ペニス・グラフィー

真保糸

〈1話完結〉ペニグラフ

「蟹江さん、こちらにどうぞ」

検査室の分厚いドアが開いて紺色のスモッグを着た男性に名前を呼ばれた。もう11月なのに半袖で日焼けした太い腕が目立つ。看護士だろうか。それとも検査技師か。僕には詳しいことは分からない。これまでもこれからも自分が病院で働くことはないし、病気もない、運動もしないから怪我をすることもない。レントゲンを撮るのは年に一回健康診断で来る以外には機会がない。細切れに発生する待ち時間に、こういう人たちはどんな職種なのだろうと一瞬だけ考えてはみて、考えているうちにあちらからこちらに移動するようにと手際よく誘導されるので、結局分からないまま忘れてまた翌年の健康診断が来る。それを何回か繰り返して、入社後もう何度目か分からなくなった健康診断を受けている。


「ペニグラフ、撮っていきますね。そこの足形に合わせて脚を肩幅に広げて立ってください」

床を見るとご丁寧に水色で塗られた足跡があって、自分の足の裏を合わせて立つ。


「あ、ごめんなさい。先に服を脱いでください。下はズボンと下着を全部脱いで上のTシャツも陰になるので脱いでください。服はこちらの籠に入れてください。終わったらまた足形のところに立ってくださいね」


言われるがままにズボンと下着とTシャツを脱ぎ、裸に靴下とスリッパだけが残る。恥ずかしく思う必要はない、男なのだから、男の裸には何の価値もない、と自分に言い聞かせて足形の上に戻る。


「蟹江東さんですね。ペニグラフは初めてですか?」

「はい」

「ご家族や親戚で癌を経験された方はいますか」

「父が前立腺がんでした」

「ご親族に癌を経験された方がおられる方は特に若い頃から検診をされることをお勧めしているんです。今は三十歳ですね。定期健診を始めるにはいいタイミングだと思います。これからもできれば毎年ペ二グラフは受けてくださいね」

「はい」

「それでは検査始めますね。ここに立ってペニスを板の上にのせてください」と言われて下をみると、確かに腰よりも少し低いくらいの位置に透明な板があったので僕は男性器を上にどっと乗せた。


「あ、睾丸はいいですよ。ペニスだけのせてください」

何がどうしてと言われると説明できないのだけど、自分がどうしようもなく間抜けな馬鹿者に思えてくる。裸に靴下だからか。それともこの体勢? 分からないけど、何と言っても僕はペニスを板に乗せろと言われて睾丸とペニスを板に乗せるような男だ。馬鹿者の疑いを少しでも払拭したくて慌てて腰を引き、板の上がペニスだけなるように睾丸をだらんと身体に戻す。


「はい、じゃあ上から挟む機械を下ろしますね。X線が広く当たるようにペニスを薄くしていきます。みなさん痛いとおっしゃるので頑張ってください」

「え?」

「やっていきますね」

聞き返す間も与えられないまま、男性は機械のどこかを操作して上の板が下りてくる。当たっても痛くないように端は丸く削られているし感触も冷たくない。いけるかも。薄いペニス、できてるかも、と思っていると

「じゃあ挟んでいきますね」

と男性が言うので、今まで何も始まっていなかったことを知った。返事をするよりも先に、びゅいん、という音を立てながら上の板が圧力をかけてきてペニスが押し潰されて、もうこれ以上はちょっとというところまで来てもまだ機械はペニスを押しつぶす方向に圧迫を続けているので、間違いじゃないか、この人が気を抜いているか何かのせいで本来以上にペニスを押し潰しているんじゃないかと不信感が湧いてきて、それでも数秒は耐えてみたがやはり怖くなって腰を引こうとしたのを男性は目ざとくみつけて、「もうすこし薄く広げますよ、奥にレバーがあるのでしんどかったらそれを掴んでください」と言って僕の手をとってそのレバーとやらに誘導してくれた。

なるほど確かに掴みやすい場所にレバーがある。レバーというよりはただ力を込めて握ることだけを想定した、それ以外には何の機能もないプラスチック製のでっぱりがあって、少なくともこのしんどさが自分一回きりの間違いではなく、正確にシミュレーションされた検査方法であることだけは理解できたので、黙ってレバーを握りしめて耐える。

