54.明かされる秘密
⁂
……――一週間前。聖母祭が行われた日の夜。
舞白が篝乃庭を訪れたのは、まだ興奮覚めやらない夢見荘の空気が気に入らないからではなく、アリサから「ちょっと外へ行きましょう」と誘われたからだった。ひょっとするとアリサの方はひとけのない場所でひっそり落ち着きたかったのかもしれない。
夜の庭へ来るのは、セイラからバイオリンの演奏を披露してもらった時以来だった。あの時は手を繋いで先導してもらっていたが、今晩は並んで歩いているだけ。一緒に登下校する時と同じような感じで、緊張や不安はほとんどなかった。
少しだけ気がかりだったのは、庭園までの小道を進むさなか、アリサが一言も喋らないことだった。初めはアリサも疲れているのかもしれないと思ったが、隣を歩くその横顔はなにか思い詰めた表情にも見える。思い返してみると、アリサは今朝からどこか険しい顔をしていたが、聖母祭を終えた今でもそれが続いているのか奇妙な気がした。
篝乃庭には霜のような月明かりが降り注ぎ、透き通るような静けさと微かにひんやりとした夜気で満ちている。アリサがマリア像の前で足を止め、舞白もそれに倣った。
「夜のここって、こんなにも静かな場所だったのね。花篝の時とは大違い。あの時はとても賑やかだったから」
アリサの声は、もう遠い昔のことでも懐かしむような響きがあった。横顔には先ほどまでなかった微笑みが浮かべられている。
「でも、舞白さんは初めてではないのよね。夜の、静かな篝乃庭へ来るの」
「うん……セイラさまに、連れられて」
「その時、どう思った? この場所で、お姉さまのバイオリンを聴いていた時」
舞白はその問いかけの意図についてなにも考えず、淡い月光のように柔らかだったセイラの音色を思い返した。
「ずっと、このままでいたいって思った。優しい音色で、ずっとこの色に染まっていたいって」
「お姉さまの音色に?」
「うん。今までも、ずっとそうだったから。自分のバイオリンで弾くのも、自分の音色じゃない。ほかの誰かを真似た音色だから……今日、最後まで踊り切れたのも」
「自分の色じゃなかったから、でしょう?」
アリサの眼差しは普段通りの勝気な調子ではなく、どこか申し訳なさそうな弱々しさを抱えていた。
「舞白さんに、謝らなければいけないことがあるの」
「え……?」
「わたしく、知ってしまったのよ。あなたが隠している秘密――胸のことだけじゃなくて、もう一つの秘密も」
舞白はハッと息を呑み、全身を岩のように強張らせた。そうでもなければまともに立っていられなかったのかもしれない。
「どうして、アリサさんが」
「それを話すには、あのお茶会での一件について聞いてもらう必要があるわ。誰がわたくしのカップにあんなことをしたのか、そのわけも――」
重々しいアリサの声が語ったのは、貴船瑠佳による巧妙な手口、それに伴う意図や動機の全容についてだった。
アリサが嘘をついているとは思わないものの、俄かには信じられなかった。手口の狡猾さも当然ながら、その悪意の矛先が舞白自身にあったこと、ひいてはセイラを貶めることに繋がるなんて。
「結果的には、瑠佳さまの企みはふいになったわ。でも瑠佳さまは諦め切れなくて、わたくしに迫ってきたのよ。聖母祭の舞台の上で、舞白さんを貶めるようにって」
「私を、貶める?」
「ええ……ダンスが終わった瞬間、事故に見せかけて、わたくしがあなたにぶつかるの。その瞬間、あなたの長い黒髪を掴んで、引き剥がしなさいって」
舞白の背筋がぞくりと震えたのは、微かに吹き込んだ夜風のせいではなかった。
身も凍るような怖ろしい計画。アリサが話した行為にどんな意味があるのか、アリサ自身も分かっているようだった。
「そんなこと、わたくしがするはずがないと思うでしょう? 今となってはそうよ、結局は何事もなく終わったんですもの……でも、正直に打ち明けるわ。わたくしは瑠佳さまの指示に、一度は従順になりかけたの。迷ってしまったのよ」
「アリサさん……」
「瑠佳さまは見抜いていたのよ。わたくしがお姉さまに抱き続けていた葛藤を。わたくしでさえ、言われるまで気づかなかった……いいえ、気づかないふりをしてきたこと。そんな気持ちを利用して唆そうとしてきたの。初代アリスさまの秘密や、瑠佳さま自身の過去まで織り交ぜて。それらがわたくしの心をまるで揺さぶらなかったわけじゃない。ダンスが終わる寸前まで、わたくしは考え続けていたわ。もしかしたら心の中では、舞白さんの髪に手を伸ばしかけていたかもしれない……だけど実際は、なにもしなかった」
月明かりを溜め込んだアリサの両目が、意を決したように舞白を見上げてくる。風が撫でた湖面のような微かな揺らぎが垣間見えた。
「許しを乞いたいわけではないの。咎められても仕方のないことなのは覚悟の上よ……わたくしはただ、非道なやり方ではなくて、舞白さんの口から聞かせてほしかったの。打ち明けてほしいと思ったの。舞白さんが本当に、わたくしを親友だと――『腹心の友』だと思ってくれているのなら」
真に迫るアリサの言葉。自分がどうすべきなのか、舞白自身も理解していた。
それでも、ためらいを完全に拭うことはできない。切実な眼差しで見つめてくるアリサを前に、舞白は逡巡したまま動けないでいた。いつものように俯いて目を逸らせば、一時の安堵感と、心地よさを得ることができた。
けれどそれでは、なにも変わらない。仄かに降り注ぐ月明かりも、微かに吹き込む夜風も、謐然と微笑むマリア像の姿も――祈るような健気さで待つアリサの眼差しも。
時間だけがいたずらに過ぎていく。深まる夜の中に一人取り残されるような寂しさを覚え、舞白は胸を震わせた。
(この先も、こんなことを繰り返すの……いつまでも、なにも変えられないまま)
おもむろに顔を上げ、アリサと目を合わせる。
そして、自らの長い黒髪のウィッグを外し――
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