街のヒーロー


 一晩中降った雨は、普段静かな川の水かさと水流、そして川の色を変えた。

 天気予報では台風級の大雨と事前に言われていたし、午前中には不要不急の外出を控えるようにと市からもアナウンスが出始め、昼頃には多くの企業や学校が帰宅を促していた。


 私も昼過ぎには会社を早退し、その足で保育園に娘を迎えに行った。

 小雨程度だった雨も、娘を車に乗せ帰路に着く頃には大粒の雨に変わっていた。

 途中、スーパーマーケットに寄ろうとも思ったけれど、幹線道路が渋滞し始めていて、帰宅も怪しくなったのでそのまま帰った。


 冷蔵庫の中のありもので夕食を作り、テレビの気象情報を見ながら娘と食事を済ます。外からバケツの水をひっくり返したような激しい雨音が聞こえてきた。

 横殴りの雨なのかベランダの窓にも雨が当たっていた。

 それを見た娘が雨粒をなぞりながら「外に水玉たくさんあるよ」と、普段と異なる天候や母親の行動に、はしゃいでいた。


 それから娘をお風呂に入れて寝かしつけると、早退して溜まっている仕事を少し片付けた。

 静かな部屋に雨音だけが、時折、風とともに大きな雨音で、そして時には静かな雨音になって響いていた。


 翌朝には、昨晩の雨が嘘のように空には晴天が広がっていた。

 テレビのニュースを見ると上流付近では土砂崩れがあったらしく、山間の村が孤立しているようだった。河川の氾濫が起こっている地域もあり、激しい雨だったことが伺える。

 私たちの住む市街には特段目立った被害がなかったようだった。


 休日の土曜日。私は娘とともに昨日寄れなかったスーパーマーケットに行くことにした。

 昨日のスーパーとは異なり、自宅から歩いて十分の近所の小さなスーパーだ。娘と手を繋いでスーパーに向かう。

 その道すがら橋の周りに人だかりができていた。


 近寄ってみると、普段透き通った水が、清らかにそして静かに流れている小さな川が、小さな橋の欄干に触れそうな高さまで濁った水となり、激しく流れていた。

 娘の手を強く握る。

「危ないから近寄っちゃダメよ」

 娘は「うん」と言った。しかしその直後、「あ」と橋の方を指差し、「猫さんがいる」と言った。

 娘の指差す方向を見ると、橋の上と、橋の横に人だかりが出来ていて娘の言う猫などは見えない。

 それでも娘は「あそこに猫さんがいるよ」と指を指す。


「どこにいるの?」娘の横にしゃがみ込んで改めて見てみると、人垣の足の合間を縫うよう橋が見えた。そしてその橋を支える橋脚の付け根部分に猫がいるのが見えた。

「猫さんどうしたの?」

「登れなくなっちゃったみたい」

 流されてきたのか、橋の上から落ちたのか、どうやって橋脚に辿り着いたのか分からないが、猫は行き場を失って助けを求めて鳴いていた。


 まだ身体の小さい子猫のようだ。三毛猫柄をしている。ところどころ泥をつけているし、身体も濡れているようだ。もしかしたら親猫と離れてしまったのかもしれない。自然と娘の手を握る力が強くなる。


 子猫は怯えたような不安な目で、橋の上の人間に向かって助けを求めている。

 子猫のいる橋脚までは大人が手を伸ばしても届きそうにない。下からボートで引き上げれば救出できそうだが、川の流れが早くボート自体が流されてしまうだろう。

 その間、子猫は橋脚の上を左右に歩きながら、どこか飛び移れる場所がないか探している。


「ダメだって! 危ない危ない」

「動いたら落ちちゃうよー」

 人々は思い思いに感想を呟いている。

 中にはスマホで動画を撮影している人もいた。

 子猫はすがるような目でこちらを見た。


「猫さん、こっち見てる」

 にゃーにゃーと小さな声で鳴きながら、私もしくは娘の方を見ている、ように思えた。

 ごめんね、何もしてあげられないんだよ、と心の中で思う。それでも子猫は不憫な目で訴えかけてくる。


「ママー、猫さん助けてあげて」

「ママじゃどうすることもできないんだよ」

 改めて人だかりを見ると、警察官の姿を見つけた。騒動を聞きつけて近所の交番から自転車でやってきたのだろう。


 だけれども救出する術がなく、人だかりの交通整理をするのが精一杯だった。

 橋の周りの人だかりも多くなってきており、それもあってか子猫はさらにパニックになって動き回っている。

 右往左往しながら目を潤ませ助けを求める。


 するとワゴン車型の消防車がやってきて、中からオレンジ色の服を着た男女二人の消防隊員が降りてきた。女性隊員は警察官に近寄り話をしていて、もう一人は柵から身を乗り出して子猫の位置を確かめていた。また、ワゴン車にも男性隊員が運転手として待機していた。