「しっかり測定していきますね。そのままですよー」

まだ上の板からは圧力がかかり続けていて次第に「うっ」と呻き声まで出たが、苦痛は既に折り込み済み、僕の呻きなどどうってことはないと言わんばかりに無視を決め込む男性に医療従事者としての信頼すら覚え始めたところで、男性はあわてて奥の部屋に入って僕が一人取り残される形となりその体勢のまま固まって測定が終わるのを待った。測定まで一人でやっているからやはり検査技師だったのだなと考えたりして、考えている間は鈍い痛みに耐えている時間というよりも考えていることのほうが優位になって痛みは相対的に減るような気がして、看護師と検査技師の違いはなんだろう、看護師が検査技師を兼ねていたりする場合もあるのか、などろくに知識もないような、考えるよりも調べた方が早いんじゃないかというような考えを無理やりに増やしてみたりする。


男性は分厚いベストのようなものを着て戻ってきて、努めて明るい声で「もう一度撮りますね」と言って一度機械を外し、僕のペニスを一度ティッシュで拭いた。

「緊張されてますね。汗を拭いてもう一度やりますね」という男性の言葉に先程の測定が失敗に終わったことを知ると、繰り返される圧迫の恐怖に肩や背中が硬直していくのを見透かされ「力抜いて楽にしてくださいね」と声を掛けられる。


もう一度ペニスを板の上に乗せると汗と熱気で板がすぐに曇りだした。男性は新しいティッシュを取ってまた僕のペニスを拭った。

「力を抜いてリラックスしてくださいね」

と言葉よりも幾分も強い語調で念押しされたことも怖くて、意識的に深呼吸をしようとしてかえって身体に力を込めてしまう僕に対して掛ける言葉も尽きてきたのか、男性はまた機械を操作して板を下ろす。先ほどよりも強いんじゃないかというくらいに上の板を勢いよく下ろしてきて、もう無理というところからさらに数段階くらい圧迫を進めて、また奥の部屋へ引っ込んだがすぐに戻ってきて「もう一度撮りますね」と告げられたのはデジャブなんかじゃなくて現実だ。


「一回外しましょうか。リラックスしてくださいね」

と男性が言うと板は完全に外され、ペニスは僕の身体に戻って少しの間股間にぶらさがることを許された。

「ペ二グラフは初めてですよね、緊張しますよね」ともう何度目か分からない雑談に見せかけた鎮静を行ってくるので、恐怖よりも呆然と憤慨のような気持ちが湧いてくるけど、それは以外にも、痛みに耐えきれず結局のところ何度も痛い思いをすることになって痛みの総和を増やし続けている不甲斐ない自分に対して向けられたものではなかった。

「しんどいですよね。でもこれで神経癌が見つけられますからね。大事なことですからね」

と言う検査技師にも嫌気が差してきて、再び繰り返される圧迫に怒りを込めてレバーを強く握って耐えた。今回の測定は成功したようだった。


考えてみれば、ペニスを力の限り押しつぶすなんてあまりにも非人道的な行為ではないか。痛みに強いとか弱いとかの話じゃなくて行為自体が男性の尊厳に反するというか、これが病院じゃなかったらどうなんだろう。極端なSMプレイでもここまでのペニス圧迫はないんじゃないか。いや嗜好によってはあるのか。あったとしたらそれはそれで尊厳を踏みにじられることを快感に変えるという嗜好なわけだから、やはり尊厳には反していることには変わりないんじゃないか。膨らんでいく思考の中ののほんの一言ぐらいは直接に文句を表明してもいいんじゃないか、こんな痛い思いをしたんだから、という気になってきて半ば自棄っぱちの発語にふさわしい台詞まで準備していたところで

「はーい終わりです。よくがんばりましたね」

とお褒めの言葉を授かり、そのような気はしゅんと萎んだ。部屋を見渡すと壁もドアの内側もフカフカとしたクッションで覆われていた。


「気を失う方もいらっしゃるんですよ」

「気を失う?」

「はい、この痛みで」と言って男性は先ほどの二枚の板の圧迫を再現するように、両手の手のひらを上下にぐっと近づけてみせた。「中には倒れる方もいらっしゃるので、頭をぶつけても危なくないように部屋の中は全部クッションになってるんです」と言ったときには、腕に力を込めて壁をぐっと押した。


