第三章 惚れ薬の責任をとるよう迫られています

第21話 ウェルナー先輩のひとりごと

 テストの結果が返ってきた。

 私は鼻歌混じりのスキップをしながら、美術室のドアを開ける。


「やりましたー! 全教科、三十点超えですっ!!」


 美術室にはウェルナー先輩がいて、私の報告に苦々しく顔を歪めた。その眼前に、テスト用紙の束を突きだす。


「嘘じゃないです。これを見てください!」

「国語六十六点、数学四十五点、歴史五十二点、理科六十点、外国語四十二点。チッ、外国語が惜しかった。採点ミスってことはないかい?」

「採点ミスは先生の責任でーす。私は悪くありませーん!」

「君って子は……」


 ウェルナー先輩は、口元に手をやって笑った。その笑いが楽しそうなものだったので、意表を突かれる。


「え? 悔しくないの? 先輩、負けたんですよ」

「そうだね。僕の負けだ」

「それなのに、楽しそうですね」

「ルイーゼが天真爛漫だから、そばにいると楽しい気持ちになるんだ」


 ウェルナー先輩は机に寄りかかった体勢のまま、体の前で指を組んだ。


「四十点超え、おめでとう。この勝負、ジュリシスの勝ちだ」

「は? なんでジュリシス? 私と先輩の勝負ですよね?」

「あれ? 聞いていないのかい? 図書室で勝負を挑んだ翌日。ジュリシスが僕のところにやってきて、ルイーゼではなく、自分が勝負をすると言ってきたんだ。でもさすがにね、断ったよ。そしたら、三十点ではなく、四十点にしようと提案されたものでね。ルイーゼが、全科目四十点以上取れるわけがない。そう高を括ったのだけれど……。まさか、本当に四十点以上取るとは」

「ええーーっ!!」


 私は絶叫し、先輩のネクタイを掴んだ。


「私、聞いていません!! じゃあ、この勝負は私と先輩じゃなくて……」

「そうだ。僕とジュリシスの勝負」

「ひどい!! 私が勝ったらなんでも聞いてくれるっていうから、楽しい計画を立てていたのに!」

「楽しい計画って?」

「先輩の家って、お城みたいなんでしょう? 友達と一緒に、お宅訪問をしたかったのに!」

「あぁ、なるほどね。そういうことか」


 ウェルナー先輩は私の手からネクタイを引き抜くと、皺になった部分を指で丁寧に伸ばした。


「ジュリシスは、君の計画を阻止したかったんじゃないの?」

「もぉ、ジュリシスに話すんじゃなかった!!」


 納得いかない。私一人で先輩の家に行くなら、無防備だとか軽率といった非難を受け入れよう。でも友達のノーラと一緒なのだから、問題ないはずだ。

 不貞腐れて唇を尖らせていると、先輩は眼鏡の奥の目を優しく細めた。


「ルイーゼ、どうして普通に話しかけてくるんだい? 僕は君たちを見下す発言をした。三番目の女になれと、失礼なことも言った。あのときの僕は頭に血がのぼっていて、理性を失っていた。怒って当然だと思う。それなのに、僕の家に来たいだなんて、どうして?」

「それは、まぁ、いろいろと事情がありまして……」


 ノーラが、ウェルナー先輩に恋をしているから……とは言えない。友情は大切だ。ノーラが真っ赤な顔をして打ち明けてくれた秘密をバラすわけにはいかない。

 もごもごと口ごもる私に先輩は、「ま、いいけどね。なんとなく予想はつく」と答えを待つのをやめてくれた。


「二週間後に卒業式だ。だから最後に、伝えておきたい。ルイーゼは空気を読めないって嘆くことがあるけれど、僕はそれに救われている。誰もが僕を、学園長の息子として見る。僕の描く絵は暗いのに、教師も部員も褒めてくれる。……ルイーゼ、覚えているかい?」


 先輩は寄りかかっていた机から体を離すと、美術室の壁に立てかけてあるキャンバスを手に取った。

 それは、黒や赤や灰色の絵の具を殴りつけた抽象画。たしか美術部の顧問は、「若者の怒りを実によく表している」と絶賛していた。


「この絵を見て、君は、怪物が叫んでいるみたいだと言った。……この絵の題名は、『自分』なんだ」


 ウェルナー先輩はキャンバスを裏返しにして机に置くと、短く息を吐いた。


「僕はシュリンツ家の長男として、完璧に振る舞うことを要求されている。ジュリシスは僕のことを、仮面をつけていると言ったが、そうなんだろうね。僕は自分を偽っている。その偽りさえ、誤魔化しながら生きている。僕は屈折している。怪物を内に飼いながら、微笑みの仮面で取り繕っている。でも、ルイーゼといると怪物がおとなしくなるんだ。元気な子や明るい子なら、たくさんいる。君だけじゃない。でも、明るく包み込んでくれる優しさを降り注いでくれるのは、君だけなんだ」

「私は、普通にしているだけです。そんなだいそれた褒め方をされるほど、いい人間じゃありません。図書室でのこと、嫌な人って腹が立ちましたけれど、私の中にも人を見下す気持ちがないわけじゃない。先輩を責められるほど、できた人間じゃない。だから、その、お互い様って感じです」


 先輩は軽やかに、ククッと笑った。


「君はそうやって、僕の飼っている怪物を否定することなく、許してくれる。だから怪物はおとなしくなるんだ。闇は光に勝てないと、信じたくなる。……ジュリシスとの勝負。負けた人は、ルイーゼに気持ちを伝えないという賭けをした。だから僕は、君に伝えられない。だからこれは、ひとりごと。僕は絵に向かって、話している」


 ウェルナー先輩は、美術室の壁に飾ってある巨匠ゴーホの自画像に向き合った。


「貴族の家に生まれるんじゃなかった。血筋を守るために、親が決めた相手と結婚しなくてはならないんだからね。そのせいで僕は好きな子に、三番目の女にしてやるなんて暴言を吐くことになった。なぜ、三番目かって? 二番目だと、嫌がらせをされやすいだろう? 三番目なら、それほどひどいめにあわなくてすむ。彼女を守りたい願望が、僕にもある。だが親に逆らうことができずに、彼女を一番にできない僕と、どんな手を使ってでも彼女を手に入れようとしているあいつ。勝負の結果が出る前から、負けるだろうと予想はついていた」


 ウェルナー先輩は寂しそうに微笑むと、顔の向きを変えて、私を見た。


「ひとりごとだから、気にしないでくれ」

「はい……」

 

 私は空気を読むのが下手だし、読解力も低いけれど、でも、先輩の言う『あいつ』とは、ジュリシスだとわかった。


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