どこででも変わらない僕ら

メダカのえさ

1-1話【HelloWorld】



 ルーナティア城の長い廊下に敷かれた深みのある赤い絨毯は、しかし荘厳かつ尊大な見た目の割に実際の所はかなり毛足が短く薄っぺらくて、まじまじと見てみると何だか安っぽく「この国も経営難なのかな」だなんて事を思ってしまう。

 一歩、また一歩と歩く度に小さく僅かな音ながらもこつこつと足音を響かせるその絨毯だが、実際それは経営難によりぺらっぺらのものを敷いている訳では無いらしく、毛足が短いのも生地が薄いのもちゃんと理由があるのだという。

「毛足が長いと歩き難いですし、砂粒が毛に埋もれて目視で発見し難いんですよ」

 少しだけグレーが掛かった白く長い髪をした身長三・・・メートル・・・・、四本指な種族のメイドであるトリカトリ・アラムが訳知り顔で言うと、僕は思わず「砂粒が見辛いと何かあるのか?」と問い掛けていた。

 するとトリカトリはシレッとした顔で「はい、もろちんです」と頷き、僕は反射的に「もろちん言うな」とツッコミを入れてしまう。

 が、トリカトリはそれを無視して「そうですねぇ……」と少しだけ思案してから僕に向き直る。

「例えばタクト様、貴方が完全屋内の廊下を歩いている時、足元が露骨にジャリッとしたら少しだけ不快ではありませんか?」

 僕らのような人間と違って四本指である分、一本一本がとても太く大きな指をピンと立てながら言うトリカトリに「まあ……ちょっとだけ、ん、って思うかな」と返せば、トリカトリは妙に艶のある唇を歪めて「はい」と微笑んだ。

「頻繁に人が行き来するお金持ちのお城で足元ジャリッてしたら、掃除が行き届いてないのかなーって思う人が多いでしょう。少なくともわたくしはそう思いますわ」

「あー………だから「目視で確認し易い」なのか。取り残しとかが分かるようにって事だな」

「タクト様はご理解が早いですね、良い事ですよ」

 僕の言葉に「なでなでして差し上げましょう」だなんて言いながら巨大な四本指の手で僕の頭を撫でるトリカトリに「やめてくれよトリカ……僕は兄様・・になる気は無いぞ」と巧みにその指から逃れようと体を動かす。

 するとトリカトリは僕の頭を追い掛けるのをやめ、「小賢しいですね、よいしょ」だなんて言いながら僕の体をわっしと掴んだ。

 そもそも人間では無い大柄な種族であるトリカトリは、身長もそうだが手足の長さや大きさ……胸の大きさだって人間と比べればかなり大きい。トリカトリは「私の種族としては平均値ですよ、胸以外は」と言っていたが、何にせよ一つ一つのパーツが大きいという事は当然ながらそれを動かす為の筋肉量や腕力もかなりのものという事であり、そんなトリカトリに鷲掴みされた僕は本能的な恐怖心から「うわっ!?」と呻きながら少しだけ抵抗してしまう。

「別に食べませんよ。トリカの種族は人間食べませんし、トリカ今はお腹減ってません」

「…………………本当かよ、食べててもおかしくない感じするぞ」

 トリカトリとほぼ真正面から向き合う僕が弱々しく呟くと「人間は臭みが強くて美味しくないの、トリカ知ってますから」だなんて事を言う。

 身長が三メートルもある故に滅多に目線の合わないトリカトリは、ファッションでも何でも無い本職メイドである関係から余り口を開けて笑わない。柔和に微笑んで喉を鳴らす事はあっても大口開けて笑う事の無いトリカトリの、普段は見れないギザギザとした無数の犬歯がぬらりとした赤い舌で舐められ妖しく輝く。

「知ってるって………食べた事あるのか?」

「ふふふ………どう思いますか? 当てれたら、当てた通りにして差し上げますよ」

「食べた事無い。僕をおちょくってるだけで、実際は食べた事無い。ジョーク」

「メイドジョーク?」

「メイドジ────いやメイド云々は知らんけど、ジョークジョーク」

 早口になりながら言う僕にトリカトリがにやりと笑う。と思えばトリカトリは何も言わず、ゆっくりと僕に顔を近付けてきた。

 必然、トリカトリ・アラムというクソデカメイドの艶やかに潤った唇が僕の視界に入る。何かエロいなとか場違いな事を思った僕が反射的に目線を上げれば、口元と同じくやはり普段は余り直視する事の無い、猫のような縦長の瞳孔と見詰め合う。

「…………トリカ?」

 全てが人間とは異なるメイドがゆっくりと顔を近付けてきて、ただの人間である僕はまさか、と息を呑む。

 やがてトリカトリはその唇を僕の耳元まで近付けて、

「………ひみつ」

 吐息のような声色、脳髄に響き渡り頭蓋の中で反射するような声でそう言うと「メイドは秘密が盛り沢山なんですよ」だなんて言って、ようやく僕の体を廊下に下ろした。

「当てれてはいないので、タクト様を食べるか食べないかは見送りですね」

 口元を指先で隠しながら楽しそうに「ふふふ」と笑うトリカトリに、何だか少しだけ腹が立った僕が「……当ててやるよ」とその顔を見上げながら呟く。

「おや? 当てれますか? サイズ的に丸呑みとはいきませんが、当てられたら美味しく食べて差し上げ───」


「トリカ、今日の昼飯サバ味噌だったろ。凄え魚臭かった」


 したり顔をしながら僕を見下ろすトリカトリが、僕のやり返し・・・・にぶわっと顔を赤くする。ばっと口元を手で押さえて隠すトリカトリに「ラムネが欠伸した時と全く同じ臭いがした、さかなくちゃっ! ってなった」と追撃してみれば、トリカトリは「そっ、そこまで言わなくてもよろしいですっ!」と、その大きな手をわたわたと動かしながら自身の顔の周りの空気を必死に動かす。

「今完全にえっちな感じの雰囲気だったじゃないですかっ! 何かっ……こうっ、そのっ………えっちだったじゃないですかっ!」

「僕はサバ味噌をエッチだとは思わない」

Damnクソが! サバ味噌じゃ無ければタクト様の好感度を稼げていたのにっ!」

 確かに耳元で囁かれた際は「ASMRかよ」とか思ったものの、直前にしていたのは人肉食に関しての話だったし、そこにサバ味噌独特の力強い香りがふわっと漂ってくればお腹が減りこそすれエッチだとは思えない。

 何やら妙に悔しがるトリカトリに「僕の好感度稼いだ所で何の価値も無いだろ」と答えれば、身長三メートルのクソデカメイドは「因みに、なんですけど」と少しだけ小首を傾げながら問い掛けてくる。

「トリカのお昼ご飯、何だったらえっちでした?」

 身長三メートルのクソデカメイドが可愛らしく小首を傾げながらそんな事を聞いてくるトリカトリに思わず「は?」と眉間にシワを寄せると、トリカトリは「いえ他意は無いんですけどね?」と何やら言い訳をする。

