浮腫

第1話


 o gloriosa domina excelsa supra

 sidera qui te creavit provide lactasti

 ubere sacro ーーーー聖母マリア讃歌


 人は皆何かを信仰して生きている。それは神や仏だけではなく、家族や友人、恋人、または酒やドラッグにまで及ぶ。信仰とは檻のようなものだ。自由や解放を得たと思っても、自分でも気づかぬ内に信仰に囚われ、行動を制限されてしまっている。だが、そうしないと人は生きていけないのだ。幼い頃の私もそうだった。私には隆二という友人がいた。彼は負けん気が強く積極的な少年だった。私はいつも彼の背中を追いかけていたし、彼のようになりたいと思っていた。

 彼を語る上で、欠かせない思い出が一つある。あれは私が生きてきた中で最も奇妙な体験だった。話してもきっと誰も信じてくれないだろう。たしか当時もそうだった。けれども、今、私は改めてそれを語ろうと思う。誰かのためじゃなく、自分のために。他人から見れば、ただのおとぎ話のように思えるかもしれない。しかし、これは私が経験した紛れもない事実であり、そして、私にとって重要な意味を持つものなのだ。


 私が住んでいる近くに暗沼公園という公園があった。一九五二年に開園された、面積が百ヘクタールもある巨大な公園だった。暗沼公園は敷地内に約二〇〇種類、三〇万本もの樹木が植えられている自然豊かな緑地公園だった。そして、年間約三〇〇万人の来園者がある人気の場所で、巨大なアスレチックや花壇、芝生広場、スポーツ場など様々な施設が置かれていた。名称の由来となった暗沼池は、公園の中で最も大きな池だった。夏には蓮で埋め尽くされ、冬にはアヒルや鴨などの水鳥を見ることができた。

 暗泥池は平安時代後期に編纂された歴史書が初出で、江戸時代初期に製作された地図には、一時期池を囲むようにして、集落が形成されていたということが記述されていた。

 そんな暗沼公園だったが、一つだけ悩ましい問題があった。それは敷地内での行方不明事件が、後を絶たなかったということだ。たしかに、開園初期は森林などもそれほど手入れされておらず、見通しが少々悪いこともあったが、当時よりはそれも改善されているはずだった。それなのにも関わらず、行方不明者の数が減ることはなかった。行方不明者の数は、毎年十人近くにもわたった。そして奇妙なことに、行方不明者が出るのは、決まって雨が降った日だった。その度に警察による決死の捜査が行われたが、いずれも発見には至らなかった。

 そんなある日、暗沼池から溺死した死体が発見されることがあった。警察が身元を調べると、三週間前に行方不明になっていた青年だということが発覚した。遺体は青白く変色し、水分を吸収してブクブクに膨れ上がり、手足の皮膚が剥がれ落ちていたとのことだった。それからというものの、暗沼公園には質の悪い噂が立つようになった。

 それらは「雨の日に行方不明になった人々の霊を見た」や「暗沼池の底には大量の人骨が沈んでいる」などといった何の根拠もないものばかりだった。そして、挙句の果てにはそれらの噂話を合体させたような怪談話まで作られ始めた。その中でも特に有名だったのが「池から聞こえてくる歌」という話だった。ーー「池から聞こえてくる歌」の話はこうだ。

 

 ーーそれは雨が降りしきるある夜のことだった。ある仕事終わりの男が、急ぎ足で道を歩いていた。

 男は残業で退勤するのが遅くなってしまい、いつも楽しみにしていたラジオ番組が聞けなくなってしまうかもしれないと焦っていた。

 そして、ちょうど暗沼公園の前を通りがかったときだった。男の頭に、ある考えが浮かんだ。

「公園を突っ切ればかなり近道になるな。ラジオが始まる時間にもなんとか間に合うかもしれないぞ。」

 男も暗沼公園についての様々な噂は知っていたが、背に腹は代えられぬという思いだった。そうして、男は恐る恐る公園に入っていったのだった。

 公園の中は不気味なほど静かで、今にも何か出てきそうな雰囲気だったが、男はズンズンと進み続けた。アスレチック、花壇、芝生広場、スポーツ場を通り過ぎ、公園の出口まで残すは暗沼池のみとなった。

