切望
湊「忘れ物ないですかい?ここにはもう戻ってこないから念入りにねん!」
未玖「これ誰の充電器?」
茉莉「あっぶね、茉莉のだ。ありがとう。」
千穂「じゃあみんな準備できたら外に出て。廊下は静かに。ホテルの外にもうバス止まってるから荷物入れちゃってね。」
湊「はーい班長!」
千穂「生活係の2人さ、念の為忘れ物ないか全体をチェックしてくれない?」
未玖「わかった!」
朝からきちんと起きろだの朝食をとれだの
規則正しい生活習慣に慣れず
目をこすりながら指示に従う。
頭が回っていない分
指示に従うこと自体に嫌悪感を抱くこともない。
自分で考えずともテキパキと
行動してくれる人間がいると
場は上手く回るものだ。
手際がいいのはまだ許せるが
修学旅行の密なカリキュラムだけが許せないまま
バスに乗り込んだ。
バスに揺られている間も
一切眠ることができず
ぼうっとすることしかできない。
暇で暇で仕方がない。
うちってこれまでどうやって
生活してきたのだか
忘れてしまうほど。
モバイル充電器はあるものの
延々とスマホを見ていたとしても酔ってしまう。
眠れないけれど目を閉じていた方が
マシだろうか。
いろはがよくそうしている覚えがある。
一体なぜあのような奇行に走っているのか
意味がわからなかったが、
ただただ暇だったのかとふと思う。
気が向いて修学旅行のしおりを開く。
次に行く場所は今では使われなくなった
廃駅のような場所らしい。
湊「お!スケジュール確認えらい!」
彼方「…。」
座席に膝立ちしているのか
前の座席から高田がこちらを覗いていた。
そして案の定隣に座った。
懲りない奴だと思う。
これだけ人に興味ない態度をとっていれば
自然と人に避けられた。
これまで通りしているだけなのに
どうしてこいつはパーソナルスペースに
入ってまで会話しようとするのか
理解できなかった。
湊「うちねー、思い出したんだよ。昨日の会話のことなんだけどさ。」
彼方「…。」
湊「なっちってろぴと仲良いの!?」
彼方「ろぴは誰。」
湊「あ、ごめんごめん。いろはちのこと!」
彼方「いろはね。」
湊「学校にいた時ろぴとよくいたって言ってたからさ。気になっちゃって夜しか眠れなかったよー。」
彼方「よくいたわけじゃない。」
湊「まあまあ、それでもだよ。いろはって呼ぶくらいには仲良いわけじゃん?」
彼方「うざ。あんたこそいろはと仲良いんだ。」
湊「うん!ちょいとネットで繋がりがあってね。」
彼方「ふーん。絵の人?」
湊「え?ああ、ろぴ絵うまいもんね。まあ!うちも画伯とは言われますけどな!たはは。」
彼方「じゃあ何のつながり?」
湊「簡潔に言うと…そうねぇ、一緒に制作してた仲間って感じ!」
彼方「あそ。」
湊「一瞬にして興味が失せた…!?」
彼方「ルーツ知れたならそれ以上はどうでもいい。」
湊「うちはーなっちとろぴが仲良くなった経緯ー、気になるなぁー。」
彼方「別に特別なことじゃないし。」
湊「聞きたいなぁー。」
彼方「いろはがうちの弟をちょっと助けたの。以来家に来てるだけ。」
湊「なるへそ?」
彼方「何その反応。」
湊「ずっと前にろぴが「ある人のところに遊びに行ってる」みたいなことを言ってただかツイートだかしてたんだよね。だからその人がなっちなのかなって!」
彼方「そうかもね。」
湊「へえ、あのろぴがねぇ。」
彼方「あのって。どんなイメージなの。」
湊「んー?何となーくだけど、固定のネットワークを持たないような感じがしてたからさ。だいぶ心許してるんだなぁって湊さんほっこりしちゃったよ。」
彼方「そんなペットみたいな。」
湊「たはは。一応2歳上だしね!可愛い妹分みたいなもんよ!なっちもそうでしょ?」
彼方「いいや。」
湊「そなの?」
彼方「あいつは…」
いろはは。
いろははうちからどう見えているのか。
悪い奴じゃない。
うちの家の盗みはしないし
物を壊したりもしない。
勝手にテレビはつけるけど
遊びに来る時は何かしらお菓子等を持ってくる。
うん、悪いやつではない。
それはわかる。
けどいいやつでもない。
いろははいつも答えを出さない。
