第6話「女優の教訓」
その日の撮影は順調に進み、早々に夕方には終了した。
今日は少しでも早く帰って休みたかった政樹と美咲であったが、政樹のスマートフォンに事務所の社長からメッセージが届いており「ミーティングをするので帰宅前に事務所に寄るように」とあった。
政樹はミーティングの内容がおおよその想像ができていた。一方の美咲はというと、メッセージを確認後、若干の目付きに変化があったが至って平静な面持ちのままだった。しかし彼女が平然を保っていられるのはこの時までであった。
ふたりは事務所の会議室に入ると、社長はモデルのポージングのようにピンと左足を突っ張って、右手を腰に当てた立ち姿でこちらに背を向けていた。
彼女の背後に置かれている大きな一枚板のテーブルには、白黒の印刷がされた用紙があった。政樹はそれが何であるかが一瞬で想像ができたのは、今さらここに記す必要もない。
社長の名は、木戸下 玲華(きどした れいか)といって現在は芸能事務所の社長だが、その過去は女優をしていた経歴がある。
過去に経歴が、と示すと大したことのない、鳴かず飛ばずの女優だったかと想像されてしまうかも知れない。しかしこれが実はなかなかで、十代の頃からスター街道を歩んだ名女優だった。三十歳で突然女優業を引退し、その年、つまり今から五年前に芸能事務所を開業した。今は完全に裏方に回っているが、当時はずいぶんと世間を騒がせた人気者だった。
「ふたりとも、ちょっと座ってちょうだい」
顔だけ振り返った社長の、緩いウェーブがかかったブラウンヘアの隙間から、ギラリと銀縁の眼鏡が光った。
政樹と美咲は並んで着席すると、政樹はもうその印刷物になにが書かれているか熟知していたため、白けたように伏し目勝ちのままでいた。
一方で隣の美咲は、恐らく記事の見出しが目に飛び込んで来たのだろう。徐々に顔面が蒼白になっていって、それはとても演技では見られない、現実に戦慄している人間の形相が、十九歳の顔面に段々と浮き上がっていた。
「これが明日、記事として週刊ターゲットに載るらしいの。もう発売は止められないわ。美咲、ちゃんと読んでもらって良い?マアくんは・・・もう知っていた感じね」と社長が言うと、美咲は驚いた顔で横の政樹を見た。政樹は仏頂面で、黙って玲華に向かってコクンと頷いた。
しばし美咲が記事を読む時間があって、その最中も玲華社長は、さっきのようにモデル立ちで窓に向かって、彼らには背を向けたままでいた。
玲華は三十代半ばでもスタイルは二十代から変わらない。もし明日女優にカムバックしても、ほかの俳優と遜色ないほどの美貌を未だに保っている、華を持っている人物だった。
一方の美咲はというと、両手をギュッと下腹の辺りで握っていて、両肩を震わせており、両目を充血させて下唇を噛み締めていた。
玲華はゆっくりと彼らの前の席に着くと、落ち着いた口調でこう語り出した。
「美咲、これで分かった?・・・これが私たちがいる芸能界なのよ。私はこの記事の内容が本当でもウソでも、どちらでも構わないの。もちろんあなたはもうTVやCM、ドラマも映画もやっていて、世間でも名前が知られてきている女優なのだから、色んな各方面に影響は出るわ。イメージダウンしてスポンサーが離れちゃうかも知れない。今まで応援してくれたファンも減って、人気も落ちちゃうかも知れない。ああとかこうとか勝手にネットに書かれるかも知れない。・・・でも全部受け入れなさい。どんな状況になっても、あなたが何処かで演じようとする限り、私は美咲が演じられる場を必ず用意するから。・・・全て演技で、仕事で見返してやるのよ。いい?」
彼女の言葉は意外と言えば意外に聞こえるし、らしいと言えばらしい鞭撻だと政樹は素直に思った。それでも政樹の心のモヤモヤは晴れることはなかった。
「あたなたのような若い人に・・・今どきの人ならバカにされちゃうかも知れないけどね、私が女優を始めたころに出会った・・・もう鬼籍に入られた人だけれど、とある大女優さんに言われたことがあるの。その人が言うにはね・・・」
『駆け出しの女優っていう商売は、欲望との闘いなのよ。・・・あなた、人間の三大欲求って知ってる?食欲と睡眠欲。あとひとつは性欲ね』
『食べたいものが食べたくても、仕事で病人の役をするなら太れないじゃない。逆に痩せないと世間様にバカにされちゃうの。・・・あんなデブの病人がどこにいるかってね。仕事をたくさんこなしてお金がたくさん入って来たって、せっかくなのに食べたいものも食べられないのよ。女優はつまり、見た目が肝心っていうこと』
