南十字星と初恋
紀 聡似
第1話「ある種の違和感」
この物語は僕、筆者の願望である。
勘が良い方ならば、登場する女性シンガーソングライターが、誰をモチーフにしているかお分かりになるだろう。
彼女が亡くなってから十年以上が経つというのに、未だに納得ができていない僕の諦めの悪さが生んだ物語である。
繰り返しになるが、この物語は僕の願望であって、どこの誰かに共感してもらいたいとかは一切ない。
一度は頓挫したが、数年掛かってこの物語を書き終えた僕の今の心持ちは、いつ鬼籍に記されても後悔は無い所である。
※ちなみに登場人物の苗字だが、ゆかりのある土地界隈の地名を利用させてもらっているが、すべて架空の人物である。
本編
彼はK病院の病棟の脇道で、仰向けになって空を見上げていた。
彼は思う。
あの人が最期に見た景色は、こんな感じだったのだろうか。
彼女もここで、この場所でこんな状態で倒れたときには、もう意識は無くなっていたのだろうけども。
病棟の白い壁が空に向かって伸びている。それが彼の視界の下半分を占めていた。その上半分は、やけに綺麗な朝焼けがピンク色をしていて、夜の名残りのグレーがかった雲の筋が、川の字のように流れている。
こんな場所で寝そべっていると、まだ冬が残っている季節のアスファルトから、心身に染み込むような冷たさが背中に伝わってくる。
「?・・・」
病棟の屋上で、誰かの影が彼を見下ろしているようだったが、よくよく目をこらすと、屋上にある柵の支柱が黒い人影に見えただけだった。
するといきなり「どうしました!?大丈夫ですか!?」
彼の視界の右半分は、彼をのぞき込んだ警備帽をかぶった初老男性の顔に占領されてしまった。
彼は「あぁ、すみません、大丈夫です」と起き上がり小法師のように素早く立って、ズボンや肩のあたりに付いた埃を手で払った。
「こんな所で人が倒れているもんだから、たまげました」と、北国訛りのおじさんは帽子を取って、短い白髪混じりの頭をシャリシャリ掻いた。
「あ・・・そういや、あん時もたまげましたよ。そうそう三年前のね。・・・あの時も私が第一発見者だったもんですから」
「え?そうだったんですか?」
「えぇ、あの時もこんな感じの肌寒い朝でしたな。見回りをしていたらここでね。病院の敷地内でこんなことは滅多に無いもんですから。・・・大変お気の毒でしたなぁ」
こう言いながら警備員の初老男性は、病棟の外側にある非常用のらせん階段を見上げてから、そこから麓へと湾曲しているスロープまでを、流れるように目線を降ろしていった。
その目線の先、スロープの麓には、山積みにされている花束やメッセージカードや飲み物などが、盛り上がった丘のように置かれている。
カードには「あなたの美しい歌声は永遠に私たちのそばにいる」とか「いまも毎日聴いています」や「安らかに」といった文言が多く見られた。そして誰が描いたのか分からないが、彼女の肖像画が入った額縁が置かれていた。その肖像画は、どんな角度から見てもCDのジャケット写真の彼女の美貌からは、だいぶかけ離れている残念な完成度の絵だった。
数々のヒット曲を世に輩出し、稀代の歌姫と呼ばれながらも、TVなどの露出は極めて少なく、そのプライベートは神秘に包まれたままだった音楽アーティスト家妻 雪夜(かづま ゆきよ)。彼女は二十九歳の若さだったが、ガンの闘病中に入院先である、このK大学病院の病棟脇にあるスロープの二階付近から転落し、脳挫傷によって死亡した。この事件は世の中に大変な衝撃を与えたが、警察は自殺でも事件性もなく、誤って転落した事故死と断定したのだった。
「お兄さんも熱心なファンなのでしょうな」と言いながら警備員は、風で少しだけ飛ばされていた、数枚のメッセージカードを拾って丘に戻していた。
