ルリタテハの寵愛

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第1話 ルリタテハの寵愛

 かかとに蝶の翅が生えた少女は為す術もなく地に落ちた。

 翅を授けた蝶は、自らの行為によって起きてしまったこの事態をどう思っているのだろうか。もう死んでいるから、答えは杳として知れない。燐粉を散らした翅のように、透明だ。



 真っ白なシーツに横たわる少女は、肌のほとんどを隠すように包帯やガーゼで覆われていた。髪は長いはずなのだが、今は頭を包帯でグルグル巻きにされているから長さはよく分からない。片側の目は隠されており、包帯の上からでも目の上が腫れているのが分かり痛々しい。布団で隠れている左足と肋骨も折れているのだという。

 その子は中学生になって一年も経っていない少女だった。俺の隣の家に住んでいる子であり、幼いときからよく知っている子でもある。

 少女はあまり活発な方ではなくどこか一歩引いたところがあった。おそらく弟が二人いるからだろう。空気を読んで、黙ったまま自分の意見を言わないでいることがある。そうして弟にお菓子やおもちゃを譲ることが多いのは知っていたから、たまに内緒であげることもあった。

 小学校高学年になってからは少女の母親に頼まれて勉強を教えるようになった。問題が解けたときの「できた!」と言う顔は晴れやかなもので、こちらも教え甲斐がある。休憩時間には学校の話やちょっとした悩みを話してくれるので、多少は心を許してくれているのだろうという自覚もあった。

 生きているのが奇跡的とも言える少女の元に来る人達を見ながら、この場から立ち去りたい気持ちをずっと抱えている。

 俺は警察の事情聴取もあるし、見張りも兼ねてここにいるようにと少女の母親に告げられて、言われるがままパイプ椅子に座っていた。少女の母親は色々と手続きをしに行ったようだ。信頼されているが故に頼まれたのだが、今はそれが重い。俺も少女がこうなってしまった原因の一つといっても過言ではないから。

 少女は近所の昆虫館の屋上から身を投げた。俺はその昆虫館で働くフリーターだった。より正確にいえば、警備員だった。

 その日は運悪くシフトが入っていて、丁度入り口に立っている時間だった。いや、運良くなのだろうか。痛々しい姿になる瞬間を、俺はしっかりと見ていた。

 上からカサリと木の葉の上で虫が蠢くような音がして、見上げてしばらくすると少女の影が現れた。真っ直ぐに前を向く、スカート姿の影。そのときにはそれが誰かなんてまだ分かっていなかった。

 なんであんなところに人が? と首を傾げていると、少女は迷いなく両足で踏み切った。そして重力のままコンクリートの地面に叩き付けられる。落ちたのは正面玄関の側の広場だった。広場に人は居なかったから誰も巻き込まれなかったが、客が増えつつある時間帯だったから目撃者は多かった。

 地面を侵食するようにじわりじわりと血が広がっていく。

 俺はといえば、放心状態になっていた。

 一体何が起きた。

 この赤は、なんだ。

 そして真ん中にいる、少女は――。

 誰かの叫び声が鼓膜に届いて、金縛りが解けたように動けるようになった。カメラのシャッター音がして、そちらを睨む。

 えっなに?

 やば!

 自殺……?

 無理無理ムリムリ。

 見ちゃダメ!

 誰か。

 色んな声が聞こえて、それを思考の取っ掛かりにしながら自分のやるべきことの優先順位を即座に立てる。

 少女の側に駆け寄ると、やはり見慣れた子だったから狼狽えた。なんで自殺なんか――と思ったが、今はそんなことを考えている暇はない。

 少女の制服リボンの乗った胸が微かに上下していた。良かった、生きてる。

「おい、聞こえるか!?」

 肩を叩き名前を呼ぶも意識は虚ろではっきりとした返事はないが、どこか晴れやかな顔をしている気がした。飛ぶことが本望だったとでもいうのか、と俺は悲嘆に溺れそうになる。

