十 側室

 曇天の弥生(三月)二十三日。朝五ツ半(午前九時)。

 八郎の役目が非番のその日。

「源助さん。八重さんを嫁にください。この通りです」

 八郎と八重は長屋の畳に手をついて源助に御辞儀した。ここは日本橋元大工町二丁目の源助の長屋だ。

「藤堂様。私は町人。身分の違いを心得ております。

 武家の御新造様に町人の娘がなるなど、とうてい無理と言うものです」

「源助さんは元は武家なれば、事はさほど難しくはありませぬ。

 八重さんを従叔父の吟味与力藤堂八右衛門の養女にして、その後、私の元に嫁ぐ段取りを講ずるよう、手筈を整えております」

「そこまで手をまわしていましたか・・・。

 私が仕えていた伊達家は財政に窮乏し、口減らしをしました。

 藩に見切りをつけた私は、八重を町人に嫁がせたいと思い、藩の許しを得て武家を辞めて江戸に出てきたのです。その八重が武家に嫁ぐとは・・・」

 八重の父源助は、正座した自分の膝頭を見つめている。

 土間に作りかけの書き物机がある。


「源助さんは、何処で指物の修業をなさったのか」

「冷害による不作が続いた伊達家は財政難でした。それで、指物をこしらえて売るよう指導したのです。それがきっかけで指物を覚えました。

 指物は評判になり、指物師は江戸に招かれたのです」

「そうであったな。そうした事で、この大工町や鍛治町ができた・・・」

「町人になるのは、八重も承知の上でした。

 八重は気が変わったのか・・・」

 源助は優しい眼差しで八重を見ている。

「いえ、変わってはおりませぬ。武家の暮らしは堅苦しくて息が詰まります。

 でも、八郎様とは、ともに暮らしとう存じます。

 八郎様に初めて会うた折からそう思いました。これからは末永く、ともに暮らしとう存じます」

 八重の思いに八郎の顔色が変わった。八郎は言葉が無かった。


 八郎の顔色が変わったのを源助は見逃さなかった。

「藤堂様はここで暮らして、ここからお役目へ出かける事はできませんか」

「なぜにそのような事を・・・」

「八重の思いを遂げさせたいだけです」

「私がここからお役目に行けば、八重さんの思いが叶うのか」

 八郎は八重の気持ちを掴めずにいた。


「藤堂様は、八重と暮らしたい、と思いませぬのか」

「暮らしたいと思う。妻にしたい、と話したはずだ・・・」

 八重は優しく穏やかで利発だ。利発だから穏やかで優しいのだろう・・・。八重は背が高い。童顔で顔だけ見ていると少女のように可愛い。容姿は女らしさが溢れている。巷の男は背丈のある女を嫌うが、私にはこの上なくかわいい女御だ・・・。

「だが、私は公儀(幕府)から御役目を授かる与力だ。何日も組屋敷を空けられぬ」

 与力の藤堂八郎は、将軍から俸禄を受けて北町奉行所に所属する通常の与力だ。代々にわたり、役目のために八丁堀に組屋敷を与えられている。町奉行個人から俸禄を受ける家臣の内与力ではない。八郎の妻は、八丁堀の組屋敷の切り盛りと、与力の家柄の体面を保たねばならないのである。


「この長屋で、八重に目をかけてやってください」

 源助は八郎と八重に深々と頭を下げた。

 父は仙台伊達家家臣として食い詰めた苦い思いがある。二度と武家と関わりたくないと思っている・・・。八重はそう感じた。


 八重が私の正妻になろうとせぬのはなぜだろう。八郎は、八重が武家の正妻になりたくない理由が他に有る、と思えたが、八重を問いつめなかった。八郎は腹を決めた。しばらく長屋に通ってみよう・・・。

「分かり申した。この事、私の親に話しましょう。それでいいですね」

「もちろんです。八重とともに親御様にお話しください」

「はい。八重もそれでいいな」

「はい」

 八重は余計な事を言わずに八郎の考えに同意した。



 昼四ツ半(午前十一時)。

 八郎は八重とともに八丁堀の組屋敷に帰宅し、源助の話を両親に説明した。

 父藤堂八十八は、八郎と八重を北町奉行所へ連れて行き、北町奉行所に詰めている吟味与力の藤堂八右衛門にその旨を伝えた。藤堂八右衛門は、八郎が犯罪に巻きこまれはせぬかと懸念し、ただちに、八郎と八重の関係を北町奉行に報告した。

 その結果、八重の父の源助が北町奉行所に呼び出され、北町奉行立合いの元で、吟味与力藤堂八右衛門による源助と八重の詮議がなされた。

 北町奉行と吟味与力藤堂八右衛門は詮議結果を吟味したが、八重にも源助にも不審な点は無かった。八郎の正妻になるのを拒む理由は、

「堅苦しい武家の生活から町人の生活になった身です。側室として長屋で暮らしとうございます」

 との事だった。


「ならば、八郎が長屋へ通えば良いのか」

「はい、そうです」

 北町奉行の問いに、八重はそう答えた。

「源助も、八郎とともに暮らすのか」

「私は、元大工町二丁目の長屋に住いを移りました」

「では、八重は側室として長屋で八郎と暮らせ。

 源助は元大工町二丁目の長屋に暮らせ。すまぬが、そのようにしてくれ」

 北町奉行直々の沙汰に、八重は、八郎が北町奉行から特別に目をかけられているのを感じた。

「有り難きお言葉に感謝いたします。そのようにいたします」

 八重と源助は、北町奉行と八郎の従叔父の吟味与力藤堂八右衛門に深々と御辞儀した。


 二人が吟味部屋を出ると、八郎と父の藤堂八十八が笑顔で八重と源助を待っていた。

 これで、八重は八郎の側室として北町奉行に認められた。町人風に言うなら妾である。現代の愛人と違い、江戸期の妾は、夫の家族や一族から認められた、れっきとした第二の妻である。

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