「お兄さん、すみませんね。こんな所で寝そべっていたところを発見してしまったので、一応、警備をしておる面目上、お名前だけでも聞かせていただいても宜しいですか?」
「あ、申し訳ありません。私は富岡 政樹(とみおか まさき)と申します。以後、気を付けますので・・・」
それを聞いて政樹の名前のメモを取った警備員は、ゲジゲジの眉毛を「ハ」の字にして「なんもなんも」と言いながら、少し呆れたような笑顔を作った。それでも多少の同情を政樹に持っている面持ちのようにも見えた。
ちょっと照れていた政樹が、また病棟や空を見上げたりしていたが、彼が照れて頭を掻いている間に、警備員は病棟の裏手の方に姿を消していた。
と、それと同時くらいに彼のスマートフォンが震え出す。
電話の相手が誰かは大体想像がついているので、政樹は焦りもせず、どちらかと言えばゆっくりめにポケットからスマートフォンを取り出して見ると、案の定、発信者は鳥海 美咲(とりうみ みさき)だった。
「あ、マアちゃん。・・・ごめん。今日って六時に迎えじゃなかったっけ。ごめん・・・私いま起きたところ・・・。もう下に居る?」と美咲は、明らかに寝起き声だった。
「まだ居ないよ。今日の迎えは九時。まだ寝てて大丈夫だよ」
「あ~あ、良かった・・・。じゃ、もう少し寝てられるのね。じゃ寝るわ・・・」と美咲は言うと、一方的に電話を切ってしまった。
三年前の今日、あなたはここで仰向けで倒れていた。どうしてこんな場所で、どうしてこんなスロープの二階なんかから転落してしまったのだろうか。
そんな想像をした政樹は、急に背筋に寒気が走った。途端にこの場から立ち去りたくなって、足早に駐車場の方へ小走りでその身を送り出した。
なぜ政樹はこの場から立ち去りたくなったのか。もしもさっきの警備員以外に自分がここで寝そべっているところを誰か第三者に見られていた場合、その第三者が、彼本人の自らが持ち続けている『ある種の違和感』と同じ感覚の持ち主であったと過程する。そうなると、その『ある種の違和感』を自分に向けられてしまいそうな、そんな不安の波が彼を駐車場へと背中を押し出したのだろう。
「おはよう。さっきは起きる時間を勘違いしたけどさ、寝坊の逆だとすごく得した気がするよね。二度寝した後のほうがさ、たくさん眠れた気がしない?」
政樹が運転する車に乗り込んだ美咲はこんな話をしながら、いつも通り後部座席の左側で、ガサゴソとバッグの中をあさって手帳を取り出した。
「あれ?今日って雑誌の取材だったっけ?」
「ちゃんと手帳に書いてないのか?今日は○○化粧品のCM撮影だろう。新作リップが試せるから楽しみだとか、一昨日言ってたじゃんか」
「あ、あれ今日だっけ?・・・一日があっという間に終わるしさ、私もうだいぶ前から曜日の感覚がないんだよねぇ」
「これだけ忙しいからな。・・・来週からドラマの撮影も始まるし、来月末からは重ねて映画でしょ。また地獄のセリフ覚えが始まっちゃうな」と、苦笑い気味で政樹が言い終わると同時に、美咲はドンと背中をシートに当てて「あーー、私もう少し記憶力が良かったらなぁ」なんて言い訳を、車外に向かって吠えていた。
ルームミラー越しの美咲の横っ面に「とりあえずスケジュールは自分や人の記憶力任せじゃなくて、ちゃんと手帳に書いておいてくれよ」と政樹は言い放って、その会話には蓋をした。
車は都内にある撮影スタジオが入ったビルの地下駐車場に潜ると、スーツ姿の男性三人と女性一人が、既に屋内入り口用のロビー前に、横一列に立ち並んでいた。
政樹はあまりこの状況は好きではなかった。