「では服を整えて、終わったらこのファイルを受付に返して、待合でお待ちください」

と言われて服を着て待合室で待った。そのあとは名前を呼ばれるがまま、手際のよい誘導に従って何個かの検査を回り、残りのすべての検査を終えて診査着から普段着に着替えて受付を済ませて外に出た。


**


健康診断を終えて地下鉄に乗るため、クリニックのある大手町から二重橋前駅まで日比谷通りに沿って歩いた。目に入るどのビルを抜き出して眺めても新しく、ビルとビルの間には幅の広い道路が等間隔で割り振られ、それらが日比谷通りと交差するたびに、遮るものがなくなった太陽は日盛りを過ぎて赤みを帯びたあたたかさとなって僕の身体を左側から照らした。見渡す限り行き交う人々はこの辺りの勤め人か旅行者かの両極端のいずれかで、病院帰りの自分のように生活の延長線上に立つ者はいなかった。向かいから歩いてくる男女二人はそれぞれにPCバッグを持ち、無地のワンピースや紺色のスーツには不釣り合いなほどくっきりとした原色の青いひもを首から下げて、その先に付いた社員証をカチカチいわせながら通り過ぎて行った。今の自分はああいう歩き方はできない。さっきの検査の余韻で股間がじんじんと痛んで熱を持っているから、できるだけ股間を揺らさないよう歩幅を小さくして歩いている。これでは社員証を揺らすことはできない。


地面と平行に身体を揺らさないように歩き進めていくと太陽は背の高い建物の陰に隠れ、さらに歩くとその端だけが建物の角から表れて、ビル群のどれか一つに反射して鈍い輝きを放っていた。どのビルも数えきれないほどの窓が敷き詰められていて、スクロールするとどこまでも延長してゆくエクセル表を巨大にしてそのまま窓枠と窓ガラスをはめ込んで造ったようだった。どのビルのどの窓も青かった。並木道のイチョウは幹と枝の太いものはどれも先端が刈り取られて白い地肌を露出させ、切断面の側からはひょろひょろと細い枝が何本か伸びて、その先に控えめに黄色くなった葉が広がっていた。そういえば足元にはほとんど落葉が無かった。どの道にも大きな木が相当な数植えられているが、ここに自然の成分があることを忘れてしまうのは葉の分量を不自然なほど正確に整えているからか、その不自然な非存在は、並木だけではなく短く刈り込んだ植込や皇居のお堀の向こう側に見える木々についても同じだった。


何もかもが新しく更新されていくこの一帯の中で、皇居の外堀だけは石造りで古かった。それから端の両側にある守衛所も古びた石造りの建物だった。屋根は青銅の丸いドーム型で、ヨーロッパの歴史的な建物を人ひとりぶんが入るだけのサイズに縮小したようだった。年配の女性たちがかたまって守衛所の屋根の下に入って柱や天井を見上げたりしていた。近くには小さな三角形の旗を持ったガイドとそのツアー客と思われる同世代の年配の男女がゆるやかにまとまっていた。先ほど守衛所の中に入っていた女性たちは記念撮影をするため外へ出て、そのうちの一人が撮影のために後ろ向きに下がり僕とぶつかった。ぶつかってきた背中は肉厚で柔らかかったが、どすんと音が出てもおかしくないような強い勢いだったので衝撃で股間がびりりと痛んだ。「ああすみません。ごめんなさい。ごめんねえ」と何重にも謝られ、被写体としてポーズをとっていた女性たちも一緒になって謝罪をするので、僕は表情を崩して大丈夫だと答え、そこに大丈夫だという身振りを付けたそうと手を挙げると身体が揺れてまた股間が痛んだ。最後に重ね重ね「すみません」と謝られ、できるだけ顔に痛みを出さないように会釈をしてまた歩き続けた。


痛みがあるのにそこに何も存在しないように振舞うのは、それが痛みの発生の原因ともいえる検査技師であっても少なくとも痛みの存在を共有できていた検査中とは訳がちがった。外を歩いている今となっては誰に知られることもない痛みは僕が認識することをやめれば初めから何も存在していなかったということもできるのだし、痛みという不幸せな感覚はたとえばそれが報道などで伝え聞くような言語上の表明の自分では経験していない他人の痛みであっても、存在しないほうが誰にとっても都合が良いのだから、僕の脳の考え方、捉え方を矯正してみるという手もあったが、じんじんと熱を放つ股間は先ほどの残虐、暴力、医療行為の体をとった恥辱の痕跡をなかったことにはできないようだった。