 すると、暗沼池のそばから何やら人の叫び声のようなものが聞こえてきた。男は森林の中に隠れて耳を澄ました。


ぐろりおーざ どみな えくせるさ すーぺら しーでら くい て くれあびと ぷろうびで らくたすてぃ さくろ うーべれー


 少しの間聞いていると、それが歌であるということがわかった。そして、男は声の主を見つけ思わず息を飲んだ。

 池のほとりに、二〇人程の全裸の人間がいたのだ。彼らの身体は大きく膨れ上がり、皮膚は青白く変色して血管が浮き出し、まるで溺死体のような見た目だった。

 彼らは、皆で輪になって胸の前で手を合わせ、空を向きながら呪文のような歌を繰り返し歌っていた。

 男は恐怖のあまり、腰を抜かして地面に倒れてしまった。後悔してももう遅かった。全裸の人々がその音に気づき、一斉にこちらを振り向いた。

 それを見た男は慌てて立ち上がり、公園の出口に向かって走り出した。すると、全裸の人々もベチャベチャという音を立てながらすごい速さで追ってきた。

 男は必死になって逃げたが、あと少しで出口だという所でついに捕まってしまった。そして、男は暗沼池の底深くに引きずり込まれていってしまったのだった。

 その時も全裸の人々はあの呪文のような歌を歌い続けていたという。


ぐろりおーざ どみな えくせるさ すーぱら しーでら くい て くれあびと ぷろうびで らくたすてぃ さくろ うーべれー


「沼から聞こえてくる歌」は、暗沼公園を利用する人々にとって、リアリティのあるものだった。そして、彼らに恐怖を味あわせるには充分な話だった。

 そのため、雨が降っている日に限っては誰も暗沼公園に近づかないようになってしまったのだった。ーーここまでが私が産まれる前のことだ。  

 私が物心ついたときには、すでにこのような噂が定着していたため、日頃から親や先生に「雨が降っている日には暗沼公園には近づいてはならない」などと強く言いつけられていた。しかし、幼い頃の私にとっては禁止されている理由などはどうでもよく、「破ったら怒られるから守っておこう」という程度の考えしかなかった。その異常さにようやく気づき始めたのは、私が小学校四年生になってからだった。大の大人がそんな迷信を信じて普通の公園を怖がるなんておかしいと思うようになったのだ。

 それは、隆二も同じだった。隆二は私の近所に住む一つ年上の少年だった。彼はやんちゃで何にも物怖じしない性格をしていた。当時の私はそんな彼に憧れ、いつも後ろをついて回っていた。だから、隆二が噂が本当かどうか確かめに行こうと言い出した時も簡単に承諾してしまったのだ。隆二は噂のことをカモフラージュのために作られたものだと言った。つまり雨の日に公園に近づいてはならないのは、恐ろしい存在が現れるからとかではなく、別の理由があるというのだ。たしかに、その方が現実的でありえる話だったし、何より隆二の言うことだから正しいと思っていた。