仕方がないので、駐車スペースに車を停めるのではなく、その人たちの目の前に車を着けた。いつものパターンの場合、自分が先に運転席から降りて、美咲のドアを開けてやらなければならなかったが、スーツの女性が早速にドアを開けてくれたので、良いのか悪いのか政樹の一手間を省いてくれた。
「鳥海さん、おはようございます。本日は宜しくお願い致します!」
女性に続いて男性三人も次々と同じような挨拶をする。美咲も「おはようございます。こちらこそ、本日は宜しくお願い致します」とお行儀良く返す。
広報部長一名を含めたこの化粧品メーカーの社員四名は、だいたいが五十代前半から二十代くらいの年齢の面々だろう。そんな社会人歴が十年から三十年の大人四名が、齢十九歳の社会経験がペーペーの美咲を相手に、赤べこのようにヘコヘコと何回も頭を下げている。美咲のご機嫌を損ねないように気を遣っているのは、ただ彼女が売れっ子女優だからだろうに。
ぞろぞろと美咲を囲むようにしてロビーへ彼女を誘導し始めると、若めの男性社員のひとりがドンッと政樹の車の後方ドアを乱雑に閉めた。そして腰を折り曲げ、助手席側の窓をのぞき込むと、政樹に向かって「マネージャーさん、車あっちね」とアゴを使って教えてくれた。
これだから政樹はこの状況になることが好きではなかったのだ。
美咲は人が変わったような濃いめの化粧で、色女のように化けていた。撮影用のメイクアップである。ギラギラしている黒目勝ちの大きな瞳を使って、カメラに向かって婀娜っぽさを放っていた。
今はこんなだが、美咲が売れ出したのは、かれこれ二年くらい前のことだった。ちょうど政樹が彼女のマネージャー職に就いたころである。
鳥海美咲は、東京で家族旅行中にスカウトをされたことがきっかけで、芸能界に入ったのは十二歳のころだった。
だからといって、昔から演技が得意だったとか、なにか一芸に秀でた麒麟児のような存在だったわけではない。なので当然オーディションも落ちまくれば、役があってもドラマのエキストラや、少ないセリフのちょい役ばかり。それでも成長につれて見た目も洗練され、十七歳のころに映画のオーディションで準主役の座をゲットしてからは一気に脚光を浴び、今では若手の急上昇株筆頭の人気女優となっていた。
見た目からの世間の印象は、清潔な美少女とか清純派女優といったところ。
「では次のパターンの撮影いきますので、皆さんお願いしまーす!」と助監督の声が響くと、スタッフがどっと一斉に動き出した。
美咲は衣装やメイク直しに控え室に戻った。
そんなとき、良いタイミングで政樹のスマートフォンがバイブしたので、控え室前の廊下に出てから通話を始めた。
「マサ、久しぶりだな。・・・変わらずか?」
この声の主は楯ノ内 凡司(たてのうち ぼんじ)といって、政樹とは石川県の同郷で高校時代の同級生である。
「お前こそ変わりないか?交番勤務も板に付いたんじゃないのか?」
「はは!聞いて驚くなよ。本社栄転も捜査一課だぞ!・・・俺はこれからは警視庁の捜査一課の刑事だ!いいか?尊敬しろ!」と声を聞いただけで、凡司はいま胸を張っていることが分かるほどのハイテンションだった。
「すごいじゃないか!やっぱりあれか?・・・あの連続コンビニ強盗を逮捕したのが評価されたのか?」
「いやいや、あれだけじゃないのよ。実はあの後にもな・・・。いや、それは今度の俺の出世祝いの飲み会で披露するとしてさ。それよりもマサ、今日はあの・・・例のK病院にもう行ったのか?」
「あぁ、朝にな」
「そうか・・・。あれ、もう少し待ってくれよな」
「大丈夫だよ。俺も地道に調べている。でも探偵とか雇うほどの金があればなぁ・・・」と政樹が言いかけると、撮影スタッフのひとりが近寄って来る。「富岡さん、鳥海さんがお呼びですが」と訴えてきたので「ボン。すまん、仕事だ」「お!美咲ちゃん大活躍だよな!応援してるって伝えといてくれ!」「分かった、また連絡するよ。とにかくおめでとうだな!」と返して通話を切り上げた。
