第13話 時代の終わりと始まり

 チェリーとノエルがアストン家に来てから、一年と少しの日々が過ぎた。

 戦争が終わり、訃報は届かなかった。

 最前線の激戦地にて、バーナードは生き延びたということらしい。


「お兄様、帰ってくるってことよね? 夢みたい。ああ、早くお会いしたいわ」


 喜ぶキャロライナの前に、熱々のマッシュポテトときゅうりのピクルス、蒸し焼きにしたナスをよそった皿を差し出す。トマトのスープには、ハーブを刻んで散らし、彩りよく。

 料理を目にしたキャロライナは、今度は青灰色の瞳を輝かせて「今日も美味しそう!」と声を弾ませた。


「チェリーさんが来てくれて、本当にこの家も変わったのよね……! 国中見回しても、この時代にこんなに美味しい食事を口にできるひとがどれほどいることか。心から感謝しているの」


 毎日のことだというのに、キャロライナの唇からは次から次へと褒め言葉が出てくる。本当に、あのヘンリエットと親子なのかと首を傾げたくなるほど饒舌だ。

 母であるヘンリエットはいかめしい顔をして、テーブルについている。チェリーが椅子に腰を下ろすと、祈りの言葉を口にして、食事の開始を告げた。


「このトマトのスープの美味しいことといったらないわね! チェリーさんが作ってくれると、どんな料理も魔法みたいに美味しくなるの。私は幸せだわ」


 すらすらと褒め続けるキャロライナに礼を言ってから、チェリーはしみじみと考える。


(バーナードさんの帰還と、毎日の食事に対する幸福感が、さほど違わないように感じるのよね。同じくらいなのかな?)


 そんなわけないと、すぐに自分につっこんでみるのだが、飽くことなく一口ごとにベタ褒めしてくるキャロライナを見ていると、自信が薄れてくる。

 そんなこと、あるかもしれない。


「チェリーさん、先日はごくろうさまでした」


 スープをすすっているチェリーに、ヘンリエットが声をかけてきた。チェリーは即座に「喜んで頂けましたよ」と答える。

 庭で育てたナスとトマトを、教会に寄付してきたのだ。炊き出しに使ってください、と。作物が実り始めた前の年から、目立たぬように続けてきている。

 チェリーとしては、当初売るか物々交換してしまえばいいのにと思っていたが、街の惨状を見たらもう誰の手元にも何も残っていない、と気づいてしまったのだ。物もお金も。


「これからも、たくさん採れると思いますので、寄付を」

「売っても良いのですよ」


 先んじて言われた内容に、「え?」とチェリーは目を瞬く。

 表情を変えないまま、ヘンリエットは淡々とした口調で続けた。


「戦争が終わって、人の流れも物の流れも変わってくるでしょう。辛いときは施しに頼るしかなくとも、これからは買ってでも手に入れたいと考えるひとも増えてきます。しかし、売られていなければ、買うことができません」


 じわじわと、その言葉の意味に、理解が追いつく。

新しい時代がくるのだ、と。


(戦争から男のひとたちが帰ってきて、仕事を始める。祝い事や喜びがあり、無理をしてでも少しだけ贅沢したい日がある。そういうときに、買いたいものが売られていなければ、戦後を実感する機会もないものね。さすが、奥様はお考え深いわ……)


 戦時下の荒波の中を、一見して生活力のまったくないアストン家が、結果的に非常にうまく乗り切ってきたのは、偶然ではない。そのときそのとき、最善の判断を下してきたヘンリエットの存在あってこそ、だった。

 屋敷の家事や雑務、家庭菜園を取り仕切っているのはチェリーだが、そのチェリーを見つけ出して連れてきたのはヘンリエットなのである。チェリーは、適材適所の采配があったから力を発揮できたに過ぎない。


 開け放った窓から、食堂の中へ初夏の風が吹き込んできた。

 庭で、エルダーフラワーの枝が葉を揺らしている。白い小さな花も盛大に咲いていた。


「わかりました。これからは、収穫した作物に余裕があれば、市場に持って行ってみます」

「売れたら、そのお金はあなたの裁量で使って構いません。あなたの稼ぎなのです。何か、必要なものもあるでしょう」


 そっけなく言って、ヘンリエットは食事を再開した。


(必要なもの……、私が欲しいもの?)


