八 一夜妻
「八重さんは幾つになられた」
「十八です」
「婚期だな・・・。いい人を見つけたか」
八郎は、八重が、いいえ、と言うのを期待した。
こういう問いをなさる八郎様は、私一人を思っていた・・・。
「まだ、誰もおりませぬ・・・」
八重は素直に答えた。私はずっと八郎様だけをお慕いしてる。今までも、今も、これからも・・・。
まだ、八重には相手がいない・・・。八郎はほっとした。
「良い人はおらぬのか。八重さんなら、男が放っておかぬだろう・・・」
八郎は盃を飲み干した。
「好いたお方はおりまするが、身分が違います・・・」
八重はそう言って八郎の盃に酒を注いだ。
「身分違いとは、それは困ったな」
八郎は八重の気持ちがわかった。八郎は銚子を持って八重の盃に酒を注いだ。
注がれた盃をそのまま膳に置いて、八重は蒲鉾を摘まみながら言う。
「八郎様は、私をどう思いますか」
「見目麗しく可愛い。器量も良い。才も長けている。妻にしたいと思う」
八郎は本音を言った。八郎が八重と知り合ったのは、八重と父の源助が北町奉行所に人別帳の記載で届けを出した三年十ヶ月前だ。八郎は八重に一目惚れして、将来、八重を妻にしたいと思っていた。
八重も八郎に一目惚れして、八郎の妻になりたいと思っていた。
「それなら、今宵だけでも、八重を妻にしてください・・・」
初めて会ったあの折から、私はずっと八郎様一人だけをお慕いしています。今までも、今も、これからも・・・。八重は再びそう思った。
「八重さんの好いた人と言うのは・・・」
「はい。八郎様です。初めて会うた折に、八郎様も八重を慕っているのは存じておりました。違いますか」
八重は微笑みながら八郎を見つめ、肴を食べた。
「八重さんと私は相思相愛だったか」
八郎は頬にほっと安堵の笑みが浮かべ、八重が作った菜を摘まんで酒を飲んだ。
「はあい。相思相愛です」
八重も笑顔で菜を摘まみ、酒を飲だ。
「八重さんは、私の心を見透かしていたか・・・」
「はあい。見透かしておりました・・・。
今宵は、八重を八郎様の妻にしてくださいな。父は帰ってきませぬ・・・」
八重は箸を置いてじっと八郎を見つめ、目を伏せて盃を取った。
「わかった・・・」
八重は戯れに、つかの間の夫婦を演じようとしている・・・。八郎はそう思って承諾した。
「八重。注いでくれぬか」
「はい。どうぞ、旦那様。蒲鉾も、おいしゅうございます。
今日のお役目は如何でしたか」
八重は八郎の盃に酒を注いだ。
「江戸の町人すべてが花見に来ているような賑わいだった。
巾着切りが多くてな。強請、喧嘩、いろいろあった」
八郎は盃の酒を飲みながら、今日の役目を説明した。
「大店も、奉公人が花見に出かけたら、留守になった御店に盗っ人が入りませぬか」
「大店はそれを気にして、留守にしないよう心がけておる」
「大店の商人は、花見もゆっくりできませぬなあ」
八重は八郎の盃に酒を注いでいる。
八郎は八重から銚子を取って八重の盃に酒を注いだ。
「なあに、土蔵がしっかりしておれば、留守にしたとて盗っ人は手を出せぬ」
「そうなのですか」
「盗っ人の中に錠前屋でもいれば、話は変わってくるが」
八郎は肴を食べながら酒を飲んだ。
「あら、野暮な話になって、すみません」
八重が八郎の盃に酒を注ごうとすると、
「八重も、飲みなさい」
「はあい」
八郎は八重の手から銚子を取って八重の盃に注いだ。
「ところで以前会う折、八重は、いつも長屋に居る、と話していたが、日頃は何をしているのだ」
「はい、読み書き算盤の教授と呉服の仕立てをしております」
八重は盃に満たされる酒を見ながら、このひとときがずっと続けば良いと思った。
外で雨の音がする。春の雨。遣らずの雨だ。これで私は朝まで八郎様とともにいれる・・・。
「降ってきましたね・・・」
「うむ。親爺様は濡れて帰ってこようぞ」
そう言って八郎は酒を飲んでいる。
「今宵は、向こうに泊るはずです。
遣らずの雨です。八郎様も帰れなくなりました。ゆっくり飲んでくださいな」
八重は八郎の盃に酒を注いだ。
「すまぬな」
八郎は盃を置いた。八重の手から銚子を取ると、八重は盃を取った。