 その日は、学校が休みだったので、家で昼食を取ってから集合することになっていた。玄関で靴紐を結んでドアを開けようとすると、母が声をかけてきた。

「どこ行くの」

「隆二と遊びに行ってくる。場所はまだ決めてない」

「暗沼公園へは?」

「さぁ、わかんない。どうして?」

「今日は夕方から雨が降る予報だからよ。もし暗沼公園に行くことがあっても雨が降るまでいたら絶対にダメよ」

 私は「はぁーい」という空返事をしながら玄関のドアを開けた。その瞬間、母に肩をつかまれた。

「ちょっと待って」

 私は嘘をついているのがバレたのかと思ってドキリとした。しかし、母は私の頬にキスをしただけだった。

 私は内心ホッとしながら外へ出た。外は心地良い秋の風が吹いていた。

 私が駆け足で暗沼公園に向うと、公園の入口には隆二と裕也が待っていた。隆二が私のことを見つけて言った。

「おせーぞ!」

「ごめんごめん。ちょっと母さんに話かけられちゃって」

「ちゃんと誤魔化してきたか?」

「うん。一瞬ヒヤッとしたことがあったけど多分バレてないよ」

 私がそう返すと、隆二は「よしっ」と言いながら自分の拳と拳を合わせ、気合いを入れる素振りを見せた。すると、裕也がボソリと呟いた。

「ホントに大丈夫なのかな……」

 裕也は私の幼稚園からの幼馴染みだった。彼については、二人だと少ないのではないかと思って私が誘ったのだった。 

「心配ないって。あんなのただの作り話だからさ」

 私は不安がる裕也を励ました。そして、公園の中へと足を踏み入れていった。休日の昼だったので公園は多くの人で賑わっていた。家族連れや散歩をしている老人、ランニングをする人などがいた。私たちは雨が振ってくるまで、家からそれぞれ持ってきた武器を見せ合って時間を潰した。私は以前この公園で拾った折りたたみのナイフを持ってきていた。拾ってからずっと、使い所がなくてもったいなく思っていたが、やっと活躍させられそうで楽しみだった。途中で同じクラスの友人たちに会い、一緒に遊ばないかと声をかけられたが断った。私たちが今日公園に来た目的がバレたら面倒になると思ったからだ。

 三、四時間経った頃、東の空が曇ってきた。そして、それに気づいた人々から順番に帰り始め、公園にいる人の数は少なくなっていった。クラスの友人たちに「お前らまだ帰んないのかー?」と聞かれたが私たちは残った。やがて、公園は私たちを除いて誰も居なくなった。

 私たちは暗沼池のそばにある倉庫に身を隠すことにした。倉庫は掃除をする道具や機械などがあったが、自分たちのスペースを確保する分には充分な広さがあった。小窓から外の様子を窺っていると、ポツリポツリと雨が降り出してきた。そして、あっという間に大降りになった。隆二が「いよいよだな」と呟くと私の心臓がふいに高鳴りだした。ドクンドクンという大きな音が私の体の中で響いている。胸を強く抑えるが、それは鳴り止んでくれない。怖くなどないはずなのに。

 周りを見渡すと、裕也が今にも泣き出しそうな顔でいた。

「おい。大丈夫か裕也。顔が真っ青になってるぞ」

「やっぱりダメだよ。こんなとこにいちゃまずい気がするよ」

「何言ってんだよ。まだ何も起こってないじゃないか。しっかりしろ」

 助けを求めるように隆二の方を見ると、彼は真剣な表情をして、こちらのことなどどうでもいいというように、窓の外を一心に眺めていた。すると突然、裕也が発狂した。

「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」

 そして、裕也は勢いよく立ち上がり、倉庫から飛び出ていってしまった。

 私が「待って!」と叫んでも雨のせいか、あるいは、心の問題か、彼には私の声など聞こえないようだった。

 そして、裕也は雨の中の公園へと消えてしまったのだった。仕方なく、私と隆二は二人で倉庫に残ることとなった。しかし、しばらく経っても何かが起こることはなく、無駄な時間が過ぎた。長い沈黙を破って「どうする?もうだいぶ時間が経ったよ」と、私が聞いたが、隆二は黙ったままだった。

