第23話 月の光

 見覚えのある指輪は、他ならぬチェリーが市場で困っていた彼のために選んだもの。

 彼が大切なひとに渡すなら、こういう感じかな? と自分なりに精一杯考えて。


(戦地から帰ってきたばかりだというのに、真っ先に恋人を思って指輪を選ぶなんて、素敵だなって。その思いがお相手の方に伝わるようにと、願ってはいましたが)


 チェリーはそれが自分のために用意されたものであることを、いまやしっかり認識していた。

 その上で、受け取るべきか悩み、結局のところ首を振って「いまはまだ、受け取りません」と告げた。


「私がバーナードさんのためにシャツを縫ったり、お部屋を片付けたりしていたのは、帰ってきたときにゆっくりして頂きたいと思っただけで、それ以上の意味がないんです。好きな食べ物を知りたかったのも。『妻』としてのつとめを果たそうと考えたというより、ここがあなたの家だから、家らしく迎えたかっただけなんです」


 どう言えば伝わるのだろう。彼から見てそれは献身的な行為であり、そこに「好意」や「下心」を感じるのかもしれないが、だからといってすぐに「責任」をもって応える必要はないと、チェリーは考えているのだ。


「私は持参金も何も用意できない、ただの平民です。こんな時代でなければ、こうしてあなたと話すことはなかったと思うのです。道ですれ違うくらいのことはあったかもしれないけれど……」


 言葉を選びながらチェリーが言うと、バーナードが淡く微笑んだ。「座らない?」と。チェリーが隣の席に座るのをためらうと「俺が立とうか? 君は座った方がいいよ、また倒れるかもしれない」と言って、本当に立ち上がってしまった。

 止め損ねたチェリーは、その思い切りの良さに驚きつつ、気になっていたことを勢いで口走ってしまった。


「体は辛くないです。もしよければ、歩きながら話すのはどうでしょう? 今晩は月が綺麗で、外の方が明るいんです。ろうそくがもったいなくて」


 ろうそくが。節約がしみついた生活のせいで、こんな大切なときにまで関係ないことを言ってしまった、とチェリーは早くも後悔をする。

 軽く目を見開いてから、バーナードは「わかった」と笑みを浮かべて、燭台に近づき、火を吹き消した。



 * * *



 戦争が始まった日のことを、覚えている。

 その日から、自分を取り巻く世界があっという間にぐしゃりと歪んで、ほんの少しだけ残ったましな場所で、なんとか息をひそめながら生きてきた。

 その場所はいかにも不安定で、ヘンリエットが迎えに来た日はまさに、すべてが壊れてしまう寸前だった。


 アストン家に迎え入れられたことは、チェリーにとって望外の幸運という言葉だけでは言い尽くせない出来事である。

 だがそれは、歪んだ世界の中で起きた、本来ならありえないめぐり合わせなのだった。


 これから、世界は正常の状態への回復を目指す。そのとき、「ありえないめぐり合わせ」に執着する者がいれば、歪みは歪みのままで、いつまでも正されないのではないか。

 戦争が終わったのなら、自分は本来の場所へと戻るべきなのではないか。


 月の光が白々と照らし出す裏庭の道を、畑の案内をしがてら歩き、チェリーは自分の考えを一生懸命言葉にして伝えた。


「戦後のどさくさで、あちこちでみんな適当なことをするわよって、キャロライナさんは言っていました。でも、生きて帰ってきたバーナードさんは『適当なこと』をせず、まっとうな生き方を選べます。身元のしっかりとした貴族のお嬢さんと結婚して、貴族らしく生きていく、とか。奥様は『ノエルは血縁なのだから、堂々と後継者に』って仰ってましたけど、それは立場を考えればやはり望みすぎかもしれません。まだ子どもでわかっていないことも多いので、この後、もし私ともどもこの家の使用人として置いて頂ければ、それで十分以上にありがたいと、思うのです」


 バーナードは、チェリーの話を遮ることなく、控えめに相槌を打って聞いてくれていた。それがあまりに静かで、果たしてどこまで通じているのかと不安になり、チェリーはちらっと様子をうかがった。