白と黒の間でどっちでもいいと
断言するような姿勢を貫いている。
その曖昧の中にいることを
疑問に思うこともない。
その点、よく「どっちでもいい」と言っていた
国方とも違うのだ。
責任逃れのどっちでもいいではなく、
広い視野を持った上でのどっちでもいい。
まるで自分の意思がないような人間。
うん、いいやつでもない。
それに、いろはが気にしている様子はないが
大地と関係があることも
正直喜ばしくない。
うちから言わせてみれば
大地と年が近い分
危惧しなきゃいけない人間ではある。
いろはに限ってそんなことはないと思うけれど
もしかしたら大地のことを
奪っていってしまうかも知れない。
そうなったらうちは一生彼女を恨む。
また大切なものをなくすのだ。
奪われるのだ。
そんな思いしたくない。
そこまで考えて結局いろはに対して
どう思っているかの感想が出てこなかった。
強いて言うなれば、と
頭を回して言葉を捻り出す。
彼方「赤の他人。」
湊「そお?じゃあうちは?」
彼方「他人。あと班員。」
湊「びええー、そんな悲ちいこと言わないでよーん!修学旅行終わってもなっちの教室遊びに行くからーん!」
彼方「不登校になれ、と。」
湊「そ、そんな嫌い!?今から入れる保険は…」
千穂「湊ー。」
湊「ほいほい、何ですかい!」
千穂「さっき話してたあれさー」
運良く金子に呼ばれて
高田はやっと席を立った。
「んじゃまた!」と陽気に手を挙げて
こちらに振ってくる。
それを無視して窓の外を眺めた。
高田は気にしていないようで
自分の席に戻っていった。
いろはも高田も他人だ。
間違いない。
弟以外の人間ほぼ全ては他人で
それ以上でも以下でもない。
残りの血縁。
それらの人間は恨む対象だ。
他人と憎悪の矛先になる人間しか
うちの世界にはいないらしい。
しばらくバスに乗って
ようやくのことで目的地に辿り着いた。
旧神居古潭駅というらしく、
ぱっと見でかむいこたんとは
読めないなとぼんやり思う。
アイヌ語に感じが当てはめられて
こう読むようになったらしい。
バスを降りた場所は
どうやらその駅舎の少し手前らしい。
やや濁っているが白く長い橋を渡って
旧駅舎のある場所まで行くのだとか。
1度に100人以上渡れませんの文字が目に入る。
先生らは把握しているのかしていないのか、
特に気にすることもなくそのまま引率した。
生徒が何人も急に渡り出したからか、
その橋はかすかに揺れているようだった。
前にいる高田らが「きゃー」と
恐怖と歓喜の混ざったような悲鳴をあげている。
足元がぐらつくのは確かに不安だけれど、
そこまで騒ぐほどのものではないだろうに。
自分でも冷めた視線で
見つめているのがわかった。
ごう、ごうと川の音がする。
晴れているのに水は光を入れず
ただ騒音を立てて流れるだけだった。
橋を渡った先には、
修学旅行前の準備中、
画像検索をして見た時のものと
全く同じ景色が広がっていた。
自分の背よりも幾分も高い木が
何本も空へと伸びていて、
道が整備されているところ以外は
森のような状態になっていた。
虫がぱらぱらと散っているのが見える。
小さな羽虫の大群に
また叫び声を上げる人々を横目に
さらに進んでいくと、
SL車が3両並んでいた。
もう動くことはなく、
飾られている物らしい。
真っ黒な胴体に太陽の陽が照っていた。
湊「見て見て、あれ駅でしょ!」
千穂「本当だ、あった。」
茉莉「でもあれだね、線路はない感じなんだ?」
未玖「道になっちゃってるね。」
湊「おわー、駅のホームには乗れないっぽい?」
千穂「こっち側ならいけそうじゃん。ほら、おさむない、いのうって下に書いてある方。」
湊「本当だ!行こ行こ!」
歴史ある駅舎でかつ
手入れが行き届いている方なのだろう、
道はある程度は歩きやすくなっており、
あちらこちらに駅の説明の立て札があった。
立て札に関しては作成されてから
少し時間が経っているのか、
ところどころ錆が見える。
だからこそこの森のような駅舎に馴染んで
その一部と化していた。
湊「写真撮ろ!みんな寄って寄ってぃ!」