「今宵はここにお泊まりください・・・」
「わかった。泊めてもらう」
八郎は八重の盃に酒を注いだ。八郎はいつのまにか、八重とともにいるのが当たり前に思えてきた。
それから半時ほど後。
褥に二人の姿があった。
「八郎様・・・。八重はこの時を一日千秋の思いで待っておりました。
八郎様の優しさに触れたあの時から、身も心もこのとおり、トロトロにございます」
八重は初めて八郎に会った時を思い出して八郎の胸に顔を埋めた。
八郎は八重を抱きしめた。思いは八郎も同じだった。
八郎の求めに応じて、八重は八郎の手に自分の手を添えて導いた。
「声が・・・」
八重は八郎に身をすりつけて八郎の唇に唇を触れた。
「親爺さんは気を利かせた。声は気にするな・・・」
八郎はそう言いながら八重を抱いた。
「声が出てしまいます。八郎様が、初めてのお情けと言うに・・・」
「初めて会うた時から、私は八重を思っていた。妻になってくれぬか」
八郎は八重の目を見つめ、導かれた手をそっと優しく動かした。
「はいっ。うれしい・・・」
八重は八郎に抱きついた。
枕元にある有明行灯の明かりは暗い。八重は八郎に身を任せて八郎を引き寄せた。八重は八郎に抱かれて女の幸せを感じた。
翌日。快晴の弥生(三月)二十一日。明け六ツ半(午前七時)。
八郎は流しで顔を洗い、口をすすいだ。
「八郎様。朝餉の仕度ができました。食べてください」
八重は六畳の間に敷いてあった褥を片づけ、朝餉の膳を並べた。
「すまぬな。八重の体が暖かくて心地良く、久々によく眠った」
八郎は八重との一夜を思っていた。
「はあい。八重は今もここがいっぱいで、暖こうございます」
八重は小袖の上から腹部を撫でた。昨夜の睦事で今も身体が火照っている。初めての睦事でこうも心地良く幸せな気持ちになれると思っていなかった。
八郎は八重を抱きしめて、朝餉の膳に着いた。
「では、いただきます」
「はあい」
二人は朝餉を食べた。
「今宵、八重を妻にすると父母に伝える。八重も承知してくれ」
「はあい。八重はうれしゅうございます」
「北町奉行所の閉門は暮れ六ツ(午後六時)だ。八丁堀の組屋敷に戻り、八重を妻にする事を父母に伝えて、八重を娶る策を練る」
「はあい。従叔父上様のお力を借りるのですね」
八重は八郎が、八重を父の従弟、吟味与力藤堂八右衛門の養女にした後、娶ろうと思う、と語ったことを思い出して納得した。
だが、八郎様に嫁ぐ事になっても、ここから離れるわけはゆかぬ。父が伊達家の窮乏を救ったように、私も町人の助けになりたい・・・。
「うむ、従叔父上の力を借りようと思う・・・」
八郎は八重の微妙な顔色の変化を見逃さなかった。だが、一瞬、ここでその訳を問いただしていいものか考えたが、何も訊かぬ事にした。
「飯をお代わりしたい。飯はありますか」
「はあい。八郎様を思って、たくさん炊きました」
八重は八郎と八重自身の体躯を思って笑った。
「今宵、米を届けさせる。ここが我家だ」
八郎は心からそう思った。
「そう言っていただけて、八重はうれしゅうございます」
『八郎様に嫁ぐ事になっても、私はここから離れるわけはゆかぬ。父が伊達家の窮乏を救ったように、私も町人の助けになりたい』との私の気持ちを、八郎様は察したのだろうか・・・。
「では、行ってまいる」
朝餉をすませた二人は互いを抱きしめて唇を重ねた。
「八郎様。こうして抱きしめられて、八重はうれしゅうございます・・・」
こんなに強く抱きしめられたら、今すぐにも睦み合いたくなってしまいます・・・。
八郎は八重の変化に気づき、抱きしめている腕を解いて八重を見つめた。
「今宵は八丁堀の組屋敷に泊まる。独り寝をさせてすまぬ。
明日は、ここに戻る」
八郎は刀を帯びて畳の間から土間の草履を履いた。八重は土間の草履を履いて、八郎に抱きついた。八郎は八重を抱きしめた。
「お待ちしています。八郎様」
八重と八郎は唇を重ねて腕を解いた。
「では行ってまいる」
「いってらっしゃいませ」
八郎は長屋の引き戸を開けた。
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