緩やかに、世界を溶かして嚥下する。
師走 桜夏
1
この街は、かつては観光地として有名であった。とある芸術家が共同で芸術作品を作ろうと市長にあおぎ、市長も街おこしになるからと芸術家の提案にのった。そして生まれたのが、街を囲うガラスドームであった。
またたく間に人は集まり、繁盛し、観光地として名を轟かせた。
しかしそれも昔の話だ。
食人病という、突然変異で生まれたウィルスによる病。名の通り、人を食らいたい衝動に駆られる奇病である。それがこの街から生まれてしまった。
感染した者は身体中の色が抜け、頭が回らなくなり、体が腐ろうがもげようがお構いなしに、まるでゾンビのように人肉を求め続けるのだ。
世界が食糧難ということもあり、この街は即座に切り捨てられた。かつて街のシンボルであり、街の人々を見守っていたガラスドームは、食人病に感染した者を隔離する道具と成り果てる。
街の人々はガラスドームから外へでれぬまま。いつゾンビに襲われるのか、いつ自分も食人病に感染するのか、恐々として日々を過ごした。
かつてあれほど陽の光を反射し輝いていた街は見る影もない。人口が徐々に減り、赤黒い液体があたりに飛び散り、崩れかける家々がならぶ廃れた街へとなってしまった。
そんな街に住む一人の少女、ストレーリチア。彼女は父も母もいない。生まれて間もない頃に孤児院の前に捨てられた。ゾンビも病も蔓延り、しかも外へでられない環境であるこの街では珍しいことではなかった。
ストレーリチアは孤児院で、病の脅威に怯えながらそれでもすくすくと育った。
ガラスドームの出入り口には外から岩が敷き詰められていて、村の外にはでられない。生き残ったってその先には何もない。ゾンビとなって人を食うか食われるか。彼らの末路はそれしかない。そんな絶望に目を背け、ストレーリチアは日々を過ごした。
しかし、そんなストレーリチアにも希望はあった。
「やぁ、みんな元気かい?」
無秩序な街にできた自警団に所属する青年。ルレザンである。彼は定期的に食料を届けに孤児院へやってくる。
「やぁチア、元気かい?」
自身の名を呼ばれ、ストレーリチアは頬を赤らめながら頷く。
「はい、お陰様で……。またお食事の材料を持ってきてくれたんですの? いつも助かっておりますわ」
「それは何よりだ。といっても、日に日に量が減ってることはチアも分かってるだろう?」
「それは……」
「けどこっちもカツカツなんだ。飲み込んでくれ、としかいえない。不甲斐ない僕で、ごめんね」
「そんなことっ……!」
ストレーリチアは腰までの髪とともに前へ飛び、ルレザンの両手を握る。
「
ゾンビから人々を守り、かつての治安を取り戻さんとする自警団。そこに所属するルレザンは、ストレーリチアにとって心の支え、英雄であった。
彼という光があるから、この地獄で生きようと思えるのだ。
「そっか、それは照れるな。僕達も、チアみたいに元気に過ごす人達の笑顔が希望だよ」
ルレザンはストレーリチアの頭に手をやり、その栗色の髪を上から下へとすいた。ルレザンの体温と大きな手を感じて、ストレーリチアは幸せな気分だ。
「そうだ、ルレザン。また三つ編みをしてくれませんこと?」
「またか? いい加減自分で結べるようになれよー?」
そう、ルレザンはストレーリチアへ座るよう促し、他の孤児の子にクシを持ってきてほしいと頼む。その間、ルレザンは手でストレーリチアの髪をといた。
(いい加減自分で結べるようになれ、だなんて。おかしいことっ)
そうストレーリチアは胸中で笑う。だって、ストレーリチアはとうの昔から、三つ編みなんて自分でできるのだから。けれどそれは言わない。言ってしまったら、もうルレザンが髪を結んでくれなくなってしまうかもしれないのだから。
頭からルレザンの体温を感じる。まるで大切なものを触るかのように丁寧に、ルレザンは髪を梳く。そんなこの時間が、ストレーリチアは好きだった。ルレザンが髪を二つの房に分け、その片方を更に三つに分けたその時。
「いやあぁっ!!」
孤児院に悲鳴が轟いた。ルレザンは髪を梳く手を止めすぐさま悲鳴の方へ向かう。自分に何も言わず走り去ったルレザンに、ストレーリチアはため息をつく。
(相変わらず正義感が強い人。でもそこがいいのですけれど。でもでも、なにか一言置いていってもバチは当たらないでしょう)
ルレザンには自分だけを見て欲しい。彼の優しさも義侠心も自分だけのものにしたい。けれど、自分以外の人を疎かにするようなルレザンなんて、そんなのルレザンではない。見たくない。矛盾した己の感情に、ストレーリチアは頬を膨らませた。
(ルレザンは私だけのヒーローでいいのに……)
ふと、背後から足音がした。悲鳴が聞こえたにも拘わらず呑気なストレーリチアは、無防備にゆっくり振り向いた。
「──え」
突発的に溢れでた驚きが声となる。息が詰まる。ストレーリチアはその栗色の瞳を丸くして、呼吸を止めた。
「ちあ、ちゃん──」
目の前には、ストレーリチアの友がいた。しかし様子がおかしい。黒髪だった彼女の髪は脱色していて、瞳も色が抜けて血の色に染まっている。
食人病の初期症状。ストレーリチアの頭にはそれが一番にうかんだ。しかし、
「いや、なんで──」
受け止めることはできなかった。物心ついた時から一緒に孤児院で過ごした友。家族と言ってもいい存在が、食人病に犯されてしまった。その衝撃は計り知れない。
その友の口からはボタボタとよだれをたらしている。その虚ろな赤い瞳にはストレーリチアしか映っていない。
「お腹が、すいて……。ちあちゃん、お願い。逃げ、て」
ストレーリチアは先の展開が読めた。しかし体は動かない。日々恐れていた食人病の魔の手が現れた衝撃と、友が病に感染したというショックと、その友が自身を食料として見ているという恐怖と、絶望。
「嫌っ、そんなの、いや──」
ストレーリチアのか細い声。世界に届けと、半ば救いを求めるように絞りだされたその声は、誰にも聞こえない。
友が地を蹴る。ストレーリチアは、その首を友に噛まれた。
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