心優しいだるまちゃんが、芋虫みたいに頑張って汲んできてくれた、生ぬるくて少し酸っぱいお水の話

エテンジオール

第1話

 ソレの存在を知らされたのは、父が死んだ時だった。正確には、父の死を知った時だった。


 もともとあまり家庭を省みるタイプではなかった父が出張に行くと言って三日ほど家を出て、そしてそのまま帰ってこなくなった。出張先と聞かされていた場所とは全く別の場所で事故があって、親子3人が行方不明と報道されていたのを物騒だなぁと思って見ていた。思っていて、父が帰ってこないことを警察に相談していたら、その親子の父親が父と同一人物だとわかった。


 はじめ、それを聞かされて、目の前の警察官が何を言っているのか理解ができなかった。だって僕は一人っ子で、家庭を顧みない父と、そんな父とはすっかり夫婦関係が冷めきった母しか家族がいないのだ。二人しか家族が居ない僕と、事故にあった親子三人。その三人の中に父が含まれているのであれば、僕が何事もなく父の身を案じているのは、矛盾するはずである。


 理屈的に、論理的に考えれば矛盾するはずなのだ。矛盾して然るべきなのだが、この論理には一つ大きな穴があった。そう、前提条件として、僕に家族が二人しかいない、あるいは父に家庭がひとつしかない、この二つがあって、そのどちらかあるいは両方が間違っていれば、この矛盾は解消されるのである。


 そして、僕と母にとっては最悪なことに、今回間違っていた前提はその両方だった。つまり僕には自分の知らない家族がいたし、父には家庭が二つあった。その事がわかったのは事故の発生から一月がすぎてからで、警察に提出していた僕のDNAと例の家族の父親、つまり僕の父のDNAに血縁関係が認められてからだった。血縁関係が認められて、寝耳に水の事実を知らされて、色々なことを調べた上で確定したのは父の浮気の事実と、腹違いの妹の存在。事故によって両親を失って身寄りのない未成年の少女が、僕の妹らしい。


 身寄りがないことで一時的に施設の預りになっていた少女のせいで、僕らの生活は母子の生活は変わることになった。どんなやり取りがあったのか、とても苦い顔で少女を引き取った母からしてみれば、その少女は自分とは血の繋がらない不義の証で、おそらく真っ当な感性をしていれば存在すら目に入れたくないような相手。


 それでもきっと、関わりを最低限にして、お互いにお互いが居ないものとして生活することが出来れば、きっとこれまでと変わらない生活があったのだ。もとより両親は家で会話をほとんどしなかったし、それぞれが自分の部屋で生活できるようになっていた。知らない家族が増えたところで、消えた裏切り者の部屋を与えればいい。そうやって少し変わった日常に戻ることができなかったのは、その少女に後遺症が残っていたからだ。それも、一人では真っ当な生活を送れないくらい重たい後遺症が。




 聞いた話によると、僕の腹違いの妹は陽葵ひまりさんというらしい。何年も連続で赤ちゃんの名前ランキングの首位を張ってそうな名前だが、そんなことはまあいい。どちらかと言えば、大切なのは僕がその名前を聞いたのが人聞きであって、本人からは一度も聞いたことが無い、ということである。


 聞いたことがない、とは言っても、別に陽葵さんが僕に対して悪印象を持っていて、まともに自己紹介すらしてくれないというわけじゃない。むしろそうであった方が気持ち的には100倍マシだったのだが、彼女は事故の後遺症で声を出せなくなっていた。頭部に強い衝撃を受けたことによる物理的なダメージか、事故の直後から続いたであろう恐ろしい体験による精神的なダメージか、検査結果的には両方半々くらいだろうと言うのが医者の見立てだった。


 そんな医者の見立てなんてどちらでも良くて、大切なのは陽葵さんが会話を出来ない状態であること。言葉を介した意思の疎通が困難で、こちらから話しかけたことは理解できていても自分から意志を伝えることができないこと。


 さらに重ねて言えば、陽葵さんには手がなかった。自分の思ったことを記号として相手に伝えるツールこと文字を扱うことが出来なかった。さらに重ねると自力で移動するための足もなくて、一人では尊厳を維持することも出来なかった。