「僕たちも帰っていいんじゃない?」

「………いや、まだだ。ちゃんと確かめないと」

「もう充分確かめたよ。何も起こらなかったって」

 私がそう言うと、隆二はピタリと体の動きを止めた。そして、驚きを隠せないというように私の目を覗いた。

「………お前。さっきの気がついてなかったのか?気づいてて黙ってたんだと思った」

「さっきの?なんのこと?」

「裕也が急に叫び出した理由だよ」

 私はさっぱり意味がわからなかった。

「さっき窓の外を眺めていたとき、池の真ん中あたりにそれが見えたんだよ………」

「それ…………?」

 隆二は俯いて少し前の記憶を思い起こしているようだった。その表情は焦りと恐怖が入り混じっていた。隆二のそんな姿は珍しかった。

「青白く、腫れ上がった人間の顔だ。ちょうど顔だけ池から出ていたんだ。それが、黄色く濁った目でこっちを睨んでた。」

 私は息を飲んだ。そんなのあり得ない。本当だとしたらあの噂とそっくりそのままじゃないか。

「隆二まで変なこと言わないでよ。きっと気のせいだよ」

「だけど裕也も見たんだぞ?ただの見間違いとして済ませてしまってもいいのか?」

 私は何も言えなかった。私たちがここに来た意味を忘れていた。

「だから確かめに行かなくちゃならないんだ。」

 隆二はそう言いながら立ち上がり、倉庫のドアを開けた。

「待ってよ。どこ行くんだよ」

「池のほとりまで行ってさっきの人間の顔を確認するんだ」

 隆二は倉庫から出て、一人暗沼池へと歩いていった。私はそんな隆二の背中をただ眺めることしかできなかった。私には、隆二のように立ち向かう勇気もなければ、裕也のように逃げ出す勇気もなかったのだ。

 隆二は一歩づつ慎重に歩みを進めた。大降りの雨が隆二の髪を濡らし、服の色を濃くした。隆二は長い時間をかけようやく池のほとりへとたどり着いた。池の周りには背の高い雑草が生い茂っていて隆二の下半身を完全に隠した。

 隆二は靴を脱いで池に足を沈めた。そして、手で水の中を探り始めた。池は隆二の膝上ぐらいまでの深さがあり、人が潜るには十分だった。隆二はバシャバシャと音をたてながら五分ほど動き回った。しかし、いくら探しても何も見つけることはできなかったようで、ついに動きを止めてしまった。そして、隆二が振り向き、倉庫に戻ろうと足を上げた。そのときだった。

 突然、隆二が頭から池に突っ込んだ。躓いただけかと思ったがそうではなかった。隆二はバタバタと暴れながら声にならない声をあげた。彼は、何かに池の中へ引きずり込まれようとていた。

 私は思わず倉庫から飛び出し、池に向かって走り出した。雨粒が顔面に当たって目を開けることができなかったが、私はがむしゃらに駆けた。雑草の群生を飛び越え、池にダイブした。ドロッとした不快な感触を足の裏に伝わり、激しい水飛沫が上がった。泥水が顔にぶつかり、ドブのような強烈な異臭が鼻をついた。私はうつ伏せの状態のまま暴れている隆二の両腕を掴み、思いきり引っ張った。たが、隆二はピクリとも動かなかった。池の底にいる何かが、恐ろしい力で隆二を押さえつけていた。「もう間に合わない」そう思ったときだった。

 池から白い何かがぬっと姿を現した。それは異常なほど膨れ上り、醜く腐っていたが紛れもなく人間の顔だった。その見た目はまさに溺死体だった。そして、隆二のいった通り汚れた黄色い目で私を睨んでいた。噂は本当だったのだ。私は咄嗟に腰の後ろに挟んでいたナイフを取り出した。そして、白い顔の真ん中にそれを突き刺してやった。グチャッという水を切ったような音がしたが、手応えはあった。

 白い顔は低くしゃがれた奇声をあげた。それと同時に隆二の体が持ち上がった。今まで隆二を押さえつけていた力がなくなり、私は後ろに崩れ落ちてしまった。私は混乱しながらも、急いで体勢を立て直し、隆二を引きずりながら倉庫まで懸命に走った。その際に、ナイフは池に置き去りにしてしまった。

 倉庫に逃げ込んで隆二を見ると、彼は朦朧としながらもなんとか意識は保っていた。「大丈夫か」と私が声をかけると、隆二はいきなり嗚咽し始めた。そして、掠れた声でボソリと呟いた。

