ネコ失踪事件
「ネコ知らねぇ?」
「知らねぇよ。事務所じゃねぇの?」
「事務所にはいねぇべ」
「おかしいな。さっきあそこの狭い道、通ってたの見たんだけんどナァ」
「あぁ、それなら俺も見たぞ」
「じゃ、その後いなくなったんだナ……」
子猫がいなくなってしまった。どこにも子猫がいない。
一週間前、この工事現場に一匹の子猫が迷い込んできたのだ。
梅雨時期の、雨の日の夕方だった。事務所の軒先に子猫が倒れていた。模様なのか汚れなのか分からないほど全身泥だらけだった。やがて作業員が数名集まってきて、どうしたどうしたと騒ぎになった。
「怪我をしてるんでねぇのか?」とか「野良猫だろ?」とか話があがり、子猫も弱ってそうに見えたため、とりあえず事務所脇の洗い場で全身についた泥を落としてやり、事務所内に入れ、作業員の持っていたフェイスタオルで身体を拭いてやった。
子猫は黒と茶二色の毛色が不規則に混ざり合ったサビ柄で、確かにこれでは泥なのか柄なのか見分けがつかなくてもまあ仕方ないと思った。目立った外傷はなく、出血も確認できなかった。子猫の動きから骨折もしてなさそうではあったのだが、全体的に元気が無く、動きや反応も遅かった。
しかし呼吸だけは早く、苦しそうに小刻みに身体を上下していた。子猫はくぅーんと犬のように一回だけ小さく鳴いた。
もしかしたら長時間、雨に当たって身体が冷えてしまったのではないか? 身体の熱が奪われたことによって、低体温症になったとか風邪を引いているんじゃないだろうか。
フェイスタオルの上で横たわっている子猫の身体を触ると、熱っぽいというより、かなり冷え切っていた。子猫は弱々しい目で見つめてきた。瞳孔が大きく開いていて、あまり視点が定まっていないのか黒目が揺れている。
この時始めて洗い場の水で洗わずに、事務所内のミニキッチンにある電気ポッドのお湯をうまく使って洗ってやればよかったと後悔した。
実家で犬を飼っているという作業員が「なんか食いもん食わせて栄養つけた方がいい」と言ったり、インターネットで対処方法を調べた作業員が「とにかく温めてやれって書いとる」と言ったり、「一番近くの動物病院は今日休診日だってよ」と言う作業員もいて、各々情報を持ち寄り、子猫の体調を回復させようとした。
また別の作業員が近くのコンビニで猫缶とバスタオルを買ってきたので、子猫をバスタオルで包んでやり、さらに着ていたジャケットをその上から被せてやった。
ジャケットのシャカシャカする音を聞いて、嫌だったのか子猫は少しだけ早い動きを見せたが、やがて受け入れるように横になった。
猫缶の中身を小さな皿に移してやり、子猫の顔の近くに置いた。猫缶はシーチキンのような匂いがして美味しそうだった。子猫は少しだけ身体を起こし、鼻をくんくんさせていたが、口をつけることなく再び横になった。
子猫は弱々しい目で床を見つめていた。
状況はあまり変わりなかったが、現場作業を一時中断してしまっていたので、本日の工程表を終わらせるべく作業が再開された。
子猫は事務所内で持ち回りで気にかけるようにすることになった。
現場に出ても子猫のことが心配で仕方がなかったが、目の前の作業に集中した。
やがて作業が終わり事務所に戻ってくると、子猫はバスタオルの中で小さく丸まって寝ていた。
「雨に当たって疲れたんだろうよ」と子猫を見てくれていた作業員が言った。「さてこの猫、どうすっかネェ」
事務所を閉めなくてはならない時間だ。外はまだ雨が降っている。天気予報では明日まで振り続けるようだった。
本日の工程を終えた作業員がぞろぞろと事務所に戻ってくる。
この時初めて子猫を見た作業員もいて、帰り支度をしながら「段ボールにでも入れて軒下に戻してやれ」と言った。するとまた別の作業員が「流石にそりゃあ可哀想でねぇか」と言った。
「でもここで飼うわけにもいかねぇべよ」とこれまた別の作業員が言う。
確かにこのまま外に戻すには心苦しい。かと言って、誰もいない事務所に置いていくわけにもいかない。
作業員たちの話し声で子猫が目を覚ました。先ほどよりもいくらか回復したように見えたが、それでもまだ元気がなさそうだ。子猫は怯えるような目で周りの作業員たちを見渡している。やはり元気がないのか、その場から逃げようとはしなかった。
人間が下手に介入してしまうと自然界で生きていけないので、自然へ戻すなら今日このまま戻してやった方がいいだろう。それか保健所に連れて行って保護猫として引き取ってもらうこともできるのではないか。ただ、この時間はすでに保健所はしまっているだろうし、仮に保健所に連れて行ったとしても、その後はどうなるのだろうか。譲渡会のようなものがあって希望する人の元へ渡されるのだろうか。それとも殺処分になってしまうのではないか。詳しく知らず想像ではあるが、一度その考えが頭を過ぎると、それはあまり良い選択肢だとは思えなかった。
「誰か引き取れるやつはいねぇか?」
作業員の声に、「俺は猫アレルギーだからナァ」とか「うちはペット禁止のマンションなんだよな」や「可愛いんだけどなぁ」と各々口に出しては静かになっていく。
作業員の言っていることは事実なのだからまあ仕方ない。
子猫は何が起きてるのか分からなそうに、目を潤ませながらこちらを見つめている。その目に見つめながら考えた。雨が降る外に戻すこと。殺処分になるかもしれない場所に連れていくこと。