振り返ってももう先程の女性たちはいなかった。彼らが属していたツアー旅行の団体ごといなくなっていた。メトロの青いマークを見つけたがそれは道路の向こう側にあった。前後を見渡しても車道の分離帯には植え込みが続いていて、近くに横断歩道はなさそうだった。僕は女性とぶつかった辺りまで戻り、交差点を渡って二重橋前の入口までまた同じ方向に歩いた。階段を一歩一歩、身体を揺らさないようにゆっくりと下りて地下に入り、千代田線に乗って綾瀬駅で降りて家に帰った。


**


家に戻ったのは4時過ぎだった。リビングに入るとすぐに

「おかえり~」

と間延びした声で妻が声をかけた。今日は在宅勤務だと聞いていたが、妻はダイニングテーブルの上に鏡を置き、前髪を上げてクリップで留めて顔半分に肌色の液体を塗りこんでいるところだった。

「もう仕事終わったの? これから外出?」と僕は聞いた。

「今日は早めに終わった。学芸大で順子と飲むから」

妻が答えている間にリュックを床に置いてソファにどっと沈み込む。ただ歩くだけでも股間に気を張っていたから、まだ夕方なのにひどくつかれている。

「学芸大? 結構遠いね」

「順子の職場あっちだし。私もあっちの方が慣れてるから。お店もいいとこ多いし」

綾瀬から学芸大学は千代田線で明治神宮前まで10駅ほど行って乗り換えなければいけないから、電車に乗っている時間だけでも1時間はあるはずだ。それでも妻がこの辺りの綾瀬や北千住で友人と会うことはほとんどない。彼女にとってまだ土地勘があって友人も多く住んでいるところで飲みたいという妻の気持ちは分からなくはない。


2年前に結婚してからこのマンションに引っ越してきた。僕も妻も二人共が在宅勤務になる日もあるし、喧嘩をしたり何やかやがあったときのために、それぞれの部屋は別にしたいという妻の強い希望で2LDKの賃貸を探した。僕たちが払える家賃で妻が納得できた部屋は綾瀬のこここだけだった。僕はどこでもよかったし間取りは妻の希望通りだった。妻と知り合った頃はよく中目黒や恵比寿や三軒茶屋などに出かけていたものだが、最近は北千住が多くなり、僕はあちら側に出ていくことはなくなった。僕の場合は遊び相手もほとんど妻しかなかったようなものだったから、二人で綾瀬に引っ越してからは同じ東京と言ってもわざわざ遠くまで出かける理由もなかった。妻はまだ友人に呼ばれると渋谷以西のエリアに出かけていく。平日に予定が入れば仕事を早めに切り上げる。


「そういえば検査どうだったの?」妻が鏡から顔を上げて聞いた。

「痛かったよ」

「痛い? あーあれやったんだっけ。男性の、あの検査、名前なんだっけ。あれそんな痛いの」

「ペ二グラムね。ありえないくらい痛かった。まだじんじんするもん」

へえ、と言ったときすでに妻は髪の毛に取り掛かっていて、鏡の中を真剣にのぞき込んでヘアアイロンに髪を巻き付けたかと思えば数秒間固まって再び真剣に鏡を見て、アイロンから髪を外したかと思えば慌てて巻き終えた部分をばらばらと散らして毛流れを緩やかにした。すべての髪に巻き目を付けた後は、左右の毛流れを入念に整えて髪を顔周りの毛をつまんだり癖づけたりしていて、このあと駅まで歩いたり風が吹いたりしてそれらが乱れるといった想定は妻の頭の中には存在しないようだった。


久しぶりに街に出るからと言って妻は飲み会の前にもあれこれと予定を入れたようだった。その一つが三軒茶屋にある小さなギャラリーでの刺繍作家の個展を見ることで、17時には店に着きたいと言いながら、部屋のあちらこちらに散乱した携帯や財布やイヤホンなどを集めて慌ててかばんに詰めていった。


「ごめん。急いでるからこのまま行くね。邪魔だったら机の上適当に片付けといて。このまま放置でもいいし」


僕に発言の隙もなく、妻は壁に掛けてあった上着を掴んで出ていった。もともと僕はこの後ソファに沈み込んだまま、ときおり座ったり寝転んだりを繰り返しながら今日を終える予定であったし食事も妻に用意もしてもらえる算段だったので、妻が飲みに出ると聞いてからは晩飯について考えていた。今から起き上がってコンビニに行くのはあまりにもしんどいし、この前お取り寄せした冷凍ミールセットを開けようか。妻と僕用で二人分を買っていたけど、この状況なら先に一人で食べても責められはしないだろう。