「今後の参考にしようかなって思いまして」

「いきなり何だよお前、何の参考だよ」

「タクト様の好感度稼ぎに決まってるじゃないですか。こんな可愛いメイドさんに気に入られて、タクト様も幸せさんですね」

 再び妙なしたり顔をしながら、少しだけ悪戯っぽく大きな指で口元を隠すトリカトリ。

「好感度マックスになったらどうするつもりだった?」

「買い出しのパシリになって貰おうかなって。お仕事疲れます、膝痛い」

「他意しか無えじゃん」

 はてさてこれはジョークなのかどうか。トリカトリなりのメイドジョークとやらなのか、それとも本当に好意を持ってくれているのか。

 こういった時はジョークだと思っておくに限る。僕は生前も死後もただの陰キャだが、落とした消しゴムを拾って貰っただけでクラスメイトに惚れるようなファッキンクソナードにはなりたくない。

 笑う要素が無かったというのもあるが、あくまでも無表情で居続ける僕に「で?」とトリカトリが再び首を傾げる。

「結局何ならえっちなんです?」

 こつこつと廊下を進むトリカトリに並んだ僕が「まだ続けるのかその話題、もう流せよ」と返すが、しかしトリカトリは「そうはいきませんよ」と何故か力強い。

「空欄で提出したテストにバツが付けられていたとしても、それを受け取ってはい終わりではいけません。ちゃんと復習して、正しい答えを再記入して初めてテストが終わるんです」

「サーモンとかならエロく感じる」

「くぱっと開いてサーモンピンク?」

「うん」

「このスケベ」

「言い出したのトリカじゃないか」

 問われたから答えただけだというのにこの言われよう、不満を隠さない僕の顔を見ながら、しかしトリカトリは「だからタクト様は愚者なんですよ、このむっつりスケベ」と蔑む眼差しで僕を見下ろし続けた。

「ひたすら「何だったらエッチか」って聞いてきたのはトリカだろうがこの変態メイド。四の五の言わずにご奉仕しろ、しゃぶれオルァン」

「うわ出たメイドイコールえっちなご奉仕だと思ってるヒキコモニート」

 クソみたいな言い返しをした僕に、トリカトリが露骨に嫌そうな顔をする。それに「違うのか?」と疑問を投げれば、トリカトリは即座に「違いますよクソナード」と、本職メイドがする発言とは思えない単語を返してくる。

「雇用契約書が存在しないうそっこメイドでも無し、そんな時間ある訳無いじゃないですか。ただでさえ超過労働で寝る時間少ない割に朝早いっていうのに、わざわざちんちんおしゃぶりして腰振ってる時間なんか無いです。仮に特殊手当が出たとしても、それでも誰かと寝てる時間があったら一人で寝ます」

 言いながらぶふぃぃと大きな溜息を漏らすトリカトリ。

 そんな彼女に「……ん?」と僕は思わず首を傾げてしまった。

「………何か、ぶっちゃけそんな忙しそうには見えないんだけど。トリカって大体『いつものメンツ』と一緒にダラダラしてるじゃん」

 僕の言葉に「あぁ、それですか」と得心したトリカトリが「それもお仕事ですからね」と僕の目を見て、少しだけ落ち着いた声色で呟く。

「僕らとダラつくのがメイドの仕事?」

「タクト様やヒカル様のような愚者・・を監視するのがトリカのお仕事です。呼び出した愚者の中でも、お二方は何するか分からない筆頭ですからね」

 どこか遠い目をするトリカトリ・アラムの言葉に、僕は思わず眉間にシワを寄せてしまった。



 ………広い世界の小さな一角に、サンスベロニア帝国という名の独裁国家が存在していた。

 地図上では南辺りに位置する国。そこはある種の民主性を持ちながらも、独裁制度を維持する事に成功している国家。憲法内に「王様の言う事が絶対である」という旨の記述があるものの、その王の下に四つの党が存在しており、基本的には国王であり総帥でもある王が全ての決定権を持っているが、四つの党首を選挙制で選ばせる事で「民主性がある」と民に思わせる事に成功していた。

 先軍思想、先軍政治国家であるサンスベロニア帝国は『国家運営において何よりも先ず軍事を優先する』という政治思想を持つらしく、要約すると「多少国民に飢えを強いてでも軍事強化を優先する」というものだが、サンスベロニア帝国はそれにおいてある程度成功しており、国民は総じて豊かな暮らしを得られているのだという。

 ……例えば1989年に発生したルーマニア革命では、独裁国家に不満を抱いた国民による暴動が全国規模で発生した。それを受けた当時の独裁者チャウシェスクが軍を動かし鎮圧させようとするが、その軍隊すらもが国民側に寝返った事で政権は崩壊した。

 こういった事態を想定したサンスベロニア帝国は「軍隊が国民側に付けば、必ず体制が崩壊する」という懸念に危険性を感じ、不満を抱いた国民が反乱を起こした際に軍がどう動くかを重要視した事で、確実に軍隊を掌握出来るよう先軍政治に至った。

 このやり方は北朝鮮とかなり似ているが、サンスベロニア帝国は北朝鮮とは違って独裁国家としては極めて成功した部類になっている。

 とはいえ、である。とはいえ独裁国家はどうしても長生き出来ないもの。現時点ではサンスベロニア帝国での国民に不満は無いが、サンスベロニア帝国は地下に軍事兵器の生産区画を掘り進める選択を取るぐらいには土地に恵まれておらず、故にいずれ来たる食糧難等に備える為、正面国であるルーナティア国を手にする事で領土を広げる為に宣戦布告と至った。

 ………地図上で南側に位置するサンスベロニア帝国が王族の血筋が全てを統べる独裁国家であるとすれば、地図上で北方に位置するルーナティア国は完全なる実力主義の独裁国家だった。

 兎にも角にも力が全て。力さえあれば何をしても許される無法地帯のようなルーナティア国は、しかし今は下克上を成功させた一匹の淫魔サキュバスが女王となり統治している。

「……………僕みたいなパンピーに何か出来るとでも思ってるのかよ」

 そんな武力国家に対して宣戦布告を行ったサンスベロニア帝国は、戦争を勝利に導く為の駒として異世界から『大成して死んだもの』である勇者・・を十二人呼び出した。

 パラレルなのか平行なのかは知らないが、数多の世界から呼び出された勇者に対し、ルーナティア国は遊び心を見せ『しくじって死んだもの』である愚者・・を同じ数だけ呼び出す事で戦線の拮抗を狙った。

「パッと見ただけではヒカル様や首様くびさま辺りが危険視されますが、長い目で見ればタクト様が一番どうなるか分からないんですよ。早い話、最も先が読めないのが貴方なんです」

「…………………」

 期待されているような、期待されていないような、判別し難いその言葉に不満を隠さない僕。それを見下ろしたルーナティア城のメイドであるトリカトリ・アラムは「文句は私では無く陛下に向けてくださいまし」と開き直ったように吐き捨てた。

「トリカとしましても、今のお仕事そのままに監視のお仕事が増えるのは当然嫌です。ですが陛下に意見する勇気が無いので、今こうしてタクト様と廊下デートと洒落込んでいるのですよ。嫌だというなら嫌だと言えば良いのです」

「………言ったら通るのかよ」

「殺されるだけじゃありませんか? ここ最近の陛下は極めて攻撃的ですから。………直近では、サンスベロニア帝国の間者に扇動されたレジスタンスが頭と背骨だけにされてましたね」

