〜リオン 過去編〜
最悪の出会いは雪の日に (1)
【前書き】
(本編2章の後にお読み頂くことをご推奨いたします)
ノアが8歳の頃のお話になります。視点はノアです。
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冷え込んだ冬の日のことだった。
「散歩に出掛けてくる」
「お気を付けて行ってらっしゃいませ。あまり遅くなってはいけませんよ」
「分かってる」
深々と門の前で腰を折るメイドに見送られ、私は家を出る。散歩に行くと称して家を出た私はメイドの姿が見えなくなると駆け出す。
こっそりと自邸の裏に回ると、私は予め用意しておいた、街を歩いていても違和感がない服に着替える。明らかに貴族然とした服装では目立ちすぎるためだ。顔を見られないよう頭に深く布地を被ると、今度こそ家を出た。
人が盛んに行き交い、繁栄している街並みを私はのんびりと歩いていた。遠くには緑が豊かな田畑が見える。人々の顔には笑顔が溢れていた。歩いているうちにふと細い路地を見つけた私は、そこを抜け裏道に出る。秘密の通路を見つけたようで心は浮き立っていた。
しかし裏道に出た途端、肌で感じる空気がガラリと変わる。殺伐としており重々しい雰囲気である。まもなく深々と雪が降り始めた。
賑わっている表通りとは裏腹に、そこは嫌に静まり返っていた。整備が行き届かず荒れ果てた道にはゴミが沢山落ちており、腐った食べ物が悪臭を放っている。暗い顔をして道の片隅に踞っている、貧相な服を纏った人々。彼らは痩せ細っており、食べ物も満足に行き渡っていないのであろうことは想像に容易い。汚れたボロ布を体に巻きつけた赤子が母親の胸に抱かれ、甲高い声で泣き叫んでいる。
そこはまさに生きた心地がしない、この世の地獄のような環境だった。このような場所があることを初めて知った私は愕然としていた。
その光景を目に焼き付けんと、鼻を摘みたくなる匂いが漂う薄暗い通りを歩いていると、数人の男の怒声が聞こえてきた。私はその方角へ足を向ける。
男達に囲まれていたのは、一人の子供だった。
その子供は私よりも随分と身長が高く、年齢も上だと見える。両腕を上で縛られ、足は左右の柱に括り付けられていた。冬に相応しくない薄っぺらい服を着た彼は降る雪に劣らず、白い肌をしていた。
一人の男が子供の背に細い鞭を思い切り振り下ろす。よくしなるそれは勢いよく風を切る。次の瞬間、パシリと乾いた音が辺りに響き渡った。衝撃の反動で、子供の身体が僅かに反る。
子供は一度も切った事がなさそうなグレーの長髪を胸に垂らし、項垂れたまま動かない。私から子供の顔は見えなかった。
男は何度も何度も子供を打ち続ける。長い手脚を縛られ、細い体で鞭を受け止め続けている子供は項垂れたままで少しも動かない。声の一つもあげない様子はまるで屍のようだった。
私は自分の体に雪が降り積もっていくのも忘れ、その光景を物陰に隠れて眺めていた。
取り巻きの男の一人がポツリと声を上げる。
「……おい。こいつ、もしかして死んでるんじゃないか?」
鞭を振りかぶり続けていた男が動きを止める。
「さっきからちっとも反応がねえ。気味がわりい」
男は黙って鞭を地面に置くと、側に置いてある桶を持った。表面に薄い氷が張った水で満ちた桶を、子供の頭の上でひっくり返す。バシャリと大きな音がして、布切れのような服が子供の細い体に張り付く。髪からポタポタと水滴が落ちた。子供はやっと、気怠げに頭を上げる。
人形のように美しく整った顔。私が今までに会った人間と比することが出来ぬほど、別格に見目が麗しい。眼光は鋭く、野生の獣のように獰猛だった。薄暗い場所に似付かわしくない神秘的な美貌を持つ子供は、凶悪に嗤う。刺々しく毒牙がある花のようだった。
「終わったか?」
子供は狂ったように場違いな笑い声を上げ続け、男達を煽る。
「こいつ……! 死にてえのか」
逆上した男が子供の胸倉を掴み、頬を思い切り殴る。白い頬が赤く色を変える。それでも子供は笑っていた。
