第3話 キク
「一郎だっけ? まず、お前にキクが見えるのはこの敷地内だけだ。そして、キク以外は見えていない」
「え? キクちゃんの他にも何かいるんですか?」
「いや、気にするな。見えないのは、いないのと同じだ」
誠はさらっと怖いことを言った。
確かにその通りだが、余計気になる。
「それから、キクはそもそも幽霊じゃない。お前に取り憑くことも絶対にない」
「さっき精霊とかって……」
「キクはそこに生えている菊の花の精だ。ほら、花壇から外れた庭の隅のところ。今は葉の出始めで目立たないが、毎年秋には庭が菊だらけになるんだ」
誠が庭の奥を指さした。
ひょいとのぞき込んだところで敷地内に足が入ったらしく、目の前にキクが現れた。
「カサイイチロウ」
キクは僕の名を呼ぶと、そっとしがみついてきた。
「何? 何? 何⁉︎ 僕、取り憑かれてますけど⁉︎」
誠は、慌てる僕を面倒くさそうに見ながらキクの背中に手を当てた。
「気に入られたんだろう。お前はキクを完全にブロックしているから大丈夫だ。抱きつかれる感触があるのなら、体の表面でキクをはね返しているってことだ。お前すごいな。どうやったらそんなことができるんだ?」
感心されても、僕自身がわからない。
「取り憑くっていうのは、体の中に入り込む感じだろう? こんなふうに……」
誠がキクの背中を押した。だが、その手はキクの体を突き抜け、僕の胸に直接届いていた。
「はいっ⁉︎」
僕は自分の心臓をつかまれたような錯覚を起こした。
誠も異界の存在なのか⁉︎
僕に抱きついているキクは、不思議そうに僕を見上げている。
かわいい。でも、これはもはやホラーだ。
プツッと停電になる感覚と同時に、平衡感覚を失った。
あれ?
ふらついた僕は誠に抱きとめられていた。誠と二重写しのキクもまた、僕が倒れないようにしっかり腕をつかんでいた。
ぎゃああああ~
脳内で自分の悲鳴がこだましている。たぶん、声にはなっていない。
キクちゃんは絶対にいい子だ。でも、怖い。
「すまない。刺激が強過ぎたか。今のは、俺がキクに触れないというだけのことで……おい、大丈夫か? 一郎?」
重なり合わないよう離れたのか、誠とキクが左右から心配そうに僕を見ている。
誠にとってキクは立体映像らしいが、僕には実体なのだ。重なって見えるのはさすがに気味が悪かった。
目が回る。頭の中もグルグル回る。
誠に寄りかかったまま、頭が静かになるのを待った。
「驚かせて悪かった。とにかく、キクはお前に懐いただけだ。何もしない。ただ庭にいるだけだ」
誠は明らかにキクをかばっていた。
「マコちゃんって何者なんですか? 絶対にキクちゃん寄りだし。やっぱりタンポポの精とか……?」
「真顔で言うな。大家の孫だよ。俺にはこの家の敷地の中で花の精霊が見える。それだけだ」
「それだけって。マコちゃんはいつから見えちゃっているんですか……今いくつ? 僕は十八なんですけど」
「二十三」
「見た感じより結構上ですね。じゃあ社会人?」
「無職。ニート。家事手伝い」
誠は堂々と言った。
「え、と……要するに大家さん見習い?」
「お前、人がいいな。次からはそう言うことにするよ」
少しだけ笑った顔がキラキラして見えた。うわ、顔がいいってずるいな。
僕は自分の見た目を中の上くらいに思っていたけれど、二人と並んだら相対評価で確実に並以下に落とされるな。
現実逃避なのか、やっかみ半分に場違いなことが頭に浮かんだ。
「花の精が見えるようになったのは、丁度お前くらいの年の頃だ。俺もこの家でしか見たことはないけどな」
「ここ、呪われているんじゃないですか? この一棟だけやたらと植物が茂っているし」
同じつくりの借家が五棟並んでいて、なぜかここだけが緑であふれていた。
「大家を前に失礼だな。植物が元気なら、むしろパワースポットだろ」
「あ、そうか」
お前ちょろいな、と誠は笑った。僕もそう思うが、どうせなら怖い真実よりポジティブな嘘を信じたい。
キクはこちらに関心がなくなったのか、庭をふらふらと漂っていた。時々蛍の光のように消えたり現れたりしている。
目が合うと、まさにこの世のものではない天使の微笑みが返ってくる。
怖いというより幻想的だな……。
ここに住んだら、毎日キクちゃんがフワフワしているんだよな……なんかいいかも。いや、変な意味じゃなくて心が癒されそうだ。
「キクちゃんはただいるだけで、別に害はないんですよね? なら、僕ここでやっていける気がしてきました」
誠がちょっと軽蔑の目を向けた気がした。
「立ち直りが早いな。順応力高いな。単純だな」
「最後落とさないで下さいよ。ひどいなあ」
「事実だろ」
キクが怖くないと言えば嘘になるが、せっかく日当たりが良くて広い庭付きの家に住めるのだ。しばらく様子を見てもいいだろう。
それに、誠がいれば大丈夫な気もする。
「だけどマコちゃん、いきなり見えるようになってびっくりしなかったの? 僕はマコちゃんが教えてくれたからいいけれど、誰も助けてくれる人がいなかったらスッゲー怖かったよね?」
誠は一瞬戸惑うような、困ったような表情を浮かべて、ククッと小さく笑った。
「俺はお前ほど怖がりじゃないんだよ」
その言葉に、僕は訳もなく安心した。何かあったらすぐに誠を頼ろう。
じゃあまた。そう言って玄関に向かおうとした僕は、反射的に誠の服を掴んでいた。
「マコちゃん、訂正」
「あ?」
「僕、見えてる。キクちゃんの他にもいる……」
帰りかけた誠が振り返る。
「どんなのだ?」
「縁側に座っている。作業着姿で体格のいい爽やかなお兄さんなんだけど」
「あー……」
誠は、いかにも面倒だという感じで言葉を濁した。
「マコちゃんが言っていたキクちゃん以外のって、あれだよね? あれも花の精だよね?」
「そうだな。よくわかったな」
誠は白々しく言った。
「わかるだろ! 三人とも頭に変な花を乗せているんだから!」
僕は半ばヤケになっていた。
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