 どこかから再びシャッター音。

 くそ、と奥歯を強く噛みながら、俺は自分の上着を脱ぎ少女に掛けようとしたところでふと気付く。

 傍らには死んだ蝶がいた。

 そして少女は裸足で、右足のかかとには蝶の翅が生えていた。

 寵愛を受けたのだ、と一目で分かった。

 動物、昆虫、植物など、人ではない生物が人を寵愛すると、死ぬ間際に己の体の一部を人に授けることがある。滅多に起きる現象ではなく、俺も見るのは初めてだった。

 見覚えのある蝶の翅だった。ルリタテハという、青みがかった黒い翅に瑠璃色の筋が入っている種。

 なぜ背中などではなく足に生えているのか、俺にはよく分からなかった。虫の考えなど想像がつかない。

 人目から隠すように上着を掛け、俺はマニュアルに従い異常事態が起きたことを館長に伝え、救急車を呼ぶように頼んだ。そしてもう一つささやかな頼みごとをする。俺は警備員だ。出来ることは多くない。

 病院で手当てを受けて、少女は病室へと運ばれた。俺は知り合いだったから、救急車で運ばれるときもずっと付き添いをしていた。

 程なくして、少女は目覚める。

 少女の母親は何も言わず、泣きながら少女を抱き締めた。少女は母親の様子にどこか驚いたような顔をした後、母親をそっと抱きしめ返す。その目は潤んでいた。

「心配掛けてごめんなさい」

「どうしてあんなこと……!」

「……ごめんなさい」

 少女は心の底から詫びるように母親に謝った。

 それから少女の元へ見舞い客が立て続けにやってきた。

 おそらく教師になって三年も経っていないであろう若い担任は、狼狽えていることがありありと分かった。当たり障りの無い言葉を選びながら話している。

 この子に限って自殺なんて。

 なんで突然こんなことに。

 私は一体どうすれば……。

 言外にそんな気持ちが垣間見えた。責任を感じているようで、あまり少女とは目を合わせない。

 そんな姿に「決して先生のせいではない」と伝えるように、優しい少女は謝った。

 少女の翅のこと知っているのは、どうやら俺と医者だけのようだった。他の人には、「少女が屋上から飛び降りた」という連絡だけがいっているようだ。だからか、どこか二人の会話と認識に齟齬が生じているように見える。

 次にカウンセラーがやってくる。

「大変だったわね。もう大丈夫よ」

 少女は一瞬不思議そうに首を傾げた後、「大丈夫なら良かった」と合わせるように言った。

 その後俺は席を外すよう言われたから、何を話したのかは知らない。カウンセラーが去った後の少女の様子から、あまり建設的な話はしていなかったような印象を受けた。

 友達が来たときだけは、少し楽しそうだった。テレビや動画の話をして、クラスメイトや先生の話をして、いつも通りの日常の会話を楽しんでいるようだった。

「どうして飛んだのか聞いても良い?」

 一人の少女の友達が、話している雰囲気から自殺ではないと確信したらしく真っ直ぐにそう少女に尋ねた。少女は自身を理解してくれたことが嬉しかったようで、はにかみながら答えた。

「――寵愛を受けて翅を授かったから」

 少女は布団を手繰り寄せて右足を見せた。少女の友達はそのかかとをそっと触る。少女の足に食い込むように翅の一部が残っている。

「翅なのに背中じゃなくて足にあるんだ」

「そう。多分、蝶は自身の翅を人間では足に相当すると認識したからだと思うんだよね」

 少女の解釈に、俺はなるほどと納得した。自らを違う場所へと運んでくれる自身の器官を指すならば、蝶であれば翅であり、人であれば足である。

「そっか……けど飛べなくて残念だったね。仕方ないよ。寵愛を受けたとしても、それを人が上手く使いこなせる訳じゃない」

 少女の友達がそう言ったとき、目を伏せて少女は頷いた。泣くだろうかと思ったけれど、少女の目は不思議と強い意志が見えた。

 寵愛を受けるというのは、難しいことだった。人と人が生涯を誓い愛し合うことさえ難しいのに、人と異なる言葉も通じないモノが心を通わせ己の一部を与えても構わないと思うほど愛すことなど、あまりに難しいに決まっている。

