第7話 アガパンサス
「アガパンサスって何?」
僕が訊くと、誠は花壇の奥を指さした。
「花の名前だ。前の借主が植えっ放しにしていたんだろう。花の時期はこれからだから、そろそろ蕾が出始める頃か。ぼんやり何か見えないか?」
「え……」
花壇を見ると、たしかに薄い煙のようなものが漂っている。薄く人の形を成しているような気がしないでもない。
「花が咲くと花の精が現れるの?」
「さあな。花壇のは弱いから。ただ、この後はっきりと見えるようになって同居人が増えるかもしれないから、心の準備だけはしておけ」
「四兄弟になるってこと?」
「かもな」
弱い。
以前キクも三兄弟を弱いと言った。
花壇組とキクの違いは何だろう。
今訊いても、僕自身に理解できない気がした。
「ちなみにアガ……って、どんな花が咲くの?」
「青くて、小さな百合が集まった感じだな。三兄弟と似ていたら、頭に青い花火が上がっているだろうな」
ちょっと想像してみたけれど、僕の頭の中では幼稚園児のお絵かきくらいフニャフニャなイメージしか湧かなかった。
はたして、三兄弟は四兄弟へと増殖した。
アガパンサスの頭には、薬玉のような青い花のかたまりが一本刺さっている。誠の言うとおり、まるで花火が上がっているみたいだ。アートだ。
フリージアたちと同じ顔、同じ作業着姿。仲良く縁側に座って空を眺めている。そもそも、お互い認識しているのか。ちゃんと並んで一緒にいる。
慣れてしまえば爽やかな笑顔に和めるが、アガパンサスはどことなく違和感が拭えない。
そう、薄いのだ。
三兄弟を初めて見た時は、人間と区別が難しいほどはっきりと存在していた。それがアガパンサスは、幽霊のイメージそのままにぼんやりと透けて見える。
アガパンサスはフリージアたちと行動を共にして、はじめから四兄弟だったように過ごしていた。
頭に刺さったポンポンは、体を揺らすたびに隣の兄弟を叩いている。それを見て笑う僕は、アガパンサスの薄さをいつのまにか気にも止めなくなっていた。
そうして縁側の四兄弟が見慣れた光景になった頃、今度ははっきりと違和感を覚える事態が起きた。アガパンサスだけでなく、フリージアたちまでもが徐々に透き通っていったのだ。
「みんな、どうして薄くなってきたの?」
声をかけても、もちろん返事はない。こうして目の前まで近づいても怖くなくなったというのに、段々遠くなっていくようで寂しい。
僕が目の前に行くと、四兄弟は僕を見る。ニコニコと笑ったまま身体を左右に揺らしてくれる。僕が同じように揺れてみても無視されるのは変わらないけれど、それでも少しは仲良くなれた気がしていたのに。
バイト帰り、街灯のない暗い道を歩いて家に戻ると、庭は沈みかけた月の薄明かりでわずかに照らされていた。
その日も、縁側には四兄弟が楽しそうに並んでいた。
「ただいま」
僕は声をかけた。
誠には放っておけと言われていたけれど、僕にとっては毎日一緒の同居人で、無視するにはあまりにも人間的過ぎた。半分独り言の感覚で習慣になっていた。
四兄弟に動く気配がして、ふと目が合った。水やりの素ぶりも見せていないのに、みんなこちらを見ていた。
爽やかに穏やかに、ニコニコと僕を見ている。
僕は四兄弟に並んで縁側に座ってみた。草の香りが混じった少し冷たい風が心地よい。遠くから蛙の鳴く声がかすかに聞こえてくる。
「ここは静かだね。ホント、引っ越して来て良かったよ」
四兄弟は相変わらず僕に関係なく空を眺めたりしている。それでも、今日は何となく意識されている気がする。
「イチロウさんは、残念ですか」
突然キクが訊いてきた。
縁側に座る僕の正面に立ち、じっと見つめてくる。
「なっ、何が?」
「消えてなくなることです」
キクは四兄弟を見て言った。
「え? フリージアたち、消えちゃうの?」
「はい」
僕も薄々感じていた。このまま消えていくような気がしながら、確証がないので気のせいにしていた。
「キクちゃんが言うなら……そうなんだね。残念というより寂しいかな。いるのが当たり前だったしね」
「ただ消えるだけです。弱いから消える。自分が消えるのが残念なのは人間だけです」
「うーん、また難しいな。つまり、フリージアたちは自分が消えることを何とも思わないってこと?」
「ただいて、ただ消えます」
花の精であるキクが、人間に意思を伝える。そもそも感性が違うだろうから、かなり難しい気がする。
キクの言葉は難しい。
だから何も考えず、感じるのが一番寄り添える気がした。
ひょっとして、キクは僕を慰めてくれたのだろうか。悲しむ必要はないと。
ただいて、ただ消える。
きっとそうなのだろうけれど、消えるのを見て残される僕はやっぱり寂しいかな。
ふと、以前に誠が花壇をつぶせと言った時のことを思い出した。庭を砂利やコンクリート敷きにしろ。それはキクに消えろと言うのと同じだ。キクは何も反応しなかった。嫌だとか悲しいとか、そんな感情はキクにはないのだろうか。
「キクちゃんも、いつか消えてしまうのかな」
「私は消えません。私は強いから、消えることがありません」
キクは笑顔でそう言うと、ふわふわと薄闇に混じって庭の奥へ行ってしまった。
四兄弟はキクを目で追っていた。それから、隣に座る僕を見て体を左右に揺らした。
俺も同じリズムで真似をしてみる。
別に心が通うようなことはない。
通じ合えた気もしない。
何も変わらない。
隣に座った。それだけ。
月が西の空に沈んで見えなくなっても、僕はしばらく四兄弟の隣に座っていた。
そうしてやっと家に入った時、縁側にはもう誰もいなかった。
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