十四 お麻
翌年。如月(二月)十日。昼八ツ半(午後三時)。
晴れのその日。
「指物師の源助さんに、仙台の木村さんから急ぎの文です」
飛脚は、日本橋元大工町二丁目の長屋の源助に、厚手の文を渡した。
糊付けされた封を開くと、木村玄太郎の文と、多恵が母の奈緒に宛てた文があった。
多恵は文で、与三郎に駆け落ちしようと騙され、昨年の水無月(六月)二十四日に囚われの身となった事を母の奈緒に詫びていた。
現在の多恵は、与三郎に夜盗の手助けを強要され、昨年、神無月(十月)四日から、仙台四穀町の穀物問屋大黒屋に奉公しており、四ヶ月で大黒屋の信用を得て、すでに店の内情を知りつくしているとの事だったが、まだ与三郎には全てを話しておらず、話せば、与三郎は店の締め日の翌日にも夜盗に入る事が文にしたためてあり、
『いっときも早く、私が大黒屋と与三郎の手から逃れられるよう、父上にお願いしてください』
と、多恵は母の奈緒に救いを求めていた。
そして、玄太郎は文で、
『如月(二月)二十日、与三郎がいる北河原町の口入れ屋の山王屋に夜討ちを駆けて与三郎を討つから、すぐさま仙台に来て欲しい』
と述べていた。
源助は手紙を畳んで懐に入れた。さて、八重に余計な心配をかけたくない・・・。何と言って仙台へ出かけたらよいものか・・・。ここを留守にすれば、八重は三日に一度は掃除に来る。この文をこの部屋の何処へ隠しても、八重は見つけるだろう・・・。
ふっと源助は思いついた。いつだったか指物指物師仲間が、小物の仙台指物を見たいと言っていた。これを使わぬ手はない・・・。
源助は、隣の長屋に住んでいる大工の八吉の娘、麻に賄いを頼んでいる。源助は麻との馴れ初めを思った。
昨年、弥生(三月)。八重が八郎と契りを交わした後日の事である。
源助は日本橋元大工町二丁目に引っ越し、独りで夕餉の仕度をしていた。
すると、隣の大工の八吉の長屋が急に騒がしくなった。そして、隣の長屋から、八吉の娘の麻が源助の長屋に駆けこんで、
「後で説明するから、あたしに口裏を合わせとくれっ」
と源助の手を引いて、隣の八吉の長屋に連れて行った。
長屋には、お共を連れた羽織り姿の商家の主とらしき男がいた。
麻は源助の手を握ったままその男を一喝した。
「おい、おめえっ。耳の穴かっぽじって、よおく聞きやがれっ。
この人は、あたしの亭主だっ。
おめえは、商家の主だなどと偉そうにしやがって、何様の気でいやがるっ。
いつまでも、てめえの偉ぶった言い分が通ると思ったら、大間違いだっ。
種なしがどんなに偉ぶっても、子なんぞ、できやしねえぞっ。
とっとと出ていきやがれっ。二度と来るんじゃねえぞっ。
おとっつぁんっ。塩 撒いとくれっ」
麻は、商家の主とお共を長屋から叩き出した。
麻は三十路に近い器量の良い女だ。一度、商家に嫁いだが、子ができぬといって離縁され、長屋に出戻った。その後、商家の主は後添いをもらったが、やはり子ができぬ。名医の誉れが高い神田佐久間町の町医者竹原松月の見立てで、子ができぬ原因が商家の主にあるのが発覚した。
そして、元亭主が長屋に現われたその日。元亭主は器量の良い麻に、戻って欲しい、と謝罪に来たのだった。
当時の源助は日本橋元大工町から日本橋元大工町二丁目に越して日も浅かった。源助と親しい指物師仲間や大工仲間は、
『源助は娘と二人暮らしだったが、娘の八重が与力の藤堂八郎の側室になったため、源助が元大工町二丁目に越して独り暮らしになった』
と話していた。源助の身の上を聞いている麻の父八吉は麻に、
『源助の妻は仙台に戻った』
と話していた。
元亭主を長屋から叩き出した後の麻は、源助の妻が実家に出戻ったと判断し、源助を自分の亭主として付き合いを重ねた。
