第4話 アストン家のお屋敷

 チェリーの住んでいた背割り長屋もひどいものであったが、没落しきったアストン家のお屋敷も大概であった。

 鬱蒼と茂った森を背に、煉瓦の壁中にびっしりと蔦草が生い茂らせ、いまにも溶け崩れて緑に飲み込まれてしまいそうな有り様だった。


「怖い」


 子爵未亡人に連れられてこの場までたどり着いたは良いものの、早くもノエルは震えてチェリーの足にひっついている。

 ヘンリエットと名乗った子爵未亡人は、馬車の御者を務めていた老人にコインで支払いをしていた。


(男手が全然ないのかしら。どこの家も、男性使用人から減っていくものよね。お給料が高いのもあるし、いまは未婚・既婚問わず徴兵制は強要されていて)


 会話する二人を素早く見て取ってから、チェリーはノエルに声をかけた。


「怖がらなくても大丈夫よ。この世で人間以上に怖いものはないって、私のお母様が言っていたわ。たとえこのお屋敷にお化けが住んでいたとしても、いきなりノエルを取って食ったりはしないと思うの」

「怖い」

「ほら、ノエル、よく見て。とても頑丈そうだし、静かで暮らしやすそうよ。トイレの匂いで窒息することもないわ。ねえ、大きく息を吸ってみて。空気が……美味しい……」


 すうっと深呼吸をすると、草いきれと土の匂いが胸の中を緑に染めていく。


(田舎のおうちに帰ってきたみたい。私、あの頃は牛や馬の世話をそばで見ていたし、鶏に餌をあげたこともあるわ。お庭があるなら、野菜だって育てられる)


 思えば、長屋暮らしは本当に散々だった。

 壁は薄く、物音が響く。共用便所の隣という配置のせいで、ひっきりなしにドアの前を人が通る気配があり、匂いも辛かった。

 それに比べて、アストン家のお屋敷は見た目こそ廃墟そのものであったが、郊外ということもあり、隣家との距離は十分。

 手入れもされずに荒れ果ててはいるが、広い庭もある。

 子どもの頃、田舎の一軒家に暮らしていたことを思い出したチェリーは、口角を上げて微笑み、ノエルに言い聞かせた。


「お化けではなく、妖精の気配がするわ。ほら、見て。あの木の陰の茂みに、恥ずかしがりの妖精がいるんじゃないかしら。そーっと近づくのよ」

「妖精?」


 二人で息を詰めて、荒れ果てた庭に向かって歩き出したそのとき、聞き覚えのある咳払いが背後で響いた。

 振り返ると、厳しい顔をしたヘンリエットが二人を睥睨して言った。


「ここが今日からあなたたちの暮らす家です。荷物は自分で持ちなさい」


 長屋から持ち出してきたのは、ぼろぼろの衣類と長らく使っていた小鍋がひとつ。二人合わせてトランクひとつに収まっている。

 よいしょ、と掛け声とともにチェリーは持ち上げたが、とても軽い。


「私達のお部屋はどこですか? 屋根裏部屋でしょうか。仕事はどなたに教われば良いですか。私、たいていのことはできます。まずは偉い方にご挨拶からですよね。奥様のこと、どなたもお迎えに出てこないみたいですが、お忙しいのでしょうか」


 んんっと咳払いをすると、ヘンリエットはドレスをつまんで、横合いから雑草の飛び出した道を屋敷に向かって歩き出した。

 足元悪いけど大丈夫かしら? と思いつつ、チェリーは片手に荷物、片手はノエルと手を繋いで後に続く。


 迎えがなかった理由は、屋敷のドアをくぐり、二階の部屋を唯一のメイドのマリアと名乗る初老の女性に案内された頃、理解した。

 この家の住人は、子爵未亡人ヘンリエットの他には、現当主バーナードの十歳下の妹のキャロライナと、台所周りを担当しているメイドのマリアしか、いなかったのであった。



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