 ルリタテハに寵愛を受けるほど、少女はルリタテハの事を想っていた。それにルリタテハは応え、想いを自分の一部に変えて返したのだ。

 俺はその一連のことを知っていた。



「虫のこと、分かる?」

 一ヶ月ほど前の夕方、空が綺麗に赤く焼けていた日に少女は俺の家のチャイムを押した。扉を開けると、少女の表情が夕焼けの影になっていたく暗かったのを覚えている。手にはプリンの空のカップが握られており、中には虫が入っていた。毛虫だった。

 背をぞわりと悪寒が走った。昆虫館に勤めているからと言って、虫が好きというわけでは無いのだ。

「……蛾?」

「ちょうちょ!」

 訂正するように少女は言う。俺のイメージでは毛虫というものは全て蛾になると思い込んでいたのだがどうやらそうではないらしい。少女が調べたところによると、タテハチョウ科の幼虫であることまでは分かったようだ。

 全体の色は黒く、全身にボサボサの毛が生えているような毛虫ではなくサボテンのような固い針のような毛が生えている毛虫だった。特徴的ではあるから、ある程度は絞りやすかったのだろう。

「弱ってるからどうにかしたいんだけど、どうすればいいかな……」

 少女は俺が昆虫館の警備員をしていることを知っていた。しかし少女の期待に応えるとこは出来ない。

「蛾と蝶の違いが分からないくらいには、虫は分からないんだよな……」

「あー、そうだよね……」

 力になることは出来ない。一緒に悩むことくらいしか、俺に出来ることはないのだ。だからまずは訳を聞いてみようと思う。

「この幼虫はどうしたんだ?」

「家の前で食べられかけてたの。蟻がたかってたところを助けたんだ」

「なるほど」

 虫のことはよく分からないが、どことなく元気が無さそうには見えた。

 俺に出来ることは無いだろうか。やはり専門家に聞くのが一番かな。

「一緒に館長に聞きに行こうか」

 明日は土曜日で、朝から仕事が入っていた。開館直後はあまり人も多くないから、その時間ならば仕事の邪魔にもならないだろう。

 俺からの提案に少女は目を輝かせた。待ち合わせの場所と時間を決めて、その日は解散した。

 次の日、少女を館長の元へ案内すると、快く蝶のことを診てくれた。後のことは館長に任せ、俺は入口で警備の仕事を始める。

 開館して三十分が経った頃、少女が昆虫館から出てきた。手には幼虫の他に、館長から貰ったのであろうルリタテハに関する資料の束とエサとなる葉っぱの入った袋が握られていた。

「どうだった?」

「ちょっと弱ってるけど大丈夫そうって。飼育方法とルリタテハに関する資料が載ってる図鑑のコピーを貰ったから、これを見て後は家で頑張ってみる」

 意欲的な返事をする少女に俺は安心した。少しでも力になれたなら良かった。

「ありがとう、お兄ちゃん」

「蝶が元気になると良いな」

 蝶は少女の元ですくすくと育っていったのだろう。蛹になり、羽化をして、二対の翅を広げて大空へと飛び立った。そして少女に寵愛の意を示した。



 学校の友達が帰ったとき、少女はどこか煮え切らない表情をしていた。多分、学校の友達でさえも少女のことを完全には理解できなかったようだ。ただ惜しかったようには思う。何かが足りない。