麻との馴れ初めを思いながら、源助は隣の長屋へ行って、麻に、
「急な話ですまないが、明朝、仙台へ指物を仕入れに行く事になった。
今宵の早い夕餉と、明朝と昼の握り飯を作ってください」
と頼んだ。
「わかったよ。八重さんにも知らせとくれ。娘を心配させんじゃないよ」
「いつも、すまないねえ」
源助は心からのお礼を述べた。
これで、仙台へ指物を仕入れに行くと話しても、八重に夕餉の世話や握り飯の世話をされずにすむ・・・。あとは、八郎との睦事などに触れて話を紛らわせれば、私の目的は気づかれずにすむ・・・。玄太郎からの文は持って行こう・・・。
源助は、麻の長屋から元大工町の八重の長屋へ向かった。
麻は長屋から源助を見送り、何か妙だ、いつもの源助と違う、と思ったが、気の迷いかと思っていた。
夕七ツ(午後四時)。
八重の長屋を訪ねた源助は、仙台へ行く理由を述べた。
「急に話があってな。仙台の指物を仕入れてくることになった。小物が数品だから、私一人で何とかなる。急だが、明朝、出かけるから、八重に伝えておく」
「なんと、急な話ですなあ。夕餉と明日の握り飯など、用意しましょう」
「なあに、隣のお麻さんに頼んだから心配いらぬ。日頃から賄いを頼んでいるのだ。
こんな時だけ八重に頼んでおっては、お麻さんの機嫌が悪くなってしまう」
「お麻さんは父上に惚れていますからなあ。機嫌を損ねたら、怖いですよ。
しかも、母上の事は、三行半を渡したも同然と思っていますからなあ」
「これ、そんなに私を脅すな。
ところで、八郎様と仲良うしておるか」
「はあい。可愛がってもらっております」
「睦事は良いか」
「はあい。とても、ようございます」
「早く、孫を見たいものだな」
「はあい。わかりました。八郎様にお願いしてみます。産婆の梅様と母上からいろいろ聞いていますので」
睦事も、源助と八重には、いたってふつうの会話だ。
「では、明朝、早く発つゆえ、私は夕餉を食して寝るとする。
明朝の見送りは要らぬぞ。八郎様の朝餉の仕度と身の周りの世話を頼むぞ」
「はあい。八郎様はまるで父上の息子のようですなあ」
「かわいい娘の亭主だ。義理の息子じゃよ。
私のことは八郎様に話さんでいい。お役目大事ゆえ、余計な心配をさせてもならぬ。
早う、孫の顔を見せてくれ」
「はあい」
「では、またな」
源助はいつものように、長屋へ帰っていった。
父にはお麻さんがついている。お麻さんは母より器量も良く気丈だ。私など比べものにならぬかも知れぬ。父には母より、お麻さんの方が気心が合っている・・・。
八重は、源助の振る舞いに違和感を感じなかった。
翌朝。快晴の如月(二月)十一日。暁七ツ半(午前五時)。
日の出まで時があった。源助は肌着を重ねて着こみ、厚手の股引を穿いて二重の筒袖の小袖を着て指物師の腹掛けをし、仕事用の足袋を履いた。道中着の換えと足袋と防寒用の綿入れの半纏、合羽、水と握り飯、刀(打刀と脇差)などが入った栁行李を背負った。
「では、お麻さん。行ってまいります」
昨夕、八重の長屋から戻った源助は、
「他言無用だ。お麻さんには一部始終を知っておいて欲しい。
帰った折には、お麻とともに暮らす」
そう決意して事の経緯を話していた。
「気をつけて行ってきてください。無事のお戻りを待ってます」
麻は旅姿の源助に深々と御辞儀した。
源助は奈緒が仙台に戻った折に奈緒を離縁した。奈緒は木村玄太郎の組屋敷を出て実家に戻っていて仙台にはいない。源助と会うこともない・・・。
麻は全てを心得ていた。
源助は麻に見送られ、江戸から仙台まで九十二里三十町、七泊八日の旅に出た。
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