「…………見たよ。城の前に並べられてたな」

 確か三日か四日ぐらい前の話。愚者として花の異世界転生を成し遂げた僕らは、しかし現地の文字が分からず働き口が殆ど無いので、ルーナティア国から『生活金』として幾らかの金銭を受け取っている。とはいえそれも僕が知る通貨とは全く違うので、トリカトリと同じルーナティア生まれの悪魔であるジズに金の数え方を教わっていた訳なのだが、数日前にそれを使って飯を食べようと城から出て城下に向かおうとした時、ルーナティア城の入り口にある大広間のような場所に見知らぬ人たちが頭と背骨だけにされて並べられていた。

 大体二十人ぐらいだったろうか。頭から上を杭のようなものに突き立てられたその人たちは、上顎に引っ掛けられた杭を中心にぐるぐると背骨を巻き付けられな形で処刑されていた。

 昼飯を食べようと城から出た瞬間そんなものに出会でくわせば食欲なんて当然消し飛ぶし、それを見て思考回路が破壊されてしまった僕は、削ぎ落とされた肉や手足がどこでどうなっているのかなんて考える余裕が無かった。

「ああはなりたくないというのであれば、流されてダラダラしていれば宜しいのです。流される事は罪ではありません、流れに逆らう事の方がよっぽど辛い思いを致しますから。逃げる事、逃げてしまう事、それは決して悪ではありませんよ。誰だって辛いのは嫌ですからね」

 穏やかに言うトリカトリが大きな四本指の手で僕の頭を撫でる。それに「流されてれば殺されないで済むのかよ」と返す僕は、しかし先程とは違ってその指から逃げるような心の余裕は無かった。

「ええ。トリカは陛下の王位継承からお城に勤めていますが、陛下は流されるものに対しては極めて寛大なお方です」

 項垂れる僕にトリカトリが言う。

「………………流されても、僕には溺れ死ぬ事しか出来ないぞ」

「それでも流れに逆らうよりは長生き出来ますよ。陛下は「上手く出来ないもの」より「上手くやろうとしないもの」に対して、強い怒りを覚えるお方ですから」

「違ったらどう責任取ってくれるんだよ」

 そんな事を言ってから、僕は強く後悔した。口を突いて出てしまったそんな言葉、責任なんて誰にも取れる訳が無いのに、けれどそんな無責任な事を言われたトリカトリは「トリカの夢枕にでも立ってください」と何も気にしていないような声色で答えた。

「流され溺れ殺されてしまったら、ラムネ様のように幽霊にでもなってトリカの枕元に立ってください」

「立ってどうするんだ。謝ってくれるのか?」

「無言でトリカのオ◯ニーでも眺めていてください。そしたらトリカ、「タクト様に見られてるのにぃっ! 気持ち良くなっちゃいますぅっ!」とかそんな感じの事のたまいがらマス掻きますから」

「酷えメイドだ。最悪だよ」

 意図して流れを変えてくれたトリカトリが「殿方はそんなメイドがお好きなんでしょう?」と笑い、僕の頭をぽふぽふと撫でる。そんなトリカトリに……いや、そんなトリカトリが相手だからこそ、僕は素直に「うん」と頷く。

 大きな手で小さな僕を撫でるその指先は、しかし下世話な言葉に反してとても優しい手付きだった。



 やがて歩みを再開する僕とトリカトリ。話題が話題だったからなのか、それとも弱い僕の心にトリカトリが気を遣ってくれたからなのか、どうしてかお互い何も語らないままルーナティア城の中庭に辿り着いた。

「──────────」

 中庭の端の方にある東屋あずまやの丸テーブル。腕を組んで目を閉じ、瞑想するかのような体勢で椅子に座る金髪の女は、まるで絵画から飛び出してきたかのような荘厳さを醸し出していた。

 太腿まで伸びる長い金髪は天然パーマだそうで、やんわりふわふわと大きく広がりながら微風そよかぜになびく。しっかりと組まれた腕に乗せるようにした爆乳は男女共に二度見してしまう程に特徴的だが、けれど本人はその大き過ぎる胸を強く嫌っていた。

「…………ひかる、先に来てたのか」

 思わず見惚れてしまいそうになった僕がか細い声で彼女の名前を呼ぶと、橘光たちばなひかるは「んぁ?」と呻きながら閉じていた瞳をぼんやりと開けて僕らを見た。

 そして流麗な口元を悪戯っぽく歪め、凛と透き通るようなエセ関西弁で「ようやっと来たか」と背筋を伸ばし────、


「随分遅かってんけど………もしかして二人でセックスオンザビッチけ? 朝っぱらからお盛んやな、ちゃんと避妊したか? 腐っても戦争中なんに赤んこさえたら大変やで、外に出すから大丈夫ーとかバカみたいな事聞き入れたらあかんでよ」


 ────クソみたいな事を言い出した。


「待ってくれ何のはな────」

「タクト様が中に出したいって駄々をこねまくったので仕方無く中で受け止めました。長々と切れの悪いお射精でしたよ」

「ぶん殴るぞお前」

「タクトのちんちんやとトリカ的には物足りんくないか? 体感ゴボウと土管やろ」

「ゴボウというよりは爪楊枝ぐらいの感覚で───痛っだァッ!?」

 本当は顔面をぶん殴ってやりたかったものの、しかしトリカトリ・アラムは身長三メートルもあるクソデカ女。「ヴんッ!」と唸った僕に太腿辺りをぶん殴られたトリカトリが「何でトリカだけ殴るんですかぁっ!」と不満を隠しもしない涙目で僕を見下ろした。

 そんなトリカトリに僕が「光は距離的に遠かった」と返せば「トリカは手近で手頃な女なんやな」と橘光がヘラヘラと気の抜けた笑みを浮かべた。

 ………数秒前まで絵画から飛び出してきたかのような雰囲気をしていたのに、口を開けば胡散臭いエセ関西弁でひたすらシモネタばかりな愚者の一人。それが橘光という女である。

 パラレル的ではあるが、同じ日本から呼び出された愚者同士という事で仲が良くなった。所謂「よしみ」と言うべきか、それとも「同じ穴のむじな」とでも言うべきなのか。今はもう慣れたが、当初は「こんなのが僕にとってのヒロインAかよ」と頭を抱えたものだった。

「というかヒカル様の言い方よくよく考えるとまるでトリカが土管級のガバマンみたいな言い草ですッ! ほらタクト様ッ、ゴーゥッ!」

「イェアーッ! ───おるァッ!」

 とはいえ僕も光と同じように馬鹿おろかものである事に変わりは無く、光に向けてヂュビシッと差し向けられた太い指先に従い足を踏み出した僕がそのままもっさり広がる金髪目掛けてチョップを仕掛ければ、

「───────ええ度胸やん」

 低く唸るようなドスの効いた声と共に、光の瞳が攻撃的に歪む。かと思えば僕の手首が異様な程の強い力で掴まれ、肩が抜けそうなぐらいの勢いで引っ張られた。

「おわ───もぶふ」

 ぎゅっと抱き寄せられる僕。そのまま両腕で頭を押さえ付けられれば「取り敢えずキロから計測、ミリグラム以下は切り捨て」とでも言わんばかりの爆乳が口元に押し付けられる。