 つまり、俗に言うだるまだったのだ。だるま、という表現でわからなければ、頭付きのトルソーを想像すればいいだろう。手も足もなくて、胴体だけが残っている人間。自分一人ではほとんど何にもできないその姿が、陽葵さんの姿だった。


 最初から、生まれた時からそうなのかと思ったが、どうやらそれも違うらしく、陽葵さんの家に色々なものを回収しに行った時に見つけた写真には、五体満足でかつ可愛らしい笑顔の少女が、両親と並んで写っていた。高校の入学祝いで撮ったらしいそれには幸せそうな家族が写っていて、そこに居たのは僕の父だった。僕の入学式になんて、一度も来たことがない父だった。この人はこんな顔もできたのかと、人の家の写真を見て始めて僕は知った。


 きっと、この子の両親は仲が良かったのだろう。一緒に写真に、笑顔で写っている。かつての僕が両親に求めていたような、良好な関係があったのだろう。そのことをうやらましく思う気持ちもなくはなかったが、父からの愛を諦めて育った僕には既にどうでもいいことだった。思春期の多感な時期であれば嫉妬なり恨みなりがあったかもしれないが、今更そんな感情を抱くには遅すぎるほど、父は血の繋がった他人だった。


 血の繋がった他人だったから、他所で家族を作っていたと知っても、知らない家族がいると知らされても、特に思うところはなかった。たとえ血が繋がっていようと、他人の家族は所詮他人である。血縁のよしみで最低限面倒を見ようとは思ったものの、それだって積極的にそうしたいからじゃない。同じ家に住まわせることだって、苦々しい表情の母がそれを望まなければきっとなかっただろう。


 おそらく、父は何かあった時の遺産の受け取り先を僕たちではなく“愛する家族”にしていたのだろう、と母の表情と行動の理由を推測して、けれど普段の生活ではそこまで気にすることなく生活していた。父の残し子のことがあろうとなかろうと、兄妹が増えようといなかろうと、僕が暮らす上では大した影響がない。平日の昼間は仕事をしているし、休日だって部屋から出ない。食事だって別でとるし、生活の上ですり合わせがいるのはトイレと風呂のタイミングくらい。家族と言うより同居人で、温かさはないけれど楽な関係。父がいた頃から変わらない、僕の家族の関係だ。


 そんなが変わったのは、ひとつの連絡からだった






 連絡の内容は、なんてことのないもの。僕から見た母方の祖母、母から見た自分の母親が腰を痛めたので助けてほしいというものだ。母はその連絡を受けてどこか安心したみたいに飛び出していって、がらんとした家の中には僕と陽葵さんだけが残された。


 突然年頃の異性と二人きりにされた、と言えば、少しは何かが起こりそうな表現だが、実際には血の繋がっているらしい妹の介護を押し付けられたというのが現実。体の一部が欠けた異性に興奮できるような性癖を持ち合わせていない僕にとっては、ただの介護以外の何物でもない。向こうからするともしかすると違うのかもしれないが、こちらの認識としてはそんなものだ。


 今までと同じ……少し少なめに仕事をして、ある程度早めの時間に帰る。突然押し付けられた介護のために仕事を辞めるような余裕があるはずもないので、昼間は部屋に放置だ。暇つぶしのためにつけっぱなしにしているテレビと、室温管理のためのエアコンと、お昼ご飯代わりのカロリーバーだけ用意して夜まで放置。水は一人で飲めるようにチョロチョロと流しっぱなしで、トイレはひとりでできないのでオムツを履かせている。


 どうせ動けないのだからと必要なものを全部一箇所にまとめた部屋はお世辞にも過ごしやすそうとはいえず、扱いとしてはよく言ってペット。それもペットに対する扱いの中でも最低レベルに近いもので、とても人に対するものとは言えない。


 けれど、陽葵さんの過ごしやすさを考えると、自然とそうなってしまうのだ。付きっきりで面倒を見れるような人がいればまた少し変わるのだろうが、祖母のためと言って実家に帰った母はいつの間にか連絡がつかなくなっていた。そして人を雇って面倒を見てもらうようなお金も、介護施設に預けるようなお金も、僕の収入では自分の生活を捨てない限り捻出できなかったし、犠牲にしてやるほどの義理はなかった。