千穂「彼方ちゃんも。」
彼方「4人で撮れば。」
千穂「せっかく来たんだし写真の1枚くらいは撮っておこうよ。後で送るから。」
湊「こっちこーっち!」
無理やり連れられて写真を撮る。
人がいなければしんと静まり返るだろう旧駅舎は
今だけは活気溢れる街のようになっていた。
駅舎やSL車の他にもひとつ
珍しいものがあった。
それがトンネルだった。
高さは4〜6メートルあるかどうか、
横幅は人が4、5人並んで
歩けるほどしかない、
今となっては用途のわからないものだった。
数メートルは光が届くのだが、
その先は全く何も見えない。
これがとにかく異質に映った。
元より今は使われていない場所なのだし
廃駅といえば理解はできるが、
トンネルばかりはどうにも
直感的に不快感があった。
心霊スポットともされているあたり
何かしらがあった場所なのかも知れない。
生徒数人が遊びで入っては
怖い怖いと声を反響させて出てきていた。
肝試し感覚としてはちょうどだろう。
子供のようにはしゃぐ人らを見て思う。
茉莉「くらー。」
未玖「怖そう。でも気になるやつじゃん。」
湊「行こう!」
千穂「判断早すぎ。」
湊「ビビり散らかして走ったりしなきゃでーじょーぶでしょ!」
千穂「怪我しても知らないからね。」
湊「まあまあ。うちら保健係スターズよ?ぼちぼち行きましょうや。」
未玖「保健係は万能…?」
茉莉「くはは。」
高田を先頭にずんずん入っていく。
本音を言うのであれば
ここでついていかなくてもよかった。
4人を裏切って外で待っていたってよかったのに
何となく気が向いたからか
その背を追っていった。
前ばかり見ていると
光が入らなくなっていく。
前できゃーきゃーと
叫んでいるのが聞こえる。
彼方「…。」
怖いもの見たさなんて無駄な感性だと思う。
怖いのなら見なきゃいい。
見たくないものは見なくていい。
そう言うように世界はできているはずだ。
なのに、人間は正義感からか知らないが
自分の目で見たものばかり信じようとする。
それゆえに、見たくないものまで見て
根っこを信じてあげたいらしい。
今あるものだけを見ることはできないのかと
何度思ったことか。
けれど、これはうち自身にも言えることだった。
見たくないものは見なくていい。
けど、見てしまった、
見てしまわないといけない環境下だった。
仕方ない。
うちのせいじゃない。
お前らのせいだ。
と。
過去ばかり引きずって見ないでもいいものを
何度も何度も引っ張り出して
今を決して見ようとしない。
うち自身そうできないから
同族嫌悪しているだけなのだろう。
怖いもののトリガーが
人より多少多いのかも知れない。
生きづらい。
ああ、生きづらいさ。
だから何度も命を絶ってしまいたいと思ったさ。
でもうちには大地がいるから。
大地が大人になるまでは
うちは生きなきゃいけない。
人生に不便しない程度に
線路を敷いておいてあげなきゃ
大地が苦労してしまう。
真っ暗な中だと
余計なことばかり考えてしまう。
まるで夜中3時のよう。
どこまで歩いたろう、
意外とトンネルは長いらしい。
途中で強い風が吹いたのを思い出す。
前髪を整えながらあるくも、
そこではっとして足を止めた。
足が動かなくなったような気すらした。
いつからか、前を歩いていた人らの声がしない。
あれだけ騒いでいたのに、
まるで忽然と姿を消したかのように
音がしなくなっていた。
彼方「…っ。」
暗闇の中闇雲に手を伸ばす。
誰もいない。
何にもぶつからない。
辛うじて触れたとしても
トンネルの側面だけ。
彼方「……どこ。」
声を絞り出す。
酷く音が反響する。
耳を塞ぎたくなるほどに
大きくなっていった気がして、
その場に蹲る。
髪の毛が地面についているかも知れない。
咄嗟に手繰り寄せて
胸の前でぎゅっと掴む。
°°°°°
彼方「お母さん………お母さんっ…。」
°°°°°
彼方「……ちっ。」
真っ暗な場所は慣れている方だと思う。
夜に歩くこともよくあったし、
眠る時だって電気をつけて眠りなどしない。