 ………が、光が着けているブラジャーは垂れや型崩れ防止用の厚手のカップが入っているタイプなので、正直殆ど柔らかさなんて感じられず楽しくも何とも無い。

「トリカ孕ませた次はウチに中出ししてくれるけ? ……ええよ、ウチもタクトの赤ちゃん産みたい。産ませて?」

 故に、ルーナティアのエロスEROSとでも言わんばかりの女からそんな事を言われた所で嬉しくは無く、むしろ口元に押し付けられた爆乳のせいでひたすら息苦しいだけな僕は、

「僕おっぱいは小さい方が好みです」

「トリカ、断髪式ならぬ断乳式や。介錯頼むわ」

 そんな答えに不機嫌ありあり。ぺっと僕を投げ捨てた光の苛立ちまみれなそんな言葉に、しかしトリカトリも慣れたもので「切り落としたお胸はどうなさいますか? 魚拓ちっくにパイ拓とか取りますか? それともホルマリン?」だなんて返す。

「捨てろこんなもん、豚の餌にせえ」

「それをすてるだなんてとんでもない」

 僕が反射的にそんなような事を言うと、光は不満の篭った目で唇を尖らせて僕を睨む。

「ならタクトはウチのおっぱい好き? 母乳出るようにしてくれるけ?」

「んー………」

 言われた僕がその爆乳をしげしげと眺める。流石にここまで大きいと重力には逆らえないのか、カップが入っていても尚僅かに垂れが見受けられるその二つの山は、恐らくマニア受けというか通好みというか、ロケット感が無い方が逆に良いと色々な人から言われる代物なのだろう。

 ……けど生憎と僕はオッパイーノ・ボインスキーでは無くて。光の呼吸に合わせてゆっくりと上下する豊かな胸元を見ても特に何か興奮するような事は無く、さんざっぱらしげしげと眺めて特に感想が浮かばなかった僕は「ていっ」とか言いながらぺしっとその横乳を手で叩いた。

「いでっ─────殺してええか?」

「手が滑っただけ」

「ていとか言うとったんは何ね」

「口も滑っただけ」

「乳首イキさせてくれたら全部許したる。ウチを愛して?」

「ていっ」

「あだっ─────殺すわ」

 感情が無かった。驚く程に冷え切った声で無慈悲な事を言った光が椅子に立て掛けてあった白鞘入りの長ドスを手に取ると、僕は本能的に「あこいつマジで殺る気だ」と察知。その場できゅっと反転して「助けてトリえもんッ!」と叫びながらクソデカメイドに向き直った。

 しかしトリカトリは困ったように僕と自分の胸を見比べて、

「いや助けてと申されましても。自慢ですが私もデカ乳の部類ですよ? 小さいお胸がお好きな方的によろしいので?」

「ここにも汚染が拡がって……ッ! ………クソッ! こんなに膨らんでやがるッ、遅過ぎたんだ……ッ!」

「トリカのパイオツを瘴気みたいに言わないでくださいまし。…………ヒカル様、卑賤な身ながら私も介錯のお手伝いを致しましょう」

「おけ、ウチがちんちん切り落とすからトリカは金玉握り潰してや」

「任セロリですわ。満面の笑みで「がんばれっがんばれっ」とか言いながら金玉ぎゅってして、ぎゅってし過ぎてブチッと行きましょうか」

「ナイス伊東ラ◯フ、ちょうど足りて無かってん」

 どうした事か、助けを求めたはずのトリカえもんまで四本指の両手をボキボキと鳴らしながら敵に回ってしまった。

「くっ、これだからデカ乳は嫌なんだ……っ! 乳に栄養を持ってかれて脳に栄養が回ってないっ! 適切な判断が出来なくなってやがるっ!」

「ウチほんまはボコるだけのつもりやった。やけどこれもう過去形な、未来のウチはボコるだけじゃ済まさんはずや」

「切り落としてチン拓取りましょうか。墨はありませんが、海綿体に溜まった血を使えば良い感じに酸化して墨っぽく見えるはずです。最初は赤黒くて、少しすると茶色くなって、時間が経てば紫色に変わる味のあるチン拓が出来上がりますよ」

「切り落としたちんちんタ◯トイズにサンプルっつって提出したらタクトサイズに合わせたバイブとか作ってくれんかな。ウチ愛用するで、使用鑑賞布教と予備で四つは買う」

「僕のちんちんを布教するなッ! あとタ◯トイズはルーナティアなんかに支店出してないッ!」

「タ◯トイズは分かりませんが、要はアダルトグッズの話ですよね? であれば先に公式がグッズを出しておく方が圧倒的に儲かりますし、シェアも独占出来ますよ。アダルト関連のジョークグッズってどうせ「限りなく外観がそっくりな別人」のパッケージで勝手にグッズ出されますから」

「せやな、タクトに似たタクトやない誰かのイラストでディルド出されて金取られるんなら、ハナっからタクトの張り型量産しとる方がええわ」

「量産なんか出来る訳無いだろ一点物の非売品だわッ!」

「まあそういうアダルトグッズのパッケージイラストって、ぶっちゃけ買う時と買った後の十数秒しか見ませんけどね。箱開けたら十中八九、もう二度と見向きもしません。あれは販促用であってヌキ用では無いとされますから」

「何でトリカそんな詳しいのッ!? あるのッ!? ルーナティアにもアダルトグッズメーカーあったりするのッ!? トリカも使った事あるのッ!?」

 いやに詳しい異世界人のメイドに声を荒げてみれば、トリカトリは不快感を顕にした表情で「失礼ですね、ある訳無いじゃないですか」と唇を尖らせる。

「人間サイズのディルドとかトリカ的には爪楊枝以下です。挿入はいってるんだか挿入はいって無いんだか分からない枝切れにお金払うぐらいなら、タダで自分の指突っ込んでる方が百倍良くなれます。事が済んだ後の倦怠感に包まれた状態でディルド洗う手間もありませんし、やっぱり素手が一番ですよ」

「このメイドやだッ! お下品ッ! 凄いお下品ッ!」

「馬ディルドはどうなんよ、一時いっとき流行ったやろあれ。ロクに売り上げ出んかったらしいけど………まあそもそも入り口通らんから売れんのなんて当たり前やけどな」

「光は光で何でそんな事知ってんだよッ! 婦女子かッ!? お前本当に婦女子かッ!? それとも腐女子なのかッ!?」

「んー………もう少し太めのってあります? あーいえ長さは良いんですけど、ちょっと太さが………」

「試着室から出た後みたいなノリで特大ディルドを要求するなッ! お前もうカラーコーンでも突っ込んでろッ!」

「あら失礼ですね、まるでトリカがガバガバみたいな言い草じゃないですか。そんな言うなら今後タクト様の事「ミスター爪楊枝」って呼んじゃいますよ」

「呼ぶなッ! 下手に短小って言われるより腹が立つッ!」

「トリカトリカ、タクトは結構太くて長いで。ウチこないだタクトのオ◯ニー覗いた時見たもん、思わず背筋震えた。ありゃあパンピー死ぬ」

「お前はお前で人のオ◯ニー覗くなこのクソ女ッ!」

「とはいえミスター爪楊枝様はただの人間ですし…………うーん、精々トリカのGスポ届くかどうかぐらいではありませんか? あそうだミスター爪楊枝様、ペール博士に頼んで胡散臭い陰茎増大サプリ大量に作って貰いましょうよ。勃起した瞬間血液持っていかれまくって貧血で倒れるぐらいのサイズを目指しましょう?」