それにしたってこのテーブルである。どうして女性の化粧はこんなにもこまごまと物に溢れているのだろう。大きいのも小さいのも、様々な四角いケースは蓋を開けてみなければ中身が何だか分からない。妻の化粧品はどれも外装が重厚そうで、僕でも知っているブランドのロゴがついたものがいくつかあった。それ以外のものには同じような黒い外装に共通するロゴがついていた。しかしテーブルの雑然さをもっとも際立たせているのは大小さまざまな筆で、先端が平らになった細い筆、先端がとがった細い筆、先端が平になったもう少しだけ太い筆、毛足が長い細い筆、毛足が短く先端に肌色のファンデーションが付いている太めの筆、それから実現可能な限りで最大限筆を太くしたというような、大量の毛を留めたぶわりと広がる一番太い筆などが、様々な柄の長さ、色、毛の色を持ち、机の上であらゆる方向を向いて散らばっていた。


立てかけられたままの大きな鏡にしたってこのテーブルはあまりにも化粧が満ちた空間で僕はなんだか居場所がない。呼ばれてもいないパーティーに無理やり参加しているような気持ちになる。


「男性は大変だね」と言った妻の言葉を思いだす。男性の検査―彼女はペ二グラムという名前を何度言っても覚えない―の話をしようとして、髪の毛を扱いながら集中して鏡をのぞき込んでいた妻が、ヘアアイロンを机に置いて一呼吸してこちらを一瞥してそう言った。大変なのは女性の方だと僕は常々思っていたけど言わなかった。性質の異なる大変さを比較して競い合わせるのは正しいことではないだろう。妻には股間の痛みが分からない。僕は妻の子宮の痛みが分からない。どちらも悪いことじゃない。もしも彼女がソファの側で僕につきっきりになって甲斐がいしく食べ物や飲み物を運んで来るような妻だったら、それが今日だけでなく僕の身体に少しでも異変があるたび、心配と同情でそんなことをするような人だったら、僕はうっとうしくて彼女のことが嫌いになってしまうかもしれない。嫌いになったままこの先暮らしていくくらいなら、ペ二グラムなんて名前は覚えてくれなくていい。妻には僕の心配事を背負ってほしくない。男のことを分からないまま自由に飲みに行く方が魅力的なんだ。出かける前に片付けなんかしなくていい。


とりあえず机の上を片付けることにした。大きな鏡は脚をたたんで横向けにしてリビングにある本棚に入れた。変な置き場だと思うが妻が決めた妻の持ち物の収納場所に、僕があれこれ口出しする権利はない。習慣を乱すことができるのはその習慣に関わっている者だけだ。僕ではない。それから筆を片付けよう。毛先を上に向けて立てて置いておくのが正解な気がする。大学の頃付き合っていた元カノはそうしてた。確かペン立てみたいな丸い透明な筒を筆入れにしていたんじゃなかったか。当時の僕は彼女の畳張りの6帖1Kのアパートにほとんど毎日入り浸っていて、彼女が身支度をする様子をこっそりと観察していた。布団はひきっぱなしで、廊下にはいつもゴミ袋が時下に置かれている有様のけっして几帳面とは言えない彼女も化粧品の収納にだけは一家言あるようで、部屋の隅に置かれた白い箱には、妻が持っているのと同じような様々な化粧品の大小さまざまな四角いケースがきっちりと立てて入れられてあって、筆入れもそこに収まっていたのだった。