「やってみろよ。どうせ出来ないくせに。殴ることはできても、殺すのは怖いんだろ?」
地面に置いた鞭を乱雑に手に取った男が、再び子供に振りかぶろうとした時。勝手に私の足が動いていた。
「――やめろ」
出来る限り威厳を持たせた声を出す。一斉に、その場にいた全員の目が私に向いた。子供は笑い声を止めると、眉間に皺を寄せる。体躯が大きな男達を前にし、思いがけず足がすくんだ。
私の怯みを瞬時に悟ったらしい美しい子供は、相対する私にだけ分かるように唇を動かした。
(にげろ)
私は首を横に振る。強い目をした子供を見ていると、何故か自然と勇気が湧いてきた私は、堂々と男達に近づいていった。
「彼を解放しろ」
男が私に凄む。
「あ? なんだお前。偉そうに。今ならそこに這って謝るだけで許してやるよ。お前もこいつと同じ目に遭いたいか?」
「遭いたいか、と聞かれれば遭いたくはないな」
私は周りを囲んでくる男達を無視して、子供の方へ近づいていく。彼の顎を掴み、私の方を向かせた。そして、彼を威迫した。
「――お前。何をした?」
子供は琥珀色の目で私を睨み付けた。私の目を真っ直ぐに捉えて答える。
「部外者は黙ってろ」
私に少しも気圧されない、人形のように美しい子供は誰よりも強い目をしていた。一切の翳りがない琥珀色の瞳は、これまでに私が見たどんなものよりも爛々と輝いており、私の心を惹きつける。
「ふふっ。良い。気に入った」
すっかり気を良くした私は男達の方を振り返る。男達は突然乱入した私に圧倒されていた。鞭を手にする男を問い詰める。
「答えろ。この子供が何をしたのかを。今すぐに衛兵を呼んでもいいんだが……、穏便に解決した方が互いにとって良いだろう?」
舌打ちをしてから、男は存外素直にもごもごと口を動かした。
「……そいつに盗られたんだよ」
「盗られた? 何を?」
男はポケットから赤い宝石がついたブローチを取り出した。ブローチに付いている赤い宝石は非常に小さく、輝きも鈍い。デザインもありふれた物で珍しさもない。私にはさほど価値ある物には見えなかった。
私は身に着けていた耳飾りの片方を外し、男に放り投げる。慌てた男は両手でそれを受け取った。
「それで許せ。そんな物よりもずっと金になる。そして早くこの場から去れ」
「はあ? 何様のつもりだ!」
男が私に掴み掛かる。弾みで目深に被っていた布地がとれ、その上に積もっていた雪が地面に散った。私の顔を見た途端、男が動きを止める。そしてその顔に恐怖が見え始める。
私からすぐに手を離すと、男は一目散に逃げ出した。その男に続き、他の取り巻きの男達も一斉に逃げていった。
男達が去ると、一気に押し殺していた恐怖心が湧き上がってきた。脚から力が抜けた私は一度大きく息を吐いた。頭上から声が降ってくる。
「…………余計な事しやがって」
嫌悪だけが滲む声で言った彼を見上げる。
「ちょっと待て。今、解いてあげよう」
私は立ち上がり、彼の足を縛る縄を解いてやる。細く白い足首には縄の痕がくっきりと付いていた。靴も履いていない足の爪先は赤く霜焼けている。
続いて、腕を縛る縄も解こうとする。しかし身長に差がありすぎて届かない。
「む」
ぴょんぴょんとその場で跳ねる私を見ていた彼は呆れたように言う。
「……それは無茶だろ」
彼は顎で、ある方向を指し示した。指された方を振り向くと、木箱がいくつか乱雑に捨てられている。それらを集めて積み重ね、段差を作る。やっとのことで彼の腕を縛る縄に手が届いた。
「うん。これで良し」
縄が解け手足が自由になった彼は、足を縛られていた柱に手をつき、今にも折れてしまいそうなほど痩せ細った体を支えた。
「……どうして俺に関わった」
「どうして? 私が君のことを気に入ったからだ」
「俺を揶揄っているのか」
「いいや、全く。私は真剣に言っている」
私は彼の背後に回る。鞭で叩かれ続けていた背中は服にまで血が滲んでいた。
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