 そんなこと、長い間忘れていた。考えたこともなかった。

 あのどん詰まりの状況から抜け出すことができて、ノエルと二人で生き延びられただけで、十分だと思っていたから。


「チェリー、ケーキ作って。ケーキが食べたい!」


 大人の会話を聞きつけたノエルにすかさず主張されて、チェリーは「お祝い事があったらね」と毅然と答えてから、ふと思い出す。

 バーナードが帰ってくる、ということを。


(奥様がいて、元気になったキャロライナさんがいて、バーナードさんが帰ってくる……。あてにしていた遺族年金は入らなくても、この方々ならこの先、きっとうまくやっていくのでしょう)


 こうなると、ノエルはともかく、チェリーは用無しの妻である。

 本来ならさっさと屋敷を立ち去るべきなのだろうが、いかんせん庭でナスとトマトが育ちすぎていて、放置するわけにはいかないという事情があった。

 バーナードとは書類上の結婚は済んでいるので、一度本人に会って離婚もしなければならないのだし、と自分に言い聞かせる。

 ぐずぐずしているうちに、時間は流れていった。



 * * *



「今日は、収穫したナスとトマトを売れるだけ売って、ミンスパイの材料を買ってきます」


 今日明日にでも兵士が帰ってくるのでは、と町で噂が出始めた頃、チェリーは朝の仕事をあらかた終えてからマリアに声をかけた。


「バーナードさんが、ミンスパイをお好きだと聞いたものですから。りんごは秋に収穫して乾燥させた分がありますけど、干しブドウはどこかからお分けいただかなくては。それから」


 言い訳がましく、早口にまくしたてるチェリーに対し、マリアは「はて?」と不思議そうに告げた。


「ぼっちゃんはミートパイですよ。奥様とお嬢様はときどき適当なことを言いますから」

「ミンスパイじゃなくて? 甘いパイではなく、お肉のパイがお好きなの?」


 ええ、とマリアは力強く頷く。

 チェリーとしては、判断に迷うところであった。


(適当なことを言うといえば、マリアさんもなのよね~。このお屋敷は皆さん、おおらかだから。べつに命に関わることでもないのだし、目くじらたてるところじゃないのだけど)


 いざとなったら、どちらも作れるように準備だけはしておこうと思いながら、チェリーは市場へ向かった。



 * * *



 その日はとても天気が良く、市場は妙に活気にあふれていた。

 耳に飛び込んでくる人々の話によれば、駅についた列車から何人か兵士たちが下りてきたらしい。


(バーナードさんは最前線まで行っていたはずだから、もう少し遅いお着きよね)


 慌てることはないわ、と思いながらチェリーはいくつかの店の前を通り過ぎる。

 アクセサリー雑貨の店まであることに、内心驚いた。

 見たところ、安っぽい作りの櫛やネックレス、指輪が並んでいるようだった。そういったものを買う発想は、戦争中は一切なかった。

 少しだけ見てみようかと足が向きかけたが、そんな場合ではないと自分に言い聞かせる。買う理由がない。


 適当な空きスペースを見つけて、ナスとトマトを露天に並べた。

 ものの見事に飛ぶように売れた。誰も彼もが浮かれた空気だった。

 小銭で膨らんだ小袋を持ち、今度は自分が買い物をしようと辺りを見回したチェリーは、さきほどの装飾品の露店の前で、ぼんやりと佇んでいる軍服姿の人影に気づいた。


 くしゃくしゃで埃っぽい金髪の青年は、品物を見ているのか見ていないのか、とにかく気の抜けた様子で立っていた。

 戦場から日常に戻ってきて、まだうまくこの世に魂が馴染めていない様子だ。

 チェリーは思い余って、すぐそばまで歩み寄り、声をかけた。


「何かお探しですか?」


 青年は、翠の瞳でチェリーを見下ろして「指輪……」と呟いた。


(あら、きっと帰りを待つ女性がいるのね)


 久しぶりに会うのに、お土産が欲しいのだろう。微笑ましい気持ちになりつつも、青年の様子が気になって「相手の方のお好みは?」とさらに踏み込んで尋ねてみた。


「聞いたことがない。何も知らない。君が選んでいい」

「そんな」


 できませんよ、という言葉を呑み込む。


(本人が選べないから、頼まれているのよね。ここで私が断ったら、このひとずーっとここから動かないかもしれない)


 チェリーは端から品物を眺めて、気に入ったひとつを見つけて「あれが良いと思います」と言った。

 緑色のガラスのはまった、真鍮らしい材質の指輪。すぐに錆びてしまいそうにも見えたが、彩りが青年の髪や瞳を彷彿とさせたのだ。


「ありがとう。助かった。君はとても良い人だ」


 青年は大げさな感謝を口にしながら、懐に手を入れてくたびれた革の財布を取り出す。

 ひらりと一枚紙が落ちて、チェリーの靴先にたどりついた。「あっ」と慌てた青年の声を聞きながら、チェリーはそれを拾い上げる。

 黄ばんで汚れてよれよれになったその紙には、何やら見覚えのある字が書かれていた。


「ああ、ありがとう。それ、妻からの手紙なんです。戦場でずっと持っていたんですよ。離婚した方が良いんだろうなって思っているうちに本当に離婚を切り出されて、でも生きて戻ってきてもいいって。だからとにかくまず会って話そうと。いま全然手持ちがなくて何も買えなくて、本当は食べ物の方が喜ばれるかなって思ったんですけど、どうしても彼女に贈り物がしたかったんです。どうだろう、やっぱりいらないかな。でも、せっかくあなたが選んでくれたので指輪買ってきます」


 固まったままのチェリーにまくしたてるだけまくしたて、手紙をいそいそと受け取ってから、青年は店主に声をかけて指輪を買う。

 それからついでのように、何かもう一つ買った。

 青年はチェリーの元まで引き返してきて、それを差し出してきた。

 青いガラスのはまった、シルバーの透し彫りのブレスレット。


「これはあなたに。親切にしていただいたお礼です。せっかく戦争が終わったので楽しく暮らしてください。あっ、でもいらなかったら売ってもいいですよ。というかいらなかったですか。食べ物の方が良かったかな」


 ずいぶん早口にたくさんしゃべるひとなのね、というのが彼の最初の印象になった。

 話し出すと止まらないところは、キャロライナに似ている。

 チェリーがぼんやりとしているので、青年は「これは、いら、ない?」とばかりに瞳に不安そうな色を浮かべて様子をうかがってきた。

 黙っていては話がこじれそうだと思い、チェリーは潔く「ありがとうございます」と言ってブレスレットを受け取った。


 青年はほっとしたように笑みを浮かべてから、とても嬉しそうに「親切な方に会えたので気持ちが軽くなりました。俺は妻がいる身なので食事に誘ったりはしませんが、あなたにこの先、幸せなことがあると良いなと思います」と言ってきた。


「妻……」


 彼が大切にしていたらしい、便箋のことが思い出された。


「戦場にいるときに、手紙で俺を励ましてくれたんです。俺が生きて戻れたのは、妻が帰ってこいって言ってくれたからだと思います。帰りたくても、帰れなかった仲間もたくさんいるんですけどね……。何人かの遺品も預かっているので、いつか届けに行かないと。みんな家族を守るために、逃げないで戦い続けたんですって、伝えたくて。生き延びた俺は、どうしてお前だけ生きているんだって、責められるかもしれないけど」


 青年はそこで、不意に口をつぐんだ。

 黙り込んだままのチェリーを前に、「話しすぎた」と後悔したように見えた。


(そうじゃないんです。私は、あなたの話を聞くのがいやだったわけでも、おしゃべりに呆れたわけでもないの。本当に帰って来たんだと思ったら、声が出なかっただけ)


 何から彼に伝えるべきなのか。

 どう名乗れば伝わるのか。

 チェリーはひとまずずっと聞きたかったことを聞いてみることにした。


「ミンスパイとミートパイはどちらがお好きですか?」


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