「物理法則ガン無視したエロ絵みたいやん。ほっだらトリカも口の中ぁ亜空間に繋げなフ◯ラ出来んやっさ」

「ざけんなそんなデカチン日常生活に支障きたすわッ! というかシレッとミスター爪楊枝って呼ぶな語呂悪過ぎんだよ聞き逃さんぞッ! 亜空間にも繋げなくて良いッ! 先っぽ優しくちゅっちゅしとけッ!」

 冗談めかしたような声色の光とトリカトリにツッコミを入れつつ、胸の話が流れたかとその顔を窺う。しかし口振りに反して二人は至極真面目な顔のままで、僕は股間を押さえながら後退った。

「………あ、もう居るじゃあないか」

 と、少し離れた場所から妙にムカつく野郎の声が聞こえてくる。バッと振り向いた僕が股間を押さえながら駆け寄ると、誰かどう見てもおぼっちゃま感のあるサラサラ金髪の優男が僕に満面の笑みを向け「やあブラザー!」と気取った口調で手を振った。

「はっはっは、そんなに慌ててどうしたんだいブラザー、素敵な青空に似合う青褪あおざめた面構えじゃあないか。そんな絶望的な顔よりブラザーは儚げに笑っている方が素敵だよ? Let's smile!」

 無意味に気取った口調でにこにこと爽やかに笑うパルヴェルト・パーヴァンシー。彼もまた僕や光と同じ愚者の一人として死後ルーナティアに呼び出された異世界人だが、生前は貴族だったらしく「やはりボクはそれっぽい・・・・・服が似合うね!」と異世界に呼び出されてからも『それらしい』を維持しようとしている。

 そんなパルヴェルトは何故か妙に僕を気に入ってくれていて、何かと世話を焼いてくれる。馬鹿っぽい喋り方や馬鹿っぽい笑顔の通りパルヴェルトはかなりの馬鹿だが、それでも馬鹿なりにいつも僕を手助けしようと手を焼いてくれる良い奴だったりする。

 些かシモネタが苦手で、その手の話題にやたら否定的ではあるものの、それも常識的で良識を持っていると考えれば気にならない。

「助けてくれパルヴェルトッ! 変態おっぱいに殺されるッ!」

 叫びながら駆け寄りその背中にしゅっと隠れると、パルヴェルトは間の抜けた声色で「は? おっぱい?」と呟き迫り来る二人を見やる。

 頭を動かし交互に二人を見比べるパルヴェルトが心底困惑した様子で「……………あー、ブラザー。一つ質問させてくれ」と眉間にシワを寄せた。

「………どっちのおっぱいだい? 都合四つあるんだが」

「両方ッ! 全部ッ!」

「デュアルおっぱい………いや、クアドラおっぱいって所かい? Wow凄い強そうだ、勝てる気がしないよ」

 背後に隠れる僕に「ブラザー、キミは一体何をしたら四つのおっぱいに追尾されるような状況に陥れるんだい?」だなんて言うパルヴェルトだったが、その言葉に光が矛先の向きを変え「おうパル、お前人のパイオツ武器みたいな言い方しよんなや」と不快感を出し始める。

 白鞘を擦りながら遂に長ドスを引き抜く光に「いや待ってくれハニー」とパルヴェルトが大慌てで待ったを掛けると、剥き身になった長ドスを肩に担いだ光が「選びや」と首の骨をこきこきと鳴らした。

「巨乳と貧乳、二択や」

「待ってくれハニー話の流れが分からないっ! というか普通サイズはどこに行ったんだいっ!?」

「多数決に流されて溺れ死んだ。……知っとるか? この世界はゼロか百かしか存在出来んねん、間を取るアホは「空気読めない」とか言われて悪にされるんやで」

 冷静に、冷淡に、そんなような事を呟く橘光に「く……っ、結局おっぱいの話なのに何か流れがシリアスだっ!」とパルヴェルトが悔しげに歯噛みする。

 そんなパルヴェルトに「頼む……お前しか頼れないんだ」と僕もシリアス感を出しながら頼み込むが、しかしパルヴェルトは悲しそうな声色で「………済まないブラザー」と頭を振った。

「…………ボクはブラザーの味方になってあげられない。許してくれブラザー」

「何で…………パルヴェルトっ、何でだよっ!」

「………………」

 もはや慟哭のような僕の問い掛けに、金髪の貴族は「ボクは───」と小さく呟く。

 その横顔はとても儚くて、線の細い彼の綺麗な顔が遠い目をしながら僕を見詰めた。


「ボクは──────ボクはおっきいおっぱいが好きなんだ。ごめんねブラザー、ボクはキミを助けてあげられない」


「こいつも汚染されてやがる……ッ! 駄目だ……遅過ぎたんだ………ッ! みんな死ぬしか無いじゃないッ!」

 信じていた相棒ブラザーに裏切られ愕然とする僕に「まるで瘴気に侵されているかのような言い草だね」とパルヴェルトが少し呆れた顔になる。

 かと思えばそのままスタスタ光とトリカトリの方へと向かってしまい、遂に僕は四面楚歌。

 ……と、そんな僕の背後。ルーナティア城と中庭を繋ぐ扉が開き「うーィ」と気怠げに間延びした低めの声が聞こえて来た。

 それに合わせて「げぼくいた」と幼い子供のような声が重なり、僕は「真打ち登場ッ! この瞬間を待っていたんだーッ!」と後ろ飛びで急後退。

「ジズッ! 助けてくれジズこのままだと殺されるッ!」

「………はァ? 開幕から意味不明なんだけどォ………」

「パルヴェルトが……ッ、パルヴェルトが「おっきいおっぱいが好き」って………ッ!」

「えちょブラザ───」

「生首ィ」

「不穏な単語過ぎるッ! 酷いやッ! ボクを売るなんて酷いやブラザーッ!」

 気怠げな半目と、気怠げな喋り方。目元に力を入れる事もしっかりと発声する事も面倒臭いと嫌がったジズベット・フラムベル・クランベリーは、日々の着替えすらさっさと済ませたいと、まさかの黒ビキニにグレーのパーカーを羽織っただけの姿で「……売ったのォ?」と僕を見る。

 それに対して僕が何か言うよりも先に、ジズの傍らで宙に浮いていた空色の体毛をした小さな猫が「げぼく、とおい。こっち」と僕を呼ぶ。

「お……、っと。………ラムネ、はい。おいで」

 言われた僕が少し意表を突かれながらもジズに近付くと「んぃ」と可愛く呻いた空色の猫───ラムネ・ザ・スプーキーキャットが取り憑き先を変更、僕に取り憑いた。

「健康診断の結果は特に何も無しだってさァ。博士がその内タクトとかもテストするっつってたわよォ」

「分かった、ありがとう」

 動物霊に憑依された事で肩に何かのし掛かるような重圧を感じた僕に「どういたしましてェ」とジズが尻尾を揺らす。………そして先端が三叉に分かれたその尻尾を器用に使い「……でェ?」と僕の腕を掴みながら話を戻す。

「………タクトは誰の何を売って何を買ったのかしらねェ? 今北産業ォ、簡潔によろ乳首ィ」

 言いながら小さな悪魔っ娘は小首を揺らすと、左耳にだけ大量に着けられたピアスが擦れてチャリチャリと鳴った。

 ………身長百センチちょっとの小柄な悪魔の少女の力無く開かれたその瞳にめ付けられた僕が本能的に目を逸らすと、黒ビキニに包まれた胸元………どう足掻いても『壁乳』と呼ぶ他に無いその胸が視界に入─────、