 消防隊員同士で何やら言葉を交わすと、警察官と話していた消防隊員が消防車に戻り、柄の長い虫取り網のようなものを持ってきた。

 群衆から期待を込めた歓声が上がる。

 子猫の位置を確かめていた隊員が網を受け取り、橋の下へと伸ばしていく。


 しかし、群衆の期待とは裏腹に、子猫は警戒するように前屈みの姿勢になり、伸びてくる網をじっと睨んで警戒し出した。さっきまでの不安な鳴き声もなくなり、吠えるように網に向かって鳴いている。網が子猫の位置まで降りると、子猫は網とは反対の場所に逃げ、距離をとって網をじっと睨んでいる。

「完全に警戒されとんなー」

「網じゃ無理だろ」

 群衆からはネガティブな意見が聞こえてきた。


 網の移動に合わせ、子猫は逆の方向に走って逃げる。橋脚の足場もそこまで広くないので、足を滑らせないか不安になる。

 網から逃げようと子猫は橋脚から飛び出す体勢へと変わる。群衆から悲鳴が上がった。依然、橋脚の下は濁流だ。川には捕まるものなど何もない。

「猫さん、飛んじゃう!」娘も叫んだ。


 咄嗟にスッと網が上げられる。消防隊員も子猫が危険と判断したのだろう。

 隊員同士が再び話し合いを始める。橋脚の位置を確かめたり、柵の付け根を見たりし、指を差しながら確認している。そして一人が素早く車に行き、ロープや金属製の部品を持ってきた。車に待機していた隊員も出てきたようである。

 子猫はというと、また不安そうな目に戻っていた。そしてその目で群衆に向かって訴えかけながら鳴いている。


 女性隊員が自分の身体にハーネスのようなものを素早く取り付け、さらに金具を使って器用にロープとハーネスを接続させている。それから手際よく柵の付け根部分にもロープを結びつけた。

 男性隊員も橋の縁のコンクリート部分や手すりに毛布を当てがい、ロープが擦れないようにしている。

 彼らは一切の無駄のない動きで、あっという間に救助体制が整った。


 女性隊員がそのまま橋の柵を乗り越え、最終取り付けと最終確認をすると、掛け声とともにしゅるしゅると下降していった。

 橋脚には人間が乗るほどの足場はないのだけれど、その縁に軽やかに足を着地させる。そしてそのまま縁を滑るように移動して子猫に近づいた。

 子猫は網の時と同様に、警戒して距離を取り前傾姿勢で隊員を睨んだ。


 隊員は猫の扱いに慣れているのか、それ以上に猫に近づかずに横移動をやめた。さらに猫の目線の高さに合わせるように、ゆっくりと水面ギリギリまで身体を横に倒した。

 すると子猫は次第に警戒心を緩めるように前傾姿勢を解いていきその場に座った。リラックスしているとまでとはいかないが、目つきも先ほどと比べだいぶ穏やかになった。


 女性隊員はタイミングを見計らいながら徐々に子猫に近づいていき、そっと子猫を抱いた。

 群衆から歓声が上がる。

「猫さん、助かった!」娘が言う。

「猫さん、よかったね。抱っこされてるよ」

 歓声で飛び出さないようにしっかりとホールドしたまま、掛け声をかけると、橋の上で待機していた男性隊員二人があっという間に女性隊員を引き上げていった。

 女性隊員が橋に上がると、盛大な拍手で隊員たちは迎え入れられた。


 娘とともに彼らに拍手を送る。本当に見事な救出劇で、見惚れるほど洗練された動きだった。

 警察官は、人だかりを整理し、混乱を招かないようにしている。

 消防隊員は、毛布で猫を包むと、素早く撤去作業をしている。

 そして群衆はちらほらと散り始めていく。


「ママー、よかったね」

「よかったね。スーパーいこっか」

「うん」


 街のヒーローたちに再度、私は心の中で拍手を送った。


 そして娘の手をしっかりと繋ぎ、スーパーへと向かった。





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