僕は筆を持って妻の部屋に入ったが、筆を立てかけて置いておけるような場所はなかった。そういえば妻がこの家でどのように化粧品を収納しているのか考えたこともなかった。そもそも妻の部屋に入って持ち物をじっくりと観察することもなかった。妻の部屋には服を掛けておくハンガーラックと仕事用のデスクと折り畳み式のソファベッドがあって、そのほかに物を置ける余裕はなかった。デスクにはパソコンと紙の資料や本が置かれているだけで、化粧品を収納する場所がこの部屋のどこかにあるようには思えなかった。しかし両手に持て余している筆の置き場が欲しくてデスクの上にざっと広げて筆の柄の向きを揃えてみたが、仕事用の物の中でバラバラな太さと色の筆は際立って浮いて見えた。ダイニングテーブルに在ったときにも浮いていたけど、その違和感がそのまま仕事用デスクに移っただけであり、いやむしろ能動的に移動を伴っている分だけ僕の当てつけや嫌味を含んでいると捉えられたらどうしようと気になって、その場から立ち去るのに躊躇した。かといってわざわざ運んできたものをまたダイニングに持ち帰り机の上に広げるのも変な話である。ダイニングテーブルに置いておかず仕事用デスクに移す理由、そうだ、僕はいまから食事をするから、汁が飛んで顔に触れるものを汚してしまったらいけないから、と説明可能なことに考え至って、やはりこのまま妻のデスクの上に置くことに決めた。


そうとなれば、残りの化粧品もこの部屋に運ぶのが自然じゃないか。また家の中を往復することになるがここまで来ればたった数歩の違いだ。何より僕は労力を出し惜しむようなケチな人間じゃない。たとえ股間が燃えるように熱を持っているときでも、妻のため、それからこの家の秩序のための数歩のことでとやかく言いたくはない。ダイニングに散らばった化粧品は、度で運んでしまおうとして重ねて持つと意外とかさばった。大きさもバラバラで片手で掴んで持つのは無理だった。両手で抱えるようにして持って、ドアを開けようとして両手のままドアノブを押したときバランスが崩れて手の中からいくつかが落ちた。あっ、と思ったときにはすでに蓋が空いた状態で床の上に転がって、ひっくり返してみるとピンク、オレンジ、紫、茶色の4つに色分けされた粉はどれも亀裂が入って欠けており、床の上にもそのカラフルな粉が散乱していた。僕はこれがまぶたに付ける粉だとすぐに分かった。しかし先ほど家を出ていった妻はこの色そのままのカラフルな目元をしていたわけではないから不思議だった。塗り方を工夫するとこのようなカラフルな粉を使ってもケバケバしい仕上がりになるわけではなく、いつもの彼女のように、自然で違和感のない仕上がりになることもあるのだなと思った。


もう一つ蓋が空いた状態で床に転がっているものがあって、それはつやつやとした金色の容器に入った肌色の粉だった。手のひらよりも大きなサイズで球体の上下を軽く押しつぶしたような厚みのある容器は、下半分に粉が入っていて、上半分は蓋になっておりパフを収納して置くスペースがあった。落下した衝撃で蓋が外れ、粉の入った下半分がひっくり返って床に落ち、その周りには肌色の粒子の細かい粉がこぼれていた。上向きに戻すと容器からこぼれ出た細かい粉が宙を舞い、カーテンの隙間から差し込んだ西日がその粒子のひとつひとつに反射して光った。粒子の中にも大きいものと小さいものがあって、大きなものは光を受けてホログラムのように輝いていた。美しいと思った。容器を軽くトントンと叩いてみると、容器から溢れ出た粉がまた少し宙に舞ったが、光を受けて輝くほどの高さには浮遊しなかった。次は窓際に移動して容器を縦に向けて腕を左から右に大きく振ると、粉がぶわりと舞って、たくさんのホログラムが生まれた。僕は夢中になって何度も腕を左右に振り、粉を空中に舞わせた。何度も繰り返したが、意外にも粉はすぐに尽きることはなかった。粉の出が悪くなったと思えば、また容器を水平にしてトントンと整え、縦向けに持って腕を振れば何度かは復活した。


太陽は沈みはじめていた。窓から真横に差し込む西日が部屋の奥まで届き、その先を見届けようと目で追うと、亀裂の入った4色のカラーパレットがいっそう輝いていた。今まで僕が見ていた肌色の粉のきらめきは、このきらめきと比べれば、もはやきらめきでも何でもなかった。先ほど僕が立っていた窓際は靄がかかったように空気が濁っていて排気ガスや黄砂が部屋のなかに侵入してきたようだった。カラーパレットの分かりやすいラメとホログラムが赤い西日に照らされて燃えるように光っているのを見て、焚火に薪を焚べるように、僕は爪を立てて色とりどりの粉を削りだした。力を加えることもなく簡単にほろほろと削れていくその崩れ方には止め時がなく、気付けば4色すべてに爪を立てていた。中途半端に削れた断面を光にかざすと先ほどとは違う色合いが顔をのぞかせるので、僕は得意げな気持ちさえ覚えて、腕をまた大きく振ってパレットに浮かぶ粗く削れた粉を散らしてみたが、金色の容器に入った粉のようにふわふわと大きく広がることはなく拍子抜けだった。


