第4話「初恋」
政樹がアーティスト家妻雪夜を知ったのは、高校一年生の頃だった。
デビュー曲「Open your heart」が、深夜ドラマの主題歌として流れたのを聞いたのが最初になる。
高校生の仲間とロックバンドを組んでいた政樹とは、音楽の庭色が少し違っていたが、雪夜の透き通った美声は、なんと表現すれば良いのだろうか。幼き頃に聞いた母の子守歌のような、その人物のひととなりの優しさや温かさ、信頼感とか清らかさ、人を包み込んでくれる温もりがある、母性的な声とでもいうのだろうか。なんとも形容のし難い歌声を持っていた。
このデビュー曲がきっかけとなって世間から注目されて、ここから家妻雪夜の音楽人生が飛躍し大きく展開していく。
政樹は自分よりもおよそ七歳年上になる彼女のファンになったが、いちファンから女性、異性としての憧れに発展するには、長く時間はかからなかった。雪夜は母性的な歌声だけでなく、突出した美貌も兼ね備えていた。
派手さは無くて、薄化粧が常だった。白いTシャツにブルージーンズだけの素朴な格好で、髪型も単純なポニーテールやハーフアップが多かった。それでも充分に、存分に彼女の魅力というのは他のアーティストやアイドル、タレントに女優などから、一切の追随を許さない絶対的なものだった。
つまり彼女は圧倒的な美人であった。
多感な十六歳の高校生だった政樹少年から見ると、二十三歳の圧倒的美人なお姉さんに強い憧れを抱いてしまうのは仕方なかっただろう。
もちろん政樹だけでなく、世の中の男性諸君の多くが吸い込まれるように彼女の魅力に憑りつかれ「恋人にしたい女性アーティストランキング」では、数年間に渡って首位を守ったほどの人気者になった。
それだけでなく、雪夜の歌詞というのは女性の恋を応援したり、失恋の悲しさを歌ったものが多かったので、同性の女性からも絶大な支持を受けていた。
だが彼女はメディアに登場する機会はほとんどなかったので、日常のプライベートなどの素顔については謎ばかりだった。
つまり、一般人が動いている彼女が見られるのは、新曲が発売されるテレビCM内で少しだけ流されるプロモーションビデオの映像でしかなく、あとはCDのジャケット写真であったり、付属の歌詞カードに挿入されている写真でしか彼女の姿を知る機会がなかった。
テレビでCMが流れるたびに、高校生の政樹は食事中でも箸を止めて、咀嚼すら忘れてしまうほどにテレビに見入ってしまい、横の母親から小突かれる場面が多々あったようだった。CDが発売されるときには、一週間も前からドキドキして、待ちに待った発売日にCDショップで買うときは、まるで恋人と逢うときのようなときめきがあり、店に並んでいるジャケット写真の彼女を照れて直視できなかったりと、彼の彼女への憧れというのは本物の恋心に近いような現物だった。
「彼女は内気で、緊張し屋さんのところがあったので、メディアへの露出を極力制限していたのですが、結果的にはそれが世間にはミステリアスに映って、本当に家妻雪夜は存在するのだろうかなど噂が立ったり、それも功を奏して大ヒットに繋がったのかも知れないですな」と、雪夜のレコード事務所社長の古屋敷凰助が往時を振り返っている。
高校生当時の政樹はこう思った。
彼女が所属するレコード事務所に入り、雪夜に近付きたい。
雪夜と一緒に音楽を作ってみたい。
それは夢ではなく目標として、これからバンド活動や作曲制作を続けていこう。
こう決心したのだった。
繰り返しになるが、政樹は二十歳の頃にバンド活動を辞め、雪夜の所属するレコード事務所でオーディションを受け合格し、最初はスタジオミュージシャンとして活動することになった。実際、雪夜との共同作業ができた期間は短いものだったが、高校時代から憧れ、恋心を抱いていた女性に実際に近付き、一緒の空間で音楽を作れるとは、政樹にとってこれ以上にない幸せな時間はなかっただろう。
政樹と雪夜。
このふたりの中間エピソードとしては、前述のギターの弦の件とか、ピアノの件を読み返して参照してもらいたいが、今後も要所要所でエピソードが挿入されることになる。
当時、体調を崩した雪夜のことは、マネージャーの中瀬佳織から大まかに聞いていた政樹ではあったが、詳しい症状については知らされていなかった。
それでもレコーディングの予定は変えることはしたくないと、雪夜の強い意志があったので、政樹ら作曲陣のスケジュール変更は一切無かったそうだ。
高校時代に憧れて、そして恋い焦がれ、ようやくそばに近付けた雪夜との共同作業の期間は、僅か一、二年ほどだったようだ。
そして、家妻雪夜との別れが唐突にやって来たという次第になる。
事務所関係者からの報告で雪夜の訃報を知った政樹は、ちょうど自宅で果物のリンゴを食べていたときだった。当時の記憶はそれくらいしか残っていない。ただそれ以降、リンゴは食べられなくなった。
どれだけ泣いたか分からない。
政樹は失意のどん底に叩き落とされた心持ちだった。
嫌だ。噓であってくれ。・・・生き返ってくれ。
毎日毎日、そう思うことの繰り返しだった。
彼女の曲が聞けなくなった。
うつ病のような症状が表れ、夜も眠れなくなった。
食欲も無くなり、生きていることがつらくなった。
そして自分を見失い、廃人のようになった政樹は、音楽どころか、生活までもすっかり捨ててしまったのである。
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