「……すまない。全部俺のせいなんだ」

「落ちついてよ。僕だって本当にあんながのいるなんて思いもしなかった。だから君は何も悪くないよ」

「違う……違うんだ!」

 隆二は私の服の襟を掴んで叫んだ。隆二の顔はひどく引きつっていた。

「俺は知ってたんだよ。噂が実在するってことを」

 私はとりあえず隆二を落ち着かせなければと思い、彼の肩を支え、床に座らせた。すると、隆二は涙を拭いながら言った。

「……あの怪談あっただろ。『池から聞こえてくる歌』のことだ。あれ、実は俺の父親の話なんだ」

「ま、待ってよ。なんでそうなるんだ。あの怪談は噂が広まってできたただの作り話だろ?」

「違う……。あれは父親が、いや、正確には俺の母親が経験した事実なんだ……」

 そう言って、隆二は事の真相を話し始めた。

 隆二の話によると、怪談に登場するのは男だけだが、実際は父と母の二人だったという。二人は同じ職場で恋人関係になり、その時にはもう母親の腹の中に隆二がいた。

 その日、二人はいつものように仕事から帰っていた。しかし、母親がいきなり吐き気を催してしまったので、公園を突っ切って急いで帰ることになったのだ。そして、あの出来事が起こったのだった。

 怪談の通り、父親は池に引きずり込まれてしまったが、母親の方はなんとか逃げ切った。それはきっと子を守ろうとする母親の本能によるものだったのだろうと隆二は言った。母親は警察にそのことを話したが、当然信じてもらえず、その話が改変されて広まったのが「池から聞こえてくる歌」だった。そして、その後に隆二が産まれた。隆二は母からその話を何度も聞かされた。だから、隆二が暗沼池について調べ始めたのはごく自然な流れだった。 

 隆二曰く、暗沼池は江戸時代初期にキリシタンの集落が形成されていたのだという。しかし、慶長一八年に江戸幕府から禁教令が出された。それによって、キリシタンたちは国外や奥州に追放された。そして、寛永一四年に起こった島原の乱以降はさらにキリシタンの取り締まりが厳しくなり、たくさんのキリシタンが殺されたのだった。

 暗沼池に集落を作った人々は、そんな弾圧から逃れるために、キリシタンであることを隠して暮らしていた。彼らは所謂「潜伏キリシタン」だった。しかし、彼らが見つかってしまうのも時間の問題だった。彼らがある大雨の日に一文無しの旅人をもてなしてやったことで、潜伏キリシタンであることがバレてしまった。

 幕府は直ちに暗沼池に兵を送り、村人たちは全員処刑されてしまった。三〇人だけの小さな集落だったが女子供も構わず皆殺しだったという。そして、殺した死体を暗沼池に沈めたのだった。彼らは、聖母マリア讃歌である「オラショ」を死ぬ間際まで歌い続けた。オラショはキリシタンたちが口頭によって伝えてきた祈祷文だった。隆二の両親が聞いたのはオラショだったのだ。

「すまなかった………。俺は池に行けば父さんを見つけられると思ったんだ」

 隆二は再び涙を流しながら言った。私にはどうすることもできなかった。私はただ無言で隆二の話を聞いていた。

「俺は嘘をつき、お前たちを巻き込んでしまった。愚かだった………」

「すまない…………すまない…………」

 隆二は何度も何度も私に頭を下げながら言った。私は隆二こんな姿は見たことがなかったし、見たくなかった。

「………もういいんだ。謝ってもどうにもならないよ」私は隆二の肩を支えながら言った。

「それよりほら、裕也を見つけてもう家に帰ろう」

 私がそう言いかけたときだった。倉庫のドアが激しく叩かれ、低くうねるような叫び声が上がった。私たちは慌てて窓から外を見た。そして絶望した。倉庫の外は、青白く腫れた全裸の人々で埋め尽くされていた。彼らは性別を判断することも困難なほど膨れ、腐り果てていた。私たちは話に夢中になっていてベチャベチャとなる彼らの足音に気づかなかったのだ。彼らはただひたすらに倉庫を突破しようとしていた。そこには理性はなく本能として私たちを池に引きずり込もうとしていた。黄色く濁った目で私たちを狙っている。そして、彼らはあの歌を歌い出した。


ぐろりおーざ どみな えくせるさ すーぱら しーでら くい て くれあびと ぷろうびで らくたすてぃ さくろ うーべれー


 オラショだ。その歌を聞いた瞬間、私は耳を疑った。私はこの歌を恐ろしい呪文のようなものだと誤解していた。しかし、今耳にしているのは正反対のものだった。美しい音色で心が浄化されるような気分になった。