「あぃだだだだだだッ! 痛い痛いジズ痛いッ! 強い掴む力が強過ぎる折れる折れるッ!」

「馬鹿にされた気がしたのよねェ、アタシのパイオツ見て何かナメた事考えなかったァ? 事と次第によっちゃァ引き千切るわねェ───」

「せめて折ってッ! 折るだけに済ませてッ!」

「────ちんちんをォ」

「腕はッ!? 腕じゃないのッ!? 掴まれてる腕の話じゃないのッ!?」

 ジズの言葉に「やっぱりチン拓の準備が要りますね」とトリカトリが呟けば「魚拓みたいなノリで随分酷いものを作ろうとしてるね」と対岸の火事を眺める感覚のパルヴェルト。

 僅かな救いを求めて僕の肩周りに浮かんでいるラムネに目を向ければ、空色の幽霊猫はんべんべと腰回りを毛繕いしており何の役にも立ちそうにない。

「…………かくかくしかじか」

「まるまるうまうまァ─────分かるかスカタンがァッ!」

 誤魔化そうとした僕にジズが牙を剥く。かと思えば小さな体から放たれた嫌に鋭いアッパーブローが的確に僕の土手っ腹をぶち抜き「おげぇッ!」と呻いた僕のかかとが少しだけ浮かび上がった。

 そんな小さな体からどうすればこんなに強いアッパーが放てるのかと思うものだが、しかしジズは人間では無いので僕らのような普通の人間ヒトよりもかなり筋力があるので当然だった。

 ………僕や光、パルヴェルトは異世界から呼び出された愚者であり人間だが、ジズとトリカトリはどちらもこの世界の住人、生粋の人外である。身長三メートルを超えるクソデカメイドのトリカトリ・アラムに関しては一発で人間ヒトじゃないと分かるが、まるで対になるかのような身長百センチちょっとのジズベット・フラムベル・クランベリーは、その特徴的な三叉に分かれた尻尾を見ない限り一般的な人間ヒトと遜色無い。

「…………ヒカルかトリカァ、どっちか状況説明よろ乳首ィ」

 そんな人外に土手っ腹をぶん殴られて「うげぇ……」と呻く僕から目を逸らしたジズに「ボクは? ボクの発言権は?」とパルヴェルトが口を開くが、しかしジズはすぐに「おェとタクトは容疑者だから発言権無ェわァ」と冷静に答える。

「でしたらヒカル様も発言権無さそうですわね」

 落ち着いた声色で口を開くトリカトリに「せやな」と橘光が抜き身の長ドスを白鞘に収めながら答えると、ジズは「あァ? どういう事よォ」と眉根を寄せながら首を傾げた。

「おっぱいの大きさに関するお話ですので」

「………………………………へェ?」

 低く唸る獣のように振り返るジズ。先端が三本指のようになった尻尾に掴まれた僕の二の腕が、ミシミシと音を鳴らして圧迫されていく。神経に電気信号が伝わらなくなり始めているのか、強い圧迫感に反して殆ど痛みが無いそれに「待ッ、待ってッ!」と僕が大慌てで弁明を始める。

「ひかッ、光がッ、最初光が僕をデカパイで誘惑して来てッ! 僕が「胸は小さい方が好き」ってそれ拒否ったら逆ギレしたんだッ!」

「…………つってるけどォ? ヒカルゥ、異論はァ?」

あながち間違っちゃおらんよ。逆ギレっつーんも……まあタクトの言い分を尊重したるか。異議無し」

 少しだけ思案しながらもそう言う光に「じゃァ続けてどうぞォ?」とジズが僕に向き直る。………しかし二の腕を掴む力は全く緩んでおらず、予断を許さない状況である事に変わりは無い。慎重な声色で「う、うん」と頷いた僕が続けていく。

「んで僕がトリカに助けを求めたんだ。助けてトリえもんって」

「ごっつ今更やけどそれド◯えもんっちゅーよりホ◯エモンみたいやな、ひろ◯きに仲間意識持ってそうな感じする」

 光のそんな呟きを「したらトリカは何てェ?」と無視するジズ。トリカトリも相槌すら打っていなかったが、それは状況的にわざと無視している訳では無く、この手のネタは日本人である僕や光ぐらいしか分からず、ルーナティア人であるジズやトリカトリにはそもそもネタとして伝わっていないというだけ。

 実際ネタの根幹に居るトリカトリは「やべ……私あの時何て言いましたっけ……覚えてねえ……」と敬語を止めて一人で焦り始める。……そんなトリカトリには申し訳無いのだが、


「そしたらトリカ、「自慢ですが私もデカ乳の部類ですよ」って僕の味方してくれなかった」

「えちょ」

「乳袋死すべェし」


 言うが早いか、僕の二の腕を掴んでいた尻尾がするりと解ける。かと思えば鋭い犬歯を見せたジズが地面を強く蹴って駆け出す。

「───危なぁッ! ……待っ、待ってくださいましジズ様ッ! 言い訳ッ! 言い訳させてくださいましッ!」

 身長百センチのジズが身長三メートルを超えるトリカトリに向かって拳を振るう。しかしトリカトリは咄嗟に膝を曲げながら腕を合わせ、まるでバレーのレシーブをするかのようにジズの体を頭上に流していく。

「言い訳した所でテメェが乳袋ブラ下げてる事に変わりは無ェだろうがよォッ! アタシ前々からお前の乳もぎ取りてェなァッて思ってたのォッ! この想い受け止めてェッ!」

 まるで学生が告白する時のような事を言うジズは、空中で尻尾を器用に振って体勢を変えて綺麗に着地。そのまますぐトリカトリに向かって駆け出すが、トリカトリが「トリカにも色々言いたい事ありますッ! せめて言わせてくださいッ!」と叫んだ事で急停止。ジズは「へェ? 言ってみろや乳袋ォ」と勢いの乗った尻尾をぐんっと前に振って距離を取った。

「……………えと、えっと………あの、えと」

 しかしトリカトリはその後何か言うような事も無く言い淀み続ける。実際に何か反論出来るような事は無かったが、何となく反射的に口を突いて出て来ただけなのだろう。「さァん、にーィ、いィーち」と無慈悲なカウントダウンを始めるジズに「えとっ、えとっ!」とパニック気味になった三メートル超えのメイドは、


「ちっ───乳袋は童貞受けしますッ! 胸を強調出来るのは販促としては良い描き方だと思いますッ!」


「テメェの服は裏地に糊でも付いてんのかァッ! アタシの前でパイオツ強調してんじゃねェ────スッ殺すぞダボがァッ!」


 …………ぶっちゃけトリカトリは何も悪く無い。乳袋がどうのこうのに関してもこの場で一番胸が大きいのは光だし、僕がジズに助けを求めた理由もパルヴェルトがオッパイーノ・ボインスキーだったからである。仮に荒事に発展するとしても、ジズの相手は光かパルヴェルトのどちらかになるべきだと僕は思う。

