空想交差点
春雷
第1話
「あ、雨やんでた」
見上げると、雲の切れ間から太陽が覗いている。いつの間に雨がやんでいたのだろう。
私がいるのは、古びた歩道橋。生ぬるい風が頬を撫でる。真下では車が忙しなく行き交う。
パタン、と傘を閉じる。
タン、タン、タン、と足音を鳴らして、歩道橋の階段を降りる。
心なんてなければいいのに、と、そう思う。ここしばらく、ずっと考え続けていたことだ。心がなければ、苦しみも悲しみもないのに。
どうして心があるのだろう。
住宅街に入る。道ゆく人はいない。世界中に私ひとりみたいだ。パシャ、と水が跳ねる。足元を見ると、水たまりに私の姿が映っている。悩み疲れた私の姿。
靴下まで濡れてしまった。足先に、ぐっしょりと、気持ちの悪い感覚。
苦しかったこと、悲しかったこと・・・。
いつも期待して落ち込むのは、馬鹿みたいにそれらを忘れてしまうからだ。
・・・どうせ馬鹿なら、この考えすぎる性格をどうにかしてほしいものだ。
裏切り、なんて傲慢な言葉だ。私が勝手に期待しただけなのに。
ざああ、と雨が降り始めた。
ああ、結局、降り出してしまった。
「傘はさっき捨ててしまったよ」
誰に言うでもない、言葉。
ざああ、ざああ、ざああ・・・。雨はしだいに勢いを増していく。
このまま雨に濡れてしまおうか、と思っていた時だった。
雨が上がった。
私は空を見上げた。天気雨だったのだろうか。いや、それにしては天気が良すぎる。さっきまでの曇り空が嘘だったかのように、今は晴天だ。雲ひとつない。
これはどういうことだろう。
住宅街にいたはずなのに、今は、真っ白な世界にいる。高くて白い壁が、私の両側にあり、それらが迷路のように、真っ直ぐ伸び、折れ曲がり、交差している。
「どこだここ・・・」と私は呟いた。
しばらく歩いてみた。私は異世界に迷い込んでしまったのだろうか。あるいは、ここは死後の世界か。死後の世界だとすると、私は死んでしまったということになる。死とは、こんなにもあっけないものだったのだろうか。
それにしても、この世界は一見清潔なようでいて、少し空気が悪いし、地面もぬかるんでいたり、でこぼこしていたり、意外と荒れている。白い壁も、薄汚れていたり、所々ヒビがあるし、落書きがされているところもある。触れてみると、不思議なことに、柔らかかったり、固かったり、触れた部分によって異なっており、しかも冷たかったり熱かったり、温度も異なっていた。
そうして歩き続けていると、やがて広場に出た。複雑に入り組んだ迷路の中に、ぽっかりと穴が空いたような、円形の空間だ。空間は広くもなく、狭くもない。
その空間の中心に、誰かがいた。
彼は青年で、黒の丸い帽子を被り、ゆったりとした緑の服を着ていた。
「やあ」と彼は言った。
私が戸惑っていると、彼は手招きした。こちらに来い、ということなのだろう。私は恐る恐る、彼に近づいた。
「はじめまして」と私は言った。
すると彼は、少し笑って、そういうことにしておこうか、と言った。私には、その言葉の意味はわからない。
「これは、夢なんでしょうか」
私がそう訊くと、彼は面白い質問だね、と言った。
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」彼の返答は、何とも歯切れの悪いものだった。
「じゃあ、ここは一体・・・?」
「ここは、空想交差点だよ」
空想交差点? 聞き慣れぬ単語だ。
「人の思いが交わる場所さ」
「あなた、誰なんですか?」
「僕はジシ。ここの住人だよ。僕はここで、いろんな人の話を聞いているんだ。君は、僕に何か話したいことはあるかい?」
特になかった、といえば嘘になる。話したいことはあった。しかし、どうにもうまく話せる気がしなかった。だから私は、首を横に振った。何もない、という意味だ。
「それもいいさ。話したくなった時、話せばいい。物語は逃げていかないからね。それに、たとえば沈黙でさえも、何かを語っているものだ」
しばらく沈黙が続いた。しかし、それは気まずい沈黙ではなかった。久しぶりに感じる、心地の良い沈黙。気の置けない友人と過ごしているような、そんな錯覚があった。彼とは初対面なはずなのに。
パァン、パァン、パァン。
突然、音が鳴り響いた。銃声のような音だ。
あそこを見てごらん、と彼が指差す方向を見ると、空中で爆発が起き、煙が舞っていた。
「あれは何ですか?」
「誰かが争っているんだよ。心の衝突さ」
それから何発か爆発が起こった後、再びこの世界は無音に包まれた。
「・・・もし、ここが心そのものなのだとしたら、私はここが嫌いだ」思わず、そう呟いた。
「そうか」
「生きることは傷つくことだ。何かを求めては失い、何かを願っては挫ける。心はいつだって苦しみを生む。心さえなければ・・・」
その後の言葉はどこかへ消えてしまった。あるいは空気に溶けて消えたか、あるいは身のうちに毒として溜まったか。いずれにせよ、それは言葉にならぬ悲鳴だった。たぶん、そうなんだと思う。
そして、沈黙が世界を支配した。静寂。心だけがうるさかった。何かを訴えていた。言葉にならない何か、詩にならない何か、物語になれなかった何か。
静寂を破ったのは、また鳴り始めたあの音だった。
パァン、パァン。
銃声。爆発音。私は目を閉じた。
そこに広がる暗闇。
どうしようもない孤独。
その闇の中で、ジシは私に語りかけた。
「人は傷つきやすい。心は脆い。しかし、生きていく以上、傷つくことは避けられない」
その通りだ。そこから逃れることはできない。だからこそ、私は心の消滅を願ったのだ。
「でも」とジシは言った。「それだけじゃない」
彼は、私の肩に手を置いた。
私が目を開けると、そこに彼の姿はなかった。肩に残った彼の手の温もりだけが、彼がここにいた証拠だった。
パァン、パァン。
音はまだ、鳴り響いている。
私は、音のする方向に目を向けた。
花火が上がっていた。
色とりどりの光が、空で爆ぜていた。
赤、青、緑、黄色。
さまざまな色が混じり合い、大きな花を咲かせている。
でも私はその光景を、ただ美しいと思うことはできなかった。
気がつくと、住宅街に戻っていた。雨が容赦なく私に降りつける。髪もシャツも、何もかもが濡れてしまった。
はああ、とため息をつく。俯いて、足元を眺める。
水たまりに、私の姿が映っていた。
びしょ濡れで、何とも情けない姿。
今はまだ、この姿を愛することはできない。それはきっと、少し疲れているからだと思う。
立ち止まってみるのも、悪くないのかもしれない。
それから、私はしばらく雨に濡れていた。雨に濡れるのは、久しぶりだなと思った。全身、雨に濡れて、心地よかった。そして、私はまたのろのろと歩き出した。
もう少しだけ歩いてみるのも悪くない、と思い始めていた。
もう少しだけ。
次の交差点で誰かと出会うまで。
空想交差点 春雷 @syunrai3333
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