けれど、どうしても1人だと自覚する時は
心臓を掴まれたように心が苦しくなる。
怖い。
怖い。
ついてこなきゃよかった。
早くここから出なきゃ。
慌てて振り返る。
ぽつんと白い光が
遠く遠くに光っていた。
転びそうになりながらも立ち上がり、
走ることができないまま
震える足を1歩ずつ前に出す。
光が近づいていく。
やっと出れる。
夜中にやってきた嵐から
ようやく晴れの朝が来た時のよう。
安心が広がっていく。
まず出たら高田を責めるだろう、
声くらいかけろ、と言わなきゃ気が済まない。
やっぱり信用ならない。
他人なんて信用するに値しない。
意味がない。
何度も頭の中を巡る中、
やっとその一筋の光の先が見えてきた。
見えてきたが。
彼方「……は?」
そこは何故か、
本当に訳がわからないが
目の前に扉のようなものがあった。
家の中にある収納棚ような
横開きのタイプらしい。
現にどこかの家の中なのだろうか、
使っていなさそうな衣服や
掃除機、日用品までもが
しまいこんである。
彼方「何これ。」
戻らなきゃ。
そう思ったのに、
後ろを振り返ることが怖くなって
そのまま前に進んだ。
振り返ったら最後、
暗闇しかなかったら
どうしようと思ってしまったから。
扉を開くと本当にどこかの家の中のよう。
ダブルベッドがあり、ドレッサーがあり、
立派な衣装棚までもがあった。
周囲を見渡すと、
それとなく見覚えのあるような窓、
その先の景色が目に入る。
光が多くて眩しい。
昼間なのに電気もついているようだ、勿体無い。
振り返ると、押し入れから出てきたらしい、
ごちゃっとした収納の中がよく見えた。
そして。
彼方「……。」
うちがさっきまで歩いていたはずのトンネルは
既になくなっていた。
ただの壁がそこにあるだけ。
数歩戻って壁に触れる。
突然剥がれることもなく、
ハリボテの壁紙ということもない。
元からこうでしたと言わんばかりに
きちんとした壁がそこにはあった。
あまりに突然の出来事に
その場で足を止めてしまう。
思考まで止まってしまいそうだった。
この異常事態。
まさかせずとも例の類だろう。
容易に想像はつくものの、
いざとなれば驚きで
どうにかなってしまいそうになる。
今になってどくんどくんと
心臓が良くない挙動で跳ねているのがわかった。
胸に手を当てる。
服装は旧駅舎にいた時と
全く同じ私服だった。
彼方「…うち1人かよ。」
とりあえずその部屋から出る。
見覚えのある廊下だった。
はっとしてリビングまで駆ける。
そこには、光を取り入れる吹き抜けの2階。
1階から2階まで届く大きな窓。
窓の近くにあるガラス天板のローテーブルに
L字型のソファが配置されている。
間違いない。
彼方「……うちの家。」
昨日出たばかりの自分の家だった。
しかし、大地のものでもない
ランドセルが転がっていたり、
出した覚えのない子供用のおもちゃが
ごろごろと転がっていた。
元の場所に帰ることを束の間忘れて
列車のおもちゃを手に取る。
その時だった。
がち、がちゃ、と
家の鍵が回る音がした。
大地が帰ってきたのだろうか。
しかし、妙な気分がしていた。
まだ午後2時前後を指す時計が
視界の隅に入る。
トンネルの先にあったうちの家。
本来のうちの家では
見かけたことのない物たち。
心がざわめいていることも露知らず、
その扉は開かれた。
「ただいまー。」
「ただま!」
彼方「…っ!?」
そこには、うちの知らない男性と
男の子がいた。
男性は髭もなく身なりを整えており、
ラフなのに清潔感漂う人だった。
細身だが軽々と
土足のまま家に入ろうとする男の子を抱えて
靴を脱ぐ手助けをしている。
男の子はまだ小さいのか、
小学生低学年ほどの身長しかない。
サッカーをしていたのか
ボールを玄関の隅に置いていた。
ここはうちの家だ、と主張する以前に
ここにいてはいけないような気がして、
けれど気が動転してしまって
その2人を観察することしかできなかった。
2人の家なのだろうか。
ならうちは圧倒的不審者だ。
通報されるのだろうか。
通報されたらうちは家に帰れるのか?