『それに寝る間を惜しんでセリフを憶えたり、お稽古したり、撮影をしたり。もっとたくさん眠っていたくても起きないとならないし、眠くて仕方なくても寝られやしない。そうやって芸を磨いて、他と差を広げなければ生き残れないわ。・・・あとね、好きな人ができたって諦めなきゃならないこともあるのよ。女優って所詮、人気商売なのよ。人様を惑わして、周囲を魅力で惑わして、自分に惹き付けないとならない。・・・そうやって人気を上げているのに、ひとたび誰かと噂になってごらん。あの女はヤツに抱かれているのかって、あっという間に総スカンよ。一旦離れた人はもう戻って来ないわ。ほかにもっと魅力ある人に流れちゃうの。・・・だって次から次へと新しい人が発掘されて、デビューしてくるんだもの。だから最初の内は、我慢、我慢よ。でもある程度したら大丈夫。せいぜい駆け出しのうちだけだから』
「私はその先輩の言うことを鵜呑みにして頑張ったわ。まあ別の壁に当たって途中で女優を辞めちゃったから、偉そうなことは言えないけどね」と言うと、その後はなにも語らず、またさっきみたいに窓に向かってモデル立ちをしたまま、玲華は黙ってしまった。
沈黙の時間がしばらくに及んだのもあるが、美咲も黙りこくっていたので、政樹は腰を上げて「帰ろうか」と美咲を促した。
帰りの車内は、なんとも言えない重っ苦しい空気が広がっていた。
美咲はとっくに陽が落ちた車窓の風景を眺めているようだったが、その焦点は定まっておらず、街灯のオレンジ色の光が、彼女の顔を立体的なお面のように浮かび上がらせると、また彼女の心情を物語るかの如く、漆黒の影が鈍色に顔面を覆い、虚ろな黒目と乾いた唇だけを残す。そしてまたオレンジ色の街頭の光が彼女を包む。そんなことが繰り返されているだけで、ふたりは全くの無言のままだった。
信号待ちの間であっても、美咲は人生の最果てでも見据えているかのような、虚無に近い覆面を被っていたが、その面持ちをルームミラーで見た政樹は、不謹慎ながら一瞬だけ、映画とかドラマでもそんな表情が使えたら、いつかコイツは大物になるのだろうなぁ、と感心してしまっていた。
「着いたぞ」
政樹が美咲に声を掛けたのは、車が美咲のマンション前に停車してから、すでに三分ほど経ってからのことだった。
政樹からの呼びかけに、瞳に少しだけ光が戻った彼女は、ようやく動き出して、窓際の顔を正面に向いてうつむいた。
薄暗い後部座席で長い髪が顔面の全部を隠していると、まるでC国のホラー映画に出てくる美しい幽霊のようで、またしても不謹慎ながら政樹は、そんな役が舞い込んできたのなら、今の美咲なら演技こなせるだろうなぁと、確信してしまうほど絵になっていた。
「マアちゃん。・・・あの記事ね、半分はウソだけど・・・半分は本当なの」
こう美咲は寝言のようにか細い声で言い出したが、やや沈黙をおいてから、政樹はできるだけ普通を意識して話をした。
「そうか・・・。でもあの記事は記事として雑誌に掲載されてしまう以上、世間の人たちは、あれがほとんど真実だと思ってしまうんだ。後々になって美咲がどう弁明しようにも、誤解だと訴えたとしても、その彼がお前の部屋に入って行く姿の写真はインパクトが強すぎる。・・・例え偽りの尾ひれが付けられたと言い訳をしても、ちょっとした弁解では世間のイメージを払拭するには至らないだろうよ」
「あの記事のことで・・・私、取材とかされちゃうのかな?」
「う~ん、どうかな。・・・昔の芸能界みたいに報道陣に囲まれて根掘り葉掘り、みたいなことはないだろうけど。それよりもネットとかSNSの反響の方が、今の時代は脅威的になるだろうな」
美咲はそれを聞くと、数秒間の間を持って長く深い溜め息をついた。
「確かに彼の音楽が好きで、気持ちも傾きかけていたけど、一度だけ家にもあげてしまったけど、そのときってお友達も家にいたの。もちろん女の子の友達だよ。だから、どうしてあんな記事になったのか。どうして彼があんなことを周りにしゃべっていたのか・・・」と言うと、美咲は両手で顔を隠して、前にかがんで肩を揺らし始めた。
もうそいつと連絡を取るのはやめろ、と政樹が言おうとしたが、それよりも先に美咲の方から「なんか彼から何回もメッセージが届いていたみたいだけど、読まないでそのままブロックして削除しちゃった」とあり、政樹は黙ってウンウンと相槌を打つにとどまった。
「そういや、週刊ターゲットの奥屋記者からも連絡があったんだろ?・・・今回のことで色々と忠告というか、アドバイスもあったんじゃないのか?」
「え?あ・・・う、うん。まぁそれなりに。アドバイスと言うか・・・。うん、そう、そんな感じ」
美咲がやや歯切れが悪かったのが気になったが、会話の内容はおおよその想像ができた政樹だったので、それ以上は聞くことはしなかった。
フラフラと車を降りた美咲は、自宅マンションのロビーへと消えていった。
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