1-5

 ヴァルターがアデリナのもとを訪れないのは、彼が記憶を失っているからだったらどうしようか……。

 そんな不安に苛まれつつ迎えた誕生日当日。一度目と同じく、婚約者としての顔合わせのためにヴァルターが伯爵邸にやってきた。

 挨拶をしてから二人で庭を散歩する流れまでは以前とまったく同じだ。


 親しみが一切ない、極寒のまなざしでアデリナを見ていた。


(……ダメかもしれない……。いいえ、あきらめるのは早いわ。私が忘れていると思っているからそれに合わせているだけだと信じたい。……確かめなければ)


 池まで辿り着いたところで、アデリナは思い切ってヴァルターの近くまで歩みを進めた。


「ヴァルター様……」


 名前を呼ばれたヴァルターの目が見開かれる。

 そもそもアデリナは、第二王子ヴァルターを名前で呼ぶ許可をもらっていないし、彼がアデリナを名前で呼ぶようになるのは、かなり先の話だ。

 不敬すれすれの行為は、本来の十六歳のアデリナだったらできなかった。

 さすがにここまで以前と違う言動をすれば、ヴァルターもおかしいと気づくだろう。


「ヴァ、ヴァルター……だと!? わ、私は……第二王子、だぞ」


 アデリナの行動によってヴァルターの言葉が変わった。

 けれど、心から驚いているというだけで、とても自然な反応だった。


「ですが、婚約者です。私は婚約者を名前で呼ぶことも、逆に呼んでいただくことも許されないのですか……?」


 わざとらしいと思いつつ、アデリナは瞳を潤ませてみた。


「そ……それが君の希望であれば……許してやる」


 アイスブルーの瞳に宿る感情は、戸惑いだった。

 顔も赤いし、怒っているというより、恥ずかしがっているように見える。


(なんてことなの……! 間違いなく、ヴァルター様は記憶を失っているわ)


 二十八歳の心を持つアデリナからすると、今のヴァルターはただの若造に見えてしまう。

 回帰前の記憶がないとしたら、ヴァルターは現在心も身体も二十歳である。

 以前は四歳の差がとても大きくて、アデリナはいつもヴァルターに萎縮していた。無愛想で無口で怖い人だと思っていたのだ。

 今は精神年齢が八歳も逆転したため、女性に不慣れな純朴な青年としか感じられなかった。


 ヴァルターはそっぽを向くが耳が赤いのが隠せていない。


(これ……私にどうしろと言うの? なんであなたが恥ずかしがっているのよ! 記憶……記憶はどこに置いてきたんですか!?)


 目覚めてすぐに彼が会いに来なかったことである程度覚悟していたのだが、状況は絶望的だった。


「今日は……君の……アデリナの誕生日だと聞いた……」


 ヴァルターはくるりと向き直ると上着のポケットを探り、細長い箱を取り出す。それをアデリナに押しつけてきた。

 こんな会話は以前にはしていない。

 箱を渡された意味がアデリナにはすぐには理解できなかった。

 だから手のひらに乗せられたままの箱をじっと見つめるだけで、身動きが取れなくなってしまった。


「開けないのか?」


 しばらくするとヴァルターが箱を奪い返し、上蓋を取り払った。

 もう一度差し出された箱の中には、真珠のネックレスが納められている。光沢のある大粒の真珠が連なった、シンプルだが高級品だとわかる一品だ。


(真珠だなんて、嘘でしょう……?)


 それは、回帰前の世界ではセラフィーナに贈られたもののはずだった。

 アデリナは時戻し直前のヴァルターの言葉を思い出す。


『君の瞳は……海みたいな深い青だと聞いていたから……きっと真珠が似合うと思ったんだ。それなのに、あの頃の私は――』


 あれは、瀕死の重傷を負ったアデリナの姿に動揺して、セラフィーナと混同したことにより飛び出した言葉ではなかったのだろうか。


「ネックレス……私にくださるのですか?」


「髪の色と目の色しか知らないから、無難なものしか選べなかったが、それでいいのなら」


「あ……あ、ありがとうございます」


 アデリナはおそるおそるネックレスを取り出して、さっそく首元に飾ってみた。

 今でも同じネックレスをつけたセラフィーナの姿をはっきりと思い出せる。

 これは、本来セラフィーナが受け取るはずだったものを、アデリナが奪ったという状況なのだろうか。

 だとしたら、仮にも婚約者であるアデリナに対して失礼だし、セラフィーナが気の毒だ。

 けれど、回帰前の記憶がなければ知り得ない情報をもとに彼を責めることはできない。


 アデリナは、罪悪感を覚えながらも、婚約者から贈り物をもらって喜ぶ少女として振る舞う。


「どうでしょうか?」


「海みたいな青には……真珠が似合うと思った……」


(え、ええ!? 今、笑った……?)


 ほんの一瞬だが、口もとがほころんだ気がした。

 アデリナの勘違いでなければ、遠回しに似合っていると言っているのだろう。

 長い付き合いだったからこそわかる。ヴァルターは、女性に好かれるためにお世辞など言わない男性だ。


(婚約者との初対面の日に、わざわざ妹への贈り物を持っていて……そしてなんとなく婚約者に渡すなんてこと……あるのかしら? そうでないのなら……)


 セラフィーナの瞳も青だが、とても淡い色だから海に例えられることはないだろう。

 実際に、春の穏やかな空の色にたとえられている。


(……逆だったの?)


 大粒の真珠はかなり高価だ。

 そんなものがたまたまポケットに入っているはずはない。だとしたら、本当にアデリナへの贈り物として持参していたのかもしれない。

 彼は不器用な人だった。

 当日顔を合わせたのにもかかわらず渡せなかった贈り物を、あとから渡すなんてことはプライドが許さなかったのだろうか。

 そして、不要だと判断したものを妹に与えた――そんな可能性に行き着く。


(以前の私は……)


 どうしてこんな違いが生まれたのだろうか。

 アデリナは前回と今回の相違点を思い出す。前回は、冷たい印象のヴァルターに萎縮し、距離を取っていた。

 今回は進んで彼の名前を呼んだらなぜかヴァルターが恥ずかしがった。……ただ、それだけの違いだ。


(もしかして、回帰前は私が怯えていたから?)


 アデリナのほうから歩み寄っていれば、違った関係を築くことができたのだろうか。

 彼が柔らかい表情を浮かべていたのはほんの一瞬だけだった。

 また冷たいまなざしに戻ってから、口を開く。


「いいか、アデリナ……。私が手紙を書いたら、必ず返事をくれ。社交の場にも出てもらう」


「はい、婚約者として……当然のことと存じます」


 似たような命令は、回帰前にもあった。そのためアデリナはとりあえずそう答えた。


「それから、これが一番重要だ。……適度に逃げ道を用意しておけ」


「逃げ道……?」


「私が、君や伯爵家を蔑ろにすると、王命に逆らったことになる。……だが、親密にしすぎるといざというときに、巻き込んでしまう」


「いざというとき……とは?」


「私の立場が取り返しがつかないくらい悪くなったときだ」


「ヴァルター様……」


 それは、彼にしてはめずらしく、優しい言葉だった。

 同時に「決して愛するな」という命令でもあった。

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