 あのときのことを思い起こす。

 少女が飛んだ瞬間の顔は暗かったけれど、足取りに迷いは無かったように見える。倒れているときも後悔を感じるような表情ではなかった。

 ――むしろ落ちたときのあの表情は、数学の問題が解けたときのような、何かを達成したときのような表情ではなかったか。

「……君は飛べたんだね」

 半ば確信を持ちながらそう口にすると、少女は顔を上げる。その目には光が灯っていた。

「そう、飛べたの。あの翅で飛ぶことが出来たの」

 なんて嬉しそうな顔で笑うんだろう。俺は正解にたどり着いたのだ。

「嬉しかったな」

 夢でも見るみたいに、うっとりとした表情で少女は言う。

「こんなに怪我をしたのに? それでも飛んで良かったと思ってる?」

 非難するわけではない。あくまで確認であるという意図を声音に籠めて少女に尋ねた。

「後悔なんてするわけない。だって飛べたんだもん。何を悔いるの?」

 少女は本当に分からないというように疑問を口にする。

 周りは己の推測で少女を慮っていたが、全て的はずれであったらしい。しかし少女は、それを否定しない。そう思われても仕方ないと思ってもいたのだろう。とはいえ少女の中での正解は一つだけ。「蝶の翅で空を飛べた」のだ。

「みんな責めたり同情したりするの。私ってそんなに惨めに見える?」

「俺の目には見えないよ。痛々しいとは思うけど」

「まぁそれは私の不注意だから、仕方ない」

 怪我をしたことに関しては、蝶のせいではなく自分の責任だと思っているらしい。

「俺もこの事態が起きた原因の一人だから、君を昆虫館に連れていたことを後悔していたんだが」

 素直に言えば、とんでもないとでも言うように首を左右に振る。

「自分を責めるなんてお門違いだから、そんなことしないで。むしろ私はお兄ちゃんに本当に感謝してるんだから。あのとき蝶のために力になってくれてありがとう」

 声色には、心からの感謝が籠められている。 

「状況だけで判断しないで欲しいよね。私は全然悲劇のヒロインじゃないんだ」

 皮肉のようにそう言った。少女は、他の人がどんなフィルターを通して自身を見ていたのかを分かっていた。分かった上で、それに合わせた対応をしていた。

 そういう節は以前からあった。相手の中に作られた自分の像を崩さないように、当たり障りの無い対応をする。少女にとっての処世術ではあるのだろうし、少女もそれで構わないからそうしていたのだろう。真実は自分の中にある。それさえあれば構わないのだとでも言うように。言ったところで理解されないと思ったのかもしれないし、馬鹿にされたくも無かったから言わないことに決めたのかもしれない。「あんな小さな蝶の翅で空を飛べるわけ無い」なんて、「飛べないことなんて分かってたでしょう?」なんて、そんなこと誰の口からも聞きたくない。

「私は幸せよ。だって心を砕いてお世話をした蝶に授かった翅で飛ぶことが出来たんだもん」

 美しい思い出に身を委ねるように少女は語る。

「一回きりの幸せな時間だった。この経験があるから、これから私は何があっても耐えれるしいつ死んだって構わない。私は蝶のことを愛していたし、蝶も答えてくれた」

 窓の外を見る少女の目には、きっと宝石のように青い蝶が飛んでいる。

「私は愛されてた」

 穏やかに、言う。

 それなら、俺がかける言葉は――。

「蝶が死んで、悲しいな」

「……うん、悲しい。けど寂しくはないよ。翅はまだあるから」

 事故後、少女は初めて涙を流す。

 少女の翅は、もう根本しか残っていない。残っている部分も全て鱗粉が落ちてしまっていた。辛うじて残っている破れた翅も、いずれ千切れてかかとに痕だけが残る状態になるだろう。

 しかし少女にとってはそれでいいのだ。ルリタテハに愛されたという事実だけで、少女の心はいつでも羽ばたける。

「館長に頼んで、死んだ蝶を保管してもらったよ。退院したら埋めに行こうか」

 うん、と少女は大きく頷く。空の色を映した涙は、ルリタテハの翅と同じ色だった。

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