吾輩は殺し屋だった猫である

第一話

名前はまだない

名前はまだない 1

 六月のある午後、長嶺ながみねエリンが、大学からマンションに帰宅すると、


「あ、ネコだ」


 エントランスに猫がいた。




 その猫は、白地に黒のハチワレで月齢六ヶ月にしてはやや小さく、エレベーターの乗り場ボタンの下で着地とジャンプを繰り返し、そこを押そうと苦戦しているように見える。


「これ、気になるの?」


 彼女が笑顔で、あしもとにはなしかけ、静電容量式のエレベーターのボタンを押してやると、


ニャウ二階だ


 その猫は、ヒトの目を見あげ、たしかにかみあうタイミングでそう鳴いた。


 







 エレベーターのカゴが到着し、のりこもうとすると、猫がその脚をすりぬけていった。


「え⁉︎ ほんとにのるんだ⁉︎」


 エレベーターのなかで向きを変え、そのハチワレは、彼女を待っているように腰を下ろしている。


「かしこい猫さんね」


 彼女もエレベーターに乗り、二階のボタンを押し、


「わたしは二階だけど、いい?」


 話しかけると、やはりこの猫はヒトのように返事をする。エリンは目を細めた。


「どこかの階で、飼われてるの?」


ニャッ違う


 そのハチワレは、まもなく止まるエレベーターの仕組みを理解しているようにドアのほうを見据えたまま、またそう返事を鳴いてして、エレベーターがドアを開けると、尻尾をぴんと立て、躊躇うことなく右手にむけて廊下をすすんでいった。


「はー。きみもここでよかったんだ」


 エリンは微笑み、彼 ──尻にきんたまが付いている── に続いてエレベーターから二階におり立つと、思いついたように中庭の芝生をのぞきこみ、月齢六ヶ月ジュニアにはすこし高いかなと心配しながらも、無人で上階に向かうエレベーターを見送り、つぶやいた。


「ま、猫ならひとりでなんとかするか」


 実際、エレベーターの脇には並行する階段がある。なんでエレベーターのボタンにこだわっていたのだろう。エリンは首をかしげた。ネコなら外からでも柵を潜れて入れるはずなのに、である。


「ま、いいか」


 エリンは、その猫とは逆にむけて歩きはじめたが、「しかし、最近この階に引っ越してきた人なんていたかな」と再度首をかしげ、


「あっ……!」


 思い出した彼女はふりかえり、遠ざかるその子猫に、手を口に添え、小声で忠告した。


「……そっち、あやしい部屋あるから気をつけてね……!」


 すると、形の良いハチワレを、すこしふりむかせて彼は、


ニャア知っている


 ひとことそう鳴いて、尻尾をぴんぴんと立て、奥のそのあやしい部屋にむけ、まっすぐに進んでいった。


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