分かるのは、ここが深い山奥だということだけだった。振り返れば、乗ってきたはずの電車は消えていた。駅のホームも消えていた。というより、そもそも電車に乗っていたことすらあいまいだった。いや、そもそも、でんしゃって、なんだっけ。

 とりあえず歩く。坂を登る。山の深みにはまっていく。そして、人間のにおいが薄れていくにつれ、私の胸はむずむずし始めた。着ていたものは、いつの間にか脱いでいた。私にはそれが自然なことに感じられた。

 これまで過ごしてきた日々が、赤茶けていく。だからなんだ、という気持ちになる。

 深い森を抜けて、開けた場所に出る。そこは花畑だった。地面のすべてが花で埋められていて、そのすべてが白い花だった。陽は傾いている。赤茶けた記憶が、空に映っている。

 ここだ、と思った。私の居場所は、ここだ。

 腰を下ろす。そしてそのまま、仰向けになる。花は優しかった。体が浮くような心地だった。下草にくすぐられ、ふかく息を吐けば、記憶に見下ろされるのも気にならなくなった。どうでもいいことが、ちゃんと、どうでもよくなっていく。

 手を握られる感触がした。左手、右手と、順番に。左はお父さん、右はお母さんの手だった。目を閉じれば懐かしい匂いがして、すべてが溶けて、混ざっていく。そして眼の奥が、ぱつんと弾けた。

 いきものとしての私は、これでおしまい。

 だからって、さみしくなんかない。

 だからって、かなしくなんかない。

 私はやっと、咲けたんだから。

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ショートショートvol.4『プランティア』 広瀬 斐鳥 @hirose_hitori

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