そんなわけで僕はそれを床に叩きつけてみた。やってみると床板よりも化粧品の容器の方が強かった。化粧品の四角い角で床に傷がついたのを見て、取返しのつかないことだと頭ではっきりと認識しているような、頭の外で自分以外の誰かが考えているような、そのどちらの見分けもつかなくなって、とにかく最後までやりきること、何事も途中で投げ出さずやりきってしまえば、その先でしか分からないことがあるような気がして、壊れるまでやってしまおう、そう思ってもう一度床に強く叩きつけた。先ほどよりも深く床がえぐれて、それでもケースは壊れなくて、粉だけはすこし割れて床に散らばった。僕はしゃがんでケースを取り上げて、自分の太ももに蓋と本体の境目の一番弱そうな部分が当たるように叩きつけて思惑通りに蝶番のねじが外れて蓋がぐらぐらになったのを見て、完全に破壊しようとしてまた床にたたきつけて、ばりっと音を立てて容器が壊れるのを目撃することができた。それでもまだ壊れたというには元の形が残りすぎていて、尖ったものや、何かもっと武器になるものをと思って、台所を漁って、包丁は違う、綿棒は、最悪使えなくはないけどなんだか弱い、もっと良いもの、なんかもっと何もかも叩き壊せそうななにか、と探すと、あの、豚肉を叩いて平たくして衣をつけて揚げる前処理とかで使う、とげとげの重ためのハンマーを見つけて、もうこれしかない、やっと見つけた、見つけられたじゃないかと自分に誇らしい気持ちすら湧いてきて、そのハンマーで化粧品を叩いてみると、とげとげの部分で粉を削ることもできて、圧縮されたその粉の残りは、ぱりんと気持ちのよい割れ目を以って割れもするし、なにより蓋の裏に付いている鏡を割ることができて、もうこれ以上相応しいものってないんじゃないか、僕は完璧なものを見つけてしまった、ずっと求めていたものは本当はこれで、ずっとっていうのは今の直近のはなしじゃなくて、もっとずっと、僕がやりたかったのってこれだったんじゃないか、そんな気がして、足元を見ると床には肌色と淡いピンクと紫の粉が混じりあって積もっていた。空気を含んで広がる床の上の粉の中に自分が歩いた足跡だけがくっきりと残っていて、これはどういう意味なんだろう、これまでの人生で積み重ねてきたものを踏みにじっているようだともいえるし、荒野にひとすじの道が出来て、僕のこれまでの人生の選択とその軌跡を象徴しているようにも思われて、とにかくこの現状の意味がもう自分では解釈できなくて、人に解釈を委ねるとするなら僕はほとんど罪人同然であることだけは分かった。妻の化粧品を破壊して、床に傷がついて、床が汚れているこの状況は、いまだけではなく、もっと連続的で段階的な帰結の絡まりで、その全てを知っているのは自分しかいないのだから、僕のこの人生を解釈できる人間がいるのだとしたらそれはもう自分しかいないと、結果的には当り障りのない至極つまらない結論に達した。


服に付いた粉を払って、一番汚れている靴下も粉を払おうとして片足で立つとよろめいて、慌てて踏みなおしたときに鏡の破片を踏んだようで足の裏に激痛が生じた。この激痛は股間の激痛とは違っていて、痛みにも種類があるのだなあと考えている間だけはまた自分の頭が少しだけしっかりして、それでも脳の半分だけで考えているような、もう半分はずっとこの部屋のこと、今自分がやったことの説明を考え続けていて、僕の脳の方でもどちらの考えを優先すべきか分かっていないようだった。