 けれどトリカトリはそれを口頭で説明するの事が出来ず、強い巻舌で「その脂身切り落としてやるァッ!」と吠えたジズの猛攻を涙目で必死に受け流す羽目になっていた。

「ほぎゃあ────ッ!? 何でトリカこんな目に遭ってるんで────うわ危ねッ!? ちょっ、ジズ様マジで───危なぁッ!」

 まさしく至言、何でトリカトリがこんな酷い目に遭ってるんだろうかとは僕も思う。気怠げな目元のまま口元を狂気に歪めたジズが特徴的な尻尾を器用に使って重心操作、東屋から出て中庭に逃げたトリカトリを前後左右へ機敏に動きながら追い掛けていく。

 身長三メートルの超大柄なメイドが「逃げンな駄肉ァッ!」と吠える身長百センチちょっとの小さな悪魔っ娘に圧倒されている様は見ていて圧巻だが────僕はそんな二人を見ながら少しずつ少しずつ、慎重に後退りをし始めた。

 その理由はすぐに分かる事となる。

「くッ………良く分かりませんが───やるとなれば負けたくありませんッ!」

 追い掛けられて逃げに回っていたトリカトリが体勢を整え、四本指の両手をぐっと力強く握りながら構え直す。ファイティングポーズと呼ぶには少し腕の位置が低いが、身長三メートルを超えるトリカトリ・アラムが身長百センチちょっとのジズベット・フラムベル・クランベリーを肉弾戦で相手取るとなれば、通常の人間同士のように顔周りに拳を持ってくるのでは酷い目に遭う。下段からの攻撃に対処出来る出来ない以前に、そも自分の拳にジズの姿が隠れて「まず敵を見る」という当たり前過ぎる事すら上手く出来なくなってしまう。

「へェ? お前ェじゃアタシに勝てないンだけどォ………戦績忘れちゃったのかしらァ?」

 そんなトリカトリを高機動で翻弄していたジズが狂気的に歪んでいた表情を落ち着かせ、


「───もっと素敵な私になりたい───」


 甘く吐息を漏らすように、小さいながらも力強く、この世界に向けて法度ルールを宣言した。

 それと同時、ジズの両手の先がまるで熊の手のように大きく太く作り替えられる。

 それはこの世界にある特殊な能力の一つでありながらも、いわゆる『チート能力』には分類出来ない不便な願い。

 人間ヒト悪魔人外に限らず、犬や猫……可能性は極めて低いが理論上はその辺を飛び回る虫ですら得られる能力である法度ルールは、『一生掛けても変わらない程に強い欲求や理念』を持つものだけが得られる特殊な能力。

 その法度は個々人によって内容が全く異なるが、宣言する事で魔力だとか才能だとかを完全に無視、物理法則すらもを無視したなにがしかを適応させる事が出来るという。

「いやいや……ジズくん、本気じゃないか。ハニー、これ止めなくて良いのかい?」

 そんな一見便利なご都合主義の能力に聞こえる法度を適応させたジズに、パルヴェルトが小さく呟きながら光を見る。

 しかし光は「ダルい」とそれを一蹴。

法度ルール有りのジズ止めるんはダルい。法度ルールには法度ルール、お前が行きやね」

「……………無茶を言ってくれるね」

 腰に下げたレイピアに手をやりながら苦悶の表情をするパルヴェルトだったが、少しだけ考える素振りを見せてから「無いと思うが、不味くなったら入ろう。その時はハニーも頼むよ」と争いを続ける二人に向き直った。

「───────退けオラァッ!」

「………っぐぬ──────ふんぬぇぁッ!」

 釣られて僕も向き直れば、ついさっきまで熊のような太い爪のある両手をしていたはずのジズは、しかし右手だけ通常の人型の手に戻っていて、代わりに先端が三叉に分かれているのが特徴だったはずの尻尾を鉄球のように作り替え、それを振り回してトリカトリを押し込んでいた。

 ………法度ルールとは、有り体に言ってしまえば所有者の願いを叶えるもの。一生掛けても揺らがない程に強い願いや感情があるものにのみ適応する事が出来て、適応すると『使用者の願いを、使用者が叶えられると思った範囲内で叶える』というようなものである。

 ジズベット・フラムベル・クランベリーという悪魔の少女が得た法度ルールは『自らの体の一部を作り替える』というもの。

 ………身長およそ百センチちょっと。胸のサイズは切ないかな「乳首が生えた壁」と呼ぶ他に無いジズは、自身の体に強いコンプレックスを抱いた。

 そのコンプレックス、「もっと素敵な私になりたい」という『一生掛けても揺らがない程に強い思い』を世界に向けて宣言する事で、ジズは自身の体の一部を「二ヶ所まで」作り替える事が出来るのだという。

 そう、二ヶ所まで。しかも時間制限まであるし、他にも様々な制約がある。利便性はあるが、まかり間違ってチート能力とは呼べないだろうが、しかしそれらの制約はジズ本人が深層心理で付けてしまったものだという。

 ジズの法度ルールは時間制限があるが、一度宣言してしまえば制限時間に達するまでの間、宣言無しの任意のタイミングでガンガン体を作り替える事が出来るようになる。けれど無意識で作り替えるような事は出来ず、必ず意識して再構築する必要があるのだという。これは「自身のコンプレックスはしっかり受け止めて見詰め直さなきゃいけない」というジズの深層心理に由来する制約であり、また二ヶ所までしか作り替える事が出来ないというのも「欲張るな」という心の奥底の自分の思いに由来する制約なのだという。しかもやクロスボウのような射出武器に作り替えたとすれば、一発撃つ度にそれと発射した物体と同等の質量が本体から失われるので、撃てば撃つ程体が縮んでいく。発射した弾頭等を回収すれば体の大きさは戻るが、何らかの理由で回収出来ない状態ままで法度ルールを解除してしまうと縮んだ体は永劫元に戻らない。

 これらの制約やペナルティのようなものは、しかし決してジズの法度ルールにだけあるという訳では無い。ジズに限らず、法度ルールを得る際に少しでも躊躇い・・・の感情や思想が心にあれば、それに準じた制約やペナルティが課せられるのだという。

 例えば『全ての生物を殺す』という効果の法度ルールがあるとする。何らかの理由で、生物に対して一生掛けても揺らがない程に強い憎しみを抱いたものがそれを得たとして、適応した瞬間本当に全ての生物を殺せるような法度ルールだったとして、けれど所有者が「流石にそれは強過ぎ」というような感情を少しでも抱いてしまえば、それ相応・・・・の条件や制約が課せられるのだという。………この場合であれば「一定範囲内の」とか「自分の事を見ている」とか、或いは「代わりに自分も死ぬ」とかが適当だろうか。

「…………捕まえましたよぉッ!」

 その怒声にハッとなって向き直れば、そこには鎖付きの鉄球のように作り替えられたジズの尻尾を力強く掴んだトリカトリが「────もう逃さねぇぞオラぁッ!」と、本職メイドらしからぬ野太くて乱暴な雄叫びと共にその尻尾を振り回し、地面に向けてジズの小さな体を叩き付けようとしている姿があった。

「アホかボケがよォ」

 しかしジズは特に焦るような事も無く至って冷静で。少しずつ落ち着きを取り戻してきたのか気怠げな声色で小さく呟くと、それまで鎖付きの鉄球のようだった尻尾がとろりと溶け出し、トリカトリの指の間をすり抜け流れ落ちていく。

