名前はまだない 4
「うっひゃあ! かわいい!」
次女のひえいが高校の制服のまま、猫トイレのふたをつまみあげてなかで糞をひり出している仔猫の、緊張感あふれる丸まった背中を覗きこんでいる。
母のイーディスが、猫用の哺乳瓶を消毒しながら彼女に、
「つかさ。もしもこの仔を飼うか飼わないかで投票してたら、アンタどっちに入れた?」と、聞くと、
「そりゃ!飼うの一択でしょう!」
と、ひえいは即答した。
「もうネコは飼わないって三人で抱き合いオイオイ泣いていた私の娘さんたちは、一体どこへ行ってしまったのかしらねえ……」
そう言ってまぶたを平たくしている母の横で、噛みちぎり跡も痛々しい哺乳瓶の吸い口を指先でつまんで三女のはるなが、
「しかし、すごいね……」
まじまじとそれの牙の痕跡を見ている。これは、いまトイレで糞をしている仔猫の見た目の小ささに、月齢を見誤った長女がホームセンターで買ってきた子猫用の哺乳瓶だったのだが、
「よっぽど劣悪な環境で育った五〜六ヶ月かもしれないねぇ」
イーディスはそう言い、ミルクが出てくるモノだとそれを認識するなり予備を含めて二個、ゴムの乳首を噛みちぎったその仔猫の名前について、なにかを思い出したように、
「……名前、きっぽうしにするか」
とつぶやいた。
はるなは「なにそれ……」と、あからさまに嫌そうな顔をしたが、ひえいはサムズアップをし、
「さすがお母さん! お目が高い!」
とセンスを褒めた。しかし、はるなは、
「え…… 本当にやだよ、だいたいなにそれダサい……」
「……ダサいって、知らないの? 信長だよ?
──天文3年(1534)尾張守護代の三奉行の一人、織田信秀の嫡男として生まれる。幼名を
……だよね、お母さん!」
だがそのイーディスも、「お母さんも違う名前がいいなぁ」と呟いて、気を取りなおし、長嶺家の人間たちに向けた夕食の支度に取りかかった。
ひえいは、
「ははぁ。これは名前決めで、ひと波乱ありそうでござるよぉ、若様〜〜」
と、トイレ蓋をまた開いた。
なかではまだ名のない仔猫が、小兵ながら健康的な糞を砂のなかに埋めている。
「健気なり、吉法師……」ひえいは胸を熱くし、目頭をおさえ、トイレの蓋を戻した。
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