 自分の生活を犠牲にする義理はなくとも、最低限身の回りの面倒を見てやる程度の人情はあったので、ペットに対する扱い程度の世話を続ける。最初こそ風呂や排泄物の処理に対して抵抗があったらしい陽葵さんも、一月二月と回数を重ねる毎に羞恥心を失ったのか、やがては申し訳なさそうに眉を顰める程度になった。


 そうして、お互いの存在と生活リズムにも慣れた頃には、言葉を介せない陽葵さんが意外とおしゃべりなことにも気付く。もちろん声も出せなきゃ字も書けない少女が話しかけてくるわけではないのだが、こちらから何かを伝えた時や聞いた時、使えるものを全て使って反応を示すのだ。


 頭を振ったり、目をパチパチさせたり、口をもごもごさせたり。そんなものだけでも案外相槌というのは成り立つもので、動かすだけならできる口の動きを読み取れれば、ハエの止まるような遅さではあるが会話もできた。


 そして、会話が成立すると途端に目の前のものに愛着が湧き、ついでに人として見れるようになるのだ。生かしておかなくてはならないペットが、尊重すべき人になる。そして人として接していると、自然と情がわく。



 そうなると、陽葵さん自身のことに興味を持つのも、そう遅いことではなかった。もちろん興味と言っても、異性に対する興味ではなく、家族としての興味。正確には、陽葵さんの家族に対する興味で、僕の知らない父への興味だ。


 ゆっくり一日かけてひとつのエピソードを聞いて、断片的に伝わる情報をもとに頭の中で再構築する。どうやら陽葵さんのお父さんは、家族を大切にしてくれる優しいお父さんだったらしい。お母さんととても仲が良くて、休みの日はよく買い物や遊びに連れていってくれたらしい。お仕事が忙しくて、平日はあまり一緒にいられないけど、その分休みの日やたまに一緒にいられる平日の夜は色んなことを話したのだと。


 懐かしむように優しい顔をしながら、声の出ない口で頑張って伝える陽葵さんの態度からは、滲み出すような家族への愛があった。休日に父が居ないことにも、定期的に父が外泊していたことも知らなかった僕とは異なり、家族に対する愛に溢れていた。同じ人の話の筈なのに、あまりにも大きな乖離があった。


 それが離れすぎているから、同じ人だと実感がわかないくらいだ。他人事のように話を聞いて、ふと自分の家族がそうだったらと想像して、胸の内に苦いものが広がる。家族に対する期待なんて、仲のいい家族へのあこがれなんてとうに捨てたつもりだったのに、かつて求めていたそれが心の隅でベッタリと自己主張をする。


 だって、それは僕が諦めたものだったから。険悪な両親を、仕事ばかりで家にいない父を見て、この人は家族を優先できない人なのだと、だから仕方がないのだと言い聞かせて諦めたものだったから。子供のことを愛する機能がない人間だと思って諦めたことだったから、違ったのだとわかったせいで、かつて固めた心が軋む。


 なぜ、僕じゃなかったのだろう。生まれたのは僕の方が先で、先に父の子供になったのは僕だったのに、どうして僕は愛されなかったのだろう。

 なぜ、僕じゃなかったのだろう。僕だって父に褒められたくて頑張って、けれども一度褒めてなんてもらえなかったのに。この子は頑張る度に頭を撫でてもらえたと言っていて、僕にはそんな経験がなかった。この子に向けた愛情を、なぜほんのひとかけらほども僕に向けてくれなかったのだろう。


 幼い頃に諦念で押し殺した心に、ぴしりとヒビが入る気がした。その隙間から怒りが、嫉妬が漏れ出すような気がした。いや、気がしただけではなく、きっと本当に漏れ出ていた。僕はなにも貰えなかったのにどうしてお前はそんなに恵まれているんだと、目の前の罪なき子供にまくし立てたくなった。


 まくし立てたくなったけど、それをしたところでなんの意味もないとわかる程度には僕は大人だった。ついでに、それをしたらせっかく少しづつ心を開いてくれた陽葵さんが、きっと怯えてしまうだろうと理解できる程度には理性があった。だからその理性を使って、諦念に生じたヒビを塞ぐ。最後に過去のことだと表面をコーティングすれば、こぼれかけていた嫉妬は収まった。