 じゃがいものうねの間を歩いていたバーナードは、月光に金色の髪の輪郭を溶かし、ふっとチェリーに視線を向けてきた。

 翠の瞳が、物言いたげに細められる。空気がぴんと、不吉な予感を帯びて張り詰める。


「俺は『まっとう』なんだろうか。長い間ずっと、異世界をさまよっていた。この世界の住人としての資格を、すでに失っているんじゃないかと、疑っているんだ。自分を」


 そんなことはないですよ、と言いたかった。言えなかった。何かを言おうにも、チェリーは彼についてあまりにも無知だった。なにしろ、会ったばかりなのだ。

 考えながら、見たままの感想を口にした。


「そうして月明かりの中にいると、違う世界から来たひとに見えます。月の国の王子様みたい」

「俺が?」


 空気が、ふわりとほどけた。

 口元をほころばせたバーナードは、まぶしそうに月を見上げた。その視線の先に誰かを見つけたように、穏やかな声で語り始めた。


「王子様みたいな知り合いなら、いたよ。やけに顔が良くて、ちょっと素性が知れない。周りがばたばた倒れても、飄々ひょうひょうとして死なないんだ。前線送りになった兵の平均生存期間は六週間なんてどこかで聞いたけど、それが本当なら、俺とあいつがずいぶん数字を引き上げていたかもしれない。誰もそんなに長くは生きなかった……ああ、ごめん、こんな話」


 いえいえ、とチェリーは控えめに首を振る。

 話を聞くのはまったく嫌ではない。ただ、それが悲しい思い出と切り離せないものなら、意識にのぼらせることなく、いつかゆっくりと忘れてくれればいいのにとも、思う。


(世界がこんな形でなければ、出会わなかったひとなのに。そして、いまのを、誰もがいとわしく思っているはずなのに)


 月の光をまとうバーナードは、チェリーにとって王子様なのだった。

 まだ出会ったばかりなのに、自分が待っていたのはやはりこのひとなのだ、と思う。このひとが本当に夫であれば、どんなにいいだろうと。


「苦労をした王子様には、幸せになってほしい……」

「あいつは大丈夫じゃないかなぁ。そんな気がする、それこそ『まっとうな』奴だったから」


 あはは、と笑われてチェリーもふふふと笑い返したが、心の中では「あれ?」と首を傾げていた。


(話がすっかりお友達のことに入れ替わってます? 私は、見知らぬ王子様の幸せも願っていますけど、私にとっての王子様は目の前のあなたさまでして)


 バーナードは、ふっと揺れる梢を見上げた。


「……風が出てきた。そろそろ中に入ろうか」


 はい、と返事をしてから、チェリーはこれだけはと思っていたことを、ようやく口にした。


「一ヶ月ほど、お時間ください。その間、何か私に対して『やっぱり違うなぁ』と思うことがあったら、結婚の話はキャンセルしてくださって構いません。待っている私に考える時間はたくさんありましたけど、バーナードさんはそうじゃないかもしれないと、思うんです。指輪は少し待って、考えてからではどうですか?」


 チェリーを見つめて、バーナードは「わかった」としっかり頷いた。


「俺は自分の考えを持っているし、君と一年暮らしていた母は三日あれば十分だと言っていたが、君の提案を受け入れる。一ヶ月後、お互いにやっていけそうだと思ったら、そこからまた始めよう」


 話がついて、チェリーは心の底からほっとして、息を吐き出した。

 肩を並べて連れ立って邸内に戻るときは、すっかり気持ちが晴れ晴れとしていた。

 二階の廊下で、互いの部屋へと別れる前に、バーナードは思い出したようにチェリーに尋ねてきた。


「フェアであるために確認する。もし、破談となって、この家を出ていくことになったら、君にあてはあるのか?」


 屋敷に残って仕事だけは続ける、そういった道も選べないほどすれ違ったらどうするのか、という質問のようだった。

 チェリーはそれは当然考えることだろう、と了解して答えた。


「親類縁者は誰もいないんですけど……。どこかのお屋敷で使っていただけるかもしれませんし、何もなくても姉に教えてもらった仕事が役に立つかもしれません。その方面の伝手つては、探せばありそうです」


 薄暗い廊下で、バーナードが「お姉さんの仕事?」と首を傾げた気配があった。その声は彼らしくなく翳っていて、チェリーは「心配しないでください!」と明るく言った。


「いざというとき、芸は身を助くと言われて、いろいろ教えてもらったんです。私は経験はないんですが、本当にいざというときはと思っていて」


 反応は薄く「そう」と返事があった。続いて、「おやすみ」と低い声で囁いて、バーナードは自分の部屋へ向かって歩き出した。冷たくはないが、なぜか悲しげな声だった。

 チェリーは疲れていた彼を自分が引っ張り回してしまった、と反省しながら「おやすみなさい!」とその背に呼びかけた。

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