家はここなのに?
疑問が疑問と未来への不安を呼ぶ中、
睨むような視線で2人を見つめていると、
男性が不意ににこ、と微笑んだ。
可愛らしい笑顔だった。
「どうしたの、そんな怖い顔して。」
彼方「…うちに話しかけてる?」
「…?もちろん。かなちゃんしかいないでしょ。」
男性はさらっとそういうと
男の子に「手洗っておいで」と言った。
かなちゃん?
知らないやつにそう呼ばれる筋合いはないし、
何より何故名前を知っているのかが不思議だった。
夜の街で出会ったことのある
人間なのだろうか。
もしそうならうちは恨まれてやしないか。
今日この場で殺されたり
するんじゃないだろうか。
騙したなって罵声を浴びるだけで
済むのだろうか?
嫌な妄想ばかり広がる頭を、
不意に男性はそっと撫でた。
驚きのあまり、その手を払い落とす。
男性はきょとんとした顔で
こちらを見ていた。
「えっと…嫌だった?ごめんね。」
彼方「誰。」
「え?」
彼方「うちのこと知ってる人?」
コウ「知ってるも何も…俺だよ。コウだよ。」
彼方「コウ?」
コウ「そう。ね、本当にどうしたの?」
彼方「……。」
コウはうちのことを知っているらしい。
それにただいまーと言ってこの家に入って、
不審者のはずのうちがいても
何も気にしていない。
うちはコウという人間にとって
ある程度関わりのある人間らしい。
なら、合わせておいた方がいいのか?
考えがまとまらず、
しかし進み続けているせいで
脳の血が轟々と巡っているのがわかる。
彼方「ごめん、悪い夢を見て。混乱してる。」
コウ「だろうね、大丈夫?」
彼方「うちとコウの関係は何?」
コウ「何って……婚約者だよ。」
彼方「婚…?」
一瞬で頭が真っ白になった。
兄弟や血縁の人間でもなく、
婚約者、と言う。
夫ということになるらしい。
理解できないまま口をぱくぱくしていると
コウは肩に手を乗せて
不安げな顔でこちらを覗く。
彼方「じゃああの男の子は。」
コウ「アサヒは息子。旭川市の旭に陽だまりの陽で旭陽。」
彼方「アサヒ?は?」
コウ「本当にどうしたんだよ。…ちょっと病院で診てもらった方が」
彼方「や、夢を見たの。1人で過ごす夢。だから確認。」
コウ「そう?ならいいけど。」
奥からはアサヒと呼ばれる
うちの息子らしいそいつが
「パパ手洗ってなーい」と
子供めかしくやいやい言っている。
コウはうちに視線をよこすと
はいはいと仕方なく、
けれど決して嫌そうでなくそう言って
洗面所に姿を消した。
アサヒ「今日、パパとドリブルの練習したんだ!」
彼方「…そう。」
アサヒ「それでね、靴のここに当てるといいってわかってさ。あ、そうだ、ゲームの充電してない!」
アサヒは慌ただしく
リビングに転がっていたゲーム機を持って
1階の廊下をぱたぱたと走っていってしまった。
うちが出てきた部屋もダブルベッドで
アサヒの部屋も1階にあるのだろうか。
2階の部屋を物置としてしか
使っていないのかもしれない。
ソファにも座らないまま外を眺めていると、
手を洗い終えたコウが戻ってきた。
コウ「今日は俺が夕飯作るよ。ゆっくりしてて。」
彼方「……。」
コウ「心配しないで。同棲する前は結構自炊してたから自信はあるよ。」
彼方「……何年前の話。」
コウ「言っても数年前でしょ。時々かなちゃんの手伝いもしてるから大丈夫。」
彼方「…。」