 自分の感情を押さえ込んで、いいお父さんだったんだねと伝えると、陽葵さんは小さく頷く。それでいいのだ。僕にとっての父と、陽葵さんのお父さんは別人のようなものだ。同じものとして考えなければ、他人事として考えれば、いいお父さんだという感想に収まる。この子にとっての素敵な家族を、優しい思い出を、わざわざ穢す必要なんてないのだから。もう戻らない日々なんて、綺麗であるに越したことはない。


 そう思って話を終わらせようとしたら、陽葵さんは口をぱくぱくさせて、僕の父がどんな人だったのかを聞いてきた。母を含めた両親ではなく、父だけに絞って聞いてきたのは、うちに来てから短い期間ではあったけれど母と一緒に過ごして、どんな人物なのかを理解しているからだろう。陽葵さんと二人で過ごしていたときの母がどんなことをしていたのかも話していたのかもわからないけれど、聞いて楽しい気分にならないものだったのはまず間違いないだろう。


 それならば、陽葵さんが聞こうとしないのも納得のできることで、聞かれないのであれば僕から話すことでもない。僕にとっては普通の母だが、きっとあの写真に写っていたみたいにいつも笑顔を浮かべていたであろう陽葵さんのお母さんと比較すれば、比べるのも失礼なくらい冷たい人だ。


 そうやって陽葵さんの聞き方、僕の父がどんな人だったのかという言葉をそのまま流しかけて、不意に一つの疑問が生まれる。僕は読唇能力が高いわけではないから、一言一句間違えることなく陽葵さんの言葉を受け取れているわけではない。だから勘違いかもしれないが、陽葵さんは今、“君のお父さんはどんな人”と聞いたのだ。まるで、僕の父が誰かを知らないかのように、ただ気になっているかのように聞いた。


 その事が、なんだか引っかかったのだ。年上の、仮にも兄である僕のことを君呼ばわりする少女のことよりも、少女の言い方が気になった。だって、普通に考えたら自分の親のことを聞くのに、そんな他人行儀な言い方はしない。小学生が親の仕事先の人に、“わたしのお父さんどんな仕事してるの?”と聞くことはあっても、“あなたの部下はどんな仕事をしているの?”なんて聞くことはない。聞いている内容も対象も一緒であっても、聞き方にはそれだけの距離感が現れるものであって、陽葵さんと彼女のお父さんの距離はそれほど離れていないはずなのだ。


 だから、違和感を持った。いくら読唇精度向上のためにわかりやすい口の動きをしてもらっていても、結局のところ距離感はにじみ出る。仲のいい親娘であれば、“この家でお父さんはどうだった?”とでも聞けばよかったのだ。僕のように、自分の親と相手の親を別人物のように思いたいのならともかく、そうでもなければわざわざそんな言い回しにする必要がない。


 そして、必要がないにもかかわらずそうしたということは、そこには何かしらの意味があるのだ。僕の表現に寄せてきたとか、本当はそれほど仲が良くなかったとか、あるいは僕の父が陽葵さんにとってのお父さんであることを知らないとか。



 一旦陽葵さんの質問をスルーして、こちらからおまけで聞いてみる。どうして陽葵さんはこの家に来ることになったの?と。僕自身も詳しい理由は知らないが、陽葵さんが親のいない身となって、父の娘だからなのは間違いない。だから陽葵さんさんがその事を知っていたら、答えは当然僕と兄妹だから、というものになるはず。


 そのはずだったのに、陽葵さんの答えは、“親戚の家だから”というもの。母や母が引き取る前の施設の人がどのような判断をしたのかはわからないが、この子は僕が兄であることすら知らないらしい。そうやって隠していることにどんな意味があるのかはわからないが、きっとなにかの意味があるのだろう。僕がその意図を汲む必要はないかもしれないが、あとから何か問題が出た時に責められると面倒なので、積極的に伝えるのはやめておく。


 話が変わってしまったことを謝って、僕の父がどんな人だったのかを軽く話す。ほとんど家にいなくて、関わることが少ない父だったと。そうやって若干嫌悪感を混ぜつつ聞かせると、陽葵さんは聞いたらいけないことを聞いたのだと判断したらしく、眉を八の字に困らせて謝った。





 陽葵さんが、僕からするとよくわからない状況に置かれていることを知ってからしばらく。彼女から見た僕が腹違いの兄ではなく、これまで存在も知らなかった親戚の人に過ぎないと理解すると、最初の頃の対応は少し良くなかったなと反省する。もちろん兄弟だったら素晴らしい対応だったわけではないのだが、もっと距離感というか、声のかけ方とか、何も知らない相手だったのであればそれなりに改善するべきであった。ひとつの事実を知っているかいないかで、許容できる対応かどうかは大きく変わるのだ。


 そしてそんな失敗をしたにもかかわらず、よくこの子はここまで心を開いてくれたものだと感心する。最初の頃の僕は、突然介護することになった少女に対して、控えめに言ってペットレベルの扱いをしていたのだ。状況を理解していたならともかく、していなかった少女からすれば、著しく尊厳を貶められる扱いだっただろう。


 少なくとも、積極的に関わりたいと思われるような行動ではなかった。他ならぬ僕自身が、自分以外がそうしているのを見たら眉を顰める様な行いだ。それにもかかわらず、陽葵さんは今、僕が顔を出すとよじよじと動いて座れる場所を開けてくれるほど慣れてくれた。


 きっと、少しずつお互いを知っていって、相手を理解して、距離を縮めていったおかげ……なんてポジティブに考えられるほど、僕の頭はお花畑ではない。


 妥当に考えれば、陽葵さんが僕に対して心を開いたように振舞っているのは親愛ではなく媚びであり、良くてストックホルム症候群である。もしかすると陽葵さん自身にそのつもりはないのかもしれないが、普通に幸せな家庭で育ってきた少女が突然家族と四肢と声を失って、まともなコミュニケーションすら取れない状態で知らない人の家に住むことになるのだ。自由に動ける身体もなく、誰かに助けを求める術もなく。そんな状態で唯一頼れる相手が、人に対してペットみたいな扱いをするゲスだったなら、自ずと取れる選択肢は限られてくる。


 少しでもまともな生き方をしたいなら、尊厳を守りたいのなら、媚びるしかないのだ。助けを求めることも逃げることも出来ないのなら、生活の全てを握られているのなら、気に入られるしかない。気に入られたら待遇は良くなるだろうし、気に入られなかったらどんな目にあうのかわからないのだから。


 陽葵さんから見た僕は、初手でペット扱いして、気まぐれで自分の食事を与えなくなるかもしれない相手だ。自分の身の安全を確保したければ機嫌を取るしかないし、少しでも情をわかせようとするしかない。目指すのはかわいいマスコットか、道を間違えて恋人か。


 それになれれば少なくとも身の安全は保証されるのだから、何も差し出せるもののない少女がそうあろうとするのは至極当然である。


 そうとわかっているから、僕はそれに乗せられるしかない。血縁があって、ある程度は身の安全を保証する義理があるのだと教えられないから、陽葵さんが心理的な安全性を確保するために、僕は彼女にほだされなければならないのだ。ほだされていれば、着だろうが性だろうが友だろうが、そこに愛があるのなら捨てられないという安心を与えられる。


 そして、今の陽葵さんが目指せる愛の形というものは、自律的に行動できない以上限られていて、その中で一番真っ当なものが友愛だった。一番理想的なのは無償の愛だったのだろうが、それを期待するには、僕の最初の扱いは人の心にかけるものだったのだ。



 そこまで理解できるから、僕は自分が陽葵さんに心を開かれているなんて勘違いをしなくて済んだ。むしろ表面上はともかく、内心では警戒されてしかるべしであることも理解できていた。


 理解できていたからこそ、自分の心のうちに線を引くことができて、自分の中で陽葵さんのことが大きくなりすぎないように抑えることができていた。どれだけ懐いてくれたように見えても、どれだけ楽しそうに振る舞っていても、どれだけ一緒に過ごす時間が心地よくても、それは陽葵さんが安全に生きるためにやっていることで、何かの間違いなのだ。たとえ本人にきいても絶対にそうとは認めないだろうが、間違いないことである。


 間違いないことで、間違いではないといけないことだ。僕のような人間と陽葵さんの間に、理屈じゃない信頼関係なんて生まれるはずがない。生まれるようなことをしていない。僕が一方的に家族だと知っていて、義理だけで面倒を見始めた。そのまま時間をかけることで情が湧いて、まるで本当の家族みたいに大切に思うようになった。ずっと一緒に暮らしていた母とは、もう一切連絡を取っていないくせに、そんな冷たい人間のくせに、まるで自分にまともな愛情があるかのように振る舞っていた。そのことが、ひどく気持ち悪かった。



 ”なにか食べたいものはある?なんでもとは言えないけど、僕が用意できる程度のものなら用意するよ”


 最初は適当な余り物しか与えていなかったくせに。とりあえず生きていればいいだろうと思っていたくせに。


 ”今までの布団だと固いかと思って、新しいものを買ってきたんだ。気に入ってもらえるといいんだけど”


 陽葵さんに与えているものが、少しずつ増えた。陽葵さんの部屋に物が増えて、次第にその質も上等なものになっていった。


“本当にこれでいいの?せっかくの誕生日なんだから、もっと自分が欲しいものを言っていいんだ”


 女の子なんだから、欲しいものの一つ、したいおしゃれの一つくらいあるだろうと思ってそう聞いてみると、陽葵さんは髪留めが欲しいと言った。それくらい、誕生日じゃなくても買うのに。



 扶養している相手が、面倒を見ている相手が、聞き分けが良くてわがままを言わないなんて、とてもいい事のはずだ。少なくとも楽なことであり、いい子な証である。


 だから、それでいいはずなのに、どうしようもなく気に入らなかった。誕生日の機会じゃないと1000円もしないような小物すら求めてくれないことが、それだけ気を使われていることが、心底不快だった。


 不快だったけれど、そうなってしまうことは仕方がないことなのだ。そうなっているのは、僕が初動で信頼関係を築けなかったからで、一度そう思われてしまった以上、認識を変えてもらうのは難しい。


 それでも、たとえ難しくともあきらめる気にはなれなくて、毎日少しずつ時間を増やしていくことから始めた。一緒に過ごす時間を長くして、会話の量を増やした。そうすることが信頼関係に繋がるのだと信じて、陽葵さんが嫌がらないように気をつけながら、そこにいるのが当たり前のものになる。


 最初面倒を見始めた時は、僕が来る度に少し警戒した様子を見せていた。しばらくするとそれに慣れて、日常の風景として受け入れていた。そのうち歓迎してくれるようになって、今はおかえりを伝えてくれるようになった。


 認識の変化が、言葉と態度に現れたのだ。知らない人が知り合いに、来てほしい人がいてほしい人に。言葉はなくとも伝わることはたくさんあって、移動を頼るようになってくれたのは、きっとその最もたるものだった。


 僕がいても自力で動いていた陽葵さんが、動きたい時に呼んでくれるようになった。声が出せないから、カチッカチッと歯を鳴らすことで注意を引いて、行きたい方向に目をやる。肢体のない少女の体は子供のように軽くて、その気になれば片手で抱えられるくらいだ。


 そんな体を抱き抱えて、飲み物を飲ませる。水だけなら垂れ流しにしているから自由に飲めても、注がなくてはならないジュースなんかはそうもいかない。哺乳瓶なんかに入れればある程度は好きに飲ませられるのだろうが、一度試みた時にとても嫌な顔をされたので諦めた。


 コップに注ぎ、ストローをさして飲ませる。コップから直接飲ませてやったり、1人で飲めるよう皿に入れるのも選択肢としてはあるのだろうが、そういうのはあまり好みではなかった。人によっては好きかもしれないが、僕は違った。それはたぶん陽葵さんも一緒で、バランスをとって接したいのだ。産まれたての子供よりも自分で出来ることは少ないけれど、赤ん坊のように扱うのはいけない。自立性を重んじた方がいいけれど、尊厳は守らなくてはいけない。


 どちらか一方に偏らせることが出来るのなら、それが受け入れられるのなら、陽葵さんの面倒を見るのはもっと楽だった。本人の気持ちを考えず赤ちゃん扱いして甘やかすか、最低限のことだけやってあとは本人が勝手にやるに任せるか。どちらにせよ、楽ではあるのだ。けれどどちらも選ばなかったのは、やっぱり陽葵さんのことを人として見たかったから。


 もちろん、そんな行動だけで、心持ちだけで、何かが変わるわけじゃない。陽葵さんに手足が生えてくることもなければ、突然喋り出すこともない。どれだけ慣れようが所詮彼女にとって僕はただの親戚で、その前提があるから大して好かれているとも思っていない。ここまでお世話をしていて嫌われていることこそないだろうが、本当のところ彼女がどう思っているかなんて、僕にはわからないのだ。


 だから、嫌われていてもおかしくないという前提で色々考える。不幸なことに嫌われる心当たりについては、最初の頃の対応のせいでいくらでもあった。振り返ってみれば、振り返らずとも問題しかない行動だったのだ。


 今から過去に戻ることがあったら間違いなく繰り返さない過去は、もう今更気にしたところでどうしようもないからともかく、ここしばらくの僕は陽葵さんに対してまともな対応をとっていた。僕ができる限り普通の人として扱い、だからといって配慮を損ねることもしない。自分で言うのもなんだが、ビフォーアフターとしてはなかなかな真人間ぶりだろう。


 ただ、そう振る舞うのは僕自身が選んだことだが、ひとつ大きな問題もあった。元々実家暮らしで家賃や光熱費は抑えられていた生活から一転して、無駄に大きな家のそれらを全て負担することになったのだ。幸いローンは残っていなかったようだから、ある程度抑えられてはいるものの、それほど多くない僕の収入からすると痛手である。


 さらに、そんな痛手に追い打ちをかけるように、人一人のお世話が足されたのだ。人に限らず生き物の世話は当然手間がかかり、お金がかかる。最低限のもので済ませていた間はそれでもまだ余裕があったのだが、まともに扱おうとするとそれも長くは続かない。


 そうなると、自然と僕は自分の貯蓄を崩さないといけないわけで、時を経るごとに減っていく残高を見るのは、当然ストレスである。そうなれば減らないように、増やせるように仕事の時間を増やしていくしかないわけで、けれども家に帰ったら陽葵さんのお世話が待っていることに代わりはない。


 両方を満足させるために、一番簡単だったのは、僕自身の睡眠時間を削っていくことだった。生活の質や仕事の質は若干犠牲になるが、そこは気合とカフェインで何とかした。何とかできていると、思い込んだ。いつの間にか僕の中で、陽葵さんのために頑張るのは当たり前のことになっていた。家族のことなんて気にしたこともなかったのに、陽葵さんのことをは気になった。


 ……そして、そうやって頑張った結果、僕は倒れたのだ。人のために頑張ったことなんてなかったから、自分がどこまで頑張れるのかを知らなかった。自分が限界以上に動けてしまうことを知らなくて、気がついた時にはもう限界を超えていた。


 うっすらとモヤがかかったような頭の中で、何となく覚えていたのは、陽葵さんのお世話をしている途中で限界が来たこと。ついでに一日の睡眠時間がしばらく三時間を切っていて、僕にとっては限界を大きく超えていたこと。そしてお世話中だった陽葵さんが、とても心配そうにしながら僕を見ていたこと。




 半分くらい意識を取り戻して、どれだけ時間が経ったのかもわからない中で、喉の乾きだけが鮮明だった。干からびかけてるミミズの気持ちが理解できるほど、体が水分を求めていて、けれども自力でそれを手に入れられるほどの体力は残っていない。そんなものが残っているのなら、ここまで悪化するより前に何とかしているのだから当然だ。


 けれど、そんな当然なことすらわからないほど頭は回らなくて、立ち上がろうとしても起き上がれない体で水を求める。乾ききった喉を潤せるのであれば、泥水でも良かった。声なんか出してもコップを持ってきてくれる人なんて誰もいないのに、それにすら思い至らずかすれた音を漏らす。


 こんなことになるのなら頑張るんじゃなかったなんて考えていると、少しずつ意識は薄れていく。ただひとつの後悔は、陽葵さんのことを一人で残してしまうこと。お世話をする僕がいなければ、自律的に活動できない陽葵さんは生きていくことも出来ない。自力で動けないから生きることができなくて、声を出せないから助けも呼べない。


 そうなると僕がこれからすることは、少し変わった形の心中になるのだろうか。そう考えるとなんだかそれも悪くないような気がしてきて、自分の終わりを受けいれそうになる。陽葵さんには悪いことをしたが、僕としてはそれなりに満足のいく人生だった。これまで家族との間に感じたことのなかった感情を知れて、家族のために頑張って死ねる。


 もちろん意識は半分くらいしか戻っていないので、実際にはもっと言語化できていない感情であったが、この時の僕の頭の中にあった思いは概ねこんなものだった。



 そして、そんな思考を中断させるかのように、突然口の中に注ぎ込まれた液体。よく言えば人肌程度で、若干酸味のある水。電解質が含まれていて、人の吸収しやすい温度。少しずつ口の中に流し込まれるそれを、誰が飲ませてくれているのかとか、何を飲ませてくれているのかなんて考えることもなく飲み込む。


 慣れない味で、慣れたくない味だ。味覚的に美味しいかどうかを問われれば間違いなく美味しくなくて、生理的な嫌悪感まで感じる味。生温くって少し酸っぱいお水。けれどそんな水でも、今の僕にとっては恵みの水だ。餌をもらった魚のように与えられた分だけ飲み込んで、ようやく十分な水分が吸収された時にはお腹はいっぱいになっていた。



 十分な水分と睡眠?気絶?によって何とか頭が回るようになって、少し回りすぎたのか立ち上がろうとすると視界が揺れる。飲みすぎたあとみたいに不安定な視界が落ち着くまで少し待って、立ち上がって周囲を確認してみたら部屋の中に水溜まりができていて、それはほとんど僕と水道の間に位置していた。


 その中で、全身濡れた状態の陽葵さんがモゾモゾ動いていて、立ち上がった僕のことを見て安心したような表情になり、そのまま口から透明な液体を吐き出す。水漏れでも起きない限り浸水することのない床に、水たまりができている理由の全てがそこに詰まっていた。誰も運ぶ人がいない中で僕が水を呑めた理由の全てが詰まっていた。


 一瞬、胃の中身がひっくり返りそうになって、それをしてしまったら陽葵さんに対してあまりにも失礼だと抑える。たとえどれだけ感情的、生理的に受け入れ難いものであったとしても、それに命を救われたのは間違いのないことで、それ以外に方法がなかったのも間違いないのだ。


 だから、僕に許されるのは大人しくお礼を言うことで、しばらく何も出来なかったせいですごいことになっているこの部屋を早く片付けることだけだ。気を失っていた僕はともかく、意識があった陽葵さんに撮って今の環境はお世辞にも過ごしやすいとは言えないもの。具体的には、異臭と異臭と異臭が混ざりあって吐きそうな匂いを醸していた。


 ひとまず汚れが溜まってしまった陽葵さんと自分を丸洗いして、そのまま冷蔵庫の中身を使って適当に料理をする。知らないうちに三日経っていた体に固形物は受け入れられず、結局流動食に落ち着いたが、エネルギーの足りないからだにはそれでも十分だった。



 心配をかけてしまった職場と、あとついでに母に連絡をして、倒れていたことともう大丈夫なことを伝える。職場からは少し休むように言われて、母からは何も言われなかった。既読もつかなかったので、きっと見てすらいないのだろう。どんな理由で母が帰ってこなくなったのかは知らないが、もうどうでもよかったので連絡先を消して忘れることにした。


 だって、僕にはもうちゃんと家族がいるのだ。同居しているだけの他人ではなく、一緒に食事をとって、不自由な中でも会話をして、命まで助けてくれた家族がいるのだ。今更いなくなった母のことなんて、気にする必要もないだろう。


 そう思うとすぐに母のことは頭にも浮かばなくなり、頭の中には陽葵さんだけが残る。強制的に使うことになった5日分の有給は、さすがに少し頭の中を占めていたが、考えると辛い気持ちにしかならないのでなるべく考えないようにした。



 カチカチッ、と歯の鳴る音がして、呼ばれたことで目を覚ます。時計を確認すると、目覚ましを鳴らす5分前、いつもの時間だ。目覚ましを止めて、こちらを見る陽葵さんにお礼を言う。


 なんでもないそんな日常が、今はたまらなく愛おしかった。







 ━━━━━━━━━━━━━━━━


 何書いてるのか自分でも分からなくなりかけたけど、突然頭の中に湧いてきた“酷い二日酔いの後でお馴染みの、酸っぱくて生ぬるいお水を他人から飲まされるシチュ”を形にするとこうなっちゃったのよね……(╹◡╹)リカイニクルシム

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