同じ夢を見る
うみべひろた
同じ夢を見る
予定より2時間も早く起きてしまった。
あなたが買ってきたカーテンは薄すぎて、日が上ると眩しい。だから起きたらもう眠れない。
さっきまでの夢に触れられそう、だけど遠い。現実感が無くてふわふわした感触。
あなたの寝相が悪いのはいつものこと。今日は何故か腕をアームロックみたいに掴まれていて、喉が渇いたのに水を飲みに行くことさえ出来ない。
あなたの顔を見る。アームロックのせいで寝返りを打つことさえ出来ないから。気持ち良さそうに寝ていて腹が立ってくる。
なんでそんなに熟睡してるの。私は夜中に何度も起きて、そのたびに外は暗いからまだ寝れるって胸を撫でおろしていたのに。
今あなたが寝返りを打ったら関節が外れるんじゃないか。って頭の片隅で思う。それくらいに強烈なアームロック。
もしそんなことになったら絶対に責任を持って全部やってもらうんだ。救急車を呼んで、入院の準備をして、ケガが治るまで隣に座って食事もおやつも全部食べさせてもらう。
ここぞとばかりに、ずっと行きたかったフルーツパフェの店にも連れていってもらおう。
『どんな夢を見るかは経験と外部刺激で決まる』
あなたは大真面目に言っていた。どこかで論文まで書いててびっくりした。
『だから、同じものを見て、同じ外部刺激を受ければ、同じ夢が見れるんだ』
そこまでして初めて、ふたりは同じ未来を見られるんだよ。そう思わない? って。あなたはいつも、ロマンチストなんだか違うんだか分からない奴だった。
窓の向こうには桜。もちろんもう花なんて残ってなくて、カーテン越しに木漏れ日が見えている。大きく育ちはじめた葉っぱを透かした緑色の太陽。
まるでカナリアみたい。って思って、
その瞬間、さっきまで見ていた夢のことを唐突に思い出した。
あれは高校の頃。
文化祭の準備で走り回ってへとへとになって生徒会室に戻ったら、あなたは机の書類から目線も上げずに「おかえり」って言った。
あの時はまだ4月。春だった。あなたの後ろ、大きな窓から見える木漏れ日はちょうどカナリア色。
「おかしくない?」ってあなたに言った。「なんで女子が走り回って、男子のあなたが冷房の効いた部屋で涼んでるのさ」
「だから言ったじゃん。この書類を全部確認してくれたら代わりに僕が行くからって」
あなたは机に山積みの書類をぱんぱんと叩く。
「やだよ。だって——」
「書類確認は生徒会長の仕事だから」そんな山なんて見たくない。そんな目線に気づいたのか、あなたは書類に何かをずっと書き込みながら呟く。
そして書類回収は副会長の仕事。
「あー。もう学校全体にエアコンつけようよー。生徒会権限で」
「生徒会にはね、権限はあってもお金は無いんだよ」
「だから、会長用のエアコンはあるけど副会長にはおこぼれ無し。って。それ横暴じゃないかな」
会長机をたたくと、ぱこんと気の抜けた音がした。この角度から覗き込むといつも思う。睫毛長いなぁって。
「そう言われる気がしたから。あげるよ。おこぼれ」
こっちからは見えない引き出しを開けて、取り出したタッパーを私に差し出す。
「何これ」
「はちみつレモン。暑い日の栄養補給にはぴったりだよ」
ふたを開けると、はちみつに沈んで詰まっているのは緑色のレモン。
「知ってるレモンと色が違うんだけど。食べても大丈夫なの?」
「グリーンレモンは完熟前のレモン。甘くないけど香りが強いんだよ」
あなたはレモンをひとつ、私の手もとから奪って食べる。
「なんで勝手に食べるの。私にくれたはずなのに」
この部屋には絶対夏なんて来ないんだから、あなたには食べる資格なんてないよ。これは暑い中を歩き回った私のもの。
もう取られないように腕でガードしながら口に運ぶ。
とろとろのはちみつの向こうに光が見えた。
緑色のレモンは完熟前。これから大きく育つエネルギー。
「野球部のマネージャー直伝のレシピだよ。書類の提出遅れてごめんって、もらったやつがおいしかったから教えてもらったんだ」
