6.寄宿舎と新しい『お姉さま』



 荷物の整理と夕方の礼拝、食堂での初めての夕食を経て、夜の自由時間。

 学院指定のナイトウェアに初めて袖を通したアリサは、一人きりで荷解きの続きに勤しんでいた。

 けれど思うように捗らないのは、歓迎会でのことを考えずにはいられないせいだった。


(お姉さまとスリーズになれなかったのは仕方がないことだと思うわ。でも、こんな運命ってあるかしら)


 やるせない気持ちに手が止まる。アリサは長い溜め息をついて室内を見渡した。

 純桜の寄宿舎に固有名詞はないが、生徒の間では古くから『夢見荘ゆめみそう』と呼ばれている。

 桜の別名である『夢見草』が由来なのは明白で、アリサもすぐに見当がついた。純桜生が眠りに就いて夢を見る場所であることも掛かっているかもしれない。


 夢見荘は全部で三号館まであり、アリサたち一年生と四年生のスリーズは一号館に部屋がある。各館とも四階建ての同じ間取りで、一階にはロビーや食堂、洗濯室、黙学室など共同で使用する部屋や舎監室などがあり、二階から四階に生徒の部屋が並んでいる。

 部屋の内装は簡素に尽き、ベッドや学習机は黒い木のフレームでややハイカラな雰囲気を感じさせるが、白亜の壁や木目調の床などは教室と同じで質素な色合いだった。収納はウォークインクローゼットが充分な広さで、アリサも衣服や貴重品の整理はすでに完了させている。


 バスルームはそれぞれの部屋に設えられており、大浴場は存在しない。手洗いがバスルームの中に収められている一体型で、置き型のバスタブや低い位置にあるシャワーユニットなどは西洋式の造りだった。

 ぼんやりと室内を眺めているとドアが開かれ、アリサはハッと背筋を伸ばす。

 部屋に入ってきたのは制服姿の瑠佳で、アリサにとっての新しいお姉さまだった。


「あら、まだ整理していたのね。お疲れさま」


「すみません、もうすぐ終わりますので」


「いいのよ、ゆっくりやってくれて。アリサさんはほかの子たちに比べて時間が少なかったでしょうから」


 寛容な言葉も、今のアリサには微かな心細さを思い出す種だった。

 先の歓迎会。アリサは順当に行けば四十番目に呼ばれるはずだった。


 しかし実際は『040』の番号だけ飛ばされ、小雛や菊乃、悠芭と言った周りの新入生たちを見送ることになった。

 ミスのない神経衰弱のようにペアが消えていき、最後に残ったのがアリサと、司会進行を務めていたこの上級生――貴船瑠佳だった。


「本当に幸運な巡り合わせだわ。まさかセイラさんの妹が、私のスリーズになるなんて。それもこんなに可愛らしくって、気品があって。さすがはセイラさんの妹ね」


「いえ、そんな」


 普段ならば誉れに感じることも、この時ばかりは気鬱な微笑みが浮かぶ。

 そのぎこちなさを察したか、瑠佳は表情を曇らせ、


「もしかして、私とスリーズになるの、嫌だった?」


「え? いえ、決してそういうわけでは」


「そう? ずっと浮かない顔をしているから心配で。ごめんなさい、私ばかり喜んで」


「そんなことありませんわ! わたくしも、その……お姉さまのような方がスリーズになってくださって、とても光栄に思っています」


 アリサの声は滑らかとは言えなかった。セイラ以外をお姉さまと呼ぶのは初めてのことで、どうにも喉がつかえてしまう。

 それでも、優しく接してくれている瑠佳に気を遣わせるわけにはいかない。


「その、お姉さまも新入生の時、代表挨拶をなさったのですよね」


「まあ。よく知っているのね」


「実はわたくし、その時の入学式を父兄席から観覧していたんです。お姉さま……いえ、セイラさまのバイオリンがどうしても聴きたくて、それで父に無理を言って、学校までお休みして」


「そう、それで私の挨拶も覚えてくれていたわけね」


 はにかむような微笑みを向けられ、胸の奥がちくりと痛む。

 瑠佳に見覚えがあったのは確かだが、どんな挨拶だったかまでは記憶にない。当時はセイラのバイオリンを聴くことに夢中で、式典のほかの内容などまったく頭になかった。


「学校までお休みするなんて、アリサさんは相当、セイラさんのことが好きなのね」


「はいっ、とても尊敬しています」


 餌に飛びつく子犬のように応えてしまい、アリサはハッと頬を染めた。


「いえ、その……実の姉をこれほどに言うのもお恥ずかしいですが。気高くて、いつも凜としていて。わたくしにとっては、本当に理想の存在で」


「分かるわ。セイラさんは、純桜のみなさんにとっても憧れですもの。妹のアリサさんも鼻が高いでしょう。だけどそこまで言われると妬けてきちゃうわ。私も一応、アリサさんのお姉さまだもの」