直感というものがどこからやってくるのか、それは脳からくるのか、身体から来るのか、よくわからないのだけど、ただそのときの直感で僕は「許さない」と思った。僕は痛みを許さない。足の裏に刺さった小さなガラスの欠片を許さない。靴下を脱ぐ羽目になった粉の汚れを許さない。化粧品を許さない。ペ二グラフを許さない。医療行為を、医療という名のもとに非人道的な処置がなされることを、僕はぜったい許さない。だけど同時に、癌のことも許さない。癌が僕の身体を蝕むことも許さない。癌を放置してそれが増殖していくのをただ受け入れるのか、検査を受けるか、その二択に僕を置く僕の身体を許さない。僕は僕のことを許さない。僕は僕を許していないけど、その僕にさっきの僕は含まれない。さっきの僕は僕じゃない。さっき僕は半分よりももっと、僕じゃなかった。僕の考えが僕をとうに超えていき、そういうときの僕は僕とは言わない。僕は女性を攻撃するようなことはしない。僕は僕がつらいとき物に当たったりしないし、これからもない。だからさっきの僕は僕じゃなくて、だけど今さっき、僕であって僕でない僕がここに確かに存在したことを、一体誰がどう証明できる?


「証明できない事実なら」とあのとき妻は言った。婚姻届を出すとき、僕たちは少し揉めた。

「証明できない事実なら、ないのも同じだよね」と妻はそう言って、婚姻届は出さなくてもいいんじゃないという僕に反論したのだが、もともとの発端は妻が改姓に反発してのことだったのに、話がこじれて僕はそれなら事実婚でいいんじゃないかと言うと、やはりそれは受け入れたくない、たとえ手続き上のことであっても私たちの結婚を紙面上で証明しなければいけないときは沢山あるのだ、と言った。最初は僕から申し込んだ婚姻を妻が渋っていたのに、いつのまにか立場が入れ替わり、妻が僕に婚姻を迫るかたちになっていたのを僕はほんとうはかなり面白いと思っていたのだけど、妻の手前それは口には出さなかったのだった。


僕はソファにきちんと腰をかけて、靴下を脱いで足裏に刺さった破片を手で抜いた。靴下には血のしみが小さく付いていたけど、足裏の出血は止まっていた。ソファに座るとズボンの汚れも気になったが、黒字の布に白い汚れが付くのは不潔な感じはしなかった。このまま出かけられるかなと思った。きっと大丈夫。全然問題ない。化粧品が黒くなくて助かった。僕がもし白いズボンを履いていて汚れの方が黒なんだったら、このまま出かける訳にはいかないから、運が良いのかもしれない。探していたものが見つかったり、今ならそういう偶然が起こりそう。


そういえば、と思って僕は棚を開けてパスポートを取り出した。最近地震があったけど、避難バッグがすぐに見つからなくて焦ったから、反省してパスポートなど身元証明に必要なものだけでも、と取り出しやすい場所に移したところだった。やっぱりすぐに見つかった。開けてみると、貼り付けられた証明写真の僕は6年前の僕で、顔も、当然ながら年齢も違っていて、当時大阪で仕事をしていたことも、何もかもが今の僕とは違っていて別人のようだった。僕は彼に会いたいと思った。子供のころ飼っていた犬にまた会いたいと思うのとそのまま同じ気持ちで、僕は彼に会いたいと思った。彼はもう僕とは違う人間で、だけど僕を含む存在で、だからさっきの僕が僕でなくなった瞬間について説明ができるとしたら彼しかいないのだと思った。


僕はパスポートを持って家を出た。大阪に行くだけならパスポートは必要ないことは分かっていたが、なんとなく彼は大阪にはいないだろうと思った。彼はもっと天国のような場所にいて、それがどこかは分からないのだけれど、それが日本ではないことだけは分かった。今日僕はどこかの安いホテルに泊まって、明日の国際便を探そう。妻は今日何時に戻ってくるだろう。家を見て、僕がいないのを見て、僕に電話をかけて、疲れて寝て、朝になって起きてまた僕に電話をして、その頃に飛行機に乗れていたらちょうどいいと思った。行きたい国があるわけではなくて、明日の朝妻が起きる時間に飛行機に乗っていられるようにしよう。東南アジアがいいんじゃないか。このままの服装で行けそうだ。現地で服やサンダルを調達しても安いだろうし。それから明日の朝、現金を少し卸そう。本も買おう。飛行機で読むためだ。空港に入ったら免税店で化粧品を買おう。さっきめちゃくちゃになった化粧品があるかもしれない。新しいものを買って、妻に送って、それでいい。それ以外にはもう、僕のやることは何もない。僕はもう、さっきの僕でもなくて、過去の僕でもなくて、こうしてほんとうに僕ではなくなった部分を、他の忙しさで埋めることでしか、僕は僕でいられない。


<終>

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