そう考えていると、気づくと手を上げてた。
「おぉ、あんた猫飼えんのか!」
飼うかどうかは決めていない。自宅はペット禁止ということもあり、現実的には飼うことは難しいだろう。ただ元気のない子猫をこのまま外に戻すのは心苦しく、一旦夜の間だけでも預かることを提案したのだ。
作業員たちは「それがいい」と口々にした。さらにケージになりそうな透明なプラケースを別の作業員が持ってきてくれたので、そのケースにバスタオルごと子猫を入れ、車に乗せた。
自宅に帰る途中、ホームセンターに寄り、預かるのに必要な猫用品一式を買って帰った。
翌朝、子猫はすっかり元気になっていて事務所内を駆け回っていた。
「猫、元気になったか?」と複数の作業員から言われた。
昼休みに近くの動物病院に行き検査をしてもらった。
医師によると目立った外傷もなく健康上は問題ないという。ただ、飼い猫に義務付けられているマイクロチップが装着されていないことから、野良猫か捨て猫ではないかと言うことだった。
また病気を持っている可能性もあるので、早めにワクチン接種した方がいいとのことだった。
休憩時間の関係から、今日は長く時間が取れずに戻ってきたが、近いうちにワクチンを打っておきたい。
事務所に帰って作業員にその話をすると、「そんだら、俺ワクチン代カンパするわ」とポケットからジャラジャラと小銭を掴んでは五百円を手渡してくれた。
それを見ていた別の作業員も「子猫が元気になるなら俺も出すぞ」と五百円玉をくれた。
それから毎日、事務所に子猫を連れてきては多くの作業員に可愛がられるようになっていた。子猫の名前は決まっていなく、「ネコ」とか「ミケ」とか「ジロー」(動物病院の医師にはメス猫と言われているが)とかみんな各々の名で呼んでいた。
子猫は撫でられるのが好きなようで、頭を軽く撫でてやると、笑うように目を細めては腕に顎を近づけてスリスリと擦り付けてくる。ゴロゴロと喉も鳴らしている。
そんな矢先、子猫が失踪してしまったのだ。
現場作業を終え、事務所に戻ろうとした時に、一人の作業員から声をかけられた。
「ネコ知らねぇ?」
「知らねぇよ。事務所じゃねぇの?」と一緒に戻ってきた作業員が言う。
また他の作業員が駆け寄ってきては焦ったように「事務所にねぇ」と言う。
「おかしいな。さっきあそこの狭い道、通ってたの見たんだけんどナァ」と聞いてきた作業員が言う。
まさか子猫が外に逃げ出してしまったのか。現場は危ないから事務所内から逃げ出さないように作業員が持ち回りで見ていたはずなのだが。
「あぁ、それなら俺も見たぞ」また別の作業員が言う。
「じゃ、その後いなくなったんだナ……」
「あそこの狭い道」と指さされた方向を見る。そこには仮設の足場が組まれていた。
あの先は工事現場の外へと繋がっている。外には大きな幹線道路が走っており、工事現場の入り口付近ではトラックの出入りも激しい。子猫を探しながら狭い足場を歩き入り口までやって来たが、子猫は見つからなかった。
子猫を撫でた時、細い目をしながら気持ちよさそうにする表情を思い出した。
幹線道路は高速道路さながらスピードの速い車が目の前を行き来していた。
現場の外はより過酷だ。自然界での生活もしたことのない子猫が暮らしていける環境ではない。子猫の安否が心配だ。
一旦事務所に戻ろうと再び狭い足場を歩いていると、「ネコ見つかったぞ!」と言う叫び声が聞こえた。
声のした方に駆け寄っていくと、作業員がゴロゴロと手押し車を転がしてやってきた。
「駐車場にネコ持ってったの誰だ、ったく!」
手押し車は作業員に押され事務所前の所定の位置に置かれた。
「ネコはここに置くって決まりだべ。整理整頓だ、整理整頓」
そうだった。工事現場では手押し式の一輪車、つまり手押し車のことを「ネコ」と呼ぶのだった。手押し車のゴロゴロという音が猫の鳴き声のように聞こえることや逆さにして伏せた状態にした時が猫の丸まっている姿に似ていること、持ち手部分が昔は猫の手に似ていいたこと、それから「ネコ足場」という狭い足場を通ることができるから、などの理由からネコと言われている。紛らわしい。
では、当の子猫はどこに行ったのだろうか。
「子猫、どこ行ったか分かりますか?」と近くの作業員に訊いてみた。
「んあ? ネコならここにいんべよ!」
「これじゃなくて、生きてる方の――」
「あー、ジローか。ジローなら事務所だべ」
事務所に戻ると、子猫は元気に駆け回っていた。こちらの姿を確認すると、近くまで寄ってきて遊んで欲しそうに目で訴えかけてくる。
「あんたんこと、親と思ってるナァ」
子猫を抱きかかえ、頭を撫でてやるとゴロゴロと喉を鳴らしながら気持ちよさそうに目を細めている。
逃げ出していなくてよかった。
それからしばらくの間、子猫は自宅と事務所を行き来していたのだが、事務所内もずっと人がいるわけでもなく、それこそ脱走してしまう恐れもあったので、この度、正式に自宅で飼うことにした。
「ジロー、よかったナァ」
「たまにはまた事務所に連れてきてくれよ」
子猫には「のら」という名前を付けた。
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