「そんな、お姉さまが妬くだなんて。お戯れですわ……」


「ふふっ、残念そうにしていた理由も分かる気がするわ。アリサさん、本当はセイラさんとスリーズになりたかったのね」


「い、いいえ、そんなことはまったく……いえ、ほんの少しくらいは、そういう気も」


「大丈夫よ。アリサさんの気持ちはよく分かるし、私だから嫌だったなんて、そんな風に思っていないことも理解できたから。セイラさんと競うつもりではないけれど、私もアリサさんのスリーズとして、理想のお姉さまになってみせるわ」


 どこまでも穏やかな微笑みによって、アリサの心の波は俄かに凪いだ。

 同時に、胸のうちで生じたわだかまりについて、打ち明けるべきか迷ってもいた。

 瑠佳の言うように、セイラとスリーズになれなかったことは悲しかったが、それは確率の巡り合わせが悪かったのだと思えば諦めもつく。


 しかしセイラとスリーズになったのが、ほかならぬ舞白だったことだけは――どうしてか強く気にかかり、気持ちを晴れやかにさせてくれない大きな障害となっていた。

 しばらく口籠もっていた時、出入り口のドアがノックされる。来客に心当たりがあったアリサは、自分が出ることをアイコンタクトしながら瑠佳の横を通り過ぎた。


「アリサちゃん! 迎えに来たよ!」


 ドアを開けるとすぐ、小雛の甲高い声が響く。青みがかったレース状のナイトウェアはアリサと同じ学院指定のものだが、小雛はその上から黒猫の頭を模したフード付きのパーカーを纏っている。

 両隣には菊乃と悠芭の姿もあり、二人はまだ制服のままだった。


「アリサも着替えたんだ。あたしもそれでよかったかも」菊乃がぼんやりと言う。


「ナイトウェアにナイトキャップなど、寝間着にまで学院指定があるのは寄宿学校ならではでございますね」


 悠芭は興味深そうに言いながら、アリサの格好をまじまじと眺め、


「ううむ、さすがの可愛らしさ。小雛さんの個性溢れるアレンジも素敵でございますが、アリサさんのお姿もまさにシンプルイズベスト。眼福です」


「ヒナは個性っていうか子供っぽ過ぎるんだよね。このパーカーも、中学じゃやめとけばって言ったんだけどね」


「これ、お気に入りだもん。猫さん可愛いでしょ?」


「そりゃ可愛いは可愛いけどね。もっと中学生らしい格好ってものがさ」


「菊乃さん、小雛さんに対してはちょいとツンデレでございますね。可愛らしいことを認めた上でのつんけん振り。様式美です」


「そこ、謎に感動するのやめてくれない?」


 菊乃が気恥ずかしそうに否定すると、悠芭は「眼福眼福」と崇めるように手を合わせている。その間で小雛は小さく首を傾げ、三者三様の表情がアリサの口元を綻ばせた。

 彼女たちが迎えに来たのは、夜に庭園で行われる篝乃会主催の催しに赴くためだった。

 夕食の前に悠芭から『五人で行きましょう』と声をかけられていたが、今のままでは一人足りない。


「稲羽さんは? これから迎えに行くのかしら」


「もう行ってみたんだけど、お部屋に誰もいなかったの」小雛が不思議そうに言った。


「先に向かわれたのかもしれませんね。私もお声がけこそしましたが、曖昧なお返事で。お部屋はセイラさまもご不在だったので、もしかするとお二人で行く先約があったとか」


「二人で? そう……」


 悠芭の推測に、アリサはいても立ってもいられない気持ちになる。

 すぐに瑠佳の方に向き直り、


「お姉さま。わたくし、庭園へ行って参ります」


「分かったわ。楽しんでいらっしゃい」


「お姉さまも、ご一緒にいかがですか?」


「私はいいわ。先にお風呂をいただくから。あまり遅くならないようにね」


「はい、お姉さま」


 アリサは丁重な一礼を済ませると、白いカーディガンを羽織りながらそそくさと部屋をあとにした。


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