凡司こと楯ノ内巡査とは、会話から察する通りだが、つい最近まで南東京市の交番勤務の警察官で、この度に警視庁勤務になった刑事である。これも先の通りだが、政樹とは高校で知り合った仲で、東京に出て来たタイミングも同じだっただけに、時折会って酒を呑んだり愚痴を言い合ったりと、未だに友情で繋がっている親友、そんな存在なのである。
今後、政樹の抱く『ある種の違和感』を暴く重要人物のひとりであると、ここに説明をしておく。
「美咲・・・うわっ!・・・どうした?」
控え室に戻った政樹をドアの目の前で待ち構えていた美咲は、下半身こそ黒くけばけばしい羽根がたくさん付いた衣装を着けていたが、上半身がスポーツブラだけだったのと、美魔女のような、瞼から目尻にかけて大きめな黒いアイシャドウをしており、さらに髪の毛も一部分だけ立ち上げているような奇抜なヘアスタイルをしていたので、思わず面を食らって目のやり場に困った政樹だったが、美咲はそんな政樹の動揺に構うことなく彼に詰め寄って来た。
「マアちゃん、私のスマホがないの。・・・確かに家を出るときはバッグの中に入れていたはずだったけど知らない?」
「え?私服のポケットにでも入っているんじゃないか?・・・いいよ、俺の電話で鳴らしてみるよ」
政樹は美咲のスマートフォンに電話をかけてみたが、着信音どころかバイブレーションの音も近くではしなかった。
「こりゃあ車の中かな。見てくるわ。・・・すみません、鳥海の衣装直しの続きをお願いします」と政樹はスタッフに美咲をお願いしてから控え室を出た。
駐車場に停めてあった車の運転席に乗り込むと、やはり後部座席に美咲のスマートフォンがうつ伏せになって置かれていた。
政樹が腕を伸ばしてスマートフォンを取ると、ふいに画面が明るくなってブーンと震え出した。
そこには『週刊ターゲット 奥屋 紗知(おくや さち)』と表示されていた。すぐ留守番電話に切り替わったが、政樹はスマートフォンの画面に触れないように、指を真っすぐに突っ張らせて手のひらを硬直させていた。
ややあって、画面が暗転しバイブレーションも止まったので少し安心した彼は、美咲のスマートフォンを自分の手提げカバンのポケットにしまい、車から降りてスタジオに戻った。
政樹の心拍数は、いささか上昇傾向だった。
美咲のスマートフォンに着信した奥屋紗知とは、政樹も少し前から知っている、彼のひとつ上で二十六歳の週刊誌の記者だった。
そんな彼女がどうして美咲のスマートフォンに電話をかけてきたのか。
美咲のスマートフォンに名前が登録されているということは、以前から彼女とコンタクトを取っている証拠でもある。
政樹は、家妻雪夜の転落死に対しての『ある種の違和感』をおぼえたり、今回の奥屋紗知から美咲への電話だったりを、彼がどうして細かな疑問を抱いてしまうのかには理由があった。
彼は幼少期から江戸川乱歩だったりシャーロックホームズだったり、アガサクリスティーなどの推理小説が大好きであった。がゆえに、子供の頃からどうしても人の行動や言動を疑い深く考えたり、考え過ぎたりする節があった。つまり猜疑心と懐疑心のかたまり。これは彼が持って生まれてきた性分でもあった。
したがって奥屋記者から美咲への電話が、どうにも政樹に嫌な予感をあおり立ててしまっていた。
そして彼の胃を、胸あたりを大いにムカつかせていた次第だったのである。
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