 全裸の人々の声がさらに大きなものになり、倉庫全体がグラグラと揺れ始めた。扉にはヒビが入り、このままここに籠城するにはもう限界の状態だった。こんな絶望的な状況であるにも関わらず、私は逆に冷静だった。私はもはや恐怖など忘れ、死を受け入れ始めていた。むしろ、最後にあんな素晴らしい歌を聞けるなんて、幸せだとすら感じた。私が目をつぶり、全てを諦めたとき、隆二が言った。

「お前は一人で逃げろ」

 私が隆二の方を振り返ると、彼は手に金色のメリケンサックを嵌めていた。それは、隆二が武器として持ってきていたものだった。

「いいか。扉が開いたら、窓を割ってそこから抜け出すんだ」

「どういうことだよ。じゃあ隆二はどうするんだよ」

「俺はここで奴らを引き付ける」

「だめだ!隆二も一緒に逃げるんだ!君がいないと僕は何もできないんだ!」

 私がそう叫ぶと、隆二はニヤリと笑った。

「お前はもうなんだってできるさ。俺を助けてくれたんだから。お前には勇気がある。自信を持って生きろ」

 私はいつの間にか目から大量の涙を流していた。

 ガキンという音ともに鍵が壊され、扉が破られた。そして、そこから全裸の人々がなだれ込むように入り込んできた。

 その直後、隆二が雄叫びを上げ、集団の中へと突っ込んでいった。隆二は本来の自分を取り戻していた。あれこそ、私が憧れた彼の姿だった。

 そこからの記憶は何故かあまり残っていいない。私は窓を飛び出し、後ろを振り返ることなくひたすら公園の出口を目指して走った。公園を出ると近くにいた大人に事情を説明して警察を呼んでもらった。

 数時間後、雨がやみ、警察が暗沼池を調査したが隆二と裕也は二度と見つからなかった。隆二の母親は息子まで消えてしまったショックで精神病にかかり、その後自殺してしまった。私は警察に細かく何があったのかと聞かれ、ありのまま全てを話したが、一切信じてもらえなかった。すると、私に疑いの目が向けられるようになった。だが、当然いくら調べても証拠などは出てこなかった。近所では、私が殺して池に沈めたなどと言う人々が現れ、嫌がらせを受けるようになった。中学三年生のとき、私が学校でいじめにあい、怪我したのをきっかけに、引っ越すことになった。それ以降、私が暗沼公園に行くことはなかった。

 暗沼公園が廃園になると聞いたのはそれから五年後のことだった。何でも大きなマンションが建つとのことで、暗沼池も埋め立てることになった。しかし、工事中に事故が起こり、計画は破綻になってしまった。それからというものの、公園は廃園とはならなかったが一部が閉鎖になり、雨の日に限らず人気がなくなってしまった。

 私はそれを聞いて、暗沼公園に足を運ぶことにした。一時間電車に揺られ、駅につくと懐かしい景色が目に飛び込んできた。私はここで生まれ、ここで青春時代を過ごしたのだ。公園は五年前とかなり変わってしまっていた。草木は手入れされず放置され、道にはゴミが散らばっていて、建物にはラクガキが書かれていた。さらに、人が最も集まる夕方の時間だというのにも関わらず、あたりは静まり返り、廃墟のようになってしまっていた。

 暗沼池は周囲を立ち入り禁止のフェンスで囲まれていて、池のほとりに入れないようになっていた。池のそばにあった倉庫も今では取り壊されてしまっていた。私はフェンスの前に立ち、池を眺めた。しばらくそうしていると、どうしてか昔の自分を思い出した。あの頃の私はいつも隆二について回っていた。私は好奇心のある子供だったが、行動に起こそうとする勇気がなく、彼に頼るばかりだった。私はどうしてここに来ようと思ったのか自分でも分からなかった。しかし、何となくそうしなければならないような気がしたのだ。私はいつの間にかフェンスをよじ登り、池に向かって歩き始めていた。池からは聞き覚えのある歌が聞こえていた。


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