「………チッ」

 それにトリカトリが舌打ちし、握っていた手を開いた。

 その瞬間は一秒あるか無いかの一瞬だったが、その一瞬の手の開きを予知していたジズは即座に溶け落ちたはずの尻尾の先端を作り直し、元通りの特徴的な尻尾へと戻す。

 その動きに気付いたトリカトリが「ぁやべ」と呟いた頃には、既にジズはするりと尻尾を逃しトリカトリから距離を取ってしまっていた。

「チッ。………仕切り直しですね」

 アニメやゲームであるような口で「ち」と言う嘘臭い舌打ちでは無い、舌先を吸って鳴らす本当の舌打ち。

 けれどそれを聞いたジズは「仕切り直すゥ?」と疑問形でトリカトリに問い掛けた。

 ………そろそろ、だろうか。器用に空中で丸くなって寝ている空色の猫を起こして変に意識を向けられないよう、僕は慎重に後退りを再開していく。

「………そもそもなんだけどさァ、何でアタシら殺り合ってンだっけェ?」

「いやそれはジズ様が仕掛けてきて────あれ?」

 言いながら首を傾げるトリカトリに「そうよォ」とジズが答えれば、やがて二人は荒事の理由を模索し始める。

 …………トリカトリはちょっと体が人間の倍以上あるというだけで基本的には温厚で頭が回る。自分が荒事に巻き込まれると秒で理性を失うものの、しかし荒事が済むと即座に冷静さを取り戻す。

 そしてジズはトリカトリ以上に好戦的で、こと自身のコンプレックス───体型に関する話題だとキレるのに一秒も掛からない。場合によってはジズが喋っている途中でジズが勝手にキレるという「ノリツッコミかよ」と思ってしまうような事態もあるぐらいキレやすいが、しかしその熱の冷めやすさはトリカトリの比では無い。

「確かァ………タクトがデカ乳云々かんぬんじゃ無かったっけェ?」

 気怠げな半目で小首を傾げるジズに、それまで観戦に徹していた橘光が「せやで」と頷く。

「ウチがパイオツ使って誘惑して、パルに助け求めたら「自分オッパイーノ・ボインスキーなんで」っちゅーて捨てられて」

「待ってくれハニーその言い方は悪意があるよ、いや悪意しか無いよ。ボクはあくまでもハニーの豊かなお胸が好きというだけだ」

「似たようなもんやろ。チチスキーにしろボインスキーにしろ、どっちゃにしろ雪国系貧乳アンチ勢やわ」

「違うね、ボクはハニーの胸が好きなんだ。ハニーが巨乳なら巨乳好きを名乗るし、ハニーが貧乳なら貧乳好きを名乗る…………つまり、ハニーが好きなのさ」

「さよか、ウチはお前もこの胸もさして好きやない」

「うん。……うん…………………………うん」

 少しだけ勇気を出してラブコールを送ったものの、しかし秒殺されたパルヴェルトがぐすんと鼻を鳴らしながら少しずつ俯いていく。出会って間も無い頃は同情したものだが、しかし五分もすればパルヴェルトは立ち上がって再びラブコールを送り始める諦めの悪い男だと知ってからは、もう何も同情しなくなった。

 そんな二人の言葉を聞いてから「……でェ?」とジズが僕に流し目を送る。どこと無く冷えたような目線と目が合わないようにしつつ、僕は自分の肩の上辺りでふすふす寝息を立てているラムネをそっと抱き寄せた。

「……んぁ? ………げぼく………んぃ、んぃ…………」

 少しぐんにゃりとした体のラムネを赤ん坊のように横抱きし、その頭を優しくゆっくりと撫でていくと、不満気に目を開けていたラムネが再び眠気に飲まれ始め「うん………うん………」と誰にとも無く相槌を打ちながら目を閉じていく。

「………タクトォ? アタシが来た時アンタ何て言ってたっけェ?」

「忘れた。ラムネ可愛いね、よしよし」

「ぶん殴ったら思い出すゥ?」

「…………………し、真打ち登場…………妖怪コノシュンカンヲマッテイタンダー」

 我ながら驚く程に棒読みだったが、言いながら僕は少しずつ後退りしていく。歩幅は小さく、足音を立てないようにしながらも、しかし動きは早めに速めに。

「乳談義でェ……デカパイに異を唱えてェ………そこで来たアタシに真打ち登場ォ…………………………オイお前ェコラちっと止まれや」

 冷静さを取り戻し遂に真実に気が付いてしまったジズ。このままでは余裕で殴り殺され、僕は何度目か分からない死を再び経験してペール博士に蘇生させられる羽目になってしまう。

 しかしみんな安心してくれ。僕はこの瞬間の為に奥の手を用意しておいた。

「………お前ェタクトよォ、まァさかとは思うけどお前ェアタシの胸に対して何か思う所でも─────」

「食らえラムネ爆弾ッ! ヘイパスぽいッ!」

 三段シートを付けたバイクと共にコンビニ前にたむろするヤンキー程度では縦回転しながら脱糞してしまう程の強い殺気を纏い始めていたジズに、うとうとしながら「うん……うん……」とひたすら頷いていたラムネを乱雑にぶん投げる。

 文字通りの夢見心地で目を閉じていたラムネが「にゅわあッ!? なにするくそげぼくぅッ!」と大きな声で文句を叫ぶと同時、僕は一気に急反転。背後から聞こえる「お──っ、ちょォっ!?」と慌てるジズの声を確認してから、力任せに地面を蹴る。

「壁乳大好きィィィ─────ッ!」

「ンだと───誰がコンクリおっぱいだテメェッ! 胸は硬くても乳首はちゃんと柔らけェン────オラ待てクソガキィッ!」

「ジズ好きぃぃぃ───ッ! ちゅっちゅしたぁぁぁいッ!」

 パルヴェルトに負けず劣らず、その場のノリで愛を叫びながら全力疾走する僕の後ろから「にゅぁぁぁああああげーでるうううう───ッ!」とラムネの悲痛な悲鳴が聞こえてくる。憑依先を僕に変更しているラムネ・ザ・スプーキーキャットは、今は僕から一定以上距離を取る事が出来ない。故に今のように僕が一気に駆け出せば、まるで見えない紐で繋がれているかのようにラムネは僕に引っ張られてしまう。

「ぶっ千切ってチン拓取ったらァァァ────ッ!」

 しかし僕は足を止めない。止めたら死んでしまうような気がするから。



 森山拓人、享年十九歳。八月の終わり頃、アブラゼミの悲鳴を聞きながら地下鉄の線路上に飛び出し『全身を強く打って』死亡した。

 けれどその後、僕は異世界に生まれ直して賑やかに日々を送っている。

 異世界から呼び出された勇者に対抗する為、愚者として呼び出された僕は、時折艱難辛苦に苛まれるものの、しかし何だかんだと楽しい、まさしく愉快痛快な日々を繰り返している。

 今は平穏で良い。今は平穏だから良い。今は遊んでいても許される。

 戦争の道具である事実は揺るがず、法度ルールを得る程の強い意志を持っていなかった僕なのだから、いずれは弾除け用の肉盾として使われる可能性もあるのだけれど。

 それでも今は遊んでいても許される。

 今は、今だけは────それで良い。


 十九年掛けてようやく、死んでからようやく、

 大事な友達と楽しい日々を得られたのだから、

 今だけは笑い会っていても許されると僕は勝手に思っている。

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