21.予想外のお誘い





 一人きりの夜の部屋は、なによりも寂しい空間だった。

 けれど今は違う――純桜に入学してから、なにもかもが変わってしまった。


(これで、いいんだ。変わってしまって、よかったんだ)


 自分に言い聞かせるように、舞白は心の中で何度も唱える。

 それから、胸元の息苦しさを紛らわすように、深く息を吸った。

 舞白にとっての自由は、今や寂しさの中にしかない贅沢な代物。

 それでも、かつての自分に戻りたいとは思わない。

 戻るくらいなら、たとえ海の中のように苦しくても構わなかった。

 ――たった一つの、良心の呵責を除くことができるなら。


(清華さん、思ってたよりも怒ってなかった。あのお花のおかげなのかな)


 夕方、この部屋で行われたお茶会の幕引きをぼんやりと思い返す。

 アリサからのお膳立てを持ってしても、セイラと打ち解けることは叶わなかった。

 数多送り出される助け船も自らの沈黙でフイにしてしまう。アリサは終始微笑んでいたが、苛立ちを感じていないわけはないと舞白も気づいていた。


 もしもあのまま帰していたら、夕食の際に小言の一つでも言われたかもしれない。

 けれど結果的には、アリサは上機嫌で部屋を出ていくことになった。

 それは彼女の帰り際、セイラが部屋に飾っていた花瓶から、一輪の白いガーデンシクラメンを手渡したおかげにほかならない。



 ――『アリサ、あなたにこれをあげるわ』


 ――『これは、シクラメンですか?』


 ――『白のシクラメンには、「清純」の花言葉があるの。花器は環境美化係の生徒に聞きなさい』



 唐突な贈りもので、その手つきはどこか不器用にも見受けられた。

 それでもアリサは嬉しそうにもらい受け、その後の夕食でも機嫌がよかった。

 セイラから手渡された花について幸せそうに語り、舞白の話題を出す暇もないほど夢中な様子だった。


(でも、やっぱり明日、ちゃんと謝った方がいいよね。せっかく、私のために来てくれたのに)


 申し訳ない気持ちが大きくなり、安堵感を少しずつ押しのけていく。

 舞白にとって、アリサは特別な存在だった。『腹心の友』という大仰な言葉を真剣に受け止めてくれた初めての相手だった。


 にもかかわらず、未だに一度も、腹を割って話せた試しがない。

 いつも頭の芯から熱が込み上げ、恥ずかしさと申し訳なさから顔を俯かせてしまう。

 何事もなく並んで歩ける今を壊したくなくて、必要以上の言葉を持ちたがらなくなる。

 ――それでも。


「いつかきっと、私にも……」


 口ずさむように呟いた声は、予感もなく開かれたドアの音によって遮られる。

 ハッと顔を上げると、セイラが戻ってきていた。


「ただいま」


「お、おかえりなさい、ませ」


 やはり今夜も、遠慮しがちな声しか口から零れない。

 これでも、舞白にとっては進歩した方だった。

 初日はセイラの鋭い声と眼光に尻込みし、まともに言葉も発することができなかった。

 今では少し慣れて、挨拶や簡単な会話なら交わせるようになっている。


「お風呂はまだ?」


「は、はい。私は、あとで」


「そう」


 短い会話が終わる。これも普段通りのこと。

 セイラと交わす言葉といえば挨拶か、生活上の事務的な事柄だけ。

 それ以外にセイラが話しかけてくる機会はまったくない。

 部屋の中は常に静けさが張り詰めている。互いに干渉はなく、スリーズとしての日々はなに一つ特別でもなく、ただ漫然と時間だけが流れていく。


(でも、これでいいのかも)


 心の中で虚しく呟くも、それは単なる諦めではなかった。

 本心では、セイラと打ち解けられることを願っている。

 それがどれほど畏れ多いものでも、スリーズとなった以上は三年という短くはない時間を共有するのだから。冷え切った関係のままいたくないのが本音だった。


 しかしそれと同じくらい、自分を知ってほしくないという気持ちも抱えていた。

 だから自分を遠ざける――本当の自分を悟られまいと。

 胸の高鳴りを必死に押さえつけ、目を合わせないように気をつける。


(そうしていれば、きっと大丈夫のはずだから)


 そう自分に言い聞かせ、温もりとは無縁の静寂を受け入れる。

 決して破られることがない、凍りついた静けさのはずだった――しかしこの日は、セイラの様子が普段とは違っていた。


「稲羽舞白さん。バイオリンはある?」


 一瞬、なにを言われたのか分からなかった。

 けれど耳を疑うほどには、室内に余計な雑音は転がっていない。


「ば、バイオリンですか?」


「そう。入学式で弾いていたバイオリンよ」


「あります、けど。どうして」


「遅くなるといけないわ。クローゼットの中ね」


 要領を得ない言葉が続く。舞白はベッドに腰かけたまま呆然とし、ウォークインクローゼットからバイオリンケースを取り出すセイラを見つめることしかできなかった。


「私が持っていくから。ついてきて」


「あの、ついてって、どこに」


「来れば分かるわ。ほら、早く立って」


「あっ――」


 手を引かれて立ち上がるも、動揺のせいか足元がおぼつかない。

 セイラの腕に抱き留められる形で事なきを得たが、胸の鼓動は高鳴るばかりだった。


「大丈夫?」


「は、はいっ……」返事をする声もみっともなく上ずる。


 目と鼻の先にまで迫ったセイラの顔。細部に至るまで美しい彫刻のようで、眼差しには中性的な精悍さと厳しさを宿している。

 他方、張りのある胸元は柔らかな温もりに満ち、蜜にも似た甘い香りを漂わせている。

 不安と恥ずかしさが一挙に押し寄せ、体の芯がびくんと震えた気がした。


(ダメ、こんなに近づいたら、私――)


 とっさに俯こうとするも、よりいっそう顔をうずめることになると気づいて躊躇する。

 すっかり薔薇色に上気した頬を晒したまま、射干玉のように混じり気のない黒い瞳に夢中になっていた。


「行きましょう。夜はそれほど長くないわ」


「は、はい――」


 舞白は手を引かれるまま、紳士のような手厚い導きに歩みを委ねた。


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