黎明に落ちる
宵町いつか
第1話
怖くなって、薄目を開ける。涙は、あふれなかった。薄目越しに白いフリルの付いた夏用カーテンの向こう側から薄い光が差し込んできているのが見えた。どうやら夜が明けたらしい。
ため息をついて上体だけ起き上がる。汗でへばりついたポロシャツが気持ち悪かった。夏らしい嫌な空気だった。
はねた髪を撫でつけ、大きく欠伸をする。何度か瞬きをすると、やっと眠気が飛んでいく。手で申し訳程度のぬるい風を送る。涼しくなったわけではなかったけれど、少し気分が楽になった。
「よし」
声を出すとなぜか体に熱が入ったような感覚になる。熱が循環して手のひらから抜けていく。ほのかに熱を持った手のひらを開閉させていると今更朝だという感覚がやってきた。この行為をすると意識だけではなくて、体が朝だと認識する。おねぼうさんだな、とかそんな軽口を頭の中でつぶやいて足先を地面につけた。フローリングはもう冷たくないらしい。
地面に足をつけて自室から出る。足元はまだおぼつかない。扉を開けるとリビングから焼けたパンのいい匂いがした。
ふらふらとおぼつかない足取りで歩いて、席につく。お母さんが席についた私に気がついて小さく声を漏らした。
「あんた、おはようくらい言いなさいよ」
そう言われて言ってなかったことを思い出した。けれどこれも毎日のことなので適当にやり過ごす。
「んーはよう」
お母さんが呆れたような顔になって私の前にトーストを置いた。トーストの上にはハムが乗っている。シンプルなものだ。
一口食べるとパサついたパンが口の中の水分を奪っていく。それに不快感を感じながらゆっくりと一枚食べ進んでいく。お父さんはベランダでコーヒーを飲みながら煙草を吸っている。コーヒーは匂いがいいのに、煙草を吸いながらだと良さが半減するんじゃ無いかと思うけれど、お父さんからしたらまったく反対のことを感じているのだろう。私には煙草の良さなんてわからないけれど。臭いし、体も悪くなる。それに匂いのせいで家族間も悪くなる。いいことなんて一つも無い。
一枚食べ終えて、冷蔵庫から冷やされた緑茶を取り出し飲む。水分の不足していた体に急に注ぎ込まれた緑茶はすぐ体に染みこんでいった。目に水が行き渡ったような感覚がして何度か瞬きをする。水分がなじんだ感覚をしっかり体に刻みつけた。欠伸をして、洗面所に向かう。
洗面所は朝、お母さんが掃除したのか水もないし抜け毛もなかった。
自然と鏡越しに映る自分をじっと見つめる。何の変哲も無い自分の顔。ニキビは無い。少しだけ前髪の毛先が傷んでいる。髪型はロング。正直、夏は蒸れるから切りたい。けれど切ってしまったら色々髪型で遊べなくなるからもったいなく感じて切れていない。髪型も、もうろくに変えないのに、おしゃれの必要なんてないのにまだ切れていない。
冷水で顔を洗う。寝ていたときにひっついた汚れを落とすみたいにぱしゃぱしゃと水をかける。皮膚が縮んで引っ張られるみたいになる。すこしだけ、動かしにくい。
タオルでとんとんと水分を拭き取って、櫛で髪の毛を梳く。プラスチックの櫛の間を黒髪が進んでいく。当たり前のその光景に少しだけ見とれてしまった。
ヘアアイロンを手に取ってからまだ自分が制服でないことに気がついて、一度自室に戻る。シャツとショートパンツをベッドに脱ぎ捨てた。そして壁にかかっている、胸元に校章の入った真っ白な長袖ブラウスと深い紺色のスカートを手にとる。ため息をついて、ブラキャミソールの上に長袖ブラウスとスカートを着た。少し考えてから袖のないグレーのカーディガンを羽織って前でボタンをとめた。あとは髪型を整えるだけだ。
もう一度洗面台に行って小型のヘアアイロンを手に持つ。ヘアアイロンをかけて髪型を整え、スプレーはバレない程度にかけて、前髪が崩れないようにする。フックにかけてある髪ゴムを手にとって髪を結う。高くキツめのポニーテール。いつもしているルーティーン。癖。私の完全体。
もう一度自分の顔を見る。角度を変えて後れ毛がないかとか、いろいろじっと眺める。
ないことを確認して、よしと声を出す。気持ちばかりのやる気だった。
自室からスクールバックだけとって、玄関に向かう。壁際でかかとを揃えて置かれているローファーを履く。特に指定されているわけではないけれど、ローファーのほうが格好がつくだろうと思っているから体育の日以外はほとんどローファーを履いて行っている。私のささやかなこだわり。
いってきます、と二人に聞こえるかどうかわからないくらいの声量で言って、家から飛び出す。背中をお母さんの声が軽く押した。
開けた扉からは夏の陽気が滲んでいた。
蝉の声に降り注ぐ太陽。湿度のない、からっとした空気。全てが夏を象徴するもので、青春の形みたいなもので、綺麗に形作られているもののように思えた。
そういえば日焼け止めを塗り忘れていた事を思い出して急いで木陰に逃げ込む。蝉の鳴き声が大きくなったように感じられて思わず顔をしかめる。虫は嫌いでは無い。ただ、うるさいのは苦手だった。
木陰が切れて、住宅街が終わる。その代わり、ビルの立ち並ぶオフィス街が見えてくる。学校はこのオフィス街のすぐそばだ。
オフィス街の入り口。その少し前に私の通っている私立高校はある。偏差値は中の上。国立大学の進学率も有名私大の進学率も、大々的に言うほどでは無いくらいの進学率しかない我が高校。生徒数は比較的多く、男女の割合は女子の方が若干多い。
校門をくぐる。同じ服装の人間に紛れて息を吸う。肺に空気が溜まる感覚がした。私は、生きていた。
肩がずしりと重たくなって、体の重心が移動する。一瞬変な声が出そうになってかろうじて抑えた。
「みち、おはよ」
「にっしー、おは」
にっこりと笑みを浮かべながら少女は私から離れる。少女は私の同級生だ。そして小学校時代からの親友である。
「ちゃんと寝れた?」
優しく、遠回しに聞いてくるあたり彼女はしっかりと私を気遣っているらしかった。
「もちろん」
特に夢を見たわけでないし、終わり方に未練があったわけではない。決して円満な終わり方でなかったとしても、終わりは終わり。残念ながら時間は流れる。止まらないし戻らない。今更女々しくなるつもりはない。
「そっか」
彼女はほっとしたように笑って、私の空いている隣を歩いていた。
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