コウ「準備ができたら起こしてあげるよ。」
「ベッドの場所は忘れてないよね?」と
いたずらげな笑顔でそういう。
考えることが馬鹿らしくなってきてしまって、
ショートしかけた頭は
1度小さく頷いた。
眠ったら夢だったと気づくかもしれない。
目が覚めて、旧駅舎やホテル、
はたまた本物のうちの家から
再スタートになるかもしれない。
どこからかが夢だったのかも。
それにしては現実味がありすぎるけれど。
1度頭を冷やすべく
コウの言う通り寝室に向かって身を投げた。
それから疲れていたのか、
普段昼寝なんて決してできないのに
気づけば数時間眠っていた。
約束通りコウがおこしに来てくれて、
リビングに行けば
ゲームをしているアサヒがいた。
コウ「ご飯だよ。」
アサヒ「あと5分ー。」
コウ「冷めるから早くな。」
アサヒ「猫舌だしいいもん。」
彼方「……うちが全部食べるよ?」
アサヒ「ママは少食だからそんな食べれないでしょ!」
コウ「じゃあ先食べちゃうからな。」
アサヒ「えー。えー。」
アサヒはゲームと食卓に座る
うちらを見比べて、
結局ゲームを手放して隣に座った。
コウ「いただきます。」
アサヒ「いただきまーす。」
他の人のいただきますが聞こえるのなんて
まるで家の中ではないみたい。
うちの知らない家庭がそこにある。
体を気遣ったのか、
ある物で作ったのか
シチューが並べられていた。
暖かかった。
人の作るご飯って美味しいんだって
久しぶりに思い出した。
コウ「どう?いい感じ?」
彼方「ん。美味しい。」
アサヒ「これからもパパが作ってー。」
コウ「仕事がある時はきついな。かなちゃんの方が料理上手だから、教えてもらうといいよ。」
アサヒ「えー、だってママ怖いもーん。」
彼方「そんなことない。」
アサヒ「ほらこわーい。」
アサヒはぶーぶー言いながら
シチューを冷まして食べていた。
いつの間にか閉められたカーテンの内側では
3人でご飯を食べて、
流れるテレビを見つめている。
さりげないことなのだろうけれど、
幸せそのものを無償で経験している気分だった。
その後、コウが気を遣ってくれたのか
それとも習慣だったのか
お風呂を入れてくれた。
暖かいお風呂に浸かったのは
久しぶりだった気がする。
アサヒはゲームしたり
コウにちょっかいをかけていたり
話しかけていたりと
仲睦まじい親子像がそこにあった。
「疲れてるだろうから寝てていいよ」と
優しい声で言われる。
いいんだ、と甘えたくなり、
そのままベッドにまた倒れ込む。
さらっと受け入れている風だが、わかっている。
これは普通じゃない。
普通に起こるような現象ではない。
でも、とても心地がいいのだ。
受け入れてくれるその形が。
同棲して数年だと言う虚偽の事実が。
うちを愛してくれたんだろうと
見てもないのにわかる虚像が。
それが1番欲しかったのだから、
この家族像が欲しかったのだから仕方がない。
もう少し甘い夢を見ていたい。
だけど、こんな異変が、
不可解があってたまるか、とも思う。
こんな不可解な出来事があってたまるか。
うちが相当苦労しても
手に入れられなかった幸せが
ここに全て詰まっている。
彼方「…家族。」
手放したくない。
切にそう願ってしまった。
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