レモンの香気成分は皮に集中してる。がりりと噛めば弾けるカナリーイエロー。私の内側でぱちぱちと。
それは甘くて苦くてすっぱくて、幾千万の果汁が私の中へと降り注ぐ。
熱くて強くて苦しくて、口を開いて何も言えないのは息ができないから。
眩しくてうるさくてぴりぴりして、全力で走ったあとみたいに心臓が早い。
野球部のマネージャー。
最近私と同じような髪形にしたその子の顔。どんなんだっけ。
レモンの果汁は酸性だって聞いた。
私はじわじわと溶かされていく。どこがなのかは分からない。ただ春の光がそこら中に漂っている。
この部屋の中は永遠に夏にならない。真正面から見れなくて盗み見たあなたの睫毛に春の木漏れ日が溜まっている。
心臓がどんどん早くなる。
積まれた書類もあなたの頬も。窓から差し込む光でカナリーイエロー。
「忘れるわけない。私は、今でもあなたが——」
風が吹いた。
今も変わらない。
あなたの睫毛は長い。夏になりかけている光がその先端に溜まって、風に吹かれてぱらぱらとこぼれる。
「起きてたんだ」
あなたが窓を開けたのか。器用にもアームロックをきめたまま。
いつから起きてたんだろう。
「今、何時?」ってあなたが聞くから、
「まだ早いよ。もっと寝てられる」って答える。夏の朝にしたってまだ早すぎる。
「夢を見たよ」あなたは言った。
アームロック、何故か両ひざで挟まれたふくらはぎ、カーテン越しの木漏れ日。
同じ外部刺激を受ければ同じ夢を見られる、あなたはそう言うけどさ。いつだって私はあなたの寝相の悪さの犠牲になるばかり。それって本当に同じなのだろうか。いつも私は分からなくなる。
「どんな夢なの、あなたの夢は」
「緑色をしたはちみつレモン」
また風が吹いて、部屋の隅に固めておいた紙の束がばさばさと崩れる音がする。
カーテンの隙間から差し込む朝日はやわらかく、春と夏、どっちつかずの色で差す。すっと息を吸い込む。朝の透明な空気。
「あの時さ、」
そうだ。思い出した。聞こうと思ってたけど聞けずに忘れてしまった記憶。「あなたがくれたはちみつレモン、すごく冷たかった。なんで」
「君に冷たいはちみつレモンを食べさせたくて、予算で冷蔵庫を買ってたから」
ずっと春のままの生徒会室、カナリーイエローの熱、あなたしか使えない冷蔵庫。
今、私はちょうど、春と夏の真ん中に立っている。
「やっぱり横暴だよ、あなたは」
そう言っても何も答えてくれない。
「そろそろ起きようかな」
あなたはようやくアームロックを外す。
じんじんとしびれている。例えば私の腕。いつもあなたの夢に振り回されるばかりだった。それが物凄く悔しくて、今度は私があなたの腕を枕にして寝てやる。
「そろそろ起きて準備しないと」
あなたは困った顔ひとつしてくれない。ただ、窓に向かって寝ている私の向こう側を眺めている。
もうほとんど何も残ってない部屋を。
「まだ10時間もあるんだから。少しでも寝といたほうがいいよ」
ゴールデンウィークの最終日。こんなに穏やかな日に、その終わりを見届けることなくあなたは旅立つ。あとを片付ける私を残して。
医者になって世界じゅうの人々を救いたい。あの生徒会室の中、あなたはいつか私にだけ教えてくれた。そして今日、地球の反対側へ行く。
そんな夢を持つなんて凄いね、私には出来ないや。ってずっとあなたに言ってた私。試験の前も当直明けでもデートに付き合ってくれたあなた。
私たちはお互いに何を見ていたんだろう、やっぱり今でも分からない。
絶対ここから出してあげない。両脚を絡めて固め技みたいにしてる私に、
「結局僕たちは、一度でも同じ夢を見れたのかな」
あなたは呟く。
ダブルサイズのベッド。二人分の場所はあるはずなのに、何故だかいつも狭かった。あなたの変なこだわりのせいでいつも暑いし寝苦しい。起きたら腕がしびれてることなんてしょっちゅうなんだ。
シーツの感触より、布団の暖かさより。もっと感じていたあなたの重さ。体温。変な寝言。
あなたと私の世界だった。本当にそれしかなかったんだよ。
夏が始まる日。
太陽はゆっくりと登っていく。季節は春から夏へと動いていく。
そういえばあなたのはちみつレモン、最後に食べたのはいつだろう。
あなたの質問の答えを私は知ってる。
同じ夢なんて、
「一度も見れたこと無かったよ」
あの狭い生徒会室の中、この狭いダブルベッドの中、あなたと私はいつも向かい合っていた。
窓を開けたあなたが何を見ていたかなんて私には分からない。
もちろん、あなただってそうでしょう。
あのはちみつレモンを食べた瞬間から、私たちの夢はすれ違っていたんだ。
「そうなのかな。割と今日はいい線いってたって思ったんだけどな。何となく」
あなたはやっぱり、困った顔ひとつしてくれない。
「そう思ってしまうのは、あなたが横暴だからだよ」
ひどいなぁ。って笑うあなたはぼそぼそと、
「もし、君がいいならば……別に今じゃなくてもいいけど……」
「行かないよ」
そんなことがあなたの口から出たのは初めて。何だか言いにくそうにごにょごにょするあなたに、私は言う。「馬鹿にしないでよ、私のことを」
あなたが行く場所がどんなところかは知ってる。
同じ夢を見ることが出来ない私とあなた。私がやりたいのはアームロックをかけて無理やり見せることじゃない。だって分かったでしょう、この8年間で。いくらあなたの寝相が悪くても、私たちの夢は一度だって同じにはならなかった。
立夏の朝、あなたは窓を開けて目覚める。
私がやるべきなのは、この狭いベッドからあなたを自由にすること。寝るときいつも部屋のほうしか見れないあなたに、明るい朝を見せること。
そんなこと分かってるよ。
だけど。今は別にいいでしょ? まだぎりぎり朝にはなってないんだから。
あなたの腕を枕にして、
あなたのひざを両脚で挟んで、
あなたの背中に両腕をまわす。
カーテンは黄色く光ってて、レモンの甘いフレグランス。
眩しくてもう寝れないでしょう。
だから今は夢なんて見ないで。もっと近くを見て。
「ごめん。僕は、君を——」
「言わないで」手も脚も頭もふさがってるから、仕方なく唇でその言葉をふさぐ。起きたばかりでかさかさの唇。
こんなに二人で完璧にくっついて、それでも私と同じ夢を見られないあなたは。きっとただのバカだ。
「私たちはきっと、そこまで好きじゃなかったんだよ。お互いのことが」
あなたが何か言おうと息を吸い込むのが、唇に当たる冷たさで分かる。
絶対に言わせてあげない。私はもう一度唇をふさぐ。さっきより暖かくてやわらかい。
私にこれ以上春の夢を見せないで。
あなたは言葉を飲み込んで、代わりに私を力強く引き寄せる。
そこで私は初めて気づく。あぁそうか、私が完璧だと思っていたものはまだ完璧じゃなかったんだ。
バカなのは私も同じだ。
この狭さを私は絶対に忘れない。時々ベッドの端に追いやられて、落ちそうになって何度も目が覚めた夜を。
この重さを私は絶対に忘れない。あなたの腕や脚につぶされて、息苦しくて何度もあなたの身体を押しのけた夜を。
この暖かさを私は絶対に忘れない。くっついてると暑すぎて、汗がひどくてなかなか寝られなかった熱帯夜を。
例えばこの先、このベッドからあなたがいなくなったとしても。あなたがいたときの寝苦しさを思い出して上手く眠れないかもしれない。あなたのせいだ。
きっと私が見るのはあなたの夢ばかり。
あなたはどうなんだ。
私がいなくなった後、地球の裏側で、少しでも私と同じ夢を見られるのか。
「もう夏だね」
私はあなたに言ってやる。
やっぱりあなたは答えてくれなくて、
「グリーンのはちみつレモン。もう一度一緒に食べたかったなぁ」
そんなどうでもいい夢の話ばかりする。
いつの間にかこんなに時間が経ってしまった。カーテンの隙間から差し込む光が私たちを黄色く照らす。
夏がはじまる。きっと今日は暑くなる。
だけどまだ、今はこのままもう少しだけ寝ていられたら。
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