第5話 春で良かった
「この部屋は好きに使っていいよ。掃除は間に合ってないから、適当にお願いね」
エプロン姿のマリアは「私はたいていキッチンにいるから」と言い残すと、部屋の中には入らずに去って行った。
チェリーはドアノブを掴みながら、ノエルに微笑みかける。
「お部屋がたくさんあるって素敵ね。ノエル、ここが私たちのお部屋ですって。ずいぶん広そうじゃない?」
つとめて明るく言うと、薄暗い室内へと一歩足を踏み入れた。
もふっと、埃が立ち上る。
「チェリー、怖くない?」
ドアの前で立ちすくんだノエルが、甲高い声で呼びかけてきた。
背中で聞きながら、チェリーは静まり返った部屋の中を見回した。
四つ並んだ上げ下げ窓から、弱い光が差し込んでいる。
家具は天蓋付きのベッド、三脚の木製丸テーブル、優美な曲線を描くカウチソファ。壁際には、暖炉があった。
そのどれもこれもが埃にまみれ、かびくさい匂いがしていたが、チェリーは思わず「うわぁ……!」と感嘆の声を上げて、ノエルを振り返った。
「ノエル、見てみて! すごいベッドがあるわよ! 天井つきの! テーブルも、ソファも、暖炉も! お城みたい! ここが私たちのお部屋なんですって! 信じられる!?」
「ベッド?」
きょとんとしているノエルに片目を瞑って見せてから、チェリーは大きく部屋を横切り、思い切りよくベッドにダイブした。
ばふっと真っ白な埃が巻き起こる中で、チェリーは腹の底から大笑いをして、咳込み、収拾がつかなくなって大いに涙を流した。
後からついてはきたものの、あっけにとられて見ていたノエルは、「泣いているの?」と尋ねてくる。
げほ、ごほ、とむせながらチェリーは涙を拭い、胸を手でおさえて「大丈夫」と答えてみせた。
「掃除しよ、掃除。窓を開けて、埃を払って、水拭きをして。今日の夜までに間に合わせないと、明日は私達、埃に埋まって真っ白になってそう!」
がばっと起き上がり、壁際まで駆け寄ると、ぐぐぐと木枠にガラスの嵌った窓を仕切りの位置まで押し上げる。
風がさあっと吹き込んできて、鼻先で深い緑の葉がさやさやと揺れた。
窓は前庭に面していて、高い木が視界に入ってくる。その他にも、やや背の低い木々が並んでいるのが見えた。
チェリーは目を凝らして「りんごの木?」と呟く。「りんご?」と言いながら、ノエルが足元をうろうろと歩き回る。その頭に手を伸ばして軽く撫で、チェリーは今一度口を開く。
「春で良かった」
ん? とノエルが聞き返してきた。
まったくの独り言のつもりであったが、チェリーは荒れ果てた前庭を見ながら、ノエルに答える意味で繰り返した。
「春で良かった。あのお庭を遊ばせておくのは、もったいないわ。畑を作ることができれば、野菜は買わなくてもいいのよ。むしろ売れるかも。家畜はこのお屋敷にいないと思うけど、鶏くらいならどうにかならないかしら。それにあの、りんごの木。秋になったらきっと実を収穫できるわね。ああ、楽しみ。ジャムもゼリーもプディングだって作れるわ。知ってる? 一日一個のりんごは医者いらずって言うの。食べると体が丈夫になるわよ?」
気が急いて、どんどん早口になるチェリーを、ノエルは大きく目を見開いて見上げていた。その驚いた顔がおかしくて、チェリーは声を上げて笑う。
「こうしている時間が惜しいわ。寝る場所がないといけないから、掃除はベッドから始めましょう」
あれもしよう、これもしようと思いながらチェリーはベッドへ引き返す。ノエルはちょこまかとその後ろに続きながら「おなかすいたよー!」と声をあげた。
チェリーは振り返って、ノエルへと笑いかける。
「キッチン担当のメイドさんがいるんですもの、晩餐は期待できるわ!」
メイドはいる。調理場で仕事をしていると言っていた。
ただしこの家の財政状況は、お世辞にも良いとは言えなさそうだ。
(急に増えた二人分の食事は、本当に用意されているの? いいえ、今から心配しても仕方ないわね。ノエルの分はあるはず。私の分は……)
果たして、その不安は的中することとなる。
その夜の食事は、素朴なグリドルスコーンと薄いスープのみ。蜘蛛の巣の張った食堂で、ノエルと二人でスープをすすりながら、台所事情を察したチェリーは、いよいよ食糧の自給自足への決意を固めるのであった。
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