一回目の話
第一話 勇者
「私の手を取らないか」
勇者に人間らしさなど不要なのだと断じられて生きてきた女にとって、それは救いにも等しい言葉だった。
名すら与えられなかった自分が一人の人間と認められた、そんな気さえした。
嬉しいと感じたのは生まれて初めてだったかも知れない。
女は、この世に生を受けてからずっと勇者でしかなかった。
魔王が現れし時、勇者が生まれ落ちる。だからまだ目も開かない赤ん坊だった女に神託が下り、世界を救うことを定められた瞬間、人ではない何かにされてしまったのだ。
光と影は表裏一体。影が疎まれれば、光もまた遠巻きにされる。
勇者は魔王の誕生を知らせる疫病神のようなもの。多くの民に不安と恐怖を与えた罪は、魔王を倒すことでしか償えない。
女の身分はとある王国の姫であったが、煌びやかな社交界に出るのを許されることも、それどころか一度もドレスに袖を通す機会もなかった。
華やかな装いをする姉妹たちや、綺麗な婚約者を持ち自慢するように見せつける兄弟を横目に羨みながら、自分が羨んでいるのだということすらわからないままに成長した。
初めて彼女が公の場に姿を見せたのは旅立ちの日。
癖の強い赤髪を後で一つに束ねて兜を被り、薄手の鎧に身を包んだだけの、たった十五歳の少女。それは人々の目にどう映っただろうか。
絶望したかも知れない。心の中で密かに嘲笑ったかも知れない。
「でも、どうでもいいわ」と強がりのように呟く。しかしその実、全く強がりでもなんでもない本心だった。
世界の希望を背負って、仲間という名の知らない他人を引き連れ死地へ赴き、魔王と相対する。それだけが女の務めなのだから。
三年をかけて旅をした。
その中で仲間との絆などが生まれたかと問われれば、それは否だ。女はどこまでも勇者であり、仲間たちは女を人間として見たりしなかった。
戦いではいつも最前線に立たされ、たとえ女が仲間の命を救っても感謝の一言もない。彼女が勇者である以上、当然のことでしかないのだろう。
野営中などは食事中すら誰も声をかけて来ず、一人ぽつんと孤立するのが常だ。
武闘家の少女が僧侶の青年に恋慕するのを見ても、魔物の群れを単独で壊滅に追い込んだことで怒りを買って戦士の男に「お前、勇者だからって調子に乗るな!」と理不尽に怒鳴られた時さえ、女の心は冷え切るばかりで。
そんな暁、変化は訪れた。
魔王直属の幹部が打ち倒されたことで危機感を抱き始めた魔王が、それとわからぬ形で女に接触してきたのである。
旅の魔法使い。
そう名乗った男のことを仲間に引き入れてから初めて、それが人間ではないと気づいたが、向こうがその気なら逆にこちらから寝首を掻いてやろうと考えて特段対処はしなかった。
男は……魔王は嘘が上手く、狡滑だった。
魔物を淡々と倒し、その度に傷つきゆく女を、他の誰にも心配されてこなかった女を、「頑張り過ぎるな」と労ってくれた。
常に前線に立たされていた女を庇い、邪悪な魔法の壁で守った。
一つ一つは些細なことだ。
でも女の中で、倒すべき敵に対する殺意が薄れていって――。
ある晩、殺しを決行した。
聖なる剣で男の背中を貫く。たったそれだけのこと、できないはずがない。
いや、もう少し一緒に過ごしてしまえば絆されてしまう予感があったが故に今しかないと思ったのだ。一度絆されてしまえば剣など向けられないだろうと思ったから。
野営地で皆が雑魚寝をしている中、見張りに立っていた男に対して奇襲を仕掛けたとはいえ、負けるなんて想定外であった。
防御の壁で四方を囲まれ、情けなくも身動きを取れなくされた女。
女に向かって男は、己が魔王であると明かした。明かした上で女を殺めることなく囁いた。
「私の手を取らないか」
変化を解いてありのままに姿になった魔王。
その澄み渡った黄金の瞳